2022年2月27日日曜日

仲間を赦さなかった家来(2022年2月27日 聖日礼拝)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)

ナザレの村里 
奏楽・長井志保乃さん 字幕・富栄徳さん

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「仲間を赦さなかった家来」

マタイによる福音書18章21~35節

昭島教会 秋場治憲兄

「私がお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか」

 はじめに今日の譬の概略を申しますと、今回の譬も弟子のペテロの質問がきっかけとなっています。ペテロが「主よ、兄弟が私に対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。[1]」それに対して主イエスは「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。」

と答えられた。

 ペテロはユダヤ人で、律法の中で育ってきた人です。ユダヤ人の色彩が色濃く出ています。今、出来上がろうとしている若き教団の中の問題としても考えられます。18章の1節、15節、35節を読んでみて下さい。色々と考えさせられます。今日の譬の中心テーマは、何回赦さなければならないかということです。ペテロは赦しの問題を、数や量で計ろうとした。それに対して主イエスは、七の七十倍までも赦しなさい、と言われた。赦しは深く、広いもので、数量では計られない、と言うのです。

 そこで23節以下の譬が語られます。「ある王が、家来たちに貸した金の決済をしようとした。決済し始めたところ、一万タラントン借金している家来が、王の前に連れてこられた。」この人は地方長官のような役柄の人であったと考えられます。この種の行政官には、徴税の権限があったので、徴収した税金を自分のポケットに入れていたのかもしれません。それにしても一万タラントンというのは、膨大な金額です。聖書の巻末にある「度量衡および通貨」表によると、1タラントンは6000ドラクメで、ドラクメはデナリと等価であるとなっています。つまり1タラントンは6000デナリということです[2]。当時のヘロデ大王の年間収入が900タラントンと見積もられていますので、想像を絶する金額であることが分かります。主イエスはこのとてつもない数字によって、どんなことをしても返済できない金額を示しています。

 さらによく読むと「連れてこられた」という受身形が使われています。この家来は、獄につながれていたと考えられます。王はこの家来に、「自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように命じた。」列王記下4:1以下には、債権者が容赦なく子供たちを奴隷に売り飛ばそうとする切迫した状況が記されています。読んでみて下さい。かつて読んだことのある箇所だと思います。イスラエルの法律では妻を売ることは、禁ぜられていましたので、この話は異邦人を例にとったものだという人もいますが、持ち物の一切を売り払って弁済せよ、というのです。

 持ち物の中には奴隷も入っていたと考えられますが、奴隷の値段は平均して、500~1000デナリオンでしたので、到底一万タラントンをまかなう金額にはなりません。従ってこの主人の「自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済せよ」という25節は、主人の怒りを現わしていると理解することが出来ます[3]

 「この家来はひれ伏し、『どうか待ってください。きっと全部お返しします。』としきりに願った。[4]」(26節)原文では「ひれ伏す」の他にペソーン(崩れ落ちる、倒れる、落ち込む)という意味の分詞が使われています。この家来は崩れ落ち、ひれ伏して主人に願ったというのです。しかも「しきりに願った」(新共同訳)と言うのです。私はこの「しきりに」という言葉が気になり、どんな言葉が使われているのだろうかと調べてみましたが、それらしき言葉が見つかりません。これは「ひれ伏して」(プロスクネオー)というギリシャ語の未完了過去という用法で、「~していた、~しつつあった」という継続的、描写的な様子を伝える用法です。この家来が何度も何度も、いつまでも、しきりに願ったという様子が伝えられています。また「どうか待ってください」という言葉は、直訳すると「私に対して寛大(寛容)であってください」というお願いを表す言葉です。

 27節には「その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった。」というのです。この家来は借金の支払いの猶予を願っていたのに、彼の主君は憐れに思って、借金すべてを帳消しにしたというのです。

この「憐れに思って」という言葉(スプランクニステイス)は受身形の分詞です。「かわいそうに思う」「同情する」「憐れむ[5]」という意味の受身形で、心動かされて、彼の借金をすべて帳消しにしたというのです。この主君の心が動かされたのは、今説明した未完了過去形で表されたこの家来の哀願の姿にあることは、容易に察することができます。この前置きがないと支払いの猶予を願った家来に対して、膨大な借金すべてを帳消しにしたという計らいが浮いてしまいます。この主君はこの家来が返済することは、到底できないことを分った上での寛大な計らいをした。ここには主君のこの家来に対する並々ならぬ思い入れが秘められていたと思われます。この慈悲に対して、この恩恵に対して飛び上がって喜ばない魂があるだろうか。今一度立ち上がって、新たな一歩を踏み出してほしい、それこそがこの主君の願いであり、一万タラントンという膨大な負債を赦した主君の思いだったはずです。私達は先月「ぶどう園の労働者」の譬を通して、たった一時間しか働かなかった者にも、朝から働いた者と同じように支払った実に<気前のいい主人>に出会ったばかりですが、ここでもこの家来の願い以上に配慮してくださる実に<気前のいい主君>に出会うのです。主イエスはこの言葉によって、人間には考えられないような、時には人間の法律に矛盾するほどの神の行為と神の赦しを伝えようとしておられるのです。ここには天地創造に匹敵する、赦しに基づいた新しい世界の創造が、顔をのぞかせているのです。私達は今この世界に招き入れられようとしているのです。神の赦しは無条件でかつ無制限です。

