昭島教会と深い関係にある劇団「からし種シアター」からのクリスマスプレゼントです。クリスマスにふさわしいお話「きよしこの夜が生まれた日」を12月24日~27日まで4日間期間限定で無料配信をいたします。ぜひご覧ください。どうぞ良いクリスマスと新年をお迎えください。
2020年12月24日木曜日
よきクリスマスイヴをお過ごしください
2020年12月24日(木)17時30分、「新型コロナウィルス感染防止のためクリスマスイヴ礼拝は中止しますが、礼拝堂への入場は可能です」と記した看板を教会玄関前に出し、室内の照明と暖房をつけ、音楽CDで音楽を流し始める。どなたでも静かに祈りをささげることができる場所をご提供。18時から20時まで。
暖房が効いていて、あったかいです。穏やかな音楽が流れています。仕事帰りの方々が少しずつお見えになっています。
2020年7月11日土曜日
ピアノ賛美「雨だれ」富栄徳さん演奏・動画編集
富栄徳さんが「雨だれ」を演奏してくださいました。ありがとうございます!「この雨の季節にしっくり合う曲です。雨音に重ねて耳をかたむけるのもいいですね。でも豪雨にはならないでと願います。終わりに聖句(マタイ6:21)も紹介されています。」
2020年6月28日日曜日
天のエルサレム(2020年6月28日 礼拝宣教)
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| 宣教壇にアクリル板を設置し、マスク着用で説教しています |
ヘブライ人への手紙12章18~29節
関口 康
「このように、わたしたちは揺り動かされることのない御国を受けているのですから、感謝しよう。感謝の念をもって、畏れ敬いながら、神に喜ばれるように仕えていこう。」
来週の礼拝から原則的に元通りに戻すことにしました。教会学校も来週から再開します。聖書に学び祈る会も今週木曜から再開します。それが最善の選択だという確信はありません。様子を見ながら状況に対応していきたいと考えています。
今日の聖書の箇所はヘブライ人への手紙12章18節から29節までです。いつものとおり日本キリスト教団の聖書日課に基づいて選びました。内容的に難しい箇所です。何を言っているのか分からないとさえ思えます。しかし、難しいから避けるのではなく、皆さんと一緒に難題に取り組む気持ちでお話しします。
最初に申し上げるのは、「ヘブライ人への手紙」というタイトルの問題です。先週の宣教で「ヨハネの手紙一」を取り上げたときに申し上げたのと同じようなことを言わなくてはなりません。それは、「ヘブライ人への手紙」は「手紙」ではない、ということです。
ただし、「ヨハネの手紙一」と違い、「ヘブライ人への手紙」には13章20節から最後までに「結びの言葉」があります。この点だけ見れば手紙のようでもあります。しかし、書いた人の名前もなければ、宛て先も記されていません。もともとは前書きがあったが、失われたのだという仮説が唱えられたことがあったようですが、根拠はありません。
手紙でないなら何なのかを考えるヒントがあります。それが今指摘した13章20節以下の「結びの言葉」の中の「兄弟たち、どうか、以上のような勧めの言葉を受け入れてください」(22節)です。「勧めの言葉」の原意は、今の教会の「宣教」と同じです。つまり、この書物の内容は「手紙」ではなく「宣教」であると著者自身が述べています。
次に申し上げるのは、この書物の著者はだれかです。これも13章22節以下の結びの言葉の中に「わたしたちの兄弟テモテが釈放されたことを、お知らせします」(23節)と記されていることで、テモテは使徒パウロの弟子であることがよく知られているために、「ヘブライ人への手紙」はパウロが書いたものだと昔から考えられてきました。
特に重大な事実は、この書物が新約聖書の一書として加えられることが確定したとき(西暦4世紀)、加えられた理由が「使徒パウロの書簡だから」ということだった、ということです。しかし、そう考えるのは無理であると、今は大方考えられています。
このような話をするのも、聖書の学術的な説明をしたいわけではありません。使徒パウロの手紙であることがはっきりしている、たとえばローマの信徒への手紙やガラテヤの信徒への手紙の中に書かれていることとの関係や調和を考えながら「ヘブライ人への手紙」を読む必要はない、ということを申し上げたいだけです。著者はパウロではありません。
もうひとつ申し上げるのは「ヘブライ人への手紙」が書かれた時期です。結論だけ言えば、西暦1世紀の終わりごろ、80年代から90年代ではないかと言われています。冗談めかして言うことではありませんが、使徒パウロが書いたものだとしたら、パウロは何歳まで生きたのだろうという話になります。
年代の話をするのは、それがこの書物の最も重要なテーマだからです。そうであるということの根拠をいくつか挙げておきます。
「この救いは、主が最初に語られ、それを聞いた人々によってわたしたちに確かなものとして示され」(2章3節)。
「あなたがたはまだ、罪と戦って血を流すまで抵抗したことがありません」(12章4節)。
「あなたがたに神の言葉を語った指導者たちのことを、思い出しなさい。彼らの生涯の終わりをしっかり見て、その信仰を見倣いなさい」(13章7節)。
今あげた3か所に共通しているのは、この書物の著者が語りかけている相手が、キリスト教会のいわゆる第二世代というべき人々である、ということが分かるように書かれているということです。第一世代の多くは殉教の死を遂げました。しかし、あなたがたはそうでない、なぜなら、あなたがたは「まだ血を流していない」からだと言われているわけです。
この書物の中で特に有名なのは、「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」(11章1節)から始まり11章全体に及ぶ、旧約聖書物語の要約です。
カイン、アベル、エノク、アブラハム、サラ、イサク、ヤコブ、エサウ、ヨセフ、モーセ、ギデオン、バラク、サムソン、エフタ、ダビデ、サムエルらの名前が、次々に挙げられます。
そのうえで、「このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか、信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら」(12章1~2節)と語られます。
つまり、この書物が書かれた、あるいは宣教として語られたときの背景ないし文脈には、教会の世代交代に際して、第一世代の人々の熱心な信仰を第二世代の人々にぜひ受け継いでもらいたいという強い願いがあった、ということです。それは、ほとんどそのひとつのこと(信仰継承!)を言うためだけに、この書物が書かれた、と言ってもよいほどです。
しかし、どうでしょうか。反論するわけではありませんが、キリスト教会の第二世代の人々は本当にだらしなかったのでしょうか。第一世代の人々の目から見ると、そのように見えたかもしれません。しかし本当にそうだったのでしょうか。第一世代の人々が、我々の信仰を受け継いでくれない、教会を受け継いでくれないと、第二世代の人々に対して腹を立てたり落胆したりするあまり、厳しすぎる言い方になってしまっている嫌いがなかったでしょうか。
どんなことであれ、先輩が後輩に厳しい目を向けるのはある意味でやむを得ないことです。しかし、わたしたちが知っている事実は、教会の歴史は第一世代だけで途絶えはしなかった、ということです。なんと二千年も続いたし、これからも続くであろう、ということです。
わたしたちはどうでしょうか。叱られれば委縮するだけです。互いに責め合うのではなく、愛をもって信仰を継承し、教会の世代交代を果たしていこうではありませんか。
「感謝の念をもって、畏れ敬いながら、神に喜ばれるように仕えること」(28節)が大事です。キーワードは「感謝」と「敬意」と「喜び」です。つまり《楽しい教会》であることがどうやら大切です。
その思いで、再来年(2022年)の昭島教会創立70周年を共に迎えようではありませんか。
(2020年6月28日、日本キリスト教団昭島教会 主日礼拝)
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| 間隔をあけて座るようにしています |
2020年6月21日日曜日
信仰の道(2020年6月21日 礼拝宣教)
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| 説教壇にアクリル板を設置し、マスク着用で説教しています |
ヨハネの手紙一2章22~29節
関口 康
「初めから聞いていたことを、心にとどめなさい。初めから聞いていたことが、あなたがたの内にいつもあるならば、あなたがたも御子の内に、また御父の内にいつもあるでしょう。」
今日も変則的に短縮した形で礼拝を行っています。宣教も短くします。
ご承知のとおり、今年度の私は2つの学校で聖書を教えています。ひとつの学校は校舎での対面授業を再開しています。もうひとつの学校はインターネットを用いたオンライン授業をしてきましたが、まもなく対面授業を再開します。
現時点で私が対面授業に出かけているのは週1日だけです。片道3時間かかり、その間のほとんどの時間を、電車とバスの中で過ごします。一昨日出かけたときは朝5時台の電車で、立川から新宿まで座れませんでした。帰りの午後2時台の電車も新宿まで座れませんでした。座りたかったと言いたいのではなく、東京の交通機関はすっかり元に戻っているということを報告しようとしているだけです。
しかし、もう危険は去ったのでしょうか。毎週言うようなことではありませんが、昨日も「国内で64人、そのうち東京は39人の感染者が確認された」と報道されていました。世界保健機関(WHO)の事務局長は昨日の時点で「一昨日、世界で過去最大の15万人超の新規感染者が確認された」と表明し、「流行は加速している」とまで言いました。そのような報道と東京あるいは日本全国の現実は全く矛盾していると、私には思えてなりません。
しかし、「とにかく様子を見る他はないだろう」としか言いようがありません。私が自分のしていることを誇張したいわけではありませんが、もしかしたら今集まっているわたしたちの中で、最も長時間の電車やバスの中にいたり、千人以上の学校の中に長時間いたりするという意味で、最も危険な存在かもしれません。どこで何を拾ってくるか分かりません。
