各自自宅でみんなの心をひとつにして歌えるように、昭島教会オルガニストの長井志保乃さんが「あめにはみつかい」(旧讃美歌158)をピアノで演奏してくださいました。ベートーヴェンの「第九」です。長井さん、ありがとうございます!
2020年4月28日火曜日
2020年4月26日日曜日
復活顕現(2)(2020年4月26日 礼拝宣教)
今日の礼拝も「各自自宅礼拝」です。今日の聖書箇所(ヨハネによる福音書21章1節から14節まで)に基づく宣教の文章を牧師のブログで公開しました。下の礼拝堂の画像をクリックするとお読みいただけます。みなさまどうか健康と安全にご留意ください。
宣教の文章のPDF版もダウンロードできます。ここをクリックしてください
宣教の文章のPDF版もダウンロードできます。ここをクリックしてください
| この(↑)画像をクリックすると牧師の「説教」ブログにジャンプします |
2020年4月22日水曜日
2020年4月21日火曜日
ピアノ演奏「月光ソナタ第一楽章」富栄徳さん
昭島教会の富栄徳さんが、今の閉塞感が緩まることを願って、心をこめて演奏してくださった「月光ソナタ第一楽章」の動画を公開いたします。富栄さん、ありがとうございます!
2020年4月19日日曜日
復活顕現(1)(2020年4月19日 礼拝宣教)
今日の礼拝も「各自自宅礼拝」です。今日の聖書箇所(ヨハネによる福音書20章19節から31節まで)に基づく宣教の文章を牧師のブログで公開しました。下の礼拝堂の画像をクリックするとお読みいただけます。みなさまどうか健康と安全にご留意ください。
宣教の文章のPDF版もダウンロードできます。ここをクリックしてください
宣教の文章のPDF版もダウンロードできます。ここをクリックしてください
![]() |
| この(↑)画像をクリックすると牧師の「説教」ブログにジャンプします |
2020年4月16日木曜日
2020年4月12日日曜日
復活節の喜び(2020年4月12日 イースター礼拝宣教)
ヨハネによる福音書 20 章 1 節~18 節
石川献之助
今日は 2020 年のイースターの復活節の記念の聖日であります。
私はこの日をどんなに大切に思っているか。私は小さい時から教会の牧師である父と、ま
たその生き方に共鳴してその助け手となった母の間で育ち、「献之助」という名前をつけられて、自分が選択をするよりも両親の信仰に基づいて、あるいはその信仰を通して私の生涯をこの福音の宣教の務めに生きる教会の働きに生涯を捧げる者として、その名前を付けてくださったそういう命運のもとに、今年92 歳という長い生涯を、ただそのひとつの方向に生きてまいりました、福音の宣教を託されている者であります。
この昭島教会は、私に託された主の命令に基づいた、あるいは恩恵にもとづいた務めでありますけれども、すでに高齢ゆえ不自由な体でありまして、教会の役割を進んで担ってくださる昭島教会の役員の方々のみならず、後任の伝道者としての務めを引き受けてくださった関口先生のその業によって補われながら今を歩んでおります。
すでに皆様のお手元に郵送された週報の 2 ページの上の右のほうに 「3511 号」と書かれております。なんと戦後の日本の、散々に戦争で痛めつけられた昭島の地で、本当にこの世に生きていく生活の困難を背負っている昭島の市民の方々に福音を述べ伝え、生きる希望と、そして福音によってもたらされる永遠の命の希望を述べ伝えるために、私は弱冠 25 歳でこの昭島の地において開拓伝道の業を始めました。実にそれから 67 年の時を経て、この 3511 回目の礼拝でお話を委ねられている者であります。
そしてこの復活節というものは、私どもの救い主イエスキリストの三十有余年の御生涯の最後、実に世界の罪深い者の、全ての者の救いのために、十字架にかけられて遂げたその尊い死の後、三日目にそのイエスが甦られたことを記念する日であると聖書にしるされております。
そのテキストに基づいて、この復活の出来事を伝えるそのような記録は世界でも他にはないわけでありますから、本当にその事実を伝える知らせとして、最初の事をしるしたヨハネによる福音書の 20 章1節以下の記録を心に留めたいと思います。そして、その知らせは 2000 年余り経ちました、2020 年の今も私たちのもとに届けられているのであります。