 ところがここで不思議なことが起こった。一万タラントンという膨大な借金を帳消しにしてもらった家来が、たった100デナリオンを貸した仲間をつかまえて、首を絞めて「借金を返せ」と言ったというのです。この仲間は「『どうか待ってくれ。返すから』としきりに頼んだ」のですが、承知せず、その仲間を牢に入れたというのです。ここも未完了過去形が使われていて、その様子を「しきりに頼んだ」と訳出されています。主君の前に引き出されたこの家来が、主君に願った時の言葉と何ら変わるところがありません。たった今膨大な自分の負債が赦されたばかりなのに、それをそっちのけにして、自分の負債に比べれば無きに等しい借金を負う人を責め立てるということは、考えられないことです。しかし主イエスは現にこの譬の中で、語っておられるのですから、こういうことはあり得るというのです。実に恐ろしいこと。主イエスはこの点を指摘しているのです。そしてこの恩知らずの家来は、私達の中にも巣食っているのです。そしてこの家来は100デナリオンを借りていた人を、自分が入っていた獄に入れたのです。

仲間たちは心を痛め、事の次第を主君に報告した。「主君はその家来を呼びつけて言った。『不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。私がお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。』そして、主君は怒って、借金をすっかり返済するまでと、家来を牢役人に引き渡した。」というのです。「不届きな家来だ。」(新共同訳)は、口語訳では単に「悪い僕(しもべ)、」となっています。これは「邪悪な」「腐った」「悪い」という意味の形容詞です。RSVでは You wicked servant! [6]と訳されています。

また33節の「私がお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。」という言葉には、εδει(エデイ)という接続詞が使われています。これは「当然~すべきである」「~する義務がある」という意味の接続詞で、ここでは「当然~すべきであったのに、実際はしなかった」というニュアンスを含んでいます。「当然」という言葉を補い、その言葉に力点をおいて、「私がお前を憐れんでやったように、当然お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。」と読むべきところです。

そして主イエスはこの譬の結論として「あなた方の一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなた方に同じようになさるであろう」(35節)と結んでいます。

ここで私ははたと困った。ここでは主君は審く人、罰する人になっています。そうすると、この家来の負債のすべてを帳消しにした主君とどう関係するのか。そもそもこの譬を話し出した発端は、ペテロの「主よ、兄弟が私に対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。[7]」という質問に対して、「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。」と答え、そこで語られた譬です。神の赦しは無条件で無制限であったはずです。しかしここでは、人間の赦しが、神の赦しの条件になっているとさえ思われるのです[8]。これは最早恵みではない。無条件でもない。七を七十倍するまで赦せ、と言った主君はどこに行ってしまったのか。この審く主君と一万タラントンの負債を帳消しにした主君と、どういう関係になるのか。

今回は何冊かの注解所を読んでみましたが、どうもしっくり来ない。最後にルターのローマ人への手紙講解の12章1節の解説を読んで、ヒントが与えられた。この家来は主人の心を心としなかった、と言うのです。私がお前を憐れんでやったように、そのように自分の仲間を憐れんでやらなかった、というのです。そしてこの家来は「まことの土台、すなわちキリスト[9]」を捨て去った。すなわち、その上に賢い人が建築をするところの固い岩[10]を捨て去り、そして自分の心を心とした。自分のことしか目に入らない、他人のことなど知ったことか、と言うのです。その結果、わずか100デナリオン、一万タラントンの借金に比べれば無きに等しい借金をしていた仲間の首を絞め、動けなくして牢に入れた。この主君が「不届きな家来だ」と言って怒ったのも当然のこと。主君は彼を「借金をすっかり返済するまでと、家来を牢役人に引き渡した。」私はここを読んでいてこの言葉が、ずっと引っかかっていた。牢に入れてしまったら、借金を返済できないと考えたのです。しかしルターはここでもう一箇所、聖書の言葉を引用しています。神は今、「まことの土台、すなわちキリスト」つまり「賢い人が建築をするところの固い岩」を据えることにより、そしてさらに、偽りの土台、つまり愚かな人が砂の上に建築をするその砂(の土台)を、(マタイ7:26)を粉砕することによって、彼は今ここで「金、銀、宝石をもって上層建築をなし[11]」始めるのである、と。

神は今この悪しき家来が立っている砂の土台を、自分の心のみを心とする土台を粉砕して、キリストという真の土台が既に無償で差し出されていることを知らしめようとされる、というのです。「借金をすっかり返済するまでと」は、この真の土台に気づくまでと考えたい。なぜならこの事に気づかされた時は、すべての借金は十字架上の独り子の上に移されているからです。それまで神は、この家来を牢において、律法の下においてと言い換えることもできると思いますが、その土台を粉砕し続けるのです。そしてこの破壊作業は私達が、真の土台が無償で差し出されていたことに気づくまで継続されるのです。ルターはローマ人への手紙講義の1章1節に、「なぜなら神は、私達を、私達の中にある義によってではなく、私達の外にある義と知恵によって救おうとしておられるからである。[12]という言葉を残しています。