そのように思うのであれば、私は今ここに立つべきではないかもしれません。しかしそういうわけにも行かないという現実の前に立たされているという点で多くの方々と同じ立場でいる気持ちです。「マスクで鼻と口を覆い、教会のみなさんになるべく近づかないようにする牧師」というのは、概念矛盾のようなものでしかなく、申し訳なく思うばかりです。
しかし、こういう話をずっと続けるつもりはありません。今日開かれている聖書の御言葉についてお話しします。
これは「ヨハネの手紙一」というタイトルの書物です。事実なのではっきり言いますが、この書物のどこにも、ヨハネの名前は出てきません。もうひとつの事実は、この書物はどう考えても、新約聖書の中の他の手紙と同じ意味での「手紙」ではないということです。送り主の名前も宛て先もなければ、結びの言葉もありません。
そのような書物がなぜ「ヨハネの手紙」と呼ばれているのでしょうか。これも事実ですのではっきり言いますが、新約聖書の最初に四つある福音書の最後の「ヨハネによる福音書」と内容的に重なり合う要素が多いということが昔から知られてきたからです。
しかし、それ以上のことははっきりとは言えません。かろうじて言えるのは、この「ヨハネの手紙一」と呼ばれる書物は、ヨハネによる福音書の内容をよく知っている人によって書かれている、ということです。それ以外の可能性はありません。ヨハネによる福音書を知らない人に、ここまで一致する内容の文書を書くのは不可能です。
なぜこんな話をしているのかといえば、先ほど朗読した箇所の中の「初めから聞いていた」の意味を明らかにしたいからです。ヨハネによる福音書が書かれた年代は、比較的はっきり分かっています。それは西暦1世紀の終わり頃から2世紀の初め頃です。早くとも西暦90年より後だろうと考えられています。
そうしますと、今申し上げたことが何を意味するかといえば、先ほど申し上げたとおり、ヨハネによる福音書を知っている「ヨハネの手紙一」は、明らかにヨハネによる福音書よりも後に書かれた、ということです。ということは、ヨハネの手紙一はおそらく西暦2世紀に書かれたものであろうということです。その意味は、イエスさまが十字架の上で処刑された西暦30年前後から数えれば、70年ほど後に書かれたものだということです。
学術的な説明をしたいわけではありません。「初めから聞いていたことを心にとどめなさい」(24節)と記されている「初め」の意味を申し上げたいだけです。この「初め」はこの書物の中に何度も繰り返し出てきます。
この「初め」は「私は3年前に初めてイエスさまを信じ、洗礼を受けました」というような意味の、わたしたちひとりひとりの個人的な信仰生活の「初め」ではなく、十字架につけられて死んだあのイエスこそ真の救い主キリストであると、初めの教会が公に信仰を告白したときを指していると考えられます。
そうだとすると、この書物が「心にとどめなさい」と呼びかけている「初め」は、この書物が書かれたときよりも70年ほど前を指している、ということです。
そしてもうひとつ言えるのは、この「ヨハネの手紙一」の中でこれも繰り返し述べられているのは、キリスト教の内部にいわゆる異端が発生し、教会が分裂し、崩壊しかかっていたことに対する警告として「初めから聞いていたことを心にとどめなさい」と言っている、ということです。その意味は、教会の根源的な信仰告白に立ち返ってほしいという強い願いであるということです。
それがどんな異端だったのかというようなことを具体的に説明するのは、やめておきます。本文をお読みください。歴史的な事実だけ言えば、もしその異端との争いに敗れていたら、キリスト教会はその時点で消滅し、その後のキリスト教の歴史は無かっただろうと言われるほどの悪影響をもたらした一大勢力でした。70年続いたキリスト教会の歴史がそこで終わっていたかもしれない、ということです。
悪いほうの話をわたしたちの現実に引き寄せ過ぎないようにします。そういうことをすると暗い気持ちになるだけです。
それよりも、再来年の2022年に昭島教会の創立70周年を迎えるではありませんか。「イエス・キリストこそ真の救い主である」と、この教会としての初めての信仰告白がなされてから、まもなく70年です。わたしたちにとって今は「ヨハネの手紙一」の状況さながらである、ということです。
右にも左にもそれず、これまでと同じひとつの信仰の道を歩んでいこうではありませんか。これからも昭島教会のともしびを高く掲げ続けようではありませんか。
(2020年6月21日、日本キリスト教団昭島教会 主日礼拝)
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| 間隔をあけて座るようにしています |
2020年6月20日土曜日
ピアノ賛美動画「悲愴」富栄徳さん演奏・動画編集
富栄徳さん感謝です!「第一楽章は《さあ大変!どうしよう》と重苦しい雰囲気ですが、第二楽章は《気持ちを切り替えて前に進もう》といった感じです。コロナ騒動が新しい段階に入った今とオーバーラップする気がします。第三楽章のように明るい日々が戻ることを信じたいです」
2020年6月3日水曜日
賛美動画「この世の波風さわぎ」富栄徳さん編集
5月24日(日)公開の長井志保乃さんのピアノ賛美「この世のなみかぜさわぎ」を富栄徳さんがギター付き動画にしてくださいました。「アイルランド民謡から作られた美しい讃美歌で、《ダニーボーイ》として多くのアーチストに演奏されています。」富栄さんありがとうございます!
2020年5月31日日曜日
聖霊の賜物(2020年5月31日 ペンテコステ礼拝宣教)
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ヨハネによる福音書 14 章 15 節~27 節
石川献之助
私たちは三位一体の神を賛美し礼拝しているのだという事を、聖霊降臨節(ペンテコステ)にあたって、新たに心に留めたいと思います。
それは後から付け加えられた恵みというのではなく、もとから救い主イエスと共におられたのです。その聖霊が、主イエスが昇天された後、主イエスを信じる弟子たちが集まっているその上に下り、新たなる現実となったのであります。
聖霊降臨の出来事を伝える聖書の箇所として、使徒言行録 2 章1節~も合わせてお読み下さることをお勧めします。今朝はヨハネによる福音書のテキストを与えられました。
ヨハネによる福音書 14 章 16 節~17 節には「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は真理の霊である。」と書かれています。これから起こることに戸惑い、不安でいっぱいの弟子たちに、主イエスは聖霊を与える約束をして下さっています。
この「弁護者」という言葉ですが、ギリシャ語ではパラクレートスといい、口語訳聖書では「助け主」と訳されています。パラクレートスとは、常に困難や苦悩、疑惑、あるいは当惑のもとにある人を助けるために招きいれられる者を意味します。聖霊は私たちに真理を教え、そして真理のための戦いを進めることが出来るようにする弁護者として働いてくださるのです。
主イエスは私たちに何を遺して下さったのでしょうか?それは救いの愛であります。主イエスは十字架という値を払われて、人間の救いの業を完成され、弟子たちに律法ではなく愛を示すために聖霊をおくられた、そこにペンテコステの出来事の意味があるのです。聖
霊に満たされた、主イエスに従う弟子たちの集まりを「教会」と呼び、それは喜びと救いを中心とした交わりなのであります。
私は今、主イエスの心の内を思い起こしています。十字架の出来事の前、主イエスは冷たい洞穴みたいな所に裸でなげこまれて、さぞ寒かったろう、さぞ悲しかったろう、弟子から捨てられたという思いも抱かれたかもしれない。ペテロが群衆に向かって「彼を知らない」「彼とは関係ない」と三度否定したその声を、主イエスは悲しく心に留めたことでしょう。
その後、復活の己を表された主イエスは、弟子ペテロに向かって「あなたはわたしを愛するか?」と三度尋ねました。復活の主イエスが初めて己を表して言われたことは、「わたしを愛するか?」ということ。三度も言われたということ。
しかし、そのペテロに復活の主イエスは、「わたしの子羊を養いなさい」と言われました。「あなたに助け主をおくる」といわれた主イエスの心を思うわけであります。シモン・ペテロは主イエスの深い愛と許しにふれ、新しいペテロに創りかえられて、主イエスに従う決心をしたのであります。
服従というと一般に律法と考える方が多いかもしれません。主イエスは愛するという行為を遺していかれました。自分を捨てて隣人を愛するという行為としての愛は、服従ということであります。神に服従するということであります。
そのことは一見、最後神に服従して己を捨てたと思われやすい。父なる神に服従した、服従としての愛、それは単に喜びを犠牲にして悲しみにかえるようなことではないのです。そうではなくて、神に服従するということは、十字架のイエス様に従うということなのですね。
聖霊に満たされるということは、それ自体喜びであります。聖霊に励まされて、主イエスの愛を新しく受けながら、信仰の生涯を果たしていく道を私たちは与えられているのです。
私たちは9回の尊い主日礼拝を、自宅礼拝という形で分散して守ってきました。小さい自宅での礼拝の中にあっても、心静かに主の愛を身近に感じ、上よりの慰めを得る時が与えられたことは感謝です。一人ひとりが御言葉に向き合い、祈りの中で、讃美の中で、主イエスの御心に豊かに与る恵みの時でもありました。
ペンテコステの聖日は、教会の誕生日だとも言われますが、復活の主イエスの信仰が今年も強められる日であることを覚えたいと思います。主にある教会の交わりの豊かさや楽しさを思い起こし、礼拝の再開を待ちたいと思います。
このような苦難が恵みに変えられていきますように、この昭島教会が一つとなり、ますます主イエスの教会となっていくことができますようにと、祈るばかりです。新しい一週間も、神様の恵みの内を歩んでいきましょう。
(2020年5月31日 各自自宅礼拝)
2020年5月29日金曜日
ピアノ賛美「主は教会の基となり」長井志保乃さん
長井志保乃さんが「主は教会の基となり」(讃美歌21 390)を演奏してくださいました。5月31日(日)ペンテコステ礼拝も各自自宅礼拝ですが、イエス・キリストという基(もとい)の上に立つ教会を心のうちに描きながら共に歌いましょう。長井さんありがとうございます!
