2022年4月24日日曜日

復活のイエス(2022年4月24日 聖日礼拝)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)


讃美歌21 地よ、声たかく 326番(1、3節)
奏楽・長井志保乃さん 字幕・富栄徳さん

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「復活のイエス」

秋場治憲伝道師

ヨハネによる福音書20章19~31節

「シオンの娘よ、喜び歌え。私が来て、あなたの中に住むからである」ゼカリヤ書2章10節(口語訳、新共同訳では2章14節)

 今日の聖書のテキストは、先週に続くヨハネ福音書20章19節から31節までですが、私はこのトマスの出来事とマグダラのマリアの出来事がセットで考えられるべきと思われて仕方がない。それは甦った主イエスの二人に対する対応が、極めて対照的だからです。しかもそれら二つの出来事が同じ章にあるということは、ヨハネはこれら二つの出来事はセットで考えられるべきであると言っているように思わされてならないのです。それで今日のトマスの出来事をマリアの出来事と比較するという視点から見てみたいと思います。

ここには主イエスが復活したということが記されています。私たちは面食らいます。自然科学と科学技術を学んできた私たちの心に去来することは、「そんなことはあり得ない」ということではないでしょうか。そもそも「復活」とは何なのでしょうか。聖書が言うこの出来事は、歴史的出来事なのでしょうか。

私たちが主と仰ぐイエスは「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」(わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか)と二度までも叫び、十字架の上で息を引き取られ、墓に葬られたのです。ヨハネ福音書によれば、ローマの兵士が「槍でイエスのわき腹を刺した[1]」と記されています。11人(ユダは既に死亡している)の弟子たちは皆逃げ去り、誰も残ってはいませんでした。主イエスの遺体を十字架から取り降ろすのをピラトに願い出たのは、何と「イエスの弟子でありながらユダヤ人を恐れてそのことを隠していた」(ヨハネ福音書19:38)アリマタヤのヨセフ[2]であったと伝えています。そこに律法学者ニコデモが没薬と沈香を混ぜた物を百リトラほど持ってやって来た。この二人によってイエスの遺体は、香料を添えて亜麻布で包まれ、まだ誰も葬られたことのない墓に葬られた。二人は共にユダヤの最高法院の議員でした。神の言葉はいつ、どこに飛び火するか分からない。だから私たちは時が良くても悪くても[3]、み言葉を宣べ伝えなければならないのです。このユダヤの最高法院のトップは、イエスを十字架につけるようピラトに訴えた大祭司カイアファです。この人の館の中庭で、ペテロは「そんな男のことなど俺は知らん」と三回も否定したのでした。この最高法院の議員だった二人が、イエスの最後の埋葬をしたというのですからキリスト教はダイナミックです。

ルカ福音書によると「ガリラヤからイエスに従ってきた婦人たちがアリマタヤのヨセフの後について行き、墓と、イエスの遺体が納められている有様とを見届け、家に帰って、香料と香油を準備した。」間もなく日没になり、安息日が始まろうとしていたからです。そして主イエスはすでにこの世にはおられないのです。

 ペテロともう一人の弟子は、マグダラのマリアから「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、私たちには分かりません。」という報告を受け、走って墓へ駆けつけた。そこで空になった墓を確認した。歴史が認めるのはここまでです。歴史というものが、この世の出来事を記録するものであるなら、主イエスのよみがえりの出来事というのは、主イエスが亡くなった後、「歴史の外」で起こった出来事であり、この世の出来事を記す歴史的出来事ではないということになります。

主イエスはポンテオ・ピラトがローマのユダヤ総督の時(A.D.26~36)に、十字架につけられ、死にて葬られたところまでは、歴史も認めるのです。しかし「甦えり」は、この世で起こった事ではなく、死にて葬られた後、歴史の外において起こったことなのです。高校の教科書にも十字架までは記載されますが、復活の出来事は記載されません。それは歴史の外で起こったことであり、信仰によって受けとめられるべきことだからです。それでは復活は全く歴史と関わるところはないのでしょうか。聖書は神の大能によって甦らされたイエスが、40日にわたって弟子たちやその他の人々に現れたと伝えています。

私たちは甦ったイエスが鍵のかけられた部屋に入ってきたり[4]、弟子たちと一緒に焼き魚を食べたり[5]、傷ついた手とわき腹を見せたり[6]したことを不思議に思います。そしてこんなことはあり得ないと言って、キリスト教は信じるに値しないと言い、時にはキリスト教から離れていく方もおられます。しかしそれはマリアと同じように、イエスが人となり、肉をまとっていた時と同じ人間であるかのように思っているからではないでしょうか。甦ったイエスは時空を超えて、「神は愛である[7]」ことを明らかにするために、目の前にいる人間の必要に応じてその姿を変え、その人に寄り添うのです。愛とは愛する者が愛する相手と同じ立場にまでなることです。相手と連帯化することです。「神は愛である」ということは、神が私たちと同じ立場にまでなり、私たちの問題を、私たちと共に担われるということです。復活の出来事はこのことを、私たちに伝えています。

