2022年9月25日日曜日

生きてはたらく信仰(2022年9月25日 聖日礼拝)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)


讃美歌21 475番 あめなるよろこび (1、4節)
奏楽・長井志保乃さん 字幕・富栄徳さん


「生きてはたらく信仰」

マタイによる福音書25章14~30節

秋場治憲

「わたしたちが神の子と呼ばれるためには、どんなに大きな愛を父から賜ったことか、よく考えてみなさい。わたしたちはすでに神の子なのである。世がわたしたちを知らないのは、父を知らなかったからである」ヨハネの手紙一3章1節(口語訳)

 今日のテキストもとても有名なお話です。今司会者に読んでいただきましたが、「タラントンのたとえ」として、多くの人たちによく知られているお話です。マタイ福音書では主イエスの十字架への道行の最後の部分に位置付けられており、次の章ではユダの裏切り、最後の晩餐、ゲッセマネの祈り、逮捕へと続きます。マタイ福音書においては主イエスのまとまった教えは、この「タラントンのたとえ」が最後になります。そういう意味では、非常に緊張感に満ちた中で語られたお話です。また前回直前にある「十人の乙女のたとえ」をお話した時には、信仰ということに重きを置き、主の再臨については言及致しませんでしたが、今日の「タラントンのたとえ」は、「十人の乙女のたとえ」の最後の言葉(13節)「だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないからである。」を受けて、「なぜなら天の国はまた次のようにたとえられる。(からである。[1]」と始まり、なぜ目を覚ましていなければならないのかという理由として述べられているからです。聖書にはこの「なぜならγαρ(ガル)~からである」が訳出されていませんので、タラントンのたとえが独立した記事のような印象を受けますが、実際は「十人の乙女」の最後の言葉を受けてその理由を述べたお話として位置付けられています。あなたがたはその日、その時を知らないのだから、主が再び来られる日に向けて備えをしなさい、なぜなら、その日には審きが行われるからである、というのです。使徒信条によれば「かしこよりきたりて生けるものと死ねるものとを審きたまわん」という段階です。「かしこより」というのは、「その場所から」という副詞です。今現在おられる所からという意味です。今現在おられる所とは、「神の右に座し」日夜父なる神に対して我らの日々の罪の執り成しをして下さっているその場所から来られるということです。もう少しこの譬えの前後に注意してみると、マタイは24章、25章全体でこのテーマ(主の再臨)について語り、そして私たちに勧告していることが分かります。言葉を変えれば、主イエスの遺言とも言うべきテキストです。その日に向けてそれぞれ備えをしなさい、目を覚ましていなさい、というのです。そういう大枠を念頭に置いて、読むべきお話です。

その概略は次のようになります。ある人が旅に出ることになったので、僕たちにその能力に応じて財産を預けた。一人は5タラントン、一人は2タラントン、一人は1タラントンを預けた。5タラントンを預けられた者は、商売をして他に5タラントンをもうけた。2タラントンを預けられた者も同じようにして、他に2タラントンをもうけた。しかし、1タラントンを預けられた者は、それを土の中に隠しておいた。かなりの時が経過し、主人が帰ってきて僕たちと清算を始めた。5タラントンを預けられた者は、主人の前に進み出て他に5タラントンをもうけたことを報告した。2タラントンを預けられた者も同じように主人の前に進み出て、他に2タラントンをもうけたことを報告した。これに対して主人は二人を同じ言葉で褒めています。「忠実なよい僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。」

 ところが1タラントン預けられた者は、「ご主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていましたので、恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントンを地の中に隠しておきました。御覧ください。これがあなたのお金です。」と言った。これに対して主人は「怠け者の悪い僕だ。私が蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集めることを知っていたのか。それなら、私のお金を銀行に入れておくべきであった。そうしておけば、帰って来た時、利息付きで返してもらえたのに。さあ、そのタラントンをこの男から取り上げて、十タラントン持っている者に与えよ。だれでも持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。この役に立たない僕を外の暗闇に追い出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」という非常に厳しい言葉で結ばれています。

 タラントンというのは元来キログラム、トンのように重さの単位でした。それが通貨の単位として用いられるようになりました。新共同訳聖書の巻末に「度量衡および通貨」という頁があります。聖書を読む時に参考になると思います。それによると1タラントンは6000ドラクメで、ドラクメはデナリオンと等価とあります。1タラントンは6000デナリオンになります。1デナリオンは当時の労働者の1日の賃金と言われていますので、現代であれば1万円くらいでしょうか。そうすると1タラントンは6000万円という高額になります。これは何を意味しているのでしょうか。