2020年5月24日日曜日
キリストの昇天(2020年5月24日 礼拝宣教)
下記の宣教文の「朗読」(音声12分17秒)はここをクリックしてください
「今日の挨拶(関口康)」(音声1分3秒)はここをクリックしてください
「礼拝開始チャイム」はここをクリックしてください
下記の宣教文のPDF版はここをクリックしてください
ヨハネによる福音書7章32~39節
関口 康
「わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」
各自自宅礼拝に教会の週報と宣教文をお届けするのは、今の苦しい時をみんなの祈りの力で乗り越えたいと願っているからです。顔を合わせ、手を取り合うことが今はできなくても、心の中で教会を感じ、共に祈ることにおいて互いに励まし合う関係を、なんとかして少しでも形にあらわすことを続けていきたいからです。
私が昭島教会の皆さんと出会ったのはまだわずか2年前です。それ以前の65年間の歩みを知りません。それでも私に分かるのは、この教会の皆さんは祈りの力によって多くの困難を忍耐強く乗り越えてこられた方々であるということです。
そうでなければ、教会というものは、あっという間に壊れてしまうところがあります。否定的なことは言いたくありません。昭島教会の存在はおひとりおひとりの祈りと努力の結晶です、と申し上げたいだけです。
今日の聖書の個所も、日本キリスト教団の聖書日課『日毎の糧』に基づいて選びました。このときイエスさまはエルサレムにおられました。エルサレム神殿の境内で神さまのみことばを宣教なさいました。すると「人々がイエスを捕らえようとした」(7章30節)というのです。イエスさまの宣教を妨害しようとしたというのです。
しかしイエスさまは、少しも怯むことなく宣教をお続けになりました。そのうえでイエスさまはご自身が十字架にかけられることを覚悟しておられました。そのようなことは普通の人には堪えられないことです。しかし、イエスさまがそれを堪えることがおできになったのは、ご自身が父なる神さまからこの世に対して遣わされた方として、宣教の使命を強く自覚しておられたからです。神さまの御言葉を宣べ伝えるために、わたしはこの世に生を受けたのであり、そのために生きているのだということを確信しておられたからです。
教会はどうでしょうか。個人としてのわたしたちひとりひとりは、神さまの御言葉を宣べ伝えるために私は生まれたというほどの強い自覚を持つことは考えにくいところがあります。そこまでの思いを抱くことができる方がおられるなら尊重されるべきですが、そうでないことを責められる関係にまではないでしょう。
しかし、ひとりひとりは弱さを抱える存在であっても、イエスさまのからだとしての教会へと加えられ、信仰と祈りにおいて互いに支え合い、高め合う関係を得るならば、さまざまな障害や妨害を共に乗り越えて、宣教を続けていくことができるようになるでしょう。
それは単なる想像や希望的観測といったものではなく、現実の教会が現実に体験してきた事実です。もしそうでないとしたら、わたしたちは、他の誰でもなく自分自身のことを振り返ってみて、なぜ私はこんなに長い信仰生活を続けてくることができたのか、自分で説明がつかなくなるでしょう。
私が忍耐強かったからでしょうか。私の信仰が強かったからでしょうか。だから私はこんなに長く信仰生活を続けられたのでしょうか。「まさかそんなわけがない。ありえない」と、おそらくだれもが考えるのではないでしょうか。むしろ逆に「あんなに弱かったこの私が、どうしてこんなに」という思いを、ほとんどの方が抱くのではないでしょうか。
わたしたちのうちに宿ったこの不思議な力は、神さまから与えられたものです。それは、イエスさまを救い主とする信仰の力でもありますが、同時にその信仰をもって共に生き、祈りをもって互いに支え合う「教会」の存在を抜きにしては考えられない力です。
このように考えていきますと、わたしたちは「教会」を、単純に「人間の集まりだ」と言うだけで済ませてはならないことが分かってきます。なぜそう言えるのかといえば、家や村や町や国、あるいは会社や学校や社会と少しも変わらない意味で「教会もまた人間の集まりにすぎない」と言って済むならば、わたしたちに与えられた不思議な力の源は何なのかを全く説明できなくなってしまうからです。
たとえば、私の性格が「しつこい」からこんなに長く教会生活を続けることができたのでしょうか。そのように冗談か自嘲で言うのは構わないと思いますし、家族や悪友は遠慮なくそんなふうに言うかもしれません。しかし、そんなことではとても説明がつかないことです。
今日の箇所の37節以下で、イエスさまがとても大事なことをおっしゃっています。それをイエスさまは「立ち上がって大声で言われた」(37節)と書かれています。
「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。
わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、
その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」(!!)
続く箇所に、「生きた水」とは“霊”、すなわち「聖霊」を指すと説明されています(39節)。そして、その水はイエスさまのところで飲んだものだというわけです。
つまり「その人の内から生きた水が川となって流れ出る」とは、父なる神さまから出て、イエスさまを通って、聖霊によってわたしたちの中に流れ込んだ何かが、さらにわたしたちから流れ出て多くの人々に及び、時代と世代を越えて受け渡されていくことを指していると言えます。
それは何でしょうか。それはもちろん神さまの力です。そして信仰の力も加わるでしょう。しかし、それだけでなく、「教会」の存在が含まれると言わなくてはなりません。神さまと個人の関係だけでは説明できません。
個人の力がいかに弱く、もろく、はかないものであるかは、だれから指摘されなくとも、わたしたち自身が最も自覚していることではありませんか。このように言うのは、教会を押し付けたいからではなく、教会のみんなで力を合わせることの心強さを、今の苦しいときにこそ思い起こしたいからです。
イエスさまは、今は、わたしたちの目に見えない天の父のみもとへと挙げられています。それを「昇天」(しょうてん)と言います。わたしたちが地上の人生を終えて天へと召されることを指す「召天」(しょうてん)とは区別されますが、無関係ではありません。
イエスさまは本来、神であられる方として、天へとお戻りになったのです。わたしたちは、人間として、人間のままで、天へと国籍が移され、永遠に神と共に生きる者となるのです。
この信仰に支えられつつ、希望と喜びをもって、今週も共に歩んでまいりましょう。
(2020年5月24日 各自自宅礼拝)
2020年5月23日土曜日
ピアノ賛美「この世のなみかぜさわぎ」長井志保乃さん
昭島教会オルガニストの長井志保乃さんが「この世のなみかぜさわぎ」(讃美歌第二編 157)をピアノで演奏してくださいました。とても美しく、今のわたしたちにぴったりの曲です。5月24日(日)の各自自宅礼拝でぜひ一緒に歌いましょう。長井さん、ありがとうございます!
2020年5月22日金曜日
賛美動画「シューベルトのアヴェ・マリア」富栄徳さん編集
昭島教会の富栄徳さんが編集してくださいました。「この曲が心に響きましたので編集しました。この曲は教会用に作られたものではありませんが、敬虔な祈りを誘ってくれます。このコロナ禍の中で無念のうちに召された多くの方々に捧げたいと思います」。ありがとうございます!
