2022年6月26日日曜日

十人のおとめたちの信仰(2022年6月26日)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)

讃美歌21 358番 小羊をばほめたたえよ
奏楽:長井志保乃さん 字幕:富栄徳さん

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「十人の乙女たちの信仰」

マタイによる福音書25章1~13節

秋場治憲

「賢い乙女たちは、それぞれともし火と一緒に、壺に油を入れて持っていた」

 私たちは教会暦に従うなら、昨年12月に降誕節を祝い、そして3月に受難節、そして復活節(イースター)、昇天、聖霊降臨節(ペンテコステ)を経て、今日は主イエスが再び来たりたもう日(再臨)を待ち望む今日であり、聖霊降臨節第3主日の礼拝をしています。そしてこの聖霊降臨節は、再び待降節(クリスマス)へと向かいます。

 神の右に挙げられたキリストが、再び来たり給うその日を待ち望むということは、それはこの歴史が終わりを迎える日が到来するということです。

使徒信条[1]に従うなら、

「我はその独り子我らの主イエス・キリストを信ず、主は聖霊によりて宿り、乙女マリアより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、よみに下り、三日目に死人のうちより甦り、天にのぼり、(ここまでは完了形。すでに終わったこと。)全能の父なる神の右に座したまえり(ここは現在形。今現在のこと。) かしこより来りて、生ける者と、死ねる者とを裁きたまわん。」(ここは未来形)

  我らの主イエス・キリストは十字架の死において私たちの罪を贖い、そして甦り、死が私たちの行きつく最終的な現実ではないことを示し、そして今現在、天の父なる神の右に座しておられ、日夜我らの為に執り成してくださっている[2]。私たち人間の存在もキリストにおいて、神のそばにまで引き上げられると告白しています[3]

かしこより来りて、生ける者と、死ねる者とを裁きたまわん。」ということは、その時には悪魔や闇や、虚無が支配する世界に引きずり降ろされるのではなく、私たちもキリスト共に昇天を共にし、神のそばに引き上げられる、と告白するのです。そしてキリストの昇天は、このことの予表であり、道しるべだというのです。

 「我は聖霊を信ず、聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体のよみがえり、永遠の生命を信ず。」

 「聖霊を信ず」とは、今も生きて働いておられる方[4]を信ずるということ。聖霊は神の右に座しておられる方が、日夜父なる神に我らの罪の執り成しをして下さっていることを、我らに証して下さる方。故に我らはこの地上においては、この聖霊に励まされ、教会を信じ、聖徒の交わりをなし、罪の赦し、身体のよみがえり、永遠の生命を信じてその時まで生きて参ります、という信仰告白を私たちは毎週告白しているのです。

 今日のテキストは使徒信条ではなく、マタイ福音書25章の「十人の乙女たち」です。原始キリスト教団と呼ばれている時代のキリスト者たちも信仰を持ち、主の再臨を待ち望んでいた。しかし主は中々来られない。中には信仰から離れていく者、自暴自棄になっていく者が出始めた。そういう状況の中で、福音書記者たちは終末に関しての信仰のあり方を明確にするという必要性が出てきた。今日のテキストは私たちに、信仰のあり方を教えています。

 当時人々にはまだ新約聖書がありませんでした。そんな中で人々はこの終末、世の終わりがいつ来るのか、どこで起こるのか、ということが最大の関心事になってきていました。何とかこの終末という出来事がいつ起こるのか、その時にはどんな前兆があるのか、何とかこの終末(世の終わり)という問題を自分が理解できる範囲に、自分の手の内に握ろうとするのです。何とか歴史の中で起こる出来事に引き下げようとする。人間はどこまでも神と等しくあろうとする存在のようです。創世記における蛇の誘惑も「神のようになる[5]」でした。

マタイ福音書24章は、それはノアの時と同じように、突然やってくるということを「ノア」の例と「忠実な僕と悪い僕」の例をもって説明しています。だから「目を覚ましていなさい」と警告しているのです。今日のテキストもその範疇に入るものです。ルターはこの問題について「私は明日世の終わりが来るとしても、庭にリンゴの木を植えよう。」と語っています。

10人の乙女たちがともし火を持って、花婿を迎えに出ていく。5人は愚かで、ともし火は持っていたが、予備の油を用意していなかった。5人は賢い乙女たちでともし火と共に、予備の油を壺の中に用意していた。しかして花婿の来るのが遅れたので、10人の乙女多たちは皆眠気がさして眠り込んでしまった。真夜中に「花婿だ。さあ、迎えに出なさい。」と声がかかった。花婿の来るのが遅れたので、乙女たちのともし火は今にも消えそうになっていた。賢い乙女たちは予備の油を壺から出して、ともし火を整えた。愚かな乙女たちは賢い乙女たちに、油を分けて下さいと頼んだが、「分けてあげるほどはありません。それより店に行って自分の分を買ってきなさい。」と言われてしまった。愚かな乙女たちが買いに行っている間に、花婿はやって来て、賢い乙女たちは花婿と共に婚宴の席に入り、そして戸が閉められた。愚かな乙女たちが遅れてやってきて、「御主人様、御主人様、開けて下さい」と言ったが、しかし主人は「はっきり言っておく[6]。私はお前たちを知らない。」と答えた。「だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから」という結論です。