これは本当に尊い知らせだと思います。この知らせに基づいて、私どもの信ずる主イエス・キリストが十字架の上において死なれたはずのそのイエス・キリストが、三日目に甦ってしかも最初に己をあらわされたその主イエス・キリストのそのような記録が書かれているわけであります。
そしてそれは、普通は長い時の経過が全てをぬりかえてしまうはずでありますが、でも変わらずに、永遠の命を私たちに約束されたイエス・キリストは、十字架の死を経て三日目に甦られた「甦りのイエス」にかわられた、イエスについて記念をすることを心に深く銘記して、新しい命に生きるそのような神の最も偉大なる御業について、私たちは神に感謝しその信仰を新しくする日として、世界中でこのイースターの日を中心に、この安息日の日曜日の礼拝をおこなっているわけであります。
本当にこのことは私たちの良識を越えたことでありまして、信仰によって聖霊の導きのもとにそのことを認識させられたときに、人間として創られ、生まれ、そして生きてきた人間は、そこに希望を、永遠の命の希望を告げられて、そしてこの日、感謝と喜びの内に礼拝を行っているのであります。
このことを告げたヨハネによる福音書の 20 章の始めに、キリストの御言葉の中で最初に弟子たちにイエス・キリストが己を復活の御姿をもって、再び愛の方として私どもの救い主としてご自身をお示しになったこの箇所を心に留めることこそ、イースターの礼拝の中心であるということを覚えていきたいと思います。それでこの礼拝においては、ヨハネによる福音書の 20 章の1節から18 節までの御言葉が今読まれたわけであります。
そして私はこのことを毎年このイースター礼拝の度に心に留めたわけでありますが、今日はこの礼拝において、この教会を中心にあつまっている兄弟姉妹は、新型コロナウイルスの世界的な脅威にさらされているこの地球の上での、人類の歴史上初めてという試練の中に置かれ、私たちは集まることの危険ゆえ、為政者の意向に従って霧散して、私たちの教会ではそれぞれの置かれている場所でひとり祈ることによってこの復活節の主日礼拝を執りおこなうことを皆さんにお知らせしました。
そして今、形は違っても復活節の喜びを分かち合うという、讃美と感謝と喜びの信仰を更新する、そういう礼拝を守っているわけであります。
私たちはそのことを忘れることなどありません。そしてその信仰に生きている兄弟姉妹たちが全世界で、ある報告によれば 20 億という多数の人々がその信仰に生きているわけであります。
イエス様は復活されて生きて私たちと共にある、私たちの歴史を共に生きていて下さるということを新たに知らしめられる、そういう希望の日であるということをもう一度思い起こす、そういう日であるということを新たに皆さんと一緒に心に留めたいと思う次第であります。このイースターの理解と喜びとは、時の経過によって増し加えられることさえあれ、決して薄れることはないと思います。
私は過日イースター礼拝で引用した具体的な例をひとつ挙げて、そのことを新たにしたいと思うのであります。一度人間としてこの世の歴史の中に生まれてきた私たち一人ひとりでありますけど、一度生まれ、そしてその命は私たちの目に見えないたくさんの罪の結果として、必ず神様の厳しい裁きのもとに人類は希望を失っていくわけでありますが、そこに救い主としてのイエス様が遣わされ、そして全ての人々の罪の許しを十字架にかかり、達成されたのであります。
それで日本の現実の中におかれている、そのような希望の無い人々の救いのために、その周辺の人々に声をかけて、特に 2500 名のお医者さんと看護師の方々が集まる前でその限りある人生を望みなく終わっていくそういう人類の救いのために復活のイエス様の希望が与えられているということについて、研究会において報告されたお話です。
沢山の人々が地上の命を終えて亡くなっていく愛する者の死は、なおとても耐えがたいものであります。そしてイエス様によって信仰を与えられた私たちも同じような命運のもとにあるわけですが、イエスキリストによって永遠の命の希望を与えられることによって、この世の生活を積極的にあるいは喜びに希望に満たされてそして生きていく、そういう者がそれでも命の終わりの時を持つわけであります。
