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讃美歌集

讃美歌21(日本基督教団出版局 1997年)

礼拝 招き

6番「つくりぬしを賛美します」(讃美歌79番)

礼拝 讃美・感謝

7番「ほめたたえよ、力強き主を」(讃美歌9番)

朝夕の歌

211番「あさかぜしずかにふきて」(讃美歌30番)

教会暦 待降・再臨・アドヴェント

231番「久しく待ちにし」(讃美歌94番)

教会暦 降誕・クリスマス

261番「もろびとこぞりて」(讃美歌112番)

262番「聞け、天使の歌」(讃美歌98番)

教会暦 イエス・キリストの生涯

280番「馬槽のなかに」(讃美歌121番)

287番「ナザレの村里」(讃美歌272番)

289番「みどりもふかき」(讃美歌122番)

教会暦 受難・レント

299番「うつりゆく世にも」(讃美歌139番)

300番「十字架のもとに」(讃美歌262番)

311番「血しおしたたる」(讃美歌136番)

教会暦 復活・イースター

325番「キリスト・イエスは」(讃美歌148番)

326番「地よ、声たかく」(讃美歌154番)

327番「すべての民よ、よろこべ」(讃美歌151番)

328番「ハレルヤ、ハレルヤ」(讃美歌146番)

教会暦 三位一体

351番「聖なる聖なる」(讃美歌66番)

教会暦 神の名・神の支配

356番「インマヌエルの主イエスこそ」(讃美歌161番)

358番「小羊をばほめたたえよ!」(讃美歌164番)

神の民としての教会

390番「主は教会の基となり」(讃美歌191番)

一致・革新・連帯

411番「うたがい迷いの」(讃美歌385番)

412番「昔 主イエスの」(讃美歌234番)

神の招きと応答

436番「十字架の血に」(讃美歌515番)

信頼

459番「飼い主わが主よ」(讃美歌354番)

希望

474番「わが身の望みは」(讃美歌280番)

476番「あめなるよろこび」(讃美歌第二編150番)

祈り

494番「ガリラヤの風」(讃美歌228番)

聖別と献身

510番「主よ、終わりまで」(讃美歌338番)

讃美歌(日本基督教団出版局 1954年)

主イエス・キリスト 降誕

100番「生けるものすべて」(讃美歌21 255番)

500番「みたまなるきよきかみ」

讃美歌第二編(日本基督教団出版局 1967年)

26番「ちいさなかごに」

56番「主はその群れを」(曲:ヘンデル「メサイア」より)

152番「古いものはみな」(曲:グリーンスリーブス)

昭島教会讃美歌集

「善きちからにわれ囲まれ」(詞:ボンヘッファー 曲:堀辺正樹)

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感謝の言葉(2024年2月25日)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13) 讃美歌21 436番 十字架の血に 礼拝開始チャイム 週報電子版ダウンロード 宣教要旨ダウンロード 「感謝の言葉」   フィリピの信徒への手紙4章10~20節  関口 康   「物欲しさにこう言っているのではありません。わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです。」  今日朗読していただいたのは先々週2月11日にお話しする予定だった聖書箇所です。それは、日本キリスト教団の聖書日課『日毎の糧』で2月11日の朗読箇所として今日の箇所が定められていたからです。しかし、このたび2月末で私が昭島教会主任担任教師を辞任することになりましたので、そのような機会に今日の箇所についてお話しすることはふさわしいと感じていました。 ところが、全く予想できなかったことですが、1月半ばから私の左足が蜂窩織炎を患い、2月11日の礼拝も私は欠席し、秋場治憲先生に説教を交代していただきましたので、今日の箇所を取り上げる順序を変えました。昭島教会での最後の説教のテキストにすることにしました。 今日の箇所でパウロが取り上げているテーマは新共同訳聖書の小見出しのとおり「贈り物への感謝」です。パウロは「使徒」です。しかし、彼の任務はイエス・キリストの福音を宣べ伝えること、新しい教会を生み出すこと、そしてすでに生まれている教会を職務的な立場から霊的に養い育てることです。現代の教会で「牧師」がしていることと本質的に変わりません。なかでも「使徒」と「牧師」の共通点の大事なひとつは、教会員の献金でその活動と生活が支えられているという点です。 パウロが「使徒」であることとは別に「職業」を持っていたことは比較的よく知られています。根拠は使徒言行録18章1節以下です。パウロがギリシアのアテネからコリントに移り住んだときコリントに住んでいたアキラとプリスキラというキリスト者夫妻の家に住み、彼らと一緒にテント造りの仕事をしたことが記され、そこに「(パウロの)職業はテント造り」だった(同18章3節)と書かれているとおりです。現代の教会で「牧師たちも副業を持つべきだ」と言われるときの根拠にされがちです。 しかし、この点だけが強調して言われますと、それではいったい、パウロにとって、使徒にとって、そして現...