 ヨハネ福音書20章は、とても興味深い言葉で始まっています。そこでは「週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。[8]」週の初めの日、墓に向かう一人の婦人がいた。この人は墓は人生の終点であり、すべてを呑み込む場所であることを知っていた。未だかつて、墓の向こうまで生きた人はいないからです。日本的に言うならばマリアはイエスの菩提を弔って、残りの人生を主イエスの墓守として過ごそうとしていたのだと思います。しかしマリアは、その墓で、死にて葬られた後に甦ったイエスに出会った。眠っていた者が目覚めたのではなく、確実に死して葬られた者が甦ったことを知らされた。神が働かれる所では、墓は私達が行きつく最後の場所ではないというのです。ルターは「死こそ神の仕事場である」と述べています。

 神が働かれる所では、死ではなく生命が、審きではなく救いが、私たちに与えられる最後の現実であるというのです。これは驚くべき世界であり、福音のメッセージです。

 マグダラのマリア[9]は、ガリラヤ湖西岸のマグダラという場所の出身者ですが、ルカ福音書によると「七つの悪霊を持った人」でした。問題多き人だったようです。主イエスによってこれらの悪霊から解放されたマリアは、イエスに従ってエルサレムまで来ていたのです。復活したイエスはこの人に語りかけられるのですが、マリアは最初甦ったイエスを、園の園丁[10]と間違っています。このマリアにイエスの方から声をかけられる。「マリアよ」、彼女は即座に「ラボニ」と答える。生前のイエスをマリアは「ラボニ」と呼んでいたことが偲ばれます。彼女はイエスが死人の中から甦って、もとの人間に戻った人物のように考えたのです。恐らくマリアはイエスが甦らせたべタニア村のラザロのことを一瞬、頭に思い浮かべたかもしれない。

 マリアは親しみを込めて「ラボニ」と呼んだ。マリアはイエスが人となり、肉をまとっていた時と同じ人間であるかのように思ったのです。しかしイエスはラザロのように、また、会堂司の娘ヤイロ[11]のように甦ったのではありませんでした。復活というのは時間的なこと、肉をまとう人間に逆戻りすることではありません。永遠の生命に入ることなのです。だからその時、イエスは私にすがりついてはいけない、と言われたのです。イエスは今や、自らが全く新しい、今までとは違った場所におられることを伝えようとしておられるのです。マリアは歴史的時間の世界にいるけれども、イエスは歴史的時間の外におられるのです。ここに神と人間、時間と永遠の隔たりがある。

 私たちは復活したキリストを、園丁と間違えてはいないでしょうか。そして名を呼ばれた時、「ラボニ」と言って、私たちの仕方でイエスを捉えようとしてはいないでしょうか。私たちは自らの義で、神の義をつかまえ、神の義にまで自分の橋を架けようとして、拒絶されている。それでも神は私たちを「兄弟よ」と呼ばれるのです。キリストが甦えり給うたということは、私たちが、弟子たちが主イエスの兄弟としては何にも値していないにもかかわらず、それでも「兄弟よ!」と呼びかけ給う恩寵の神を知らしめられることです。この方が我らと共に道行きたもうというのです。信仰というのは<それなるが故に>というのではなく、我らの弱さ、罪深さ、不信仰<にもかかわらず>という点に立つことです。

 しかしマリアは、復活のイエスを園の園丁と同じように見る、という錯覚、言葉を変えれば、イエスの復活を人間化し、時間の中に引き入れてとらえようとした。しかしそれは歴史の外にいる、永遠の時間の中にいるイエスによって拒まれています。生前のイエスは、自分のもとに来る者を決して拒みませんでした。しかし今や、イエスはマリアと距離を保とうとされている。その理由としてイエスは、自分は「まだ父のもとへ上っていないのだから」と言っています。父のもとに上るというのは、マリアが、属しているこの地上の本質は、キリストの義と全く区別されるべきものであるというのです。キリストの義は決して私たちの正しさの延長線上にあるものではない、というのです。全く異なった義と救いがあるのに、もしマリアがイエスに触れるなら、その義があたかも同一の地平にあるかのように混同されてしまうというのです。これはイエスの側からの拒否に出会わなければなりません。私たちの思索や思惟の延長線上に、キリストの復活があるのではないのです。

しかし復活のイエスは、マリアと無関係になられたのではありません。そうではなくてマリアに、一つの使命を託される。あなたが今やるべきことは、墓に向かって泣くことではない。私はもうそこにはいない。墓とは反対の方向、死とは反対の方向、生命に向かって歩き出せ、と言われる。

イエスは墓から出たのだから、墓の前に立ってマリアに呼びかけた方が舞台効果はあると思われますが、主イエスはマリアの後ろから、全く予想だにしない方向から声をかけられた。私たちが悲しみの中にある時、私たちの視野は狭くなり、直面している悲しい出来事一点に焦点は絞られてしまう。しかしイエスの復活は、イエスの誕生にもまして力強く、私たちが鍵をかけて閉じこもっている殻を破って声をかけられる。「あなた方に平安があるように」と。そのイエスがマリアに託した使命は、弟子たちへの伝言でした。「私の兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『私の父であり、あなた方の父である方、また、私の神であり、あなた方の神である方のところへ、私は上る』と。[12]