2020年5月17日日曜日
キリストの勝利(2020年5月17日 礼拝宣教)
ヨハネによる福音書16章25~33節
関口 康
「あなたがたには世で苦難がある。しかし勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」
このところ毎回最初に申し上げることが「今日も各自自宅礼拝です」という言葉であるのは、なんとも言えない気持ちです。一日も早く今の避難状況を脱し、元通りみんなで教会に集まって主日公同礼拝を行いたいと願うばかりです。
しかし、申し訳ないことに、今の私はテレビを観ることができずにいます。テレビがないわけではありません。教会の大きなテレビを牧師館にお借りしています。しかし、スイッチを入れることができません。
教会のテレビをお借りしたきっかけを覚えています。2018年6月末から7月初めにかけて西日本を襲った豪雨災害でした。私の実家が岡山にあることは皆さんに明かしているとおりです。「ご実家は大丈夫ですか」と、多くの方々が心配してくださいました。
「ええ、まあ、たぶん大丈夫だと思います。何かあれば連絡が来るでしょう」とお答えしたとき、うっかり「テレビを観ていないので」と口を滑らしてしまいました。それでみなさんに驚かれまして、テレビをお借りすることになりました。
なぜテレビを観なくなってしまったのか、直接の原因は分かりません。うそばかりをつく政治家と、その人たちの言いなりになっているとしか思えない人たちばかりが出演しているように見えるテレビに堪えられなくなった気がします。
私が得ている情報はインターネットだけです。それが信頼できるかどうかは分かりません。しかし、だからといってテレビは信頼できるとは全く思えません。これ以上のことは、私に問われても押し問答になるだけです。「ごめんなさい」と謝るしかありません。
今日選んだ聖書の箇所はヨハネによる福音書16章25節から33節までです。イエスさまが十字架にかけられる前の夜、弟子たちと共に囲まれた「最後の晩餐」での言葉です。
「わたしは父のもとから出て、世に来たが、今、世を去って、父のもとに行く」(28節)とイエスさまがお語りになっています。「わたしは、今、世を去る」とはっきりと。
それで弟子たちは「あなたが神のもとから来られたと、わたしたちは信じます」(30節)と答えますが、その弟子たちにイエスさまが「今ようやく、信じるようになったのか。だが、あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている」(31節)とお返しになります。
しかし、ちょっと待ってください。いま読んでいるのは新共同訳聖書です。「あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする」は翻訳のひとつの可能性ですが、「あなたがたが帰ってしまい(?)、わたしをひとりきり(?)にする」と言われますと、寂しくて仕方がないイエスさまが、しょんぼりして、恨みがましい目を弟子たちに向け、すねておられるようです。しかし、本当にそうでしょうか。
そのことが気になりましたので何冊か英語聖書を調べました。新共同訳聖書(新約1987年)が誕生する前、日本の教会で長く用いられた口語訳聖書(新約1954年)に強い影響を与えた英語聖書「改定標準訳」(Revised Standard Version)(1946年)はWhen you will be scattered, every man to his home, and will leave me alone.と訳していました。これが新共同訳聖書に最も近いと思います。
しかし、「改定標準訳」よりもずっと古い「欽定訳」と呼ばれる英語聖書(King James Version、1611年発行)はevery man to his ownと訳していました。his ownはhis homeよりも広い意味です。「自分の家」ではなく「自分自身」または「自分のもの」という意味です。
また私は完全に独学ですが、23年前(1997年)からオランダ語を学んでいます。オランダ語聖書を調べたところ、英語の欽定訳と同じ意味の「自分自身」(het zijne(ヘット・ゼイネ))、あるいは「自分の道」(eigen weg(エイヘン・ヴェフ))と訳している例もありました。
ギリシア語原文のことを先に言うべきだったかもしれません。鋭い方は、もうお気づきでしょう。原文には「家」を意味する言葉はありません。「欽定訳」と呼ばれる17世紀の英語聖書はギリシア語原文に忠実です。「家」(home)に当たる言葉はないので「自分自身」(his own)と訳したのでしょう。
私の勉強や知識をひけらかしているのではありません。このときイエスさまが上目遣いで「おれをひとりぼっちにするのか。自分の家に逃げ帰るのか」とおっしゃったのどうかを、はっきりさせたいだけです。
違います。イエスさまはそのようなことをおっしゃっていません。「今、世を去って、父のもとに行く」は、わたしは死ぬという意味です。だから、「我々は散会する。各自で行動する。私はひとりで残る」とおっしゃっているだけです。
そうでないかぎり「勇気を持ちなさい」という言葉につながりません。もしイエスさまが「おれをひとりぼっちにするのか」の直後に「勇気を持ちなさい」とおっしゃったとすれば支離滅裂ですし、皮肉か嫌味を言っておられるかのようです。そんなわけがないのです。
「しかし、わたしはひとりではない。父が、共にいてくださる」(32節)、そして「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。私は既に世に勝っている」(33節)と、イエスさまが続けておられます。
その意味は、わたしはひとりで十字架につく、しかし、父なる神さまがわたしと共にいてくださるので、わたしはひとりではないということです。「神が共にいてくださること」以上の「力」も「強さ」もないのだから、わたしは勝利者であるということです。
そして、勝利者であるわたしイエス・キリストを信じて、これからあなたがたは「各自で」生きていくのだ。そのための「勇気を持ちなさい」ということです。
今日の箇所に描かれたイエスさまと弟子たちの関係には、わたしたちが置かれている状況と重なり合うものがあります。
このときのイエスさまも「散会」が永久に続くという意味でおっしゃっているのではありません。わたしがひとりで十字架につく。その間は避難していなさい、安全なところにいなさい、という意味です。また集まることができるその日まで。
わたしたちも、イエスさまが弟子たちに求めた「勇気」を、持とうではありませんか。
(2020年5月14日 各自自宅礼拝)
2020年5月16日土曜日
ピアノ賛美「いつくしみ深い」長井志保乃さん
昭島教会オルガニストの長井志保乃さんが「いつくしみ深い」(讃美歌21 493)をピアノで演奏してくださいました。弟子を「友」とお呼びになったイエスさま(ヨハネ15章14節)の愛の歌です。孤独になりがちなとき、共に歌いましょう。長井さん、ありがとうございます!
2020年5月10日日曜日
聖霊の結ぶ実(2020年5月10日 礼拝宣教)
下記の宣教文の「朗読」(音声11分24秒)はここをクリックしてください NEW !
「今日の挨拶(関口康)」(音声56秒)はここをクリックしてください
「礼拝開始チャイム」(音声2分15秒)はここをクリックしてください
下記の宣教文のPDF版はここをクリックしてください
ヨハネによる福音書15章18~27節
関口 康
「わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである。」
感染症対策としての「各自自宅礼拝」が2か月目です。今日は「母の日」です。みんなで教会に集まれない中で迎える「母の日」に悔しさを覚えるのは私だけではないと思います。
もっとも私自身は帰省すらめったにしない親不孝者なので、皆さんの参考になりません。私の両親は私が生まれる前からキリスト者ですので、息子を「神さまにささげた」と信じていてくれます。それを言い訳にして、実家にはすっかりご無沙汰しています。
しかし、皆さんはぜひお母さまを大切にしてください。私以上に、お母さまを大切にしてください。それだけに、帰省が規制されている今の状況が残念でなりません。
今日の聖書の箇所も、いつもと同じように、日本キリスト教団の聖書日課『日毎の糧』に基づいて選びました。「母の日」との関係は見当たりません。しかし、「父」と呼ばれる存在について記されている箇所です。ここに記されているのは、イエスさまの言葉です。イエスさまの「父」は神さまであると、イエスさまご自身が明らかになさっています。
再び私の個人的な話になるのをお許しいただきたいです。今日の箇所を含むヨハネによる福音書15章は、私にとって特別な意識を持たざるをえない章です。私が生まれたときから高校卒業まで家族と一緒に通っていた教会で、少なくともその当時、日曜の朝の礼拝でも、夕礼拝でも、教会学校でも、水曜の夜の祈祷会でも、教会附属幼稚園でも、いつも必ず同じ「ヨハネによる福音書15章1節から11節まで」が朗読されていたからです。
教会学校で歌われるこどもさんびかの1節の歌詞は、「主イエスはまことのぶどうの木、わたしはつながる小枝です、育てる神さま手入れして、実らぬ小枝を切り捨てる」でした。最後の「切り捨てる」という言葉が恐ろしかったことが忘れられません。しかし、たしかにイエスさまがお語りになったとおりのことが歌われています。
聖書の中のひとつの箇所が、20年近く(その後のことは知りません)、どの集会でも開かれていた教会というのは例が少ないかもしれません。その真似をするつもりはありませんが、その教会の当時の様子を批判する意味もありません。私にとってのヨハネによる福音書15章は、潜在意識に埋め込まれていると言えるほどだと、申し上げています。
今日の箇所の内容は、イエスさまが神さまを「父」とお呼びになったこと、そしてイエスさまは「父なる神の子」であられることです。そのことをイエスさまご自身が明らかにしておられます。しかも、両者の「親子関係」は単なる比喩ではありません。イエスさまの本質を表しています。「神さまの子ども」は「神」です。イエスさまが「神さま」です。
そうであるということを、ヨハネによる福音書は、最初の章から語っています。「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである」(1章18節)と記されています。この「父のふところにいる独り子である神」がイエス・キリストです。
だからこそ二千年のキリスト教会は、「神のみこころ」を知ることと「イエス・キリストの教えに従うこと」は等しい関係にあることを信じてきました。そして、イエス・キリストの教えは新約聖書に記されています。教会が新約聖書を重んじてきたのは必然的です。
しかし、私が今日お話しすべきことは、この先の事柄です。話をここで終わらせることはできません。テレビ越しか、ガラス越しか、とにかくかなり隔たりがあります。
「神のみこころ」を知るために「イエス・キリストの教えに従うこと」が、わたしたちに求められています。それはそのとおりです。しかし、ここで起こる問題があります。それは、今のわたしたちは西暦1世紀と同じ状況の中に生きていない、ということです。
「歴史は繰り返す」とも言われます。しかし、それこそ比喩です。時間そのものは逆戻りしません。時間も歴史も不可逆です。もしそうでないなら非常に恐ろしいことになります。何年何十年生きようと、もし時間が不可逆的なものでないなら、人生のすべてが無かったかのように消去されることを意味します。そのようなことがあってはなりません。
教会の歴史も同じです。昭島教会68年、日本のプロテスタント教会160年、キリシタンの歩みと合わせれば日本のキリスト教史470年、そして世界のキリスト教会の二千年の歩みが、まるで無かったかのように消し去られるようなことがあってはなりません。
イエス・キリストの教えに従うことの意味は、わたしたちが二千年前に逆戻りすることではありません。正反対です。わたしたちは「今ここで」、神さまのみこころを知るために、聖書を通してイエス・キリストの教えを学ぶのです。
西暦1世紀と、21世紀との隔たりを埋めてくださるのが「聖霊」です。「聖霊」ご自身も神さまです。イエスさまご自身の言葉でいえば、「わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊」(26節)が「聖霊」です。
しかも、「聖霊」はわたしたちの心と体(合わせて「存在」)の内側に宿って(内住して)くださる方です。言い方を換えれば、わたしたちの存在は一切否定されません。「あなたが悩んでいることは無価値なので、悩むのをやめなさい」とは言われません。「思考停止することが信仰である」とは言われません。そういう信じ方は異端に通じます。
わたしたちの理性も感情も、悩みも苦しみも、汗も涙も、世界の叡智も、最新の技術も、活かされたままです。そのわたしたちへと、「神のみこころ」と等しい「イエス・キリストの教え」を「聖霊」が届けてくださいます。わたしたちは自分の家で(各自自宅礼拝で)、「神のみこころ」が届くのを待つことができるのです。
「聖霊の結ぶ実」はわたしたちの人生そのものです。とってつけたような、違和感のあるものではありません。わたしたちの人生そのものが、神の恵みであり、奇跡なのです。
(2020年5月10日、日本キリスト教団昭島教会「各自自宅礼拝」)
2020年5月7日木曜日
ピアノ賛美「昔 主イエスの」長井志保乃さん
昭島教会オルガニストの長井志保乃さんが「昔 主イエスの」(讃美歌21 412)をピアノで演奏してくださいました。共に歌いましょう。むかし主イエスが蒔いてくださった種の実りが、父なる神の御名によってひとつとなった世界の民です。長井さん、ありがとうございます!