 またこのタラントンという言葉は、その能力に応じて与えられたということから、「天賦の才能」という意味になり、才能ある人、テレビタレントなど広く用いられるようになりました。これらのことは信仰暦の長い方は今までに何度も学んできたことだと思いますが、初めての方もおられるかもしれませんので申し添えておきます。

 この譬えを細かく見ていきたいと思います。30節のこういう厳しい審きの言葉を聞きますと、私たちは戦慄を覚えます。自分は大丈夫なのだろうか。私たちは自分の中を見まわしてみる。だめだ、自らの思いにおいても、行いにおいても到底神の裁きに耐えられるものではない、と思って意気消沈するのではないでしょうか。確かにダメなのです。キリストを離れて自分だけに注目するなら、私たちはだれ一人立つことができなくなります。「義人はいない、一人もいない。[2]」のです。しかしだからこそ主イエスが手を差し伸べて下さったことを忘れてしまって、ダメだ、ダメだ、を繰り返してはいないでしょうか。罪を憎む者は、すでに罪の外にあり、選ばれた者に属しているのです。今日のたとえはそのことを主イエスが、弟子たちに、そして私たちに言い残して下さった最後の遺言として受け止めるべきお話です。

私はこのたとえで最も注目しなければならないのは、2タラントン、5タラントン与えられた僕は、「早速[3]」出て行って、それで商売をしたというこの「早速」という言葉ではないかと思うのです。この言葉がこのたとえを理解する上で重要なキーワードになっていると思います。口語訳は「すぐに行って[4]」と訳されています。この言葉は虫眼鏡で見て見ますと、15節の文章が終わった後に、「早速、」となっており、16節の言葉の冒頭に位置付けられていることが分かります。ギリシャ語聖書もそのように区切られています。面白い区切り方です。つまり聖書はこの「早速」「即座に」「すぐに」「ただちに」という意味の副詞を、とても強調しているのです。ここにはこれら二人の僕が、喜び、勇んで歩みだす姿が浮き彫りにされています。17節も「同様にして」という副詞が冒頭に置かれています。マタイはこの言葉によって、そしてその配置を通して二人の僕が自発的に、意欲的に主人の負託に応えようとしている姿を浮き彫りにしようとしています。

5タラントン預けられた者は、更に5タラントンもうけた。2タラントン預けられた者も更に2タラントンもうけた。この言葉にはそれぞれエンジン全開で、それぞれの能力に応じて全力で主人の負託に答えたということが伝わってきます。ここには父の家に足を踏み入れる資格さえない者が、雇人の一人としての資格さえない者が、本来合わせる顔のない者が、子として迎えられた放蕩息子(弟)の喜びがあり、感謝がある。この「早速」出て行ってという言葉には、主人に対して全面的に信頼している、自由で、生き生きとした姿が私たちに迫ってきます[5]

そして、この中には人々から裏切り者、罪人という烙印を押されていた徴税人ザアカイがいる。姦淫の現場で捕らえられ人々の前に引き出された女が、自分と一緒に石打の刑を覚悟された主イエスによって救われた女がいる。強盗どもに襲われ、身ぐるみ剥ぎ取られ、半死半生で放り出されて死を待つばかりの状態にあった旅人が、その傷口をぶどう酒で洗い、オリーブ油を塗り、包帯を巻き、サマリア人自身が座すべきロバの背に乗せられ、宿屋まで運ばれ、宿屋のベットに横たえられ、デナリ二枚を渡して宿屋の主人に介護を頼み、費用が余分にかかったら帰りがけに自分が支払うことを約束して旅立ったサマリヤ人に助けられた旅人がいる。最後の一時間しか働かなかったのに、一日分の賃金一デナリを支払ってもらったぶどう園の労働者がいる。そして私たちがいる。愛された者、救われた者、受け入れられた者、それぞれの喜びがあり、感謝がある。神様が何かを委託される時、神様が何かを与えられる時、それは静止しているものではなく、生きて働かないではいないのです。