 「私の兄弟たち」とは誰のことでしょうか。言うまでもなく弟子たちのことです。もちろんマリアも含まれています。私たちはここに注目しなければなりません。なぜならここに福音があるからです。自分の義を天よりも高くし、マリアを拒まれたイエスは、同時に、その人に向かって「私の兄弟よ」と呼びかけ給うのです。一体あの弟子たちは、あのペテロは、イエスに対する背信と疑いの故に、みんなイエスを捨てて逃げ去り、何にも値していなかったのではありませんか。一体彼らは「兄弟よ!」と呼ばれるのに値する何をしたというのでしょうか。しかも兄弟というのは、<同じ地位と同じ権利を持っている者>です。ただイエスは一番はじめに生まれた長子であるという違いがあるだけです。このような兄弟として、私たちを呼び給うというのです。主イエスは弟子たちを処罰するために、来られたのではないのです。

 その日の夕方、復活のイエスは弟子たちがユダヤ人たちを恐れ、扉に鍵をかけて閉じこもっているところへ現れ、手とわき腹とをお見せになり、彼らに息を吹きかけ、「聖霊を受けよ」と言われた。この時イエスを捕らえたユダヤ人たちは、自分の師を捨てて逃げ去った弟子のことなど既に眼中になかったのかもしれない。しかしこの弟子たちを前にして、「父が私をお遣わしになったように、私もあなた方を遣わす。」と言われる。自己嫌悪と失意の真っただ中にいる弟子たちに、使命を託される。これほど頼りにならない者たちへの委託があるだろうか。もし人間の力に注目するなら、その通りでしょう。しかしイエスは言われる。「聖霊を受けなさい」と。主なる神が人間を創造された時、神の息吹が私たち人間の命の息吹となった。そして今、復活の命を得た主が、新しい命の息吹を弟子たちに吹きかけられる。ここに新しい命の炎が灯されるのです。この息吹が私たちに日々吹きかけられ、この息吹によって神は、古き私を剥ぎ取り新たな私を創造しようとされるのです。この息吹が私たちに吹きかけられ、この息吹によって神は、恐れと不安と臆病に支配され閉じこもっている私たちを新たな息吹に満たされた者として創り出そうとされるのです。

しかしその場にトマスはいなかった。このトマスはディディモと呼ばれていた。ディディモ[13]というのは「双子」という意味です。実際に双子で生まれたというのではなく、その性格、キャラクターを表現したニックネームだと思われます。この人は主イエスが危険をも顧みず、エルサレムへ上ろうとした時、「私たちも行って、一緒に死のうではないか[14]」とまで言った人です。信仰と懐疑の間を行ったり来たり、まさにディディモ、私たちも経験してきたことであり、今もその渦中にある。恐らく彼は自分だけの世界に閉じこもっていたのでしょう。他の弟子たちが「私たちは主を見た」と言っても、自分は「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、私は決して信じない。[15]」と言う人でした。「八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあった」八日前にイエスが現れ、弟子たちに息を吹きかけて「聖霊を受けなさい」と言われたけれども、弟子たちは依然として鍵をかけて閉じこもっていた。私たちが古き私を脱ぎ捨てるということも、一筋縄ではいかないようです。

今回はトマスも一緒にいた。この人に対してイエスはどうされたか。「あなたの指をここに当てて、私の手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、私のわき腹に入れなさい。」と言われた。マリアの場合とは対照的。マリアに対しては、「私に触ってはいけない」と言われた方が、ここでは全く逆です。これは驚きです。私たちはよく懐疑論者トマスなどと言う。しかしここを読んで私が感じ打たれるのは、トマスの態度よりもイエスの態度です。本当に復活のイエスの態度に、圧倒されるのです。今や死に打ち勝ち、栄光の座につきたもう者が、ただ一人の人を捉えるために、あなたの手を伸ばして私の傷口に差し入れなさいと言われる。

高きにいますイエスは、ここで無限にと言ってよいほど低くなり、仕える者となっておられる。トマスを獲得するために、今一度ご自身を差し出しておられる。信じないお前はダメな奴だと言って排除してはいないのです。信じられないなら信じられないままで、トマスを受け入れておられる。アブラハム、イサク、ヤコブを選び、預言者たちを選び給うた神は、今、疑い深い一人の人間を選び出すために、全力を尽くし、彼に仕えているのです。おおげさな言い方をすれば、ここに全聖書が集約されている、聖書の深さと頂点がある、と言っても過言ではないと思うのです。「神は愛である」ということのすさまじさを思い知らされる。一匹の羊がいなくなったら、見つけるまで探される、というのはこういうことなのだということを改めて悟らされる。この方の前で私たちの信仰は、いやが上にも燃え上がらないではいない、のではないでしょうか。このイエスの迫力の前にさすがのトマスも「わが主よ、わが神よ」と叫ばざるを得なかった。