けれどもその中で、ある親子のお別れの言葉を紹介したいと思います。それはお父さんが臨終の時が来たことを悟って、はっきりと小さな声ではあるけれども「いってくるね」といって亡くなったということです。そして娘さんの方は「いってらっしゃい」と答える臨終の光景が紹介されていたのであります。
この紹介された家庭は、クリスチャンとして復活の信仰を与えられていた人たちでありましたから、亡くなるお父さんは「いってくるね」と言い、そして娘さんは「いってらっしゃい」と言う。しっかりとしたごく自然な言葉を遺して終わりの時を迎えた。この報告は多くの人を感動させました。
今、私たちは、新型のコロナウイルスの世界的な宇宙的な感染拡大の報道のもとに人類の将来を心配しています。けれども、この言葉を通してイエス様が与えて下さった永遠の命の希望は、本当に全ての人に希望を与えるものであるということを深く教えられました。
同じ信仰に生きている、またその復活の事実を聖書を通して教えられている、その中に、希望を持っている私たちは、そのように自分の人生を送り、また愛する家族の死を看取り、隣人として生きているたくさんの人々にこの福音を述べ伝えていくことの大切さを深く教えられた次第です。
私たちはいつものように教会に集まって、恵みの時を持つことは出来ません。けれどもこうして分散してコロナウイルスに負けないように、自宅で礼拝を守っています。
週報の中に今日与えられた聖句として、「弟子たちは主を見て喜んだ」とあります。十字架にかかって亡くなったはずの主イエスキリストが生きていらっしゃる、その復活の姿を見て喜んだという、これは事実の報告でありまして、私たちもこの言葉を改めて日々の人生の希望として、イエス様に感謝して、イエス様と共にこの復活の信仰を新しく日々の力として、命として、この年も生きていきたいと深く思わされた次第です。
それでは一言お祈りをいたします。
天の父なる神様 あなたがこの 僕しもべに、昭島市を中心とした戦争に希望をくじかれた日本の一角の地に、死によって貧しくなり、希望を失い彷徨っている人々にこのイエスキリストの復活の希望の福音を述べ伝えるという務めを与えられて、67 年という歳月が経ちました。
あなたはこの宣教の務めは何年経ってもそれは新しく、その福音を必要とする罪深い人類の歴史が続いていくことを思う時に、どうぞこの教会を守り、育て、励まし、どうかその福音を述べ伝えていく教会でありますように、心からお祈りいたします。
あなたは主であられ、そして永遠に生きていて下さいますから、私たちはそのことを信じていますけれども、色々な歴史的な過程の中で、どうぞ心強くどんなときにもこの復活のイエス様の希望を人々に伝える務めに励み、どうかこの教会が育ち、またその使命感を持ち続けていくことが出来ますように。私たちの周りの人々にその務めを果たす者として、歩めますように。
この試練が本当に私たちの希望となり、いつも務めとして新しく更新させられて私たちの希望として持ち続けられていきますように。どうぞ主イエス様が、教会員一人ひとりの現実に隣人として伴っておられることを忘れずに、かえって強められてこの困難を乗り越えて、この教会が新しくされる時でありますように。
今日このような形で行われる礼拝にも、復活節の礼拝を行えたことを深く感謝いたします。私たち自身が本当に復活の信仰を希望として、これからの生涯を生きていくことが出来ますように、祈るべきことは沢山ありますけれども、この大切な祈りをイエス様のお名前を通して御前にお捧げいたします。
アーメン
礼拝(上)
礼拝(下)
祝会(上)
祝会(下)
石川献之助
今日は 2020 年のイースターの復活節の記念の聖日であります。
私はこの日をどんなに大切に思っているか。私は小さい時から教会の牧師である父と、ま
たその生き方に共鳴してその助け手となった母の間で育ち、「献之助」という名前をつけられて、自分が選択をするよりも両親の信仰に基づいて、あるいはその信仰を通して私の生涯をこの福音の宣教の務めに生きる教会の働きに生涯を捧げる者として、その名前を付けてくださったそういう命運のもとに、今年92 歳という長い生涯を、ただそのひとつの方向に生きてまいりました、福音の宣教を託されている者であります。
この昭島教会は、私に託された主の命令に基づいた、あるいは恩恵にもとづいた務めでありますけれども、すでに高齢ゆえ不自由な体でありまして、教会の役割を進んで担ってくださる昭島教会の役員の方々のみならず、後任の伝道者としての務めを引き受けてくださった関口先生のその業によって補われながら今を歩んでおります。