ルターは「実に<既に存在する>この土台を打ち立てようなどと試みるがとき愚かな建築士がかつてどこにあったろうぞ。既に大地に横たわっているのを彼らは探求しもせねば、あるいは提供されたのを採用しもせぬであろうか。それゆえに我々が骨折らずとも大地が我々に土台を差し出しているごとく、キリストは我々を待たず御自身を義・平和・良心の保証として我々に提示しておられる[13]」と言っている。

私達に影のようにつきまとい、切り離そうと思っても決して切り離すことが出来ない暗い影、ルターは清くなろうとして「手を洗えば洗うほど、汚くなる」といっている、この呪縛(のろい)から、あなたを解放してあげようというのです。その為に神の独り子が、私達の代わりにその債務を支払った。その独り子は、「父よ、できることなら、この杯を私から過ぎ去らせてください。[14]」と血のような汗を滴らせながら、三度も祈った。その間弟子たちは、過ぎ越しの食事で、お腹一杯になり眠りこけていた。私達の知らないうちに、我らの罪の代価が支払われていた。神の独り子の命と引きかえに。

この事実は中々私達の心に降りてこないのです。何度も何度も聞かされていたはずなのに、心はその横を通り過ぎ、自らの義を叫ぶことに余念がなかった。このことに気づかされるのは、聖霊の助けによるという以外に説明の仕様がない。

私達は「求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。[15]」という言葉を、よく知っています。ややもすると求めよ!捜せ!に力点が置かれ、求めるなら、神は与えてくださるはずだ。与えられないのは、求め方が足りないからだ。見出さないのは、捜し方が足りないからだ、と考えがちです。

しかし、今日のテキストは、何とかして与えようとしている神がおられる。何とかして見出してもらいたいと願っている神がおられる。我々の一万タラントンの負債をすべて帳消しにして、そのすべてを独り子の肩に負わせ、徹底的にこれを罰し、滅ぼしたもうた方がおられる。これを聞いて躍り上がらない魂があるだろうか。

今回何冊かの注解書を読みあさる中で、北森嘉蔵先生のマタイ福音書講話を読む機会を得ました。やはり北森先生もこの問題に苦慮した様子がうかがえます。その箇所を紹介致します。とても分かり易く説明しています。

「確かにこの表現様式は、素直にとればそうなるのです。つまり人間の赦しが真剣に考えられないと、神の赦しも考え直されるというふうになっているわけです。  

ところが、この説話の冒頭で七度赦すべきかというペテロに対して、イエスは七度を七十倍するまでと、お答えになったわけです。つまり、徹頭徹尾赦しなさいというのが大前提として語られておりますので、この大前提がずっとこの説話を最後まで支配しているはずです。  

ですからこの譬話によって、徹頭徹尾の赦しが曇らされるということはないはずでして、またあってはならないはずです。そこでいかにも人間の赦しが条件化されているように見えるこの譬話をどう受け取るかということが残されます。

私はこの譬話を次のようにとりたいのです。三千万円ゆるされた人間が、五千円をゆるさなかったことに対する憤り、この憤りということを大事にしたいのです。 表現様式としてはいかにも人間の赦しがなければ、神の赦しもなくなると、とらざるをえないような様式をとっております。ここがどうしても、聖書解釈の求められるところでありまして、わたしはこのばく大な赦しが、些細な赦しを当然求める、そうしてその些細な赦しをも実行しない者に対して、ばく大な赦しを与えた神は憤るのだと、その憤るということを表現して、いかにも神の赦しが帳消しになるかのような形をとったと、つまり表現様式としてはこういう形をとったというふうに解釈したいのです。つまり、憤りの強さ[16]ということです。[17]

神は打ち出の小槌を振るようにして一万タラントンの借金を帳消しにしたのではなく、その為に、神の独り子が代わりにその債務を支払ったのです。この一万タラントンの借金の帳消しは、神の独り子の十字架の死によってもたらされたものであり、この独り子の命を、その神の愛を踏みにじった家来に対する憤りは燃え上がり、一万タラントンの負債の帳消しが、帳消しになるような表現になっているというのです。これは逆に、私達に神の愛の大きさ強さを明らかにしているのだと思います。言い換えれば、神の熱き愛の裏返しということなのだと思います。私達が口語訳聖書で慣れ親しんだ「あなたの神、主である私は、ねたむ神であるから、私を憎むものには、・・・」という言葉は、新共同訳聖書では「私は主、あなたの神。私は熱情の神である。」と訳されています。 

ヤコブが「この御言には、あなたがたのたましいを救う力がある。[18]」(口語訳)と言った背景には、これだけのことがあったのです。今日の私達に対するヤコブからのメッセージは、「だれでも聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい。人の怒りは神の義を実現しないからです。[19]」(新共同訳)に集約されるかもしれません。