2020年5月4日月曜日
賛美動画「勝利をわれらに」富栄徳さん編集
昭島教会の富栄徳さんが動画を編集してくださいました。「コロナコロナで先の希望を失いがちな今、半世紀ほど前の彼女のこの歌を聴いて、口ずさむと不思議と力が湧きます。讃美歌471『勝利を望み』と同じ曲です」と、富栄さん。素晴らしい動画をありがとうございます!
オンライン授業の練習 関口康牧師
(おまけ動画)関口康牧師が非常勤講師をしている学校でオンライン授業が行われることになり、その練習をしている最中に、牧師のお仲間から「受け取ったら腕立て伏せをしなくてはいけない」連絡が届いた。公式ルールは6回だそうが、8回でダウン。体力をつけねば。
2020年5月3日日曜日
弟子への委託(2020年5月3日 礼拝宣教)
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| 石川献之助牧師 |
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下記の宣教文のPDF版はここをクリックするとダウンロードできます
ヨハネによる福音書21章15節~25節
石川献之助
皆さん、私は今日も神様に守られて元気に生きています!
おかげさまで今週の6日には93歳の誕生日を迎えようとしています。この歳まで生きると「天国は近づいている」と思わされることが多いものですから、毎朝目を覚ました時に、新しい一日を生かされているという実感と共に、神様への感謝の思いを抱かずにはいられません。
自粛生活の中で身体が弱らないように、家の中での歩行練習やひと気のない場所での散歩などに努め、また食事を残さないようにいただくなど、自分を励まして過ごしています。それは再び兄弟姉妹が教会に集い、共に礼拝が出来る日を待ち望んでいるからです。
どうぞこの難しい時代を、祈りと思いをひとつにして、主に支えられて共に歩んでいきたいと心から願っています。
先週は、関口先生によって、ヨハネによる福音書21章1節から14節の聖書箇所を学びました。甦られた主イエスが、7人の弟子達のもとへ現れて、共に食事をなさったところです。
本日はその後15節からの御言葉が与えられています。食事を終えたのちに「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と主イエスは言われました。
この後続けて主イエスは3回同じ質問をされています。主イエスは十字架にかかる前にイエスの事を3度知らないと言ったペテロ(ペトロ)<マタイ26章69節~75節>に、主への愛を宣言させることにより、「知らない」と言った記憶をぬぐいさらせようとしたのだという見方をする人もあります。主イエスのペテロへの温かい思いが表れている箇所であります。
このペテロへの「わたしを愛しているか」という主イエスの投げかけは、「もしあなたが私を愛するなら私の群れを牧するために生涯を献げなさい」という、ペテロへの委託の言葉であったのであります。主イエスは十字架による死によって終わったのではなく、甦られてこれから始まる神の国の救いの成就のために、弟子たちに臨まれたのであります。
私はかつてローマに旅行しバチカンの前を通った時、そこにペテロの立派な像が建てられているのを見て、ペテロの信仰の偉大さを感じました。しかしその後で、彼が十字架にかけられて殉教の死を遂げたことを思い起こしました。彼は十字架にくぎ付けにされそうになった時、自分は主と同じような仕方で死ぬ価値はないと、十字架に逆さにつけて欲しいと頼んだという話は伝え聞くところであります。
これまでのペテロの人生は、その時の都合でyesとnoとを繰り返すようなものでありました。しかし、ペテロは甦りの主イエスに出会って、信仰に目が開かれ、人生が新しくされ、新しい務めに目覚めたのであります。
復活の主イエスに出会うということは、自分が新しい人に創りかえられるという出来事であり、生涯変わらない真実に出会うということであります。私も振り返れば67年間、主イエスに捉えられて、この思いで牧師の務めを一筋に果たしてきました。
さて、この「わたしを愛しているか」という主イエスの御言葉は、私たち一人ひとりへもなげかけられていることを感じます。私たちは主イエスのこの問いかけにどのように応えていけるのでしょうか。 ペテロのように生涯を伝道に献げる道のみならず、私たち一人ひとりにも新しい道が与えられています。
私たちは主イエスに招かれた者として、喜んで応答していく者でありたい。 ペテロもそうであったように、私たちも復活の主イエスの愛に新しくされて歩む信仰の日々を送りたいと思います。
(2020年5月3日、日本キリスト教団昭島教会「各自自宅礼拝」)
2020年4月28日火曜日
ピアノ賛美「あめにはみつかい」長井志保乃さん
各自自宅でみんなの心をひとつにして歌えるように、昭島教会オルガニストの長井志保乃さんが「あめにはみつかい」(旧讃美歌158)をピアノで演奏してくださいました。ベートーヴェンの「第九」です。長井さん、ありがとうございます!
2020年4月26日日曜日
復活顕現(2)(2020年4月26日 礼拝宣教)
今日の礼拝も「各自自宅礼拝」です。今日の聖書箇所(ヨハネによる福音書21章1節から14節まで)に基づく宣教の文章を牧師のブログで公開しました。下の礼拝堂の画像をクリックするとお読みいただけます。みなさまどうか健康と安全にご留意ください。
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2020年4月22日水曜日
2020年4月21日火曜日
ピアノ演奏「月光ソナタ第一楽章」富栄徳さん
昭島教会の富栄徳さんが、今の閉塞感が緩まることを願って、心をこめて演奏してくださった「月光ソナタ第一楽章」の動画を公開いたします。富栄さん、ありがとうございます!
2020年4月19日日曜日
復活顕現(1)(2020年4月19日 礼拝宣教)
今日の礼拝も「各自自宅礼拝」です。今日の聖書箇所(ヨハネによる福音書20章19節から31節まで)に基づく宣教の文章を牧師のブログで公開しました。下の礼拝堂の画像をクリックするとお読みいただけます。みなさまどうか健康と安全にご留意ください。
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2020年4月16日木曜日
2020年4月12日日曜日
復活節の喜び(2020年4月12日 イースター礼拝宣教)
ヨハネによる福音書 20 章 1 節~18 節
石川献之助
今日は 2020 年のイースターの復活節の記念の聖日であります。
私はこの日をどんなに大切に思っているか。私は小さい時から教会の牧師である父と、ま
たその生き方に共鳴してその助け手となった母の間で育ち、「献之助」という名前をつけられて、自分が選択をするよりも両親の信仰に基づいて、あるいはその信仰を通して私の生涯をこの福音の宣教の務めに生きる教会の働きに生涯を捧げる者として、その名前を付けてくださったそういう命運のもとに、今年92 歳という長い生涯を、ただそのひとつの方向に生きてまいりました、福音の宣教を託されている者であります。
この昭島教会は、私に託された主の命令に基づいた、あるいは恩恵にもとづいた務めでありますけれども、すでに高齢ゆえ不自由な体でありまして、教会の役割を進んで担ってくださる昭島教会の役員の方々のみならず、後任の伝道者としての務めを引き受けてくださった関口先生のその業によって補われながら今を歩んでおります。
すでに皆様のお手元に郵送された週報の 2 ページの上の右のほうに 「3511 号」と書かれております。なんと戦後の日本の、散々に戦争で痛めつけられた昭島の地で、本当にこの世に生きていく生活の困難を背負っている昭島の市民の方々に福音を述べ伝え、生きる希望と、そして福音によってもたらされる永遠の命の希望を述べ伝えるために、私は弱冠 25 歳でこの昭島の地において開拓伝道の業を始めました。実にそれから 67 年の時を経て、この 3511 回目の礼拝でお話を委ねられている者であります。
そしてこの復活節というものは、私どもの救い主イエスキリストの三十有余年の御生涯の最後、実に世界の罪深い者の、全ての者の救いのために、十字架にかけられて遂げたその尊い死の後、三日目にそのイエスが甦られたことを記念する日であると聖書にしるされております。
そのテキストに基づいて、この復活の出来事を伝えるそのような記録は世界でも他にはないわけでありますから、本当にその事実を伝える知らせとして、最初の事をしるしたヨハネによる福音書の 20 章1節以下の記録を心に留めたいと思います。そして、その知らせは 2000 年余り経ちました、2020 年の今も私たちのもとに届けられているのであります。
これは本当に尊い知らせだと思います。この知らせに基づいて、私どもの信ずる主イエス・キリストが十字架の上において死なれたはずのそのイエス・キリストが、三日目に甦ってしかも最初に己をあらわされたその主イエス・キリストのそのような記録が書かれているわけであります。
そしてそれは、普通は長い時の経過が全てをぬりかえてしまうはずでありますが、でも変わらずに、永遠の命を私たちに約束されたイエス・キリストは、十字架の死を経て三日目に甦られた「甦りのイエス」にかわられた、イエスについて記念をすることを心に深く銘記して、新しい命に生きるそのような神の最も偉大なる御業について、私たちは神に感謝しその信仰を新しくする日として、世界中でこのイースターの日を中心に、この安息日の日曜日の礼拝をおこなっているわけであります。
本当にこのことは私たちの良識を越えたことでありまして、信仰によって聖霊の導きのもとにそのことを認識させられたときに、人間として創られ、生まれ、そして生きてきた人間は、そこに希望を、永遠の命の希望を告げられて、そしてこの日、感謝と喜びの内に礼拝を行っているのであります。