この結論部の「目を覚ましていなさい」という言葉は、決して眠ってはいけないということではありません。何故なら10人全員が眠り込んでしまっていたのですから、そういうことではなく、ここは常にそのための備えをしていなさい、ということ。この箇所は私が40年前に補教師試験を受けた時の課題テキストでした。ここをテキストにして説教を書き、提出しなさいというもの。当時の原稿の写しはもうありませんが、記憶の中には残っています。この箇所は次の「タラントンの譬え」と共に私にも、長い間分からなかったテキストです。

 長い信仰生活の中でこの箇所をテキストにした説教を、何度か聞く機会がありました。その中ではこの「油」は、信仰である。我らはその信仰を堅く保ち、主の来臨に備えていなければならない、というものだったと思います。その通りなのですが、その信仰というものがよく分かっていない私にはしっくりしない。そんな中でこの箇所をテキストにして説教を提出しなさい、という課題が与えられたのです。しばし眠れない日々が続きました。何をやっていてもこの箇所が頭から離れない。提出の期限は迫ってきます。色々な注解書を読んでみても、どうしてもしっくりこない。そんなある日神様は見かねたのだと思いますが、一条の光が差し込んできた。私には天が開けた思いがした。何とこのちいさな譬えの中に、信仰とは何かということが記されているではありませんか。聖書というのはすごい書物。この簡単な子供でも分かるような譬えの中に、信仰のあり方がきちんと説明されていることに気づかされた。

 どういうことかと言いますと、愚かな乙女たちは自分の持っているともし火が切れる前に、花婿は来る、来るはずだと考えていた。だから予備の油を用意していなかった。彼女達は自分の判断、自分の経験に自分の信仰の土台を置いていた。自分の判断を花婿の上に置いた人たち。自分の判断を信じた人たち。これに対して賢い乙女たちは、壺の中に予備の油を用意していた。信仰の土台をどこまでも花婿に置いた人たち。花婿はいつ来てもいい。自分の判断ではなく、神の判断を受け入れ、信じる人たち。ゲッセマネの園における主イエスの信仰に通じる。

 私たちは自分の願い、願望が受け入れられない時、事態が自分の願いとは反対の方向に向かう時、神は私たちに益々信じることを求められる。何故なら神が私たちの願いを聞き入れたもう時、あたかもその願いが気にいらないかのように、その願いを聞き届けるつもり[7]がないかのように、我らの考え、思いとは逆になるような仕方でこれを与えたもうからです。自分の判断、自分の経験に従う者は、神のこの意向に耐えることができない。油切れとなり、右往左往するしかなくなる。何故なら、その人の希望は神にではなく、自分にかかっているからです[8]。この時私たちは、賢い乙女たちと共に予備の油を壺の中から取り出し、そのともし火を燃やし続けることが信仰です。

 それは神はご自身に属するものを与えたもう前に、我らの内にあるものをまず破壊し、空しくしたもうという神の性質によるのです。我々が打ち砕かれ、神の前に純粋に受動的になる時、神はご自身に属するものを与えたもうのです。「主は貧しくし、また富ませ、陰府に下し、また挙げたもう[9]」とサムエルの母ハンナが祈っている通りです。神はこのはかりごとにより、我らをして神の働きと賜物を受け入れるに足るべき者と為したもうのです。「私は愛する者を皆、叱ったり、鍛えたりする。」とはそういうこと。

 これに反して自分がすべてを正当に求め、欲し、祈願していると思い込んでいる者は、自分の思ったように事が運ばないと、更に一層希望を持つべきであったにもかかわらず、神は自分の願いを聞いてくれない、与えることも欲したまわないと判断してくずおれ、疲れ、絶望してしまうのです。何故なら私たちの判断は見えるところによって、すべてを判断するからです。自分に栄光が帰せられないことには、耐えられないのです。

 神がキリストを栄光の座に据えようとされた時、神はその思いとは反対に、キリストを狼狽させ、死なしめ、陰府に下したのです。神はすべての聖徒たちにおいても[10]、大なり小なりこのようになし給うのです。主イエスはこの杯は受けたくないという状況にあって、なお「しかしわが思いではなく、あなたの御心が成りますように[11]」とその信仰の土台を父なる神に委ね、死に至るまで従順であられた[12]。神はこの方を神の子と認定し、ご自身の右に座すものとされ、今現在、日夜我らの罪の執り成しをして下さっている。だから我らは何回失敗しても、何回躓いても、背中を押されて、新たな一歩を歩みだすことができる。これが「全能の父なる神の右に座したまえり」と現在形で書かれていることの内容です。