すでに皆様のお手元に郵送された週報の 2 ページの上の右のほうに 「3511 号」と書かれております。なんと戦後の日本の、散々に戦争で痛めつけられた昭島の地で、本当にこの世に生きていく生活の困難を背負っている昭島の市民の方々に福音を述べ伝え、生きる希望と、そして福音によってもたらされる永遠の命の希望を述べ伝えるために、私は弱冠 25 歳でこの昭島の地において開拓伝道の業を始めました。実にそれから 67 年の時を経て、この 3511 回目の礼拝でお話を委ねられている者であります。
そしてこの復活節というものは、私どもの救い主イエスキリストの三十有余年の御生涯の最後、実に世界の罪深い者の、全ての者の救いのために、十字架にかけられて遂げたその尊い死の後、三日目にそのイエスが甦られたことを記念する日であると聖書にしるされております。
そのテキストに基づいて、この復活の出来事を伝えるそのような記録は世界でも他にはないわけでありますから、本当にその事実を伝える知らせとして、最初の事をしるしたヨハネによる福音書の 20 章1節以下の記録を心に留めたいと思います。そして、その知らせは 2000 年余り経ちました、2020 年の今も私たちのもとに届けられているのであります。
これは本当に尊い知らせだと思います。この知らせに基づいて、私どもの信ずる主イエス・キリストが十字架の上において死なれたはずのそのイエス・キリストが、三日目に甦ってしかも最初に己をあらわされたその主イエス・キリストのそのような記録が書かれているわけであります。
そしてそれは、普通は長い時の経過が全てをぬりかえてしまうはずでありますが、でも変わらずに、永遠の命を私たちに約束されたイエス・キリストは、十字架の死を経て三日目に甦られた「甦りのイエス」にかわられた、イエスについて記念をすることを心に深く銘記して、新しい命に生きるそのような神の最も偉大なる御業について、私たちは神に感謝しその信仰を新しくする日として、世界中でこのイースターの日を中心に、この安息日の日曜日の礼拝をおこなっているわけであります。
本当にこのことは私たちの良識を越えたことでありまして、信仰によって聖霊の導きのもとにそのことを認識させられたときに、人間として創られ、生まれ、そして生きてきた人間は、そこに希望を、永遠の命の希望を告げられて、そしてこの日、感謝と喜びの内に礼拝を行っているのであります。
このことを告げたヨハネによる福音書の 20 章の始めに、キリストの御言葉の中で最初に弟子たちにイエス・キリストが己を復活の御姿をもって、再び愛の方として私どもの救い主としてご自身をお示しになったこの箇所を心に留めることこそ、イースターの礼拝の中心であるということを覚えていきたいと思います。それでこの礼拝においては、ヨハネによる福音書の 20 章の1節から18 節までの御言葉が今読まれたわけであります。
そして私はこのことを毎年このイースター礼拝の度に心に留めたわけでありますが、今日はこの礼拝において、この教会を中心にあつまっている兄弟姉妹は、新型コロナウイルスの世界的な脅威にさらされているこの地球の上での、人類の歴史上初めてという試練の中に置かれ、私たちは集まることの危険ゆえ、為政者の意向に従って霧散して、私たちの教会ではそれぞれの置かれている場所でひとり祈ることによってこの復活節の主日礼拝を執りおこなうことを皆さんにお知らせしました。
そして今、形は違っても復活節の喜びを分かち合うという、讃美と感謝と喜びの信仰を更新する、そういう礼拝を守っているわけであります。
私たちはそのことを忘れることなどありません。そしてその信仰に生きている兄弟姉妹たちが全世界で、ある報告によれば 20 億という多数の人々がその信仰に生きているわけであります。
イエス様は復活されて生きて私たちと共にある、私たちの歴史を共に生きていて下さるということを新たに知らしめられる、そういう希望の日であるということをもう一度思い起こす、そういう日であるということを新たに皆さんと一緒に心に留めたいと思う次第であります。このイースターの理解と喜びとは、時の経過によって増し加えられることさえあれ、決して薄れることはないと思います。