このことを告げたヨハネによる福音書の 20 章の始めに、キリストの御言葉の中で最初に弟子たちにイエス・キリストが己を復活の御姿をもって、再び愛の方として私どもの救い主としてご自身をお示しになったこの箇所を心に留めることこそ、イースターの礼拝の中心であるということを覚えていきたいと思います。それでこの礼拝においては、ヨハネによる福音書の 20 章の1節から18 節までの御言葉が今読まれたわけであります。
そして私はこのことを毎年このイースター礼拝の度に心に留めたわけでありますが、今日はこの礼拝において、この教会を中心にあつまっている兄弟姉妹は、新型コロナウイルスの世界的な脅威にさらされているこの地球の上での、人類の歴史上初めてという試練の中に置かれ、私たちは集まることの危険ゆえ、為政者の意向に従って霧散して、私たちの教会ではそれぞれの置かれている場所でひとり祈ることによってこの復活節の主日礼拝を執りおこなうことを皆さんにお知らせしました。
そして今、形は違っても復活節の喜びを分かち合うという、讃美と感謝と喜びの信仰を更新する、そういう礼拝を守っているわけであります。
私たちはそのことを忘れることなどありません。そしてその信仰に生きている兄弟姉妹たちが全世界で、ある報告によれば 20 億という多数の人々がその信仰に生きているわけであります。
イエス様は復活されて生きて私たちと共にある、私たちの歴史を共に生きていて下さるということを新たに知らしめられる、そういう希望の日であるということをもう一度思い起こす、そういう日であるということを新たに皆さんと一緒に心に留めたいと思う次第であります。このイースターの理解と喜びとは、時の経過によって増し加えられることさえあれ、決して薄れることはないと思います。
私は過日イースター礼拝で引用した具体的な例をひとつ挙げて、そのことを新たにしたいと思うのであります。一度人間としてこの世の歴史の中に生まれてきた私たち一人ひとりでありますけど、一度生まれ、そしてその命は私たちの目に見えないたくさんの罪の結果として、必ず神様の厳しい裁きのもとに人類は希望を失っていくわけでありますが、そこに救い主としてのイエス様が遣わされ、そして全ての人々の罪の許しを十字架にかかり、達成されたのであります。
それで日本の現実の中におかれている、そのような希望の無い人々の救いのために、その周辺の人々に声をかけて、特に 2500 名のお医者さんと看護師の方々が集まる前でその限りある人生を望みなく終わっていくそういう人類の救いのために復活のイエス様の希望が与えられているということについて、研究会において報告されたお話です。
沢山の人々が地上の命を終えて亡くなっていく愛する者の死は、なおとても耐えがたいものであります。そしてイエス様によって信仰を与えられた私たちも同じような命運のもとにあるわけですが、イエスキリストによって永遠の命の希望を与えられることによって、この世の生活を積極的にあるいは喜びに希望に満たされてそして生きていく、そういう者がそれでも命の終わりの時を持つわけであります。
けれどもその中で、ある親子のお別れの言葉を紹介したいと思います。それはお父さんが臨終の時が来たことを悟って、はっきりと小さな声ではあるけれども「いってくるね」といって亡くなったということです。そして娘さんの方は「いってらっしゃい」と答える臨終の光景が紹介されていたのであります。
この紹介された家庭は、クリスチャンとして復活の信仰を与えられていた人たちでありましたから、亡くなるお父さんは「いってくるね」と言い、そして娘さんは「いってらっしゃい」と言う。しっかりとしたごく自然な言葉を遺して終わりの時を迎えた。この報告は多くの人を感動させました。
今、私たちは、新型のコロナウイルスの世界的な宇宙的な感染拡大の報道のもとに人類の将来を心配しています。けれども、この言葉を通してイエス様が与えて下さった永遠の命の希望は、本当に全ての人に希望を与えるものであるということを深く教えられました。
同じ信仰に生きている、またその復活の事実を聖書を通して教えられている、その中に、希望を持っている私たちは、そのように自分の人生を送り、また愛する家族の死を看取り、隣人として生きているたくさんの人々にこの福音を述べ伝えていくことの大切さを深く教えられた次第です。
私たちはいつものように教会に集まって、恵みの時を持つことは出来ません。けれどもこうして分散してコロナウイルスに負けないように、自宅で礼拝を守っています。
週報の中に今日与えられた聖句として、「弟子たちは主を見て喜んだ」とあります。十字架にかかって亡くなったはずの主イエスキリストが生きていらっしゃる、その復活の姿を見て喜んだという、これは事実の報告でありまして、私たちもこの言葉を改めて日々の人生の希望として、イエス様に感謝して、イエス様と共にこの復活の信仰を新しく日々の力として、命として、この年も生きていきたいと深く思わされた次第です。
それでは一言お祈りをいたします。
天の父なる神様 あなたがこの 僕しもべに、昭島市を中心とした戦争に希望をくじかれた日本の一角の地に、死によって貧しくなり、希望を失い彷徨っている人々にこのイエスキリストの復活の希望の福音を述べ伝えるという務めを与えられて、67 年という歳月が経ちました。
あなたはこの宣教の務めは何年経ってもそれは新しく、その福音を必要とする罪深い人類の歴史が続いていくことを思う時に、どうぞこの教会を守り、育て、励まし、どうかその福音を述べ伝えていく教会でありますように、心からお祈りいたします。
あなたは主であられ、そして永遠に生きていて下さいますから、私たちはそのことを信じていますけれども、色々な歴史的な過程の中で、どうぞ心強くどんなときにもこの復活のイエス様の希望を人々に伝える務めに励み、どうかこの教会が育ち、またその使命感を持ち続けていくことが出来ますように。私たちの周りの人々にその務めを果たす者として、歩めますように。
この試練が本当に私たちの希望となり、いつも務めとして新しく更新させられて私たちの希望として持ち続けられていきますように。どうぞ主イエス様が、教会員一人ひとりの現実に隣人として伴っておられることを忘れずに、かえって強められてこの困難を乗り越えて、この教会が新しくされる時でありますように。
今日このような形で行われる礼拝にも、復活節の礼拝を行えたことを深く感謝いたします。私たち自身が本当に復活の信仰を希望として、これからの生涯を生きていくことが出来ますように、祈るべきことは沢山ありますけれども、この大切な祈りをイエス様のお名前を通して御前にお捧げいたします。
アーメン
礼拝(上)
礼拝(下)
祝会(上)
祝会(下)
石川献之助
今日は 2020 年のイースターの復活節の記念の聖日であります。
私はこの日をどんなに大切に思っているか。私は小さい時から教会の牧師である父と、ま
たその生き方に共鳴してその助け手となった母の間で育ち、「献之助」という名前をつけられて、自分が選択をするよりも両親の信仰に基づいて、あるいはその信仰を通して私の生涯をこの福音の宣教の務めに生きる教会の働きに生涯を捧げる者として、その名前を付けてくださったそういう命運のもとに、今年92 歳という長い生涯を、ただそのひとつの方向に生きてまいりました、福音の宣教を託されている者であります。
この昭島教会は、私に託された主の命令に基づいた、あるいは恩恵にもとづいた務めでありますけれども、すでに高齢ゆえ不自由な体でありまして、教会の役割を進んで担ってくださる昭島教会の役員の方々のみならず、後任の伝道者としての務めを引き受けてくださった関口先生のその業によって補われながら今を歩んでおります。
すでに皆様のお手元に郵送された週報の 2 ページの上の右のほうに 「3511 号」と書かれております。なんと戦後の日本の、散々に戦争で痛めつけられた昭島の地で、本当にこの世に生きていく生活の困難を背負っている昭島の市民の方々に福音を述べ伝え、生きる希望と、そして福音によってもたらされる永遠の命の希望を述べ伝えるために、私は弱冠 25 歳でこの昭島の地において開拓伝道の業を始めました。実にそれから 67 年の時を経て、この 3511 回目の礼拝でお話を委ねられている者であります。
そしてこの復活節というものは、私どもの救い主イエスキリストの三十有余年の御生涯の最後、実に世界の罪深い者の、全ての者の救いのために、十字架にかけられて遂げたその尊い死の後、三日目にそのイエスが甦られたことを記念する日であると聖書にしるされております。
そのテキストに基づいて、この復活の出来事を伝えるそのような記録は世界でも他にはないわけでありますから、本当にその事実を伝える知らせとして、最初の事をしるしたヨハネによる福音書の 20 章1節以下の記録を心に留めたいと思います。そして、その知らせは 2000 年余り経ちました、2020 年の今も私たちのもとに届けられているのであります。
これは本当に尊い知らせだと思います。この知らせに基づいて、私どもの信ずる主イエス・キリストが十字架の上において死なれたはずのそのイエス・キリストが、三日目に甦ってしかも最初に己をあらわされたその主イエス・キリストのそのような記録が書かれているわけであります。
そしてそれは、普通は長い時の経過が全てをぬりかえてしまうはずでありますが、でも変わらずに、永遠の命を私たちに約束されたイエス・キリストは、十字架の死を経て三日目に甦られた「甦りのイエス」にかわられた、イエスについて記念をすることを心に深く銘記して、新しい命に生きるそのような神の最も偉大なる御業について、私たちは神に感謝しその信仰を新しくする日として、世界中でこのイースターの日を中心に、この安息日の日曜日の礼拝をおこなっているわけであります。