 自分の願ったように事が運ばない時、それは正に神が私たちの願いを聞き届けようとしておられる時であり、益々信じ、希望を持ち続けなさい、と言うのです。主イエス・キリストの復活は、その私たちが抱く希望が、決して失望に終わる[13]ことはないということを身をもって示されたのです。

マリアに、トマスに、ペテロに、エマオ村のクレオパに、念には念を入れ、魚まで食べて見せ、実になりふり構わず、やって見せた。主イエスが生きておられることに気づくまで、何度でも、どこまでも・・・。もし私たちが意気消沈し、沈没してしまうなら、このキリストの苦難の生涯と甦りを空しいものとしてしまうことになります。神はこれだけのことをして私たちにエールを送っておられる。こんな神は洋の東西を問わず、他のどこにも存在しない。その神が選ばれた相手は他でもない、神の子を十字架につけた罪人だというのですから、我らは畏れ、ひれ伏す以外にない。

 それ故、神とその御心についてこの知識を持たぬ者たちは、詩篇106:13、24[14]にあるように、彼らは神のはかりごとを堅持しなかった、また彼らは望ましき地を空しいものと思った、と言われているのです。従って御霊を持たない者たちは、神のみわざから逃避し、みわざが生じることを欲せず、むしろ自分自身を形成しようとするのです。それ故、み霊を持つ人々は、彼らが心から祈ったこととは反対のことが生じると思う時でも、絶望しないで堅く信じるのです。

 「キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません[15]

「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。[16]

「油」は神の霊の象徴なのです。「油注がれた者」とは、「神の霊が注がれた者」ということであり、「御心にかなう者」という意味です。この方に信仰の土台を置く人たちは、汲めど尽きせぬ泉が、湧いて出るという、主イエスがスカルの井戸端でサマリヤの女に語った言葉[17]を思い出します。

この時主イエスは、「汝の水を我にも飲ませよ」と言われた。あなたが飲んでいる水を、私も共に飲もうと言われるのです。

 いつ主イエスは来られるのか、いつ世の終わりが起こるのかを問うのではなく、いつ来られても迎える準備ができている信仰生活が求められています。日本基督教団の信仰告白は、この局面を「愛のわざに励みつつ、主の再び来たりたもうを待ち望む」と告白しています。ここで魂はこう語りかけられる。「雄々しくあれ、待ち望め、汝の心を強くし、主を堅持せよ![18]」と。

「私たちの内に働く御力によって、私たちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのおできになる方に、栄光が世々限りなくありますように、アーメン。[19]

紙面に余裕がありますので、使徒信条英語版と詩を一つご紹介致します。ご存じの方も多いと思いますが、今日の宣教との関連で読んでいただけるなら、また一味違った響きを醸し出してくれるかもしれません。

■The Apostles’ Creed 全文

(A)
I believe in God, the Father Almighty, Creator of heaven and earth, 
and in Jesus Christ,His only Son, our Lord, who was conceived by the Holy Spirit, born of the Virgin Mary,

(B) 
suffered under Pontius Pilate, was crucified, died and was buried; 
He descended into hell; on the third day He rose again from the dead;

(C) 
He ascended into heaven, and is seated at the right hand of God  
the Father Almighty; from there He will come to judge  
the living and the dead.   

(D)
I believe in the Holy Spirit, the Holy Catholic Church, 
the communion of Saints, the forgiveness of sins, 
the resurrection of the body, and life everlasting.  
Amen.

 

     苦しみを越えて

大きなことを成し遂げるために力を与えてほしいと神に求めたのに、

謙遜を学ぶように弱いものとされた。

より偉大なことができるように健康を求めたのに、

よりよいことができるようにと病気を戴いた。

幸せになろうとして富を求めたのに、

賢明であるようにと貧しさを授かった。

世の中の人々の称賛を得ようとして成功を求めたのに、

神を求め続けるようにと弱さを授かった。

人生を享楽しようとあらゆるものを求めたのに、

あらゆることを喜べるようにと命を授かった。

求めたものは一つとして与えられなかったが、

願いはすべて聞き届けられた。

神の意に添わぬものであるにもかかわらず、

心の中の言い表せない祈りはすべて叶えられた。

私はあらゆる人の中で最も豊かに祝福されたのだ。(渡辺和子訳)

 

A Creed[20] For Those Who Have Suffered

 

   I asked God strength[21] , that might achieve

   I was made weak, that I might learn humbly[22] to obey[23]..

   I asked for[24] health, that might do greater things..

      I was given infirmity[25],that might do better things..

   I asked for riches[26], that I might be happy

      I was given poverty, that might be wise

   I asked for power, that might have the praise of men[27]

      I was given weakness, that might feel the need of God..

   I asked for all things, that might enjoy life

      I was given life, that might enjoy all things..

   I got nothing that I asked forbut everything I had hoped for

   Almost despite[28] myself, my unspoken prayers were answered.

   I am among all men, richly blessed !   