 それは私達が受けたことの百万分の1でしかないことなのですから。ここには自分自身ではなく、神の御心に重きを置いて生きる、よき音づれに励まされながら生きる新しい人間の創造があるのです。活き活きとした世界、私達を励まして止むことのない世界が、躍動しています。今日のメッセージとして、受け止めたいと思います。[20]

神が最初に発せられた言葉、「光あれ[21]」、英語ではLet there be light 光をしてあらしめよ)この言葉が全聖書を貫いていると言っても過言ではないと思います。

 祈ります。恵み深き父なる神様、私達一人一人があなたの愛の深さを充分に受け止めることが出来ますように。またその愛をすべての兄弟たちに対して実行することが出来ますように。神の独り子が私達の避け所として与えられていることに感謝します。その深い深い愛に、思いを馳せることが出来ますように、聖霊の助けを祈ります。今日のみ言葉にたたえられている豊かな恵みが、語られた言葉を越えて一人一人の心に届けられますよう、私達の救い主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

余談ですが、先日テレビで久しぶりに映画「ベン・ハー」を観ました。昼食後北京オリンピックの結果を見ようと、テレビのスイッチを入れました。丁度始まったばかりで、三人の博士たちがベツレヘムの馬小屋へ入り、ひれ伏して黄金・乳香・没薬を捧げる場面でした。この映画を札幌の映画館で観たのは高校時代だったと記憶しています。70ミリ映画、総天然色、シネマスコープの大迫力に圧倒されて映画館を後にした時の感動を、今更ながら思い起こし、そのまま見続けてしまいました。

今この話をするのは今回の宣教との関連で、タラントンという金額が映画の中で使われていたからです。この映画の見どころは、何といっても戦車競走の場面です。これは多くの人たちの記憶に残っていると思います。この場面の少し前に、アラブの大富豪がメッサラ(ベン・ハーの幼馴染で、宿敵)に会う場面があります。ここでこの大富豪は自分の馬にはベン・ハーが乘ることを告げた上で、メッサラに掛け率4:1を提案します。メッサラはそれを受け入れます。そしてこの大富豪は自分の掛け金は1000タラントンであると告げます。この時メッサラの顔色が変わります。そして「本気か?」という言葉を返しています。大富豪は「もちろん、多すぎましたか?」と返しますが、ユダヤの司令官としての面子から受け入れます。もし彼が負けたら4000タラントンの負債が生じ、彼は破滅します。彼は何があっても負けられないのです。P.1の註2でガリラヤからペレヤまでの税収が、わずかに200タラントンだとすると、この4000タラントンという金額は天文学的金額であり、如何にユダヤの司令官と言っても簡単に右から左へ動かせるものではありません。もし負けたなら、その時は彼の身の破滅を意味します。そして戦車競走の場面になります。レースが始まります。私の耳に残ったのは、メッサラが自分の馬に対して最初から最後まで鞭を振るい続ける鞭の音でした。彼は追い詰められ最後は、ご存じのように落車して絶命します。ここで私の映画鑑賞時間は時間切れとなり、最後まで観ることはできませんでした。

もしいつか皆様がベン・ハーを観る機会がありましたら、こんなところにも注目して観てみて下さい。この映画に深みを与えてくれる視点の一つではないかと思います。そして一万タラントンという金額が、如何に莫大な金額であるか、そしてそれは私達には返済不可能のものであるかを今日の譬は教えてくれています。


[1] マタイ福音書18:21以下

[2] 聖書巻末の「度量衡および通貨」表による。

[3] 1デナリオンが一人の労働者の一日の平均収入でした。当時ガリラヤからペレヤまでの税収が200タラントンであったことを考えると、莫大な金額であったことが分かります。ペレヤというのはギリシャのマケドニアの町、テサロニケから西に80kmで、パウロはここでシラスと共に伝道しています。(使徒言行録17:10~14)

[4] マタイによる福音書18:26「そこで、この僕はひれ伏して哀願した『どうぞお待ちください。全部お返しいたしますから』」(口語訳)

[5] マタイ福音書9:36、14:14にも「憐れまれた」という言葉が使われています。

[6] Wicked [wikid]悪い、意地悪な、悪意のある、という形容詞です。

[7] 七という数字は完全数であり、七回というのは完全に赦すという意味になります。

[8] 「あなた方の一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、私の天の父もあなた方に同じようにするであろう。」(マタイ18:35)

[9] 第1コリント3:11

[10] マタイ福音書7:24

[11] 第1コリント3:12

[12] ルターは1515年11月3日から翌年9月7日まで約10ケ月にわたってヴィッテンベルク大学の学生たちを前にしてこの講義をしています。ルター自筆の原稿が残っているのは、本講義のみ。この言葉は世界の名著ルターP.409からの引用です。

[13] ローマ人への手紙講解下巻 松尾喜代司訳P.282

[14] マタイ福音書26:39

[15] マタイ福音書7:7

[16] 民数記25:1~18参照

[17] マタイ福音書講話下P.57

[18] ヤコブの手紙1:21

[19] ヤコブの手紙1:19~20

[20] エフェソの信徒への手紙4:30~5:2、コロサイの信徒への手紙3:12以下参照

[21] 創世記1:3

 (2022年2月27日 聖日礼拝)