私は過日イースター礼拝で引用した具体的な例をひとつ挙げて、そのことを新たにしたいと思うのであります。一度人間としてこの世の歴史の中に生まれてきた私たち一人ひとりでありますけど、一度生まれ、そしてその命は私たちの目に見えないたくさんの罪の結果として、必ず神様の厳しい裁きのもとに人類は希望を失っていくわけでありますが、そこに救い主としてのイエス様が遣わされ、そして全ての人々の罪の許しを十字架にかかり、達成されたのであります。
それで日本の現実の中におかれている、そのような希望の無い人々の救いのために、その周辺の人々に声をかけて、特に 2500 名のお医者さんと看護師の方々が集まる前でその限りある人生を望みなく終わっていくそういう人類の救いのために復活のイエス様の希望が与えられているということについて、研究会において報告されたお話です。
沢山の人々が地上の命を終えて亡くなっていく愛する者の死は、なおとても耐えがたいものであります。そしてイエス様によって信仰を与えられた私たちも同じような命運のもとにあるわけですが、イエスキリストによって永遠の命の希望を与えられることによって、この世の生活を積極的にあるいは喜びに希望に満たされてそして生きていく、そういう者がそれでも命の終わりの時を持つわけであります。
けれどもその中で、ある親子のお別れの言葉を紹介したいと思います。それはお父さんが臨終の時が来たことを悟って、はっきりと小さな声ではあるけれども「いってくるね」といって亡くなったということです。そして娘さんの方は「いってらっしゃい」と答える臨終の光景が紹介されていたのであります。
この紹介された家庭は、クリスチャンとして復活の信仰を与えられていた人たちでありましたから、亡くなるお父さんは「いってくるね」と言い、そして娘さんは「いってらっしゃい」と言う。しっかりとしたごく自然な言葉を遺して終わりの時を迎えた。この報告は多くの人を感動させました。
今、私たちは、新型のコロナウイルスの世界的な宇宙的な感染拡大の報道のもとに人類の将来を心配しています。けれども、この言葉を通してイエス様が与えて下さった永遠の命の希望は、本当に全ての人に希望を与えるものであるということを深く教えられました。
同じ信仰に生きている、またその復活の事実を聖書を通して教えられている、その中に、希望を持っている私たちは、そのように自分の人生を送り、また愛する家族の死を看取り、隣人として生きているたくさんの人々にこの福音を述べ伝えていくことの大切さを深く教えられた次第です。
私たちはいつものように教会に集まって、恵みの時を持つことは出来ません。けれどもこうして分散してコロナウイルスに負けないように、自宅で礼拝を守っています。
週報の中に今日与えられた聖句として、「弟子たちは主を見て喜んだ」とあります。十字架にかかって亡くなったはずの主イエスキリストが生きていらっしゃる、その復活の姿を見て喜んだという、これは事実の報告でありまして、私たちもこの言葉を改めて日々の人生の希望として、イエス様に感謝して、イエス様と共にこの復活の信仰を新しく日々の力として、命として、この年も生きていきたいと深く思わされた次第です。
それでは一言お祈りをいたします。
天の父なる神様 あなたがこの 僕しもべに、昭島市を中心とした戦争に希望をくじかれた日本の一角の地に、死によって貧しくなり、希望を失い彷徨っている人々にこのイエスキリストの復活の希望の福音を述べ伝えるという務めを与えられて、67 年という歳月が経ちました。
あなたはこの宣教の務めは何年経ってもそれは新しく、その福音を必要とする罪深い人類の歴史が続いていくことを思う時に、どうぞこの教会を守り、育て、励まし、どうかその福音を述べ伝えていく教会でありますように、心からお祈りいたします。
あなたは主であられ、そして永遠に生きていて下さいますから、私たちはそのことを信じていますけれども、色々な歴史的な過程の中で、どうぞ心強くどんなときにもこの復活のイエス様の希望を人々に伝える務めに励み、どうかこの教会が育ち、またその使命感を持ち続けていくことが出来ますように。私たちの周りの人々にその務めを果たす者として、歩めますように。
この試練が本当に私たちの希望となり、いつも務めとして新しく更新させられて私たちの希望として持ち続けられていきますように。どうぞ主イエス様が、教会員一人ひとりの現実に隣人として伴っておられることを忘れずに、かえって強められてこの困難を乗り越えて、この教会が新しくされる時でありますように。