[1] 使徒信条はラテン語で書かれています。CREDO(我信ず)と言う言葉で始まっています。

 英語ではApostles’Creed.  Creedは神経、信条と訳されます。

[2] ローマ人への手紙8:34

[3] ヨハネ黙示録3:19以下「私は愛する者を皆、叱ったり、鍛えたりする。だから、熱心に務めよ。悔い改めよ。見よ、私は戸口に立って、たたいている。だれか私の声を聞いて、戸を開ける者があれば、私は中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、私と共に食事をするであろう。勝利を得る者を、私は自分の座に共に座らせよう。私が勝利を得て、私の父と共にその玉座に着いたのと同じように。」

[4] ラテン語の現在形は現在進行形を含みます。

[5] 創世記3:4

[6] Αμην(アーメン はっきりと、明確に) λεγω(レゴー 私は言う) υμιν(あなた方に) という言葉。

[7] サムエル記上2:6・7

[8] 第1ペテロ1:21「あなたがたの信仰と望みとは、神にかかっているのである。」(口語訳)

[9] サムエル記上2:7

[10]「彼(主)の地にある聖徒に、彼(主)は彼らにおける私のすべての意向を驚くばかりに知らしめたもうた」(世界の名著ルターP.448)ウルガータ聖書 詩篇15:3

 また「あなた方は主がその聖徒に不思議をなしたもうことを知りなさい」(同書 詩篇4:4)

[11] これは主イエスの母マリアが、受胎告知を受けた時の祈りでもあります。「私は主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」という信仰において、マリアは確かに主イエスの母ということができると思います。

[12] イザヤ28:21「主はそのみわざを遂行するに、主にとっては異なるわざをなしたもう。」

「しかし、その働きは敵意あるもの」「その御業は未知のもの」(新共同訳)

[13] 「艱難は忍耐を生み出し、忍耐は練達を生み出し、練達は希望を生み出すことを、知っているからである。」(口語訳)ローマ人への手紙5:3、4

[14] 「彼らはたちまち御業を忘れ去り 神の計らいを待たず」(13節)「彼らは愛すべき地を拒み 御言葉を信じなかった。」(24節)(新共同訳)

[15] ローマ人への手紙8:9

[16] ローマ人への手紙8:14

[17] ヨハネ福音書4:14

[18] 詩篇27:14

[19] エフェソの信徒への手紙3:20,21

[20] Creed 信条 信経 Apostles’creed 使徒信条

[21] Strength strong 強いという形容詞の名詞形で 強さ 力 

[22] Humbly 副詞 謙遜して 腰を低くして 

[23] Obey (人に)従う 服従する

[24] Ask for 求める

[25] Infirmity 虚弱、病弱、2.病気、疾患(精神的な)弱点

[26] Rich 豊かな 金持ちの riches 富 richly 豊かに blessed 祝福された

[27] Praise of men 人々の称賛

[28] Despite 前置詞 にもかかわらず


2022年6月19日日曜日

復活を宣べ伝える(2022年6月19日 聖日礼拝)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)

讃美歌21 聖霊よ、降りて 343番(1、4節)
奏楽・長井志保乃さん 字幕・富栄徳さん

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「復活を宣べ伝える」

使徒言行録4章1~22節

関口 康

「しかし、ペトロとヨハネは答えた。『神に従わないであなたがたに従うことが、神の前に正しいかどうか、考えてください。』」

今日の聖書の箇所に描かれているのは、最古のキリスト教会の宣教の様子です。

登場する使徒は、ペトロとヨハネです。「二人が語った言葉を聞いて信じた人は多く、男の数が五千人ほどになった」(4節)と記されています。大変な影響力をもって宣教が拡大しました。

しかし、その前に書かれていることが気になります。祭司長たち、神殿守衛長、サドカイ派の人々がこの2人の使徒を逮捕して翌日まで牢に入れたというのです。それは「イエスに起こった死者の中からの復活を宣べ伝えている」(2節)ことが犯罪とみなされたという意味です。

死んだ人が生き返るはずがないという普通の常識に反することを言っているとみなされた面もあるでしょう。しかし、それだけでなく、使徒たちの宣教にイエスを十字架にかけた人々に抗議する意図が含まれていることを、抗議されている本人たちが最も自覚していたからでしょう。

なぜそのように言えるのか。ペトロとヨハネが牢に監禁された翌日の出来事として、「次の日、議員、長老、律法学者たちがエルサレムに集まった」(5節)と記されている、これはユダヤの最高法院(サンヘドリン)のことですが、そのような場で勇気をもってペトロが語った言葉の中に「あなたがたが十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたあのナザレの人、イエス・キリスト」(10節)と言われていることが証拠になります。

ペトロが明確に言っているのは、最高法院のあなたがたがイエスを十字架につけて殺したのだ、つまり「殺害した」のだ、ということです。「あれは死刑ではなく殺人だった」ということです。

死刑が正当な審判の方法かどうかについて、今日においては世界的な議論があり、多くの国が死刑廃止の方向に進んでいます。私個人の考えは申さないでおきます。各人各様の考えがあるでしょう。しかし、古代社会に今日と同じような議論があったとは思えません。