2022年2月20日日曜日

起きて歩く(2022年2月20日 聖日礼拝)


「起きて歩く」関口康牧師
日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)

讃美歌21 6番 奏楽・長井志保乃さん 字幕・富栄徳さん

「起きて歩く」

マルコによる福音書2章1~12節

関口 康

「イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に『子よ、あなたの罪は赦される』と言われた」

今日の箇所に描かれているのは、イエスさまがおられた家に4人の男が中風の人を運んで来て、その家の屋根によじ登り、イエスさまがおられる辺りの屋根をはがして穴を開けて、病気の人が寝ている床を吊り降ろして、イエスさまに助けを求めた話です。

想像するだけでぎょっとする話です。その家はガリラヤ湖畔のカファルナウムにありました。シモン・ペトロの実家だったと考えられます。中風の人にとっても4人の男たちにとっても他人の家です。その家の屋根を破壊したというのですから驚きです。

しかしイエスさまは4人の行動に感動なさいました。他にもたくさんの人がその家に集まっていてイエスさまに近づくことができないので、緊急手段としてそこまでのことをしたこの人たちの、病気の人への熱い思いを、イエスさまが汲み取ってくださいました。

それでイエスさまは、その人たちの信仰を見て、中風の人に「子よ、あなたの罪は赦される」と言われました(5節)。これはどういう意味でしょうか。中風の人が何か罪を犯したのでしょうか。それは具体的に何の罪でしょうか。それを考える必要がありそうです。

他人の家を破壊した罪でしょうか。他にも大勢の人がいたのに順番を待つことができず、追い抜いてイエスさまのもとにたどり着いた罪でしょうか。そんなことを言うなら、救急車は罪深いという話になりかねません。別の意味を考えるほうがよさそうです。

私も調べました。イエスさまが「赦される」と、「赦す」の受動形を用いて主語をおっしゃっていないのは、当時のユダヤ教の言葉遣いだったそうです。ただし、ユダヤ教の場合、主語は必ず「神」であり、「神があなたの罪を赦す」という意味です。しかし、イエスさまがおっしゃったのはその意味だと考える必要はないという解説を読みました。主語は「神」ではなく、イエスさまご自身であり、「私があなたの罪を赦す」とおっしゃっているというのです。

また、別の解説(カール・バルト)に、イエスさまはこの言葉をその人の罪を“否定する”意味でおっしゃっているとも記されていました。しかし、その場合は、「あなたには罪がない」という意味ではなく、「あなたの病気の原因はあなたの罪ではない」という意味になるでしょう。

そして、その意味として最も近いか全く同じと言えるのは、ヨハネによる福音書9章1節以下のイエスさまのみことばです。生まれつき目の見えない人について、その原因は何か、だれが罪を犯したからかと尋ねたときイエスさまがお答えになったことです。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」(ヨハネ9章3節)。

そういうことをイエスさまがおっしゃったからこそ、そこに居合わせた律法学者たちが反応しました。「この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒瀆している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか」(7節)。そのように彼らが考えました。

ここでわたしたちが見落としてはならないのは律法学者の反応の中にある「口にする」という言葉です。イエスさまが「あなたの罪は赦される」と“言う”ことです。「言う」と「考える」は違います。律法学者が反応したのは、イエスさまがそれを“言った”ことに対してです。

イエスさまは口を滑らされたわけではありません。自覚的・意図的に「わたしがあなたの罪を赦す」と宣言されました。この点が当時のユダヤ教と激突したと考えられます。なぜならユダヤ教にとって「罪の赦し」は複雑で多岐にわたる儀式を経てやっと実現することだったからです。イエスさまのように「言うだけ」で十分なら、複雑な儀式も、儀式を行う宗教者も、儀式のための宗教施設も、すべて否定されてしまい、無用の長物同然になるからです。

これでお分かりでしょうか。律法学者たちにイエスさまが「なぜ、そんな考えを心に抱くのか。中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか」と質問されたことの答えは、どちらでしょうか。

正解はどこにも記されていませんが、おそらく正解は「あなたの罪は赦される」と“言う”ことのほうが「易しい」です。面倒な儀式よりも、罪の赦しを“宣言する”ほうが簡単です。

いま痛みに苦しみ、悩んでいる人の心の中に「この私の苦しみや痛みは自分の犯した罪のせいなのか。私が悪いのか。私のどこが悪いのか。私は何も悪いことなどしていない」と義人ヨブのように葛藤し、苦悶する思いがもしあるならば、「あなたのせいではない!」と宣言することで、その人の心の重荷を軽くするために、面倒な儀式は要りません。言葉だけで十分です。

そして、そのことをなさったうえでイエスさまは、中風の人に「起きて、床を担いで歩け」とお命じになり、その人は歩けるようになりました。

わたしたちはイエスさまと同じ奇跡を行うことはできません。しかし、イエスさまと同じ方法で人の心の中から重荷を取り去り、軽くすることはできます。

石川献之助先生が、ご自身と私との共通のルーツを見出してくださったのは、今からちょうど50年前のクリスマス(1971年12月26日)に6歳になったばかりで幼稚園児だった私に成人洗礼を授けてくださった日本キリスト教団岡山聖心教会の永倉義雄先生が、救世軍士官学校の卒業生だったことです。石川先生のお父上の石川力之助先生も、救世軍の方でした。