今日このような形で行われる礼拝にも、復活節の礼拝を行えたことを深く感謝いたします。私たち自身が本当に復活の信仰を希望として、これからの生涯を生きていくことが出来ますように、祈るべきことは沢山ありますけれども、この大切な祈りをイエス様のお名前を通して御前にお捧げいたします。
アーメン
礼拝(上)
礼拝(下)
祝会(上)
祝会(下)
2020年4月11日土曜日
イースター礼拝(4月12日)予告
2020年4月10日金曜日
イースター礼拝(4月12日)予告
2020年4月5日日曜日
十字架への道(2020年4月5日 礼拝宣教)
ヨハネによる福音書18章28~40節
関口 康
「わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」
おはようございます。今日の礼拝に付ける名前をどうするかで悩みました「各自自宅礼拝」と週報に書きました。意味が分かるようで分かりません。いま世界で起こっている未曾有の事態に対してひとつの意思表示をしたいと願って付けた名前です。
今日の礼拝は「休会」ではありません。わたしたちは、いま礼拝を行っています。今日の礼拝は「開会」されています。
イエス・キリストが死者の中からよみがえられた週の初めの日としての日曜日を「主の日」と聖書が呼び、世の終わりまでその日をキリスト教安息日(Christian Sabbath)として守り続けることは教会の本質に属することであり、状況に応じてどうにでもなるという次元の事柄ではありません。
そして、安息日の本質は、神を礼拝することにおいて「魂の」安息を得ることです。その意味での安息を得るために、教会は主の日毎に目に見える形ある礼拝を行ってきました。
それは教会の歴史的な伝統でもあります。しかし、それだけではなく、「神が」命じておられることであると信じているからこそ、わたしたちは万難を排して、たとえどんなことがあっても、主の日ごとの礼拝を守ってきました。
しかし、そのことと、だからといって教会に属する者たちは、たとえ病気で苦しんでいるときも、死の恐怖と直面する事態の中にあるようなときも、体を打ち叩き、心を奮い立たせて、教会の礼拝堂というこの建物に必ず集まって、定例集会としての主日公同礼拝に、何がなんでも出席しなければならないというようなことを言い出すこととは、全く別問題です。
そのようなことを要求する教会がもしあるとしたら、イエス・キリストがお語りになった大切な言葉を忘れています。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。だから、人の子は安息日の主でもある」(マルコによる福音書2章27節~28節)と、イエスさまがはっきりおっしゃいました。
「安息日の主でもある人の子」であられるイエス・キリストが、病で苦しむ人々と共に、死の恐怖に直面している人々と共に必ずいてくださるということを、その人々にはっきり分かるように伝える責任が、イエス・キリストの教会にあります。
それでは、今日、2020年4月5日の東京に位置するイエス・キリストの教会の取るべき姿勢は何なのかということを、わたしたちは考えざるをえません。少しも大げさでなく、全人類がいま死の恐怖の前に立たされています。全人類のだれもいまだに治療法を知らない感染症の病原が、わたしたちのすぐ近くに迫っています。
今日、教会の礼拝堂に集まっていない人々は、礼拝をサボっているわけではありません。少しも大げさでなくわたしたちは、各自のいま考えうる最良の避難所に避難している状態です。それが「自宅」です。その意味で「各自自宅礼拝」です。
そして、牧師である私にとっての「自宅」は、牧師館がある「教会」です。だから、私は教会が自宅だから、教会で礼拝をしています。しかしだからといって、私がいまささげている礼拝は、たとえ牧師がひとりでささげる礼拝であっても、教会堂の建物の中で行えば、それが礼拝であるという意味を持つものではありません。
そして私は、私の避難所である教会でひとりで礼拝をささげている様子を録画して、インターネットで公開しようとしています。しかし、だからといって私はこれを「インターネット礼拝」であると考えていません。