立ち上がれ(2024年2月18日)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13) 礼拝開始チャイム 週報電子版ダウンロード 宣教要旨ダウンロード 「立ち上がれ」 エフェソの信徒への手紙 5章 6~13節 関口 康 「眠りについている者、起きよ。死者の中から立ち上がれ。そうすれば、キリストはあなたを照らされる。」 今日の箇所の中心的な言葉は「光の子として歩みなさい」(8節)です。直前に「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています」と記されています。この箇所で描かれているのは、キリスト者の教会生活の始まる“前”と“後”の違いです。「光の子」は教会生活を営むキリスト者であり、その反対の「闇の子」はそうでない人々です。ただしこの描き方には人の心を傷つける要素があります。今の説明が間違っているという意味ではありませんが、慎重な配慮を要する箇所であることは間違いありません。 「むなしい言葉に惑わされてはなりません」(6節)、また「彼らの仲間に引き入れられないようにしなさい」(8節)とあります。文脈上は明らかに、教会の外にいる人々が「むなしい言葉」を語っているので、その仲間に加わらないでくださいという意味です。しかし、そのように言えば、強い反発が返ってくるでしょう。「教会は、なんと鼻持ちならない人々か。自分たちだけが正しく、他のすべての人が間違っているかのように言う」。この批判には真摯に耳を傾ける必要があります。 別の見方ができなくはありません。それは、「光の子」と「闇の子」を区別することと、教会に属するか属さないかは無関係である、という見方です。日本では「無教会」の方々は、いま申し上げた立場をお採りになります。しかし、その方法では問題は解決しません。少なくとも今日の箇所で言われている「光の子」は「教会の交わり」から離れては存在しません。 ただし、その場合の「教会」の意味は場所や建物ではありません。神の言葉が語られ、聞かれ、神の御子イエス・キリストの十字架の贖いの福音を共に信じ、互いに助け合い、さらに聖餐式や愛餐会を通して共に食卓を囲む信徒同士の交わりこそが「教会の交わり」です。 特に最後に挙げた聖餐式と愛餐会は、教会の最も“物理的な”要素です。一例だけ挙げます。今もコロナ禍が完全に収束していると考えている方はおられないと思いますが、とらえ方は多様でしょう。最もひどい状態...

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2021年9月23日(木) 昭島教会を代表して関口康牧師と滝澤操一兄が日本キリスト教団隠退教職ホーム「にじのいえ信愛荘」(東京都青梅市)を訪問し、以前昭島教会で牧師としてお働きくださった2組の牧師ご夫妻を訪問しました。共同生活を営む隠退教職の方々の健康と安全が守られるようお祈りください。 にじのいえ信愛荘にて(動画) みんなで寄せ書きした色紙と花束 教会の上空はおおむね好天。暑い 青梅マラソンスタート地点を通過 にじのいえ信愛荘に到着 鈴木正三先生、鈴木信子姉と 滝澤操一さんと鈴木先生ご夫妻 長山恒夫先生、長山篤子姉ご夫妻と にじのいえ信愛荘の近くを散策 帰り道に多摩川の清流のほとりまで ままごと屋(青梅線沢井駅すぐ)で食事 多摩川を渡るつり橋の前で 鮎釣りの方ががんばっておられた 青梅市のまちおこし「レトロ映画看板」