もっとも私は救世軍についてほとんど知識はありませんし、永倉牧師から救世軍について特別多くのことを教えてもらった記憶はありません。それでも少しくらいは学んでおきたいと思い、つい最近のことですが、日本で最初の救世軍士官、山室軍平氏(1872~1940年)の『平民の福音』(初版1899(M32)年)を読みました。その中に今日の箇所に通じることが書かれていましたので、この機会にご紹介いたします。

「私共はまず、第一に、これまでの罪とがのゆるさるるため、又たましいを生まれかわらせていただくために、神様に祈とうせねばならぬ。そうして既にそのお祈が聞き届けられ、救いの恵みを受けたものは、進んでこれまでのあしき癖や、又は種種なる信仰上のさまたげに打勝つために、神様に祈らねばならぬ。(中略)

祈に面倒臭い儀式などない。子が親に物を言うに、なんでそんなによそよそしい切り口上がいり用なものであろう。(中略)

唯だ大切なるは真実をもって神様に祈ることである。又神様が祈をおききなさると信仰することである」(山室軍平『平民の福音』第520版、1975(S50)年、75~76頁)。

なんとシンプルでしょう。山室氏によると、罪が赦されるために祈らなければならない、祈りに面倒な儀式はない、子どもは親によそよそしいことを言わなくていい、真実をもっての祈りを神様が聞いてくださっていると信じて祈るだけでいい、というのです。私は全く同意します。

面倒な儀式よりも、真実の祈り。それこそがわたしたちをいやし、慰め、助けます。

(2022年2月20日 聖日礼拝)

2022年2月13日日曜日

からし種のたとえ(2022年2月13日 聖日礼拝)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)


「からし種のたとえ」

マルコによる福音書4章21~34節

関口 康

「それ(神の国)は、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、蒔くと成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。」

今日の箇所にも、先週の箇所に引き続き、イエスさまのたとえ話が記されています。内容的な関連性もあります。先週の箇所は「種蒔きのたとえ」でした。今日の箇所は、種を蒔く人が蒔くその種そのものについてのたとえです。

内容に入る前に、私に思いつくままの感想を述べさせていただきます。それは、イエスさまのたとえ話の中に先週の箇所の「種蒔きのたとえ」なり、今日の箇所の「からし種のたとえ」なり、あるいは「ぶどう園の農夫のたとえ」(マルコ12章1節)など農業そのものや農場経営に関するものがかなりあるのはなぜだろうという問いです。

それは当時のユダヤ民衆にとって身近な題材だったからというだけでなく、イエスさまご自身が何らかの仕方で農業そのものに取り組まれたか、農業の知識をお持ちだったからではないかということです。あくまで私の感想です。

対照的なのは使徒パウロです。実際にその点について指摘する人の意見を伺ったことがあるのは、パウロには農業の知識がないと言われても仕方がないことが書かれているということです。

それは、ローマの信徒への手紙11章17節以下で、ユダヤ人と異邦人の関係を野生のオリーブを栽培されているオリーブに接ぎ木することにたとえる話です。農業の知識がある人なら、そのようなことは絶対しない、というわけです。

あくまでたとえ話なので目くじらを立てるべきでないと言って済むかどうかは難しい問題です。気になる人にはとても気になるようですので、間違いならば間違いであることを認めたうえで、反省しなくてはならないでしょう。

このことで申し上げたいのは、知識を持つことと、そのことに実際に携わること、そのことについて経験することは、やっぱり違うし、経験が物を言う場面は少なくないことを認めざるをえないということです。

「私も」と言っておきます。私も10代、20代の頃は人生経験の長さや豊かさを振りかざす大人たちが大嫌いでした。年数で敵いっこないのですから、そんなことを持ち出されるのは横暴だと反発する人間でした。しかし、この年齢になってやっと「経験」は大切であると悟るようになりました。だからといって経験年数の長さで若い人を威圧するような真似だけはしたくないと思いますけれども。

さて、今日の箇所ですが、「からし種のたとえ」です。同じ趣旨のたとえが「パン種のたとえ」です。ルカによる福音書13章18節以下の段落に新共同訳聖書が「『からし種』と『パン種』のたとえ」という小見出しを付け、2つのたとえが続けて出てくることからも、趣旨が同じか、少なくともよく似ていることが分かります。

「そこで、イエスは言われた。『神の国は何に似ているか。何にたとえようか。それは、からし種に似ている。人がこれを取って庭に蒔くと、成長して木になり、その枝には空の鳥が巣を作る。』また言われた。『神の国を何にたとえようか。パン種に似ている。女がこれを取って三サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨れる』」(ルカによる福音書13章18~20節)。