ペテロともう一人の弟子は墓の中まで見ましたが、何も見つけられませんでした。歴史的事実はそこに事実としてありますが、それだけでしかありません。空になった墓は、何も語ってはくれないのです。マタイ福音書28章では、天使が「イエスは復活した[16]」と語っています。そして主イエスが説教しています。天使は相呼応したかのように、イエスの誕生と復活の場面に登場します。天使とはこの世に存在するものではありません。天使は超歴史的、超時間的な存在であり、神の意思を伝える者。その天使が「あの方は復活なさった」と告げています。この説教によって私たちは主イエスがよみがえられたこと、またそのよみがえりの意味が明らかにされるのです。一つの事実、出来事が、言葉によって、説教によって解明されています。そしてこの説教によって、弟子たちの信仰が呼び起こされ、信仰的な認識に到達しているのです。

 イエスが甦ったとか墓が空であったという単なる出来事だけでは、その出来事は私たちの信仰の支えにはなりません。このことはイエスが生まれた時でもそうです。一人の男の子が生まれたというだけでは、これは大した意味を持ちません。しかし聖書の記者はイエスが馬小屋で生まれたという出来事に呼応して、天の使いたちがあの馬小屋で生まれた子供はイエスであると語り、「その名はインマヌエルと呼ばれる」と説教しています。この説教を聞いて、私たちの信仰が呼び覚まされ、馬小屋で生まれたみどり子こそ私たちの救い主であることを知らされるのです。歴史的な出来事はそれが、御言によって解明されなければ、単なる出来事でしかありません。

イエスが生まれたことを信ずるというこの信ずるというのは、御言によって、説教によって照らし出されたことが、私たちの信仰の現実となるということです。御言がなければ、歴史は救いの歴史になりません。ここに歴史的な事実と御言の結びつきがあります。ここに私たちが聖書を読み、説教を聞かなければならない理由があります。

 もう一か所パウロがキリストの復活を証言している言葉があります。

 コリント人への手紙第1において「死者(人間一般)の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです。[17]」とあります。あれあれ、変だなあ、と思いませんか。キリストの復活がなければ、死者(人間一般)の復活もない、となるべきではないのか?と私たちは考えてしまいます。

しかし聖書は、死人の復活がないなら、キリストも復活しなかったというのです。ここでパウロが言おうとしていることは、死者(人間一般)の復活がないなら、キリストが甦ったことも無意味になると言っているのです。つまり、キリストが甦ったということは、人間が死から救い出されて復活するためだったのだから、キリストが復活したということは、同時に人間の死者の内からの復活を保証しているというのです。「イースターおめでとう」という言葉は、一人キリストが甦られたことを祝うことではなく、同時に私たちの復活が確かなものとされたことを祝う言葉でもあるのです。

 そしてこの私たちの甦りは、私たちの死後において起こることなのですが、甦って歴史の中に現われたイエスは、弟子たちに「恐れるな」と繰り返し語っています。甦えりというのは英語では、resurrection と言います。

 この言葉の語源はラテン語で、surgere(起き上がる、立ち上がる)という言葉にre (再び)という接頭語がついたものです。再び立ち上がる、何度でも起き上がるという意味です。だからパウロは、「死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。[18]」と高らかに歌い上げているのです。トマスの不信仰、マリアの深い悲しみ、弟子たちの恐れに対して、繰り返し「恐れるな」「私は世の終わりまで、いつもあなたと共にいる。[19]」と語っています。マタイはクリスマスのインマヌエル(神、我らと共にいます)の予言がこういう形で実現したことを伝えて、その福音書を締めくくっています。

この甦った主イエスは、天に上り、全能の父なる神の右に座し、日夜私たちの罪を執り成しておられる。今は、聖霊がこの主イエスを私たちに証して、私たちの信仰を更に更に激励し、勝たしめる保証を私たちに与え、私たちの弱き現実にもかかわらず、「兄弟よ!」と呼びかけ、再び立ち上がらせた給うのです。この方が私たちの下に来て、私たちの中に住み給うということを知らしめられる日が復活節です。 

「イースターおめでとうございます。」何と深い意味を湛(たた)えた言葉ではないでしょうか。


[1] ヨハネ福音書19:34

[2] マタイ福音書27:57「金持ちでイエスの弟子」、マルコ福音書15:43「身分の高い議員」、ルカ福音書23:50~51「神の国を待ち望んでいた」「善良で正しい人」

[3] 第2テモテ4:2

[4] ヨハネ福音書20章19、26

[5] ルカ福音書24:42

[6] ヨハネ福音書20:20

[7] ヨハネ第一の手紙4:16

[8] ヨハネ福音書20:1

[9] マグダラのマリア:熱情的性格の婦人。ガリラヤ湖畔のマグダラの出身で「七つの悪霊」を追い出してもらってから、イエスに従うようになったといわれる。(ルカ8:2)その財産をもってイエスに仕えた婦人たちの一人である(ルカ8:3)。十字架のイエスを<遠くの方から見ていた>(マタイ27:56)ばかりでなく、その埋葬に立ち会って<納められた場所を見とどけた>(マルコ15:47)。その後3日目、週の初めの日にイエスの死体に塗る香料を携えて墓に行き、そこで復活の主を拝した(マルコ16:1、ヨハネ20:11~18)(聖書辞典から)

[10] 園丁:公園や庭園の世話・手入れをする人。植木職人。庭師。(国語辞典から)

[11] マルコ福音書5:21~43

[12] ヨハネ福音書20:17

[13] ヨハネ福音書11:16、20:24、21:2

[14] ヨハネ福音書11:16

[15]  ヨハネ福音書20:25

[16] マタイ福音書28:5

[17] コリント人への第1の手紙15:13

[18] コリントの信徒への手紙1 15:55 15章全体をじっくりと時間をかけて読んでみてください。

[19] マタイ福音書28:20

(2022年4月24日 聖日礼拝)

2022年4月23日土曜日

ウクライナのビザンツ=スラブ式ミサ

富栄徳さんが動画を編集してご提供くださいました。「『ウクライナのビザンツ=スラブ式ミサ』より『信仰宣言』『主の祈り』の部分を紹介します。60年ほど前の音源です。ウクライナに一日も早く平和が戻ることを祈ります」(富栄さん)。ありがとうございます!