 更に見ていくならば、この5タラントンもうけた者も2タラントンもうけた者も共に、「忠実なよい僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。」というまったく同じ言葉で褒められています。ではこの「少しのものτα(タ) ολιγα(オリガ)[6]」とは何か。これは「主人の言葉(心)」と解することができます。私たち信仰者にとって「我信ず」と告白しながらも、絶えず「信仰なき我を助けたまえ」と祈らざるをえない状況にある者にとっては、主の言葉はいつも「わずかなもの」なのです。しかしこの二人は、この「わずかなもの」、主人の言葉(心)に信頼し、自分たちを不利に陥れる証書は、十字架に釘付けにして取り除かれたことへの感謝と喜びに満たされ、エンジン全開で応えたのです。私たちを不利に陥れる証書に書かれたことは、すべて真実です。その通りなのです。しかし、キリストはこの証書をゴルゴタの丘の上で、我らに代わって十字架に釘付けにして取り除いてくださったのです。ザアカイも姦淫の女も、放蕩息子(弟)も半死半生で打ち捨てられていた旅人もこの十字架から新たな命を受け取ったのです。

この主人の喜びの中では2タラントンも5タラントンも区別されていないのです。主人は業の大きさにも、稼いだ額にも興味はないのです。主人が評価したのは、5タラントンの業にも、2タラントンの業にも共通してある「従順」「喜び勇んで従う心」「信仰」に目をとめられたのです。「わずかなもの」に目をとめられたのです。二人ともそれぞれの能力に応じて、エンジン全開で、主人の意向に沿って走ったのです。だからこそ、この主人はコップ一杯の水を差しだす業を、最高の業として受け入れられるのです。レプタ2枚[7]を喜ばれるのです。だから主イエスは、「私の弟子だという理由で、この小さな者の一人に冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。[8]」と言われたのです。この水一杯差し出す行為には、主イエスに対する感謝と賛美があるからです。この小さき者一人が助けられる時、放蕩息子を無事に迎えた時の父の喜びがそこにあるからです。それくらい私たち一人一人は、神の目には価高しということなのです。父なる神はその小さき者の一人を救わんが為に、神の子をこの世に遣わされたからです。私たち一人一人は神の目には、神の子の命を代償として支払ってでも買い取ることに値した、ということなのです。これが私たち自身の価値によることでないことは明らかです。「神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。[9]」「(他ならぬこの)わたし(こそ)が、命のパンである。[10]この命を与えられた者たちは、自由な、喜ばしい心で神への感謝の下に生きたのです。放蕩息子の弟も、ザアカイも、姦淫の場で捕らえられた女も、サマリア人に助けられた旅人も主イエスに出会い、この命を与えられたのです。そしてこの命に満たされた者が為す業は、どんなに小さい業であったとしても、神はそれを黄金の業として受け入れられるのです。そして私たちもそのように生きることが、許されているというのです。もうすぐクリスマスです。「神はこの卑しい女をさえ、心にかけてくださいました。[11]」というマリア言葉を聞く日が近づいて来ています。「神は無きに等しき者をあえて選ばれた。[12]」のです。なぜなら、無きに等しき者は、心の底からそう思う者は、2タラントンでも、1タラントンでも1デナリであったとしても、それに同意し、そして主人の意向に沿って心を燃やし、最善を尽くす者となるからです。

 さて感謝と喜びに満たされた二人の僕の他に、このたとえにはもう一人1タラントンを与えられた僕がいました。この僕は主人から預かったお金を、土の中に隠しておいた、と言うのです。彼は主人から預かったお金をギャンブルで使い果たしたというのではありません。また全部呑んでしまったというのでもありません。全額無傷で父に返したのです。あたかも私はあなたに対して、罪は犯していませんと言っているかのようです。しかし、主人はこの僕に対して、「怠け者の悪い僕だ。」と言って厳しく叱っています。この僕の言い分は、「あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていましたので、恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントンを地の中に隠しておきました。ご覧ください。これがあなたのお金です。」と言って主人にそのお金を返しています。