もしイエスの十字架が当時の社会において正当性を持つ「死刑」だったとすれば「あれは殺人だった」とペトロが語れば、国の決定に反対することを意味するので、多くの人の支持を得るのは難しかったでしょう。しかしペトロの言葉、そして最古のキリスト教会の宣教の言葉に説得力があったので、多くの支持者を得ることができました。

ペトロが言っているのは、イエスを十字架につけたのは、あなたがた最高法院の人々にとって都合が悪い存在を抹殺しただけであって、正当な理由など何もない。あなたがたは「殺人者」であり、犯罪者であると言っているのと同じです。

直前の3章1節から始まり26節まで続くペトロの説教は民衆向けに語られていますので、最高法院の人々への抗議と全く同じではありませんが、かなり近いです。「あなたがたは、命の導き手である方を殺してしまいました」(15節)とあり、ここでも「殺す」、つまり「殺害する」という言葉が用いられています。

民衆はあくまでも最高法院の人々に心理的に誘導された面があるので情状酌量の余地はある。しかし、イエスを「殺した」点では共犯であり、犯罪に加担したのだと言っているのと同じです。

ですけれども、このようなことを発言すること自体が当然大問題になりますし、証拠がなければ決して言ってはならないことです。必要な証拠は最低でも二つです。そのひとつは、イエスは死刑に値する罪を犯していないことの証拠です。もうひとつは、そのイエスを地上から抹殺しなければならないと考えるほどに最高法院の人々がイエスを憎んでいたことの証拠です。

前者の証拠はイエスさまと共に生きたすべての人々にとって明らかでした。それはイエスさまの弟子たちや、イエスさまに助けてもらった人たちです。死刑だなんてとんでもない、悪いことどころか、良いことをなさった記憶しかないと、だれもが認める存在でした。だからこそイエスさまは、多くの人に信頼されたし、やがて信仰の対象になりました。この方こそ救い主キリストであると信じられるようになりました。

後者の証拠は、最高法院の人々の考え方や行動様式を知る内部の人には分かるでしょうけれども、外部で裏付けを得るのは難しいことです。しかし、イエスさまと弟子たちが行く先々で登場する、宣教を妨害する人たちの言葉や行動から、その人々の大元締めの最高法院の人々の考え方や行動様式を類推することは、ある程度はできたでしょう。

それは、マタイによる福音書5章から7章の「山上の説教」の中でイエスさまが「偽預言者に警戒しなさい。(中略)すべて良い実は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。(中略)あなたがたはその実で彼らを見分ける」(マタイ7章15~20節)と語られていることに通じます。

社会の仕組みの頂上にいる人たちと直接会って話せる人は少ないけれども、その根元から出てくる結果を見れば、総本山にいる人たちの考え方や行動はだいたい想像が付くということです。

この点と関係してくるのが、ペトロとヨハネの告発行為を見た最高法院の人たちの反応です。13節に記されていることです。「議員や他の者たちは、ペトロとヨハネの大胆な態度を見、しかも彼らが無学な普通の人であることを知って驚き」(13節)。

「無学な普通の人」の意味は、文字通り「学問をしたことがない」です。しかし、裏返して言えば「我々最高法院の者たちとは異なる」という意味になるでしょう。我々は学校に通って学問をした、社会の中で上位に位置する者たちであるというわけです。

その人々がなぜ使徒たちの態度に驚いたのかといえば、学問をしていないこの人たちに我々の正体を見抜かれたと思ったからでしょう。イエスさまと弟子たちの洞察力が、多くは初対面だったに違いない最高法院の人たちの正体を見抜いたのです。「実を見て木を知った」のです。

使徒たちが彼らの何を見抜いたのか。正当な理由など何もなく、あなたがたがイエスを殺したのだ、あなたがたは殺人者であるということです。そのことを使徒たちは、最高法院の人たちに対しても民衆に対しても、はっきり言いました。それでも使徒たちの言葉を信じた人が多かったのはなぜでしょうか。その理由は何かをよく考える必要があります。

自分たちが責められている、殺人者呼ばわり、犯罪者呼ばわりされていると感じれば、反発心が起こるだけでしょう。しかし、そのとき多くの人が、反発ではなく信仰へと導かれました。

それは、「あなたがたが殺したイエスを神が復活させられた」という教えに「罪の赦し」があることが分かったからです。我々はもうイエスを殺したことを悔やむことはないらしいと分かり、慰めを得たからです。

イエス・キリストの復活を信じるとは、そのようなことです。そのとき初めて「罪の赦し」が起こり、「良心の呵責からの解放」が起こります。最高法院の人々も同じです。自分たちが殺したイエスを神がよみがえらせてくださったことを信じることができれば彼らも慰められたはずです。

(2022年6月19日 聖日礼拝)

2022年6月13日月曜日

秋場治憲先生の補教師准允式が行われました

日本キリスト教団補教師になられた秋場治憲先生
学生キリスト教友愛会(東京都杉並区)