2022年4月17日日曜日

わたしは主を見ました(2022年4月17日 イースター)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)


讃美歌21 キリスト・イエスは 325番(1、3番)
奏楽・長井志保乃さん 字幕・富栄徳さん

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「わたしは主を見ました」

ヨハネによる福音書20章1~18節

関口 康

「マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、『わたしは主を見ました』と告げ、また、主から言われたことを伝えた。」

イースターおめでとうございます。今日はイエス・キリストの復活をお祝いするイースターの礼拝です。

昨日のことです。礼拝看板を林芳子さんに書いていただいたとき、「イースターとカタカナで書いてください」とお願いしました。日本国内で、教会以外の場所で「イースター」が知られるようになっているからです。

突然の勢いだったことをよく覚えています。「イースター」が大きく取り上げられるようになったのは最近です。正確な時期を調べてみたらだいたい私の記憶通りでした。2010年に千葉県浦安市にある東京ディズニーランドが「ディズニー・イースター・ワンダーランド」というテレビコマーシャルを大々的に展開して以来です。当時私は千葉県松戸市に住んでいて同じ千葉県の東京ディズニーランドの動きに関心がありましたので、その衝撃を体で覚えています。

つまり、まだわずか12年前です。世界のキリスト教の歴史はもちろんですが、日本のキリスト教の歴史と比べてもごく最近のことです。教会の常識が社会の常識になるまでにどれほど時間がかかるかを思わされる一例です。

しかし、日本国内で急激に「イースター」という言葉が知られるようになってからも、しばらくは、それが何を意味するかの説明が不足していました。私ははっきり覚えていますが、インターネットで「イースター」を調べても、まるでキリスト教と無関係であるかのような記事をよく見かけました。

ところが、今は事情が一変しています。一般的な製菓会社や旅行会社が、イースターとキリスト教の関係を明確に書いてくれています。正しい理解が進むのはありがたいことです。

例を挙げておきます。ある製菓会社のホームページに次のように記されています。「日本では、まだあまり広まっていないイースターですが、キリスト教圏の国ではキリストの誕生日を祝うクリスマスよりも大事なイベント。そもそもイースターとは、十字架にかけられて亡くなったキリストが、その3日目に復活したことを祝う『復活祭』なんです。宗教的にもとても意味のある日で、イースターを祝って、学校が数週間休みになる国もあるそうですよ」(江崎グリコHPより引用)。

昔から「クリスマス」はよく知られています。教会のクリスマス礼拝のチラシでよく見かけたのは「本物のクリスマスを教会で」という言葉でした。しかし、これからは「本物のイースターを教会で」と言わなければならないかもしれません。それくらいの勢いだと申し上げておきます。

しかも、このたび調べてみて印象的だったのは、いま引用した文章もそうですが、一般的な会社こそがまっすぐ「キリストの復活を祝う日である」と書いてくださっていることです。「キリスト教圏の国では」と限定はありますが、教会が大事にしてきた「キリストは3日目に復活された」という信仰告白を尊重してくださっている書き方です。「ありがとうございます」とお礼を申し上げたい気持ちです。

そうです、わたしたちの救い主イエス・キリストは、十字架にかけられて息を引き取られた3日目に復活されました。そのことを教会は信じています。私ももちろん信じています。

しかし、問題はここから先です。イエス・キリストは「どのように」復活されたのかという問いかけに対しては、いろんな答え方があります。

教会の教えの中で特に重要なのは、使徒言行録1章3節に記されている言葉です。「イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された」こと、そして「イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった」(同1章9節)ことです。

これをキリストの昇天(しょうてん)と言います。なぜこれが教会の教えの中で重要なのかといえば、わたしたちも毎週の礼拝の中で告白している「使徒信条」において「(主は)十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり」と告白しているからです。

使徒信条の原型とされる紀元2世紀後半(100年代)の「ローマ信条」にもキリストの昇天の教えが含まれています。復活されたイエスさまは、その後、弟子たちの目から見えなくなられました。それが矛盾していることだと、聖書も教会もとらえたことがなく、両立する真理であると信じています。

今日の朗読箇所に記されているのは、イエスさまがまだ天にあげられる前のことです。マグダラのマリアが、イエスさまが納められたアリマタヤのヨセフが所有していた墓に行ったとき、墓から石が取りのけてあるのを見たことから始まっています。