 この僕は自分がすでに真実な者、義なる者、罪なき者であるかのように、神の好意を求めず、神に対抗し、神を審き、神を罪ある者、偽りをなす者に仕立て上げているのです。彼は神の下にいるのではなく、神と並んであること、全く神と等しい者、完全な者であろうとしているのです。その結果、彼は自分が不義なる者、愚かな者、罪ある者と思われたくないのです。1タラントンで商売をして、万が一にも損をすることは赦されないのです。それゆえに彼は臆病になり、尻込みし、主人から預かったお金を土の中にかくしておいたのです。ただ死蔵してしまったのです。主人から預かったお金を無傷で返したことを誇りさえしているのです。そして自分のその立場を弁護して次のように言う。「あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だ」と。律法のただ中にいるものにとっては、神は自分を審くもの、自分を弾劾して止まない存在であり、敵であり、暴君と見えているのです。彼は自分が不義なる者、愚かな者、罪ある者と思われたくないので、自分を弁護するのです。神を悪者にしてでも、自分を弁護するのです。これはアダムとエバが、神に抗弁した時と同じです。「神の言葉」は二人の前から、小さきものとなり、遂には消えてしまったのです。善悪の知恵の木から生まれたところの「肉の思い」が、依然として生きているのです。「肉の思い」はただ自分のものを求め、神の不名誉よりも自分の惨めさを恐れ、それ故に神のみ心よりも自分の思いを重んじるのです。

 この僕は恐れの真只中にいる。彼は余りに用心深く、自己保身的であり、自分自身が崩れ落ちることへの不安に覆われています。彼は石橋を叩いて、渡らないのです。彼は確かに賢明で、用心深かったかもしれない、しかし、働いて止まない福音の命に触れることはありませんでした。丁度、放蕩息子の兄のように。彼は律法を事細かく守りながらも、すべてを押し付けられた義務として守っていたのです。神殿に十分の一税を支払い、週二回の断食をし、安息日を守り、その他律法の多くの決まり事を事細かく守っていたが、何一つ喜んで捧げたものはなかったということです。放蕩息子の兄と共通するところがある。

 「神は従順を、大きい業の下にも小さい業の下にも等しく隠し、業の差異は顧みないでもっぱら従順の業を見たもう」とはルターのローマ人への手紙講解の中の一節です。しかし、この僕は業の大小にのみ注目する。目に見える分量に注目する。そして、臆病になる。主人の喜び、主人の栄光ではなく、自分の喜び、自分の栄光を求める。彼は与えられた1タラントンに感謝は無く、5タラントン、2タラントン与えられた者よりも多く稼ごうとする。そして、しり込みする。彼らよりも多く稼がなければ、自分の面目が立たないのです。彼は能力無き者、不義なる者と見られたくないのです。それなのに主人は自分には1タラントンしか与えてくれなかった。「あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だ」という言葉にはそういう意味も含まれているように思われます。彼は目に見えるところに従えば、負けが決まっている競争―彼の目にはそう見えるーに参加しないのです。あたかも私にも5タラントン与えてくれれば、私も更に5タラントン、或いはもっと多く稼ぐことができるが、たった1タラントンでは話にならないとすねるのです。その結果、彼は銀行に預けて利息を得ることさえせず、ただ土の中に死蔵してしまったのです。利息では他の二人に勝る額を稼ぐことは出来ないからです。業の見てくれを重視する彼は、自分の栄光を求める彼は、小さい業を軽蔑し、大きい業を賛美し、そしてユダヤ人と共につまずきの石(キリスト)につまずいたのです。彼は小さい業の下にも、大きい業の下にも等しく隠されている宝に気付かなかったのです。宝が(泥)畑の中に隠されていることに気が付かなかったのです[13]

 しかし、それでは主人はどうしてこんな僕に1タラントンもの財産を預けたのだろうか、という疑問が湧いてくる。こんな怠惰な僕に、何故、主人は、自分の財産を預けたのか。私はここで「ぶどう園の主人[14]」の言葉を思い出した。私はこの最後に来た者にも、同じように払ってやりたいのだ、という主人の言葉によって自分自身も救われたのではなかったか。あなたも私の家族の一員であるという言葉によって救われたのではなかったか。主人が預けた財産とは、あなたは私が、血を流してでも守りたい人、あなたは私にとって、掛け替えのない人であるというメッセージです。そしてこのメッセージは預けられたタラントンの額にかかわらず、託されたメッセージです。私はあなたに洗礼を施した。わが愛するキリストの故に、あなたをわが子として受け入れた。そのキリストにはあなたを救うことが血潮に値したのであるというメッセージです。ここにすべてが差し出されているのに、放蕩息子の兄同様に、その差し出された財産を何一つ受け取れていない僕がいる。準備はいらない。そのままで、あるがままで、私に従って来なさい。すべては備えられているというのにです。