「からし種」はマスタードの種です。「パン種」はパン生地に入れる酵母です。共通しているのは、種そのものはとても小さい、ということです。しかし、小さなからし種が大きな木になり、小さなパン種がパン全体を大きく膨らませる、ということです。小さなものの影響範囲は小さくない、ということです。それは良い意味にもなり、悪い意味にもなります。

悪い意味の話は避けたい気持ちになります。感染症の問題はすぐにお気づきになるでしょう。世界のどこか一点から始まったことが全世界に広がりました。悪い例を挙げて「同じように」と続けないほうがよいでしょう。「からし種のたとえ」は良い話です。今から2千年前たったひとりのイエスさまが、ガリラヤ湖の湖畔の漁師の町で、神の国の福音を宣べ伝える働きを始められ、そこで蒔かれた小さな種が、芽生え、育って、実を結び、今日の世界の教会があります。

その話を感染症と結び付けないほうがよいことは明らかです。しかし、いま私が申し上げたいのは「世界と歴史はひとつにつながっている」ということです。

原因と結果を単純に結びつけて数学的・物理的な「因果法則」や宗教的・哲学的な「因果応報」のようなことだけで考えるのは狭すぎます。世界も歴史もボタンを押せばそのとおり動く機械ではなく、必ず人間の意志や感情など、精神的(スピリチュアル)で人格的(パーソナル)な要素が絡んでいるからです。

そのような要素を含めた意味での「出発点」と「現在」の関係が、「種」と「実」の関係であり、それがイエスさまの宣教と、現在の世界のわたしたちキリスト教会の存在との関係です。そのことを世界の歴史が証明しています。

しかし、ここでこそわたしたちが大いに驚かなくてはならないのは、今から数えれば2千年前のイエスさまが、ご自分の宣教活動は「種蒔き」であって、種そのものは小さなものに過ぎないが、必ず大きな木になるとおっしゃったことが、世界の歴史の中で事実になったことでしょう。歴史の中で消えた宗教や哲学は数え切れません。その中でイエス・キリストの教会は失われず、歴史を重ね、今日に至っています。

それはまるでイエスさまが、2千年後のわたしたちひとりひとりの名前を知り、心の中をご存じであり、今日わたしたちが教会に来て礼拝をささげることをご存じであるかのようです。事実、イエスさまはご存じです。「わたしが蒔いた種が結んだ実(み)はあなたである」と、今は天の父なる神の右に着座されているイエスさまが、おっしゃっています。

反面、わたしたちが自分自身に問いかけなくてはならないこともあるでしょう。わたしたちは今から2千年後のことを考えているでしょうか。特に「教会の将来」について。2千年後と言わずとも、せめて20年後でも。あるいは30年後。

「持続可能な開発目標」(Sustainable Development Goals)(エスディージーズ)は大事です。「持続可能な教会目標」(Sustainable Church’s Goals)(エス“シー”ジーズ)を考えることは無意味でしょうか。そのことを考えることに意味を見出すことができるでしょうか。それどころではないでしょうか。自分の生活、自分の問題で精一杯でしょうか。

今年11月、昭島教会の創立70周年を迎えます。30年後、どうしたら100周年を迎えられるかをみんなで考えようではありませんか。

(2022年2月13日 聖日礼拝)

2022年2月6日日曜日

種蒔きのたとえ(2022年2月6日 聖日礼拝)


礼拝動画(you tube)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)

讃美歌21 412 昔主イエスの 奏楽・長井志保乃さん 字幕・富栄徳さん

週報(第3606号)電子版はここをクリックするとダウンロードできます

宣教要旨(下記と同じ)PDFはここをクリックするとダウンロードできます

「種蒔きのたとえ」

マルコによる福音書4章1~20節

関口 康

「良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて受け入れる人たちであり、ある者は三十倍、ある者は五十倍、ある者は百倍の実を結ぶのである。」

今日の箇所の内容も、教会生活が長い方々にとってはよくご存じのところです。イエスさまはしばしば、たとえ話を用いて語られました。眼前の民衆にとって身近な題材を用いて教えることがお上手でした。イエスさまのたとえ話が今日まで多くの人に愛されているのは、内容に時代や民族の違いを超える普遍性があることが認められてきたからです。

今日の箇所の内容は「種蒔きのたとえ」です。内容に入る前に、イエスさまがこのたとえを、どこで・だれにお話しになったかを確認しておきます。そのことと、たとえ話の内容が関係していると思われるからです。

場所(どこで)は「湖のほとり」(1節)です。ガリラヤ湖(またの名をゲネサレト湖)です。相手(だれに)は「おびただしい群衆」(1節)です。ガリラヤ湖のほとりにおられるイエスさまを見つけて集まって来た大勢の人たちです。

人が大勢いればその中には必ずいろんな人がいます。イエスさまのことを信頼して、これからすぐにでも弟子になろうと決心しようとしていた人もいたに違いありませんが、必ずしもそうでない人もいたでしょう。そして、完全に否定的な態度でイエスさまを殺す計画を立てはじめた人々も含まれていました。律法学者、祭司長、長老たちです。