私は「インターネット礼拝」というのに反対なのです。インターネットが苦手な方やアクセスするためのパソコンやプロバイダに支払う費用を捻出することに経済的な困難を覚えている方を切り捨てることになると思っています。「今はみんなで集まることができないのでインターネット礼拝をいたしましょう」というようなすっきりした三段論法に乗せられることに対して強い警戒心がある、とても飲み込みが悪い人間です。
ですから、この際はっきり言っておきます。私が今しているのは「インターネット礼拝」ではありません。私の「自宅」である教会で、私がひとりでささげている「私の各自自宅礼拝」を録画して公開しようとしているにすぎません。
先ほど朗読した聖書の箇所は、いつもしているのと同じように、日本キリスト教団の聖書日課に従って選んだ箇所です。ヨハネによる福音書18章28節から40節まで(新共同訳 新約聖書205ページ)です。
わたしたちの救い主イエス・キリストが十字架にかけられる前の夜、十二人の弟子たちと共に「最後の晩餐」を囲まれ、その後ゲツセマネの園で弟子たちと共に祈りをささげられたのち逮捕され、祭司長たちと最高法院の議員たちのもとに連行されて裁判をお受けになり、さらにそののちローマ総督ポンティオ・ピラトのもとにも連行されて、ピラトの尋問をお受けになるその場面です。
イエスさまは、祭司長たちと最高法院の議員たちのところでは、何を尋ねられてもほとんど何もお答えになりませんでしたが、「あなたはメシアなのか」と尋ねられたときだけ「それはあなたが言ったことです」とお答えになりました。しかし、イエスさまのお答えに「わたしはメシアではない」と、そのこと自体を否定する意味はなく、むしろ肯定されました。
今日の箇所に出てくるピラトのところでも、イエスさまは同じ態度を貫かれました。ピラトがイエスさまに「お前がユダヤ人の王なのか」(33節)と問うたとき、イエスさまは「あなたは自分の考えで、そう言うのですか。それとも、ほかの者がわたしについて、あなたにそう言ったのですか」(34節)と答えておられます。
そしてそのうえで、イエスさまは「わたしの国は、この世には属していない」(36節)とお答えになりました。するとピラトが「それでは、やはり王なのか」(37節)と問うてきましたが、イエスさまは「わたしが王だとは、あなたが言っていることです。わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た」(37節)とお答えになりました。
難しいといえば難しい、なんだかよく分からないやりとりではあります。しかし、イエスさまの意図は明確です。「そもそも国とは何か」という果てしなく大きな問題が背後にあります。
国と国を隔てる国境は、だれがどのようにして決めたのか。その国のリーダーである王、ないし同等の立場にある人は、何の権限でみずから王の名をなのり、実力を行使するのか。このようなことをいろいろ考えなくては「国とは何か、王とは何か」という問いかけに答えることはできません。
イエスさまはユダヤを武力で支配していた王たちと同じ意味での「王」ではありませんでした。ユダヤを支配下に置くローマ帝国の王たちと同じ意味の「王」でもありませんでした。しかし、だからといってイエスさまは、ご自身が「王」であることを否定しておられません。
「それでは、やはり王なのか」というピラトの問いかけに対して、「わたしは真理について証しするために生まれ、そのためにこの世に来た」とお答えになったのは、ご自身が「王」であることを否定する意味ではなく、地上ではなく天におられる世界の創造者である神のひとりごとしてお生まれになった、神の真理を世界に示す「王の王」(King of kings)であるということを明確に示されたのです。言葉を濁してわけの分からないことをおっしゃったわけではありません。
そうでないからこそ、このイエスさまの答えは当時の権力者たちを怒らせるまさに直接の原因になり、十字架につけられる理由になりました。イエスさまが自分はメシアであるとしたことと、そして安息日論争は、イエスさまを十字架にかけるに値する冒とく罪を犯したと告発された原因そのものでした。そうであることをイエスさまは分かっておられました。ご自分がメシアであり、王の王であるという真理をはっきり示されることにおいてイエスさまは十字架につけられました。