本当にこのことは私たちの良識を越えたことでありまして、信仰によって聖霊の導きのもとにそのことを認識させられたときに、人間として創られ、生まれ、そして生きてきた人間は、そこに希望を、永遠の命の希望を告げられて、そしてこの日、感謝と喜びの内に礼拝を行っているのであります。
このことを告げたヨハネによる福音書の 20 章の始めに、キリストの御言葉の中で最初に弟子たちにイエス・キリストが己を復活の御姿をもって、再び愛の方として私どもの救い主としてご自身をお示しになったこの箇所を心に留めることこそ、イースターの礼拝の中心であるということを覚えていきたいと思います。それでこの礼拝においては、ヨハネによる福音書の 20 章の1節から18 節までの御言葉が今読まれたわけであります。
そして私はこのことを毎年このイースター礼拝の度に心に留めたわけでありますが、今日はこの礼拝において、この教会を中心にあつまっている兄弟姉妹は、新型コロナウイルスの世界的な脅威にさらされているこの地球の上での、人類の歴史上初めてという試練の中に置かれ、私たちは集まることの危険ゆえ、為政者の意向に従って霧散して、私たちの教会ではそれぞれの置かれている場所でひとり祈ることによってこの復活節の主日礼拝を執りおこなうことを皆さんにお知らせしました。
そして今、形は違っても復活節の喜びを分かち合うという、讃美と感謝と喜びの信仰を更新する、そういう礼拝を守っているわけであります。
私たちはそのことを忘れることなどありません。そしてその信仰に生きている兄弟姉妹たちが全世界で、ある報告によれば 20 億という多数の人々がその信仰に生きているわけであります。
イエス様は復活されて生きて私たちと共にある、私たちの歴史を共に生きていて下さるということを新たに知らしめられる、そういう希望の日であるということをもう一度思い起こす、そういう日であるということを新たに皆さんと一緒に心に留めたいと思う次第であります。このイースターの理解と喜びとは、時の経過によって増し加えられることさえあれ、決して薄れることはないと思います。
私は過日イースター礼拝で引用した具体的な例をひとつ挙げて、そのことを新たにしたいと思うのであります。一度人間としてこの世の歴史の中に生まれてきた私たち一人ひとりでありますけど、一度生まれ、そしてその命は私たちの目に見えないたくさんの罪の結果として、必ず神様の厳しい裁きのもとに人類は希望を失っていくわけでありますが、そこに救い主としてのイエス様が遣わされ、そして全ての人々の罪の許しを十字架にかかり、達成されたのであります。
それで日本の現実の中におかれている、そのような希望の無い人々の救いのために、その周辺の人々に声をかけて、特に 2500 名のお医者さんと看護師の方々が集まる前でその限りある人生を望みなく終わっていくそういう人類の救いのために復活のイエス様の希望が与えられているということについて、研究会において報告されたお話です。
沢山の人々が地上の命を終えて亡くなっていく愛する者の死は、なおとても耐えがたいものであります。そしてイエス様によって信仰を与えられた私たちも同じような命運のもとにあるわけですが、イエスキリストによって永遠の命の希望を与えられることによって、この世の生活を積極的にあるいは喜びに希望に満たされてそして生きていく、そういう者がそれでも命の終わりの時を持つわけであります。
けれどもその中で、ある親子のお別れの言葉を紹介したいと思います。それはお父さんが臨終の時が来たことを悟って、はっきりと小さな声ではあるけれども「いってくるね」といって亡くなったということです。そして娘さんの方は「いってらっしゃい」と答える臨終の光景が紹介されていたのであります。
この紹介された家庭は、クリスチャンとして復活の信仰を与えられていた人たちでありましたから、亡くなるお父さんは「いってくるね」と言い、そして娘さんは「いってらっしゃい」と言う。しっかりとしたごく自然な言葉を遺して終わりの時を迎えた。この報告は多くの人を感動させました。
今、私たちは、新型のコロナウイルスの世界的な宇宙的な感染拡大の報道のもとに人類の将来を心配しています。けれども、この言葉を通してイエス様が与えて下さった永遠の命の希望は、本当に全ての人に希望を与えるものであるということを深く教えられました。
同じ信仰に生きている、またその復活の事実を聖書を通して教えられている、その中に、希望を持っている私たちは、そのように自分の人生を送り、また愛する家族の死を看取り、隣人として生きているたくさんの人々にこの福音を述べ伝えていくことの大切さを深く教えられた次第です。
私たちはいつものように教会に集まって、恵みの時を持つことは出来ません。けれどもこうして分散してコロナウイルスに負けないように、自宅で礼拝を守っています。
週報の中に今日与えられた聖句として、「弟子たちは主を見て喜んだ」とあります。十字架にかかって亡くなったはずの主イエスキリストが生きていらっしゃる、その復活の姿を見て喜んだという、これは事実の報告でありまして、私たちもこの言葉を改めて日々の人生の希望として、イエス様に感謝して、イエス様と共にこの復活の信仰を新しく日々の力として、命として、この年も生きていきたいと深く思わされた次第です。
それでは一言お祈りをいたします。
天の父なる神様 あなたがこの 僕しもべに、昭島市を中心とした戦争に希望をくじかれた日本の一角の地に、死によって貧しくなり、希望を失い彷徨っている人々にこのイエスキリストの復活の希望の福音を述べ伝えるという務めを与えられて、67 年という歳月が経ちました。
あなたはこの宣教の務めは何年経ってもそれは新しく、その福音を必要とする罪深い人類の歴史が続いていくことを思う時に、どうぞこの教会を守り、育て、励まし、どうかその福音を述べ伝えていく教会でありますように、心からお祈りいたします。
あなたは主であられ、そして永遠に生きていて下さいますから、私たちはそのことを信じていますけれども、色々な歴史的な過程の中で、どうぞ心強くどんなときにもこの復活のイエス様の希望を人々に伝える務めに励み、どうかこの教会が育ち、またその使命感を持ち続けていくことが出来ますように。私たちの周りの人々にその務めを果たす者として、歩めますように。
この試練が本当に私たちの希望となり、いつも務めとして新しく更新させられて私たちの希望として持ち続けられていきますように。どうぞ主イエス様が、教会員一人ひとりの現実に隣人として伴っておられることを忘れずに、かえって強められてこの困難を乗り越えて、この教会が新しくされる時でありますように。
今日このような形で行われる礼拝にも、復活節の礼拝を行えたことを深く感謝いたします。私たち自身が本当に復活の信仰を希望として、これからの生涯を生きていくことが出来ますように、祈るべきことは沢山ありますけれども、この大切な祈りをイエス様のお名前を通して御前にお捧げいたします。
アーメン
礼拝(上)
礼拝(下)
祝会(上)
祝会(下)
2020年4月11日土曜日
イースター礼拝(4月12日)予告
2020年4月10日金曜日
イースター礼拝(4月12日)予告
2020年4月5日日曜日
十字架への道(2020年4月5日 礼拝宣教)
ヨハネによる福音書18章28~40節
関口 康
「わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」
おはようございます。今日の礼拝に付ける名前をどうするかで悩みました「各自自宅礼拝」と週報に書きました。意味が分かるようで分かりません。いま世界で起こっている未曾有の事態に対してひとつの意思表示をしたいと願って付けた名前です。
今日の礼拝は「休会」ではありません。わたしたちは、いま礼拝を行っています。今日の礼拝は「開会」されています。
イエス・キリストが死者の中からよみがえられた週の初めの日としての日曜日を「主の日」と聖書が呼び、世の終わりまでその日をキリスト教安息日(Christian Sabbath)として守り続けることは教会の本質に属することであり、状況に応じてどうにでもなるという次元の事柄ではありません。
そして、安息日の本質は、神を礼拝することにおいて「魂の」安息を得ることです。その意味での安息を得るために、教会は主の日毎に目に見える形ある礼拝を行ってきました。
それは教会の歴史的な伝統でもあります。しかし、それだけではなく、「神が」命じておられることであると信じているからこそ、わたしたちは万難を排して、たとえどんなことがあっても、主の日ごとの礼拝を守ってきました。
しかし、そのことと、だからといって教会に属する者たちは、たとえ病気で苦しんでいるときも、死の恐怖と直面する事態の中にあるようなときも、体を打ち叩き、心を奮い立たせて、教会の礼拝堂というこの建物に必ず集まって、定例集会としての主日公同礼拝に、何がなんでも出席しなければならないというようなことを言い出すこととは、全く別問題です。
そのようなことを要求する教会がもしあるとしたら、イエス・キリストがお語りになった大切な言葉を忘れています。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。だから、人の子は安息日の主でもある」(マルコによる福音書2章27節~28節)と、イエスさまがはっきりおっしゃいました。
「安息日の主でもある人の子」であられるイエス・キリストが、病で苦しむ人々と共に、死の恐怖に直面している人々と共に必ずいてくださるということを、その人々にはっきり分かるように伝える責任が、イエス・キリストの教会にあります。
それでは、今日、2020年4月5日の東京に位置するイエス・キリストの教会の取るべき姿勢は何なのかということを、わたしたちは考えざるをえません。少しも大げさでなく、全人類がいま死の恐怖の前に立たされています。全人類のだれもいまだに治療法を知らない感染症の病原が、わたしたちのすぐ近くに迫っています。