2022年4月より昭島教会伝道師に就任した秋場治憲(あきばはるのり)先生の補教師准允(じゅんいん)式が、本日6月13日(月)午前11時より、西東京教区願念望議長司式により、教区副議長・書記と昭島教会主任牧師立ち会いのもと、教区事務所に隣接する学生キリスト教友愛会(杉並区)にて行われました。


2022年6月12日日曜日

子どもを愛する(2022年6月12日 三位一体主日)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)

讃美歌第二編 ちいさなかごに
奏楽・長井志保乃さん 字幕・富栄徳さん

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「子どもを愛する」

マルコによる福音書10章13~16節

関口 康

「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。」

今日の週報に「三位一体主日」とも「子どもの日(花の日)」とも書きました。すべてキリスト教会内部で祝われてきた記念日ですので、特に日本国内で一般的に知られるものではありません。

しかし「子どもの日(花の日)」を毎年第2日曜に祝うことに関しては、歴史的起源が19世紀後半のアメリカのプロテスタント(特にメソジストの)教会だったことで、ほぼ同じ時期にアメリカの宣教師たちが日本に来てプロテスタントの教会をたて、ミッションスクールをつくった関係で、日本国内のミッションスクールでは早い時期から「子どもの日(花の日)礼拝」を行ってきた経緯もあります。

何をする日かといえば、要するに「子ども中心の礼拝」を行い、礼拝堂にきれいな花を飾り、礼拝後にその花を子どもたち自身の手で近くの病院や警察署や高齢者施設などに配ることでした。そのことを日本の教会でも、かなり前から最近まで行ってきましたし、今でも行っている教会があるはずです。

昭島教会がこれまでどのようにして来られたかが分からないのを申し訳なく思います。私が教会で働くようになったのは32年前の1990年からですが、当時は全国のどこの教会もかなり盛んに子どもの日(花の日)礼拝を行っていました。その後も毎年、病院や警察署や老人ホームに花を届けに行きました。最初に赴任した高知県の教会でも、その後の転任先の福岡県、山梨県、千葉県の教会でも。

しかし、いつの間にか途絶えてしまいました。なによりの理由は教会に子どもがいなくなったことです。病院も警察署もなんとなく敷居が高くなってきたことも衰退の原因だと思います。そして今はコロナです。お花を届けるどころか、病院や施設に訪問や面会にも行けない状態です。

それでは「子どもの日」のほうはどうか。はっきり言いたくありませんが、日本全国どこの教会も「子どもがいない子どもの日礼拝」になっています。子どもたちが教会に来ないのは紛れもない現実ですが、それに加えて少子化です。学校も幼稚園も存続の危機です。

どうすればいいのかは私には分かりません。私自身もそうでしたが、牧師の子どもたちが教会学校の生徒だったころには学校の友達を教会に連れてくるので比較的子どもたちが教会に集まりやすいのですが、彼らが学校を卒業すると同時に教会学校が衰退しました。

別の言い方をすれば、教会の中に子どもたちを集める求心力となる子どもたちがいるときには盛り上がりやすいですが、大人たちがいくら旗を振っても、きれいなお花を飾っても、おいしいごちそうを作っても、それが子どもたちにとって教会に来る理由にはなりにくい。知らない大人に囲まれながら教会に通い続けることができる子どもがどれほどいるだろうか、という問いでもあります。

今日のみことばは、マルコによる福音書10章13節から16節です。イエス・キリストの言葉です。マタイによる福音書(19章13~15節)にもルカによる福音書(18章15~17節)にも並行記事がありますが、読み比べると少しずつ違いがあることが分かります。

共通している内容は、イエスさまのところに人々が子どもたちを連れてきたら、弟子たちがその人々を叱った、しかしイエスさまは「子どもたちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない」とおっしゃって、弟子たちをお叱りになった、ということです。

それに対して、比較的目立つ違いは、マタイによる福音書とマルコによる福音書で「子どもたち」と記されているところが、ルカによる福音書では「乳飲み子たち」になっていることです。しかし、趣旨に大きな違いはないように思えます。

なぜ大きな違いはないと言えるのか。この箇所でわたしたちが考えなければならないことは、それが「子どもたち」であれ、「乳飲み子たち」であれ、大人たちがイエスさまのところに連れて来たことを、なぜ弟子たちが叱ったのか、という点にあると思われるからです。

その答えは難しくないでしょう。「うるさい」と思っているからです。騒ぐからです。泣くからです。イエスさまの話が聞こえなくなるからです。落ち着かないからです。

3つの福音書に描かれている状況が、安息日の礼拝の最中だったかどうかは、そのように記されてはいませんので分かりません。そうであっても、そうでなくても、イエスさまの近くに子どもたちが行くことを弟子たちが拒もうとしたのは、イエスさまにとってご迷惑だろうと考えたからではありません。自分たちの迷惑だったからです。敷居を高くしたのは弟子たちです。イエスさまではありません。