しかし、イエスさまの前に集まっていたのは「おびただしい群衆」でしたので、その中の誰がどのような考えを持っているかを見分けるのは不可能だったと考えられます。

しかも、このときイエスさまは、人流に押しつぶされないように陸から離れておられました。「舟に乗って腰を下ろし、湖の上におられた」(1節)と書いてあります。そうなるといよいよ、イエスさまが集まった人ひとりひとりの顔や姿を見分けることは難しかったでしょう。

このような状況の中でイエスさまはこのたとえ話を語られたのだということを勘案する必要があります。そのこととたとえ話の内容が関係していると思われるからです。なぜ関係していると言えるのか。イエスさまはこのたとえ話の意味をご自分で解説しておられます。その解説を読むと関係が分かります。

イエスさまは「種を蒔く人は、神の言葉を蒔くのである」(14節)とおっしゃっています。「種」は「神の言葉」です。「種を蒔く」とは、種蒔きのたとえを用いてイエスさまがこのときなさっている宣教そのものです。この話をなさりながら「いままさに私は種を蒔いている」とイエスさまが自覚しておられたのは明らかです。しかもイエスさまは「種蒔きのたとえ」を群衆に向かって語られました。イエスさまが種を蒔いておられる畑は「群衆」です。

ここまで申し上げれば、鋭い方は、イエスさまのたとえ話の意図がお分かりになるでしょう。道端に落ちた種、石だらけで土の少ない所に落ちた種、茨の中に落ちた種、良い土地に落ちた種。イエスさまが挙げられた4つの場所に蒔かれた種そのものは同じ種です。

もちろん同じ種が4つの場所に同時に蒔かれることは現実的にはありえないことです。しかし、いま私が「同じ種」と申し上げる意味は、4つの場所に蒔かれた4つの種そのものに優劣がないということです。もし4つの種そのものに差があるとしたら、このたとえ話は成立しません。

だからこそ私は、イエスさまがこのたとえ話を語られた状況とたとえ話の内容は関係していると申し上げたのです。この場面の状況を具体的なイメージとして想像していただくとお分かりになるでしょう。イエスさまは、群衆に向かって説教しておられます。イエスさまはおひとりです。イエスさまの口はひとつです。イエスさまの御言葉を聞く人々の耳はたくさんあります。

そしてイエスさまご自身が「種を蒔く人は、神の言葉を蒔くのである」とおっしゃっているとおり、群衆に向かって説教しておられるイエスさまは、同じひとつの口から、同じひとつの種を蒔いておられるのです。4つの種の間に優劣の差はないと申し上げたのは、その意味です。

ですから、豊かな実を結ばなかった原因を種そのものの優劣に求めることはできません。種は同じでも、その同じ種が、豊かに実を結ぶ場合もあれば実を結ばない場合もあるということです。はっきり申します。このたとえ話の意味は、同じ説教を聞いても、それを聞く人によって違いが出てくる。そのことをイエスさまはおっしゃっているのです。

しかし、聞く人たちによって違いが出てくると言っても、それは何の違いでしょうか。生育歴の違いでしょうか。家庭環境の違いでしょうか。財産の違いでしょうか。そんなことで人を差別するようなことをイエスさまがおっしゃっているのでしょうか。もしそういう話なのであれば、ちょっとがっかり、かなりがっかり、とお感じになる方がおられても無理はないでしょう。

そのような意味ではないと思いたいです。イエスさまはたしかに4種類の人をあげています。しかしその一方で、イエスさまがおっしゃると思えないのは、4種類の人を差別することです。

厳しい面が全くない話であるとは言い切れません。イエス殺害をもくろむ律法学者、祭司長、長老たちに対する牽制の意図はあったでしょう。しかしイエスさまは、そのような人たちがいることも十分承知のうえで説教しておられます。

説教する立場に立てば誰でも思うことは、この御言葉を聞いてもらいたい、受け入れてもらいたい、信じてもらいたい、ということです。結果的にそのとき、その場では、聞いてもらえない、受け入れてもらえない、信じてもらえないということはあります。しかしそれで終わりではありません。今は無理でもいつか必ず聞いてもらいたい、受け入れてもらいたい、信じてもらいたいと願い続けるのが説教者です。すべての説教者がそうです。イエスさまもそうです。すべての人が「良い土地」になってほしい。そのことをイエスさまは願っておられたのです。

そうだとしたら、イエスさまからご覧になって4種類の人がいるというのは、あの人とこの人の違いではなく、ひとりの人の中の様々な側面を指していると考えることが可能ではありませんか。わたしたちが変わることをイエスさまが望んでおられるとすれば、その結論が成り立ちます。

同一人物が、今日の心は道端で、明日の心は石だらけで、明後日は茨の中で、明々後日の心は良い土地でと変化します。人の心は変わります。このたとえ話でイエスさまがおっしゃっているのは、4種類の人を差別することではなく、あなた自身が「良い土地」になってほしいという強い願いであるということです。

人の心は変わります。神もキリストも、聖書も信仰も、教会も、「そのようないかがわしいものは全く受け入れることができない」と感じておられる方のことを、イエスさまはあきらめません。教会もあきらめません。あなたのために祈ります。

(2022年2月6日 聖日礼拝)