今日、教会の礼拝堂に集まっていない人々は、礼拝をサボっているわけではありません。少しも大げさでなくわたしたちは、各自のいま考えうる最良の避難所に避難している状態です。それが「自宅」です。その意味で「各自自宅礼拝」です。
そして、牧師である私にとっての「自宅」は、牧師館がある「教会」です。だから、私は教会が自宅だから、教会で礼拝をしています。しかしだからといって、私がいまささげている礼拝は、たとえ牧師がひとりでささげる礼拝であっても、教会堂の建物の中で行えば、それが礼拝であるという意味を持つものではありません。
そして私は、私の避難所である教会でひとりで礼拝をささげている様子を録画して、インターネットで公開しようとしています。しかし、だからといって私はこれを「インターネット礼拝」であると考えていません。
私は「インターネット礼拝」というのに反対なのです。インターネットが苦手な方やアクセスするためのパソコンやプロバイダに支払う費用を捻出することに経済的な困難を覚えている方を切り捨てることになると思っています。「今はみんなで集まることができないのでインターネット礼拝をいたしましょう」というようなすっきりした三段論法に乗せられることに対して強い警戒心がある、とても飲み込みが悪い人間です。
ですから、この際はっきり言っておきます。私が今しているのは「インターネット礼拝」ではありません。私の「自宅」である教会で、私がひとりでささげている「私の各自自宅礼拝」を録画して公開しようとしているにすぎません。
先ほど朗読した聖書の箇所は、いつもしているのと同じように、日本キリスト教団の聖書日課に従って選んだ箇所です。ヨハネによる福音書18章28節から40節まで(新共同訳 新約聖書205ページ)です。
わたしたちの救い主イエス・キリストが十字架にかけられる前の夜、十二人の弟子たちと共に「最後の晩餐」を囲まれ、その後ゲツセマネの園で弟子たちと共に祈りをささげられたのち逮捕され、祭司長たちと最高法院の議員たちのもとに連行されて裁判をお受けになり、さらにそののちローマ総督ポンティオ・ピラトのもとにも連行されて、ピラトの尋問をお受けになるその場面です。
イエスさまは、祭司長たちと最高法院の議員たちのところでは、何を尋ねられてもほとんど何もお答えになりませんでしたが、「あなたはメシアなのか」と尋ねられたときだけ「それはあなたが言ったことです」とお答えになりました。しかし、イエスさまのお答えに「わたしはメシアではない」と、そのこと自体を否定する意味はなく、むしろ肯定されました。
今日の箇所に出てくるピラトのところでも、イエスさまは同じ態度を貫かれました。ピラトがイエスさまに「お前がユダヤ人の王なのか」(33節)と問うたとき、イエスさまは「あなたは自分の考えで、そう言うのですか。それとも、ほかの者がわたしについて、あなたにそう言ったのですか」(34節)と答えておられます。
そしてそのうえで、イエスさまは「わたしの国は、この世には属していない」(36節)とお答えになりました。するとピラトが「それでは、やはり王なのか」(37節)と問うてきましたが、イエスさまは「わたしが王だとは、あなたが言っていることです。わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た」(37節)とお答えになりました。
難しいといえば難しい、なんだかよく分からないやりとりではあります。しかし、イエスさまの意図は明確です。「そもそも国とは何か」という果てしなく大きな問題が背後にあります。
国と国を隔てる国境は、だれがどのようにして決めたのか。その国のリーダーである王、ないし同等の立場にある人は、何の権限でみずから王の名をなのり、実力を行使するのか。このようなことをいろいろ考えなくては「国とは何か、王とは何か」という問いかけに答えることはできません。
イエスさまはユダヤを武力で支配していた王たちと同じ意味での「王」ではありませんでした。ユダヤを支配下に置くローマ帝国の王たちと同じ意味の「王」でもありませんでした。しかし、だからといってイエスさまは、ご自身が「王」であることを否定しておられません。
「それでは、やはり王なのか」というピラトの問いかけに対して、「わたしは真理について証しするために生まれ、そのためにこの世に来た」とお答えになったのは、ご自身が「王」であることを否定する意味ではなく、地上ではなく天におられる世界の創造者である神のひとりごとしてお生まれになった、神の真理を世界に示す「王の王」(King of kings)であるということを明確に示されたのです。言葉を濁してわけの分からないことをおっしゃったわけではありません。
そうでないからこそ、このイエスさまの答えは当時の権力者たちを怒らせるまさに直接の原因になり、十字架につけられる理由になりました。イエスさまが自分はメシアであるとしたことと、そして安息日論争は、イエスさまを十字架にかけるに値する冒とく罪を犯したと告発された原因そのものでした。そうであることをイエスさまは分かっておられました。ご自分がメシアであり、王の王であるという真理をはっきり示されることにおいてイエスさまは十字架につけられました。
そのようなイエスさまのお姿に「なんてばかなことを」と、わたしたちは思いません。世界と国の支配的立場にある人々のすべてがおかしいとまでは、私は思いません。しかし、あまりにもおかしなことばかり言い、うそとごまかしを押し通し、人々を助けるどころか犠牲にし、ひどい目にあわせる支配者が、わたしたちの眼前にいると感じるとき、十字架につけられたイエスさまのお姿のほうに、むしろ魂の平安を見出します。「なんてまっすぐな方だろう」と。
そして、そのようなイエスさまと共に生きていこうとするとき、この地上の人生にもまだ希望があると感じることができます。うそとごまかしだけで世界が成り立っているわけではないことが分かるからです。
今日の礼拝をこのような形にしたのは、政府の要請に従ったのではありません。社会の要請でもないし、医者や専門家の要請でもありません。そうすることが必ず間違っていると言いたいのではありません。そうではなく、「だれに従うのか」という問いは、教会の本質ないし存在理由にかかわることだと申し上げています。
イエス・キリストの教会が従うのは、イエス・キリストだけです。その結果として、国や社会の要請と合致する場合ももちろんありますし、そうであることを願うばかりです。教会が伝道というわざを行うのは、教会に集まる人が増えればいいというような勢力拡張の意図からするのではなく、イエス・キリストにおいて示された真理を多くの人々と共有できる社会や国になりますように、という願いがあるからです。
ですから、わたしたちは、今日は各自の自宅で礼拝をささげています。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」とおっしゃった安息日の主イエス・キリストの要請に従って、全人類を脅かす死に至る病から身を守るために、各自の自宅に避難しています。
今日の礼拝は「休会」ではありません。学校でたとえれば、「保健室登校」や「出席停止」です。それは欠席にはなりません。その趣旨をご理解いただきたいと願っています。
(2020年4月5日、日本キリスト教団昭島教会 主日礼拝)
2020年4月3日金曜日
【謹告】昭島教会と共に歩んでくださっている皆様へ
| 日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-5) |
昭島教会と共に歩んでくださっている皆様へ
主イエス・キリストの聖なる御名を賛美いたします。
いつも昭島教会のためにお祈りいただき、ありがとうございます。
本教会は、新型コロナウィルス感染防止対策として、4月5日(日)主日礼拝につきましては、教会に集まってくださった方がおられた場合は、玄関で週報をお渡しし、そのままお帰りいただく形をとることにしました。
礼拝でお祈りするのは牧師だけです。皆様はどうかご自宅でお祈りください。
また、毎週木曜日の「聖書に学び祈る会」も、新型コロナウィルス感染の危険が去るまで休会することにいたします。
今後のことにつきましても、当ホームページ(http://akishimakyokai.blogspot.com/)
で情報を公開いたしますので、URLをご登録いただき、ご活用いただきたくお願いいたします。
質問やご意見は、教会メールアドレス(akishimakyokai@gmail.com)にお送りくだされば、牧師がお応えいたします。
いずれにしましても、決してご無理のないよう、ご自宅でお過ごしになることを願っています。
なお、専門家の貴重なご意見をいただきましたので、以下、ご紹介いたします。
(1)マスクの着用は正しく行ってください。「マスクはしっかりつける、近くでお話ししない」等のルールは、しっかり伝えて、もしできていないような場面を見たら、その場できちんと「やさしく」注意してくださいね。
(2)手洗いをしっかり行い、各自が清潔なハンカチで拭いてください。タオルの共用は絶対ダメです。
(3)なるべく使い捨てのペーパーを使ってください。ペーパータオルの入手が難しいので、テッシュペーパーでも構いません。個人のハンカチが汚染されていたら、意味がありませんので。
(4)ドアノブ、手すり等の消毒も徹底して行ってください。
【参考】消毒薬の作り方(動画)
以上、ご理解・ご協力のほど、なにとぞどうかよろしくお願いいたします。
2020年4月3日
日本キリスト教団昭島教会
主任牧師 関口 康
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