そして、その墓が空だったこと、イエスさまを包んでいた亜麻布が残っていたこと、そこに来た2人の弟子が帰った後も墓の外で泣いていたマリアのもとに2人の天使が現れ、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と尋ねたこと。マリアが泣いている理由を天使に答えたとき、イエスさまが立っておられるのが見えたこと。マリアは最初イエスさまだと分からなかったが、イエスさまのほうから「マリアよ」と声をかけてくださったのでイエスさまだと分かったこと、そしてそのことをマリアは2人の弟子たちに「わたしは主を見ました」と告げたことが記されています。

現代人であるわたしたちは、どうしても、これが客観的な事実かどうか、マリアの主観的な心の中での出来事に過ぎないかどうかが気になります。しかしそれは重要なことでしょうか。そのことよりも、先ほど確認しました使徒言行録1章3節の「イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し(た)」ことのほうが重要ではないかと私は思います。

人生を共に過ごされ、最期まで見守られ、大切な方を失って悲しみの中にある方々にわたしたちは何を語るべきでしょうか。わたしたちもまた大切な存在を失い、悲しみにくれた経験があります。そのとき、わたしたちはどのような言葉で慰められたでしょうか。イエスさまが語られた黄金律、「自分にしてもらいたいことを人にもせよ」(マタイによる福音書7章12節参照)を思い起こすべきです。

マリアは、イエスさまのほうから「マリアよ」と声をかけてくださったとき、それがイエスさまだと気づきました。マリアはイエスさまの残酷な十字架の死を最期まで見届け、墓に葬られたことも知り、しかも、その墓の中が空になっていることに衝撃を受け、深い悲しみの中にいました。

そのマリアにイエスさまが「マリアよ」と声をかけてくださって、御自分が生きていることの証拠をマリアに示してくださいました。あれほど苦しんだイエスさまが、御自分は生きているということを示してくださいました。そのことをマリアは弟子たちに「わたしは主を見ました」と告げました。

それがイエス・キリストの復活であり、わたしたちがイースターをお祝いする意味です。わたしたちが深い悲しみの中にあるときこそ、イエスさまは「御自分が生きている証拠」を示してくださいます。わたしたちが絶望にのみ込まれないように、御自身の存在をはっきりと示してくださいます。

(2022年4月17日 イースター礼拝)

2022年4月10日日曜日

祈りの家(2022年4月10日 聖日礼拝)

宣教「祈りの家」関口康牧師
讃美歌21 うつりゆく世にも 299番(1、4節)
奏楽・長井志保乃さん、字幕・富栄徳さん

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 「祈りの家」

マルコによる福音書11章15~19節

関口 康

「わたしの家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである。」

今日の聖書の箇所は、時代や状況にかかわらず読みにくいし、話しにくい内容を含んでいます。最も端的にいえば、イエスさまが誰の目で見ても明らかな仕方で暴力行為に及ばれました。

事の発端はイエスさまと弟子たちがエルサレムに到着され、エルサレム神殿の境内に入られたことです。そのとき初めてご覧になったわけではなく、ずっと前から同じ光景だったに違いありませんが、神殿の境内で商売をしていた人たちをイエスさまが力ずくで追い出され始めました。「両替人の台や鳩を売る者の腰掛けをひっくり返され」(15節)ました。「境内を通って物を運ぶこともお許しにならなかった」(16節)とも記されています。

この事件は4つの福音書すべてが記しています。ヨハネによる福音書には「イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒した」(2章15節)ことまで記されています。

「縄で鞭を作られた」という点は特に重要です。意図的ではなかった、あくまで偶然の出来事だったという言い逃れは成り立ちません。明確な意図があり、激しい感情を伴い、物理的な暴力をもって、神殿から商売人と商売道具のすべてを排除されました。

改めて読んで気づかされたことがあります。4つの福音書に共通しています。この行為に及んだのはイエスさまだけでした。「イエスが」したと記されているだけです。12人の弟子は暴力に加担していません。加担していたら「イエスと弟子たちが」したと記されるはずですが、そう書かれていません。弟子たちは黙って見ていただけでした。加担した証拠がありません。

しかし、もしそうなら、なおさら考えさせられます。イエスさまおひとりだけであれば、被害を受けた商売人や買い物客や通行人が大声で叫んで「この人を捕まえてください」と訴えれば、即刻ローマ兵がかけつけて現行犯逮捕してくれたかもしれませんが、そうなりませんでした。

なぜそうならなかったかの理由は、今日の範囲の18節に記されていることから分かります。「群衆が皆その教えに打たれていた」(18節)。これで分かるのは、神殿の境内にいた人たちの中にイエスさまがされたことを歓迎するムードがあった、ということです。

それどころか、イエスさまがつかみかかった相手である商売人たち自身すら、抵抗した様子が全くどこにも描かれていません。もしイエスさまがおひとりなら、1対1で立ち向かう商売人が出てきそうな場面ですが、そうなりませんでした。

その理由は「群衆が皆(イエスさまの)教えに打たれていた」(18節)からです。言い方を換えれば、なぜイエスさまがこのようなことをされているのかが、その場にいた人たちに理解できたし、支持することも、応援することすらもできたからです。それほどまでに神殿側にいるユダヤ教の指導者たちの腐敗や堕落の様子が一般市民の目に明らかだったのかもしれません。