そうだったからこそ、人々を叱った弟子たちがイエスさまから叱られました。「子どもたちが来るのを妨げてはならない」と。子どもたちをイエスさまから遠ざけようと妨害しているのは、あなたがたであると。自分たちの静寂と安心を確保するために。

ご承知のとおり、私はいま、学校で聖書を教える働きにも就いています。学校というところは基本的に、今日の箇所の弟子たちの言い分を全面的に受け入れるところです。礼拝中や授業中におしゃべりする生徒がいれば容赦なく叱られます。それはやむをえないことです。

しかし教会はどうでしょうか。教会も学校と同じでなければならないでしょうか。赤ちゃんが泣けば親がにらまれ、子どもが騒げば「しー」と叱られるような場所でなければならないでしょうか。

こういうふうに正面から言いますと、多くの人は「それは違う」と否定してくださいます。しかし、現実の場面では異なる反応が起きることを私なりに体験してきました。「礼拝中に子どもが騒ぐ教会には申し訳ないけど通えません」と去って行かれる方々もおられました。そうなるのも困るので、結局は子どもたちを礼拝から締め出すか、黙らせるかという選択を余儀なくされました。

厳しい話になっているかもしれませんが、ぜひ考えていただきたいのです。「教会に子どもがいない、子どもがいない」と、どの教会でもよく聞くのですが、教会から子どもを締め出しているのは誰なのかという問題のほうがよほど深刻だと思えてなりません。

3つの福音書の並行記事を比べると、今日のマルコによる福音書だけが「イエスはこれを見て憤り」(14節)と記しています。子どもたちを締め出そうとした弟子たちにイエスさまが激怒されました。イエスさまはいつも笑顔で優しいだけの方ではなかったことが分かります。

私が怒っているわけではありませんので、悪しからず。難解なお話をして子どもたちがイエスさまのもとに集まるのを妨げている張本人かもしれませんので。

かろうじてひとつだけ提案できそうなことがあります。それを言う前に、メソジスト教会の創始者ジョン・ウェスレー(John Wesley [1703-1791])による、この箇所(14節)の解説文を引用します。

「私がこの世に打ち立てる国に加わる者は、このような子供たちであり、また子供のような心情を持つ成人たちである」(『ウェスレー著作集 第1巻 新約聖書註解上』新教出版社、第二版1979年、175頁、下線は関口康が付した)。

ウェスレーの言うとおりです! 大人たちが「子ども」になればいいのです。そうすれば、すべての教会が「子どもがたくさんいる教会」になり、子どもたちにとって魅力あふれる教会になるでしょう!

(2022年6月12日 聖日礼拝)

2022年6月5日日曜日

聖霊降臨の喜び(2022年6月5日 ペンテコステ)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)

讃美歌500 みたまなるきよきかみ(1、3節)
奏楽・長井志保乃さん 字幕・富栄徳さん

礼拝開始のチャイムはここをクリックするとお聴きになれます

宣教要旨(下記と同じ)PDFはここをクリックするとダウンロードできます

「聖霊降臨の喜び」

使徒言行録2章1~11節

関口 康

「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。」

今日はペンテコステ礼拝です。クリスマス、イースターと並ぶキリスト教の三大祝祭日です。今日はおめでたい日です。聖霊の働きによって初代教会が誕生したことをお祝いする日です。

今年は11月6日に昭島教会の創立70周年記念礼拝を行います。その日もおめでたい日です。聖霊の働きによって昭島教会が誕生したことをお祝いする日です。

いま2つ申し上げました。大げさに言ったつもりはないし、矛盾していません。「教会の誕生は聖霊の働きによる」というのは、わたしたち教会の自己理解です。それは時代も状況も超えます。どの教会も例外なく聖霊の働きによって誕生しました。

わたしたちが所属している日本キリスト教団には前史があり、いくつかのルーツがあります。そのひとつである日本で初めてのプロテスタント教団は「日本基督公会」でした。1872年3月に創立しました。今年で150周年です。

13年前の2009年の「日本プロテスタント宣教150周年」は宣教師の初来日から数えられていましたが、琉球伝道開始はもっと前であることは知っておくべきです。しかし、いま申し上げているのは別の話です。宣教開始ではなく教団設立の話です。

150年前の1872年に「日本基督公会」が誕生したときの様子が、1929年に出版された山本秀煌(やまもとひでてる)著『日本基督教會史』に記されています。著者は牧師ですが、明治学院の教授でもありました。少し長いですが、引用します。今日の聖書箇所と関係しています。