そのようなイエスさまのお姿に「なんてばかなことを」と、わたしたちは思いません。世界と国の支配的立場にある人々のすべてがおかしいとまでは、私は思いません。しかし、あまりにもおかしなことばかり言い、うそとごまかしを押し通し、人々を助けるどころか犠牲にし、ひどい目にあわせる支配者が、わたしたちの眼前にいると感じるとき、十字架につけられたイエスさまのお姿のほうに、むしろ魂の平安を見出します。「なんてまっすぐな方だろう」と。
そして、そのようなイエスさまと共に生きていこうとするとき、この地上の人生にもまだ希望があると感じることができます。うそとごまかしだけで世界が成り立っているわけではないことが分かるからです。
今日の礼拝をこのような形にしたのは、政府の要請に従ったのではありません。社会の要請でもないし、医者や専門家の要請でもありません。そうすることが必ず間違っていると言いたいのではありません。そうではなく、「だれに従うのか」という問いは、教会の本質ないし存在理由にかかわることだと申し上げています。
イエス・キリストの教会が従うのは、イエス・キリストだけです。その結果として、国や社会の要請と合致する場合ももちろんありますし、そうであることを願うばかりです。教会が伝道というわざを行うのは、教会に集まる人が増えればいいというような勢力拡張の意図からするのではなく、イエス・キリストにおいて示された真理を多くの人々と共有できる社会や国になりますように、という願いがあるからです。
ですから、わたしたちは、今日は各自の自宅で礼拝をささげています。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」とおっしゃった安息日の主イエス・キリストの要請に従って、全人類を脅かす死に至る病から身を守るために、各自の自宅に避難しています。
今日の礼拝は「休会」ではありません。学校でたとえれば、「保健室登校」や「出席停止」です。それは欠席にはなりません。その趣旨をご理解いただきたいと願っています。
(2020年4月5日、日本キリスト教団昭島教会 主日礼拝)
2020年4月3日金曜日
【謹告】昭島教会と共に歩んでくださっている皆様へ
| 日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-5) |
昭島教会と共に歩んでくださっている皆様へ
主イエス・キリストの聖なる御名を賛美いたします。
いつも昭島教会のためにお祈りいただき、ありがとうございます。
本教会は、新型コロナウィルス感染防止対策として、4月5日(日)主日礼拝につきましては、教会に集まってくださった方がおられた場合は、玄関で週報をお渡しし、そのままお帰りいただく形をとることにしました。
礼拝でお祈りするのは牧師だけです。皆様はどうかご自宅でお祈りください。
また、毎週木曜日の「聖書に学び祈る会」も、新型コロナウィルス感染の危険が去るまで休会することにいたします。
今後のことにつきましても、当ホームページ(http://akishimakyokai.blogspot.com/)
で情報を公開いたしますので、URLをご登録いただき、ご活用いただきたくお願いいたします。
質問やご意見は、教会メールアドレス(akishimakyokai@gmail.com)にお送りくだされば、牧師がお応えいたします。
いずれにしましても、決してご無理のないよう、ご自宅でお過ごしになることを願っています。
なお、専門家の貴重なご意見をいただきましたので、以下、ご紹介いたします。
(1)マスクの着用は正しく行ってください。「マスクはしっかりつける、近くでお話ししない」等のルールは、しっかり伝えて、もしできていないような場面を見たら、その場できちんと「やさしく」注意してくださいね。
(2)手洗いをしっかり行い、各自が清潔なハンカチで拭いてください。タオルの共用は絶対ダメです。
(3)なるべく使い捨てのペーパーを使ってください。ペーパータオルの入手が難しいので、テッシュペーパーでも構いません。個人のハンカチが汚染されていたら、意味がありませんので。
(4)ドアノブ、手すり等の消毒も徹底して行ってください。
【参考】消毒薬の作り方(動画)
以上、ご理解・ご協力のほど、なにとぞどうかよろしくお願いいたします。
2020年4月3日
日本キリスト教団昭島教会
主任牧師 関口 康
登録:
コメント (Atom)