イエスさまご自身が表明された理由は次のとおりです。「『こう書いてあるではないか。「わたしの家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである。」ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしてしまった』」(17節)。

繰り返し確認しながら慎重に読み進める必要があるのは、「だから暴力行為は肯定されるべきだ」という意味にはならないという点です。理由があれば、周囲の支持があれば、暴力は仕方がないという論調に加担すべきではありません。

イエスさまご自身も、この暴力について謝罪もしておられませんが、「仕方がなかった」というような弁解はなさっていません。

弟子たちを全員巻き込んで「わたしと一緒に戦いなさい」ともおっしゃっていません。責任が問われる日が来れば、すべてひとりで背負うおつもりでした。それこそが、今日の箇所を含めて4つの福音書すべてに描かれているこの事件の真相です。

イエスさまがおっしゃった「わたしの家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである」(17節)は、旧約聖書のイザヤ書56章7節の引用です。

現在の聖書学者は、イザヤ書を少なくとも2つに分けて、1章から39章までは紀元前8世紀に書かれ、40章から66章までは紀元前6世紀に書かれたので、時代が2世紀も離れている以上、著者は別人であると結論づけます。

そのことから考えれば、イザヤ書56章に出てくる「祈りの家」は、紀元前10世紀にソロモンが建てた第一神殿でなく、バビロン捕囚後に再建された第二神殿を指すと言えるかもしれません。

しかし、そのこととイエスさまは無関係です。イエスさまは「複数のイザヤ」のことはご存じなかったでしょうし、どうでもいいことです。

イエスさまにとって「祈りの家」が「神殿」でなければならないかどうかも考えどころです。イエスさまにとって大事なことは、このときイエスさまが立っておられた「今、ここ」は本質的に「何」なのかです。

イザヤ書56章7節の「わたしの家」がエルサレム神殿を指していることは、否定できません。このときイエスさまがおられたのも同じエルサレム神殿です。

しかしそれでは、たとえば「神殿」でなく「会堂(シナゴーグ)」は「祈りの家」ではないのかというと、そんなことはありません。各個人の家庭は「祈りの家」ではないのかというと、全くそうではありません。

ここは「すべての国の人の祈りの家」であるはずなのに「強盗の巣」になっている。みんなが安心して祈れる場所になっていない。そのことは、イエスさまがはっきりおっしゃっています。

しかし、それは狭い意味で「神殿」や「会堂」などの宗教施設や境内地の使用方法や利用目的の問題だけに狭めて考える必要はありません。

具体的に言います。この箇所に関してよく聞く話は、礼拝堂を使用してバザーをしたり、音楽集会をしたりすることの是非の問題だったりしますが、それは全く別の話です。幼稚園との関係に直接かかわる問題なので、この点は譲れません。

ここでイエスさまが問うておられるのは、場所の問題、建物の問題というよりも、心の問題、信仰の問題です。「あなたがたは、何のために集まっているのですか。何のために礼拝しているのですか。本当に礼拝しているのですか。本当に祈っているのですか」という根本的な問いです。

しかし、だからと言って暴力を肯定してよい理由にはなりません。私が唯一救いを感じるのは、イエスさまにふだんから暴力癖があったわけではないことです。後にも先にもこの一撃だけです。

読みにくいし話しにくいこの箇所を繰り返し読むのは、「教会」のあり方を反省する機会になるからです。ふだんは穏やかなイエスさまをここまで怒らせたのはだれなのかを考えるべきです。

(2022年4月10日 聖日礼拝)

2022年4月3日日曜日

謙遜と和解(2022年4月3日 聖日礼拝)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)
讃美歌21 十字架のもとに 300番(1、3節)
奏楽・長井志保乃さん、字幕・富栄徳さん

礼拝開始のチャイムはここをクリックするとお聴きになれます

宣教要旨(下記と同じ)PDFはここをクリックするとダウンロードできます

「謙遜と和解」

マルコによる福音書10章35~45節

関口 康

「いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。」

今日の箇所のイエスさまは、弟子たちと一緒にエルサレムへと向かわれる途中です。マルコによる福音書では11章から16章に、イエスさまがエルサレムに到着されてから十字架の死と復活までの出来事が描かれていますが、今日は10章です。まだエルサレムに到着しておられません。

旅の途中、直前の段落の中で、イエスさまが弟子たちに御自分に起ころうとしていることを、たとえを用いずはっきりと語られました。「今、わたしたちはエルサレムへ上っていく。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。そして、人の子は三日の後に復活する」(33~34節)。

なぜイエスさまは、まだ事実が起こる前にこのようなことをご存じだったのかと、詮索してはいけないと私は思いませんが、満足できる答えが与えられることはないでしょう。しかし、このことを私たち自身に引き寄せて考えてみれば、意外なほど、私たちは自分の身に将来起こること予測しながら生きていることに気づくでしょう。

しかもその際、多くのケースで「人生経験」が物を言います。石川先生と私を比較するような言い方をするのはおこがましいですが、共通点は、東京神学大学を卒業した24歳から今日まで、牧師ひと筋で生きてきたことです。石川先生は71年、私は32年です。