「折しも明治5年〔1872年〕正月2日横浜において数十名の日本人相集まりて祈祷会を催せり。(中略)これぞ日本人最初の祈祷会にして、また実に日本における最初の教会の出発点なりき。(中略)宣教師ジェームズ・バラ師の指導の下に、数名の学生有志の男女相集まりて使徒行伝の講義を聴き、熱烈なる説明に感じて互いに相祈りつつありしが、出席者意外に多く、少なきも20名、多き時は3、40名に達するの盛況を呈し、祈祷に次ぐ祈祷をもってし、感激の念、熱誠の情あふるるばかりにして感興尽くる時なく、予定1週間の祈祷会は、ひいて数週間の長きにわたりてなお止まず、祈祷会の進行につれて熱情ますます加わり、なかには感泣〔かんきゅう〕して神に祈り、初代教会設立当時のペンテコステの日のごとく、日本にも聖霊の降臨ましまして、キリシタン禁制のこの異教の地に、救世主イエス・キリストのご栄光のあらわれんことを切願せしもの少なからざりしが、その応験〔結果、効き目などの意味〕とや言わん、不思議にもここに数名の回心者を起こし、ついに基督公会の設立を見るに至りぬ」(山本、同上書、23~24頁。旧い漢字や送り仮名を新しく変えた。〔 〕内は関口康による補足)。

著者によると、これが「日本人最初の祈祷会」の様子です。人数は毎回20人から40人くらいだったようですが、1週間の予定が数週間に延長され、アメリカから来たジェームズ・バラ宣教師の使徒言行録の解説を感動しながら聴き、泣きながらお祈りした人たちがいました。そこに日本で最初のプロテスタント教団がつくられた、というわけです。

この文章の「初代教会設立当時のペンテコステの日のごとく、日本にも聖霊の降臨ましまして」が今日の聖書箇所そのものです。今日の箇所の聖霊降臨の出来事と同じことが日本で起こったという意味です。大げさに書いているのではありません。教会の誕生は聖霊の働きによる、というのは、教会の自己理解です。その理解に忠実に基づいて記されています。

このことを申し上げるのは、みなさんに安心していただきたいからです。「聖霊の働きとは何か」という問題への答えのひとつをお話しできると思うからです。

「聖霊の働き」とは具体的に言って何でしょうか。聖書の解説を聴いて泣くことでしょうか。泣いてはいけないという意味ではありません。しかし、聖霊が働いた証拠は、そこにいる人たちが泣くことでしょうか。そうなのかどうかは考えてみる価値があります。

聖書を自分で読んだり教会で説教を聴いたりして涙が出るほど感動できたとしたら素晴らしいことです。しかし、涙が出なかった日は聖霊が働かなかったことになるでしょうか。

あるいは、「回心者が起こること」が聖霊の働きでしょうか。使徒言行録の今日の朗読範囲の中には出てきませんが、2章41節に「ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった」と記されています。洗礼を受ける人、教会員になる人が増えることが聖霊の働きでしょうか。そうでないときは、聖霊は働いていないことになるでしょうか。

また2つ言いました。涙が出たから聖霊が働いたとする。あるいは、洗礼を受ける人がいたので聖霊が働いたとする。話としては分かりやすいかもしれません。しかし、結果主義、業績主義の思想が潜んでいないでしょうか。結果からさかのぼって原因を突き止めるわけですから。

そして、それは多くの場合、現実の教会への批判や落胆という形で表明されます。聖霊の働きを感じられない説教だった、聖霊の働きを感じられない礼拝だったなど。

教会や牧師への批判には、真摯に耳を傾けるべきです。しかし「ちょっと待ってください」と申し上げたいところがあります。批判は批判として大事です。しかし「聖霊の働き」が「あった」の「なかった」のと言われると「それは別の問題です」と反論しなくてはならなくなります。

なぜならわたしたちは、「聖霊」は父・子・聖霊なる三位一体の神であると信じているからです。「教会の誕生は聖霊の働きによる」という教会の自己理解の意味は、「教会の設立者は神である」ということ以外にありません。人間の働きは不要であるという意味ではありませんが、人の働きは神の助けによります。教会の設立者は神です。この点を揺るがせにすることはできません。

みなさんに安心していただきたいと申し上げました。涙が出なくても、洗礼を受ける人が現れなくても聖霊は働いてくださっています。わたしたちが眠っているときも、病気や疲れで倒れているときも聖霊は働いてくださっています。聖霊は「神」ですから、人間存在を超越しています。

今日の箇所の6節では「自分の故郷の言葉」と、8節では「故郷の言葉」と訳し分けられているギリシア語は、原文では同じ言葉(ιδια διαλεκτω)です。直訳すれば「自分の言葉」です。

最初のペンテコステの出来事は、使徒の言葉をそこにいたすべての人たちが「自分の言葉」だと「分かった」ことに尽きます。それはもちろん、日本人にとって日本語という意味での各国の言語の話かもしれません。そのようにも理解できることが前後の文脈に書かれています。

しかし大切なことは、神の御心が「分かること」、そして「自分の言葉」(ιδια διαλεκτω)になることです。〝手話〟で伝えることも、〝生き方〟や〝背中〟で伝えることも、それで「分かった」になれば、聖霊が働いてくださっています。感動と興奮と成果だけが聖霊の働きではありません。いま私が申し上げていることが「分かった」方には聖霊が働いてくださっています。大丈夫です。

(2022年6月5日 ペンテコステ礼拝)