なぜ石川先生と私の「人生経験」の話をするのかといえば、理由は2つです。ひとつは、私はともかく、石川先生ほどの人生経験があれば、イエスさまと全く同じではないとしても、かなり「これから自分に起こること」を予測できるようになると申し上げるためです。前向きな話です。

しかし、もうひとつの理由は、石川先生ではなく、私のお詫びです。牧師ひと筋で生きてきた者たちにとって、人生経験を積んできた場はもっぱら「教会」です。失敗経験を積んできた場も「教会」です。だから話しにくい面がありますし、ほとんどお詫びの気持ちしかありません。

牧師の失敗は、教会の中でのトラブルです。牧師自身がトラブルの原因になることもあれば、教会内のトラブルを解決できないのも牧師の失敗です。人生経験で予測がつくとは、そういうことです。「こういうことがあるときに、こうすれば、こうなる」の流れが分かる、ということです。

牧師たちの現実と、イエスさまの身に起こったことを結びつけないほうがよいかもしれません。しかし、イエスさまがはっきり名指しされた死刑宣告者は「祭司長たちや律法学者たち」です。当時の文脈ではユダヤ教の指導者を指しますが、ユダヤ教を悪者にして済む問題ではありません。

今のわたしたちの状況に置き換えて言えば「教会」です。プロテスタントの職名で「教会役員、牧師、神学教師」です。「私はそのような人たちから死刑宣告を受けることになる」とイエスさまが予測され、名指しされているとしたら、どうでしょうか。私などはつらくて耐えられません。

今日の箇所の内容に入っていませんが、関係あることをお話ししているつもりです。ヤコブとヨハネがイエスさまに「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください」(37節)と申し出ました。

この申し出の意味は「我々も一緒に死にますので、天国で我々を特別扱いしてください」です。そこでイエスさまは彼らを「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない」(38節)と厳しくお叱りになります。

そのうえで「このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか」と問われますが、彼らは「できます」(39節)と答えます。するとイエスさまは「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる」と認めてくださいます。 

彼らは出まかせを言っていません。事実、彼らはイエスさまと同じ杯を飲み、同じ洗礼を受けました。たしかに弟子たちは、イエスさまと共に十字架にかかるどころか、ひとり残らず逃げました。しかし、イエス・キリストの復活と昇天、そして聖霊降臨によって生まれた教会の中で、信仰を貫き、最後は殉教しました。この点を無視してはいけません。

しかし、このイエスさまとヤコブとヨハネとのやりとりを横で聞いていた他の10人の弟子たちが怒り出したというのです。すぐ分かる原因はヤコブとヨハネがイエスさまに取り入ろうとして出し抜いたからですが、ただの勢力争いというよりも、もう少し深い意味があります。

先ほど「殉教」と申しました。直接的には信仰を貫いて殺されること、死ぬことを意味します。しかし、大切なのは、死の瞬間だけではなく、そこに至る途中のすべての過程が大切です。天国に入れてもらえるかどうかという観点だけでいえば、イエスさまを信じる信仰を守るために人生のほとんどすべての時間と労力を注いできた人も、死の間際の最期の瞬間に信仰を告白した人も、信仰を告白する機会を得られなかった人も、天国そのものにおいての大差はありません。

これこそがイエス・キリストの福音に基づく教会の教えの核心部分です。わたしたちが救われ、天国に迎え入れられるのは、努力や行いや功績によらず、ひたすら一方的な神の恵みによります。教会の歴史をご存じの方から「それはプロテスタント的な解釈だ」と言われるかもしれませんが、わたしたちはプロテスタントです。

しかし、こういう一種の平等主義的な教えは、多くの人々の不満や反発を必ず引き起こします。がんばった人も、がんばらなかった人も、何もしなかった人も、みな同じなら、がんばった人は損するではないか。「みな同じだと初めから分かっていれば、こんなにがんばらなかったのに」と、がんばった人たちが「失った時間と労力を返してほしい」と言い出すことに必ずなります。

いま申し上げたことから、ヤコブとヨハネの申し出の意味を考え直すことができます。彼らが他の弟子たちとは異なる扱いをしてほしいとイエスさまに申し出たのは、我々は他の怠けている弟子たちとは全く違い、がんばっているので、ふさわしい評価をしてほしいと言っています。

他の弟子たちが腹を立てた理由も同じです。彼らはイエスさまの働きをだれがいちばん助けているか、だれがいちばんがんばっているかを競争し、他の人を蹴落とすことに必死です。教会の中に競争社会の価値観がそのまま持ち込まれているのと同じです。

イエスさまのお答えは「いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい」(44節)でした。天国の順位や、弟子の中の順位や、教会の中の順位が気になる人は、いちばん下に立って(天国と教会の)全責任を負いなさい、ということです。

ここから先は私の想像です。イエスさまはため息交じりに笑っておられたと思えてなりません。あなたがたは謙遜を学ぶために私の弟子になったのではないのか。私のもとでまだ争い続けるのか。もっと仲良くしようではないか。互いに励まし合って人生を喜び楽しもうではないか。そのように、イエスさまが弟子たちに諭しておられるお姿を、私は想像します。

(2022年4月3日 聖日礼拝)