 神の審きは、業の大きさ、数の多さによるのではなく、それらの業の下にある「信仰」によるのです。信仰というと我らはまたまた不安になるかも知れない。しかし、我らが義とされる信仰というのは、我らが能動的に信じる信仰ではなく、主イエス・キリストが我らに代わって成し遂げて下さったことを受け入れる信仰、受動的な信仰です。放蕩息子、ザアカイ、姦淫の女を振り返ってみてください。彼らは何もしていないのです。彼らは自分の真実によって救われたのではなく、神の真実によって真実なものとされたのです。神の真実によって私たちの不真実、不義、罪が覆われたのです。この結果、私たちの内にある自己追求は止み、逆に神のみが私たちの内で賛美されるのです。主イエス・キリストに結ばれている私たちにとっては、最後の審判は恐れるべきものではなく、かえって「主よ、来たりませ」と待ちわびる時となるのです。「主人の喜び入れ」と言われる日なのです。

もう何度か繰り返しましたが、このことは繰り返し、繰り返し教えられなければならないことですので、今一度伝えておきたいと思います。「神様は私たちを私たちの中にある義によってではなく、われらの外にある義と知恵によって救おうとしておられる。そしてこの義は、われらから出たり、生まれたりするものではなく、別のところから、われらの中に入り来るもの、この地上に生じるものではなく、天来のものなのである。したがって、まったく外的な、そして異なる義が教えられねばならない。[15]」ルターのローマ人への手紙1:1の講解で語られている言葉です。

私たちはみんなこの主人からその能力に応じて主人の財産が預けられています。この負託にエンジン全開で応えたいものです。主イエス・キリストが十字架の苦難を通して成し遂げ、私たちには無代価で届けて下さったことに思いを馳せ、自らのエンジンに新たな火を点したいものです。


それゆえ、不義なる者は審きに耐えない(詩篇1:5)[16]

 義なる者は、何よりもまず自己を弾劾するものである。それだから、義なる者は日に七たび倒れても、また起きあがるのだ(箴言24:16)。なぜなら、義なる者は罪あるゆえをもって自己を弁解することなく、むしろただちに罪を告白し、自分自身を弾劾するからである。これによって罪は、義なる者にとってただちに赦されており、彼は起きあがったのである。(これに反し)不義なる者は審きに耐えない。なぜなら、彼らはユダヤ人のように彼らの過ちを告白せず、みずからを弾劾しないからである。要するに、義なる者が何よりもまず自己を弾劾する者であるように、不義なる者は何よりもまず自己を弁護するものなのである。



[1] RSVはこの節の冒頭にFor(なぜならば)という接続詞を配しています。For it(the kingdom of heaven) will be as when a man going on a journey called his servants and entrusted to them his property ;

[2] ローマ人への手紙2:10~12

[3] この「即座に」という言葉は、「二人はすぐに網を捨てて従った。」マタイ4:20でも使われています。この二人とはゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネです。

RSVは「Immediately they left the boat and their father , and followed him.」(参考)

[4] RSV,He who had received five talents went at once and traded with them ; and made five talents more. at once は「ただちに、すぐに」という意味です。「

[5] ローマ人への手紙8:14~15には「すべて神の御霊に導かれている者は、すなわち、神の子である。あなたがたは再び恐れをいだかせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分を授ける霊を受けたのである。その霊によって、私たちは『アバ、父よ』と呼ぶのである。[5]」(口語訳)という言葉があります。この言葉は「恐れの霊」が取り去られ、子供が全面的な信頼をもって父親に呼びかける時の「パパ」というニュアンスをもった言葉です

[6] ペテロ第1 5:12 δι’ ολιγων 少しの言葉で 新共同訳「短く手紙を書き」

 エペソの信徒への手紙3:3 εν ολιγω 少しの言葉で 新共同訳「手短に書いたように」と言葉という文字はどこにもないのですが、当然のように予想されているようです。

[7] マルコによる福音書12:41~44

[8] マタイによる福音書10:42

[9] ヨハネによる福音書6:33

[10] 強調構文で書かれています。「(他ならぬこの)わたし(こそ)が、」と訳してみました。私以外に救いはないという位強い表現です。

[11] ルカによる福音書1:48(口語訳)

[12] コリント人への第1の手紙1:28(口語訳)

[13] マタイによる福音書13:44

  「この信仰の中では、いっさいのわざが等しくなり、互いに同等のものとなる。わざが大

きかろうと小さかろうと、長かろうと短かろうと、あるいは多かろうと少なかろうと、

そうしたわざの間の区別はいっさいなくなってしまう。わざが神に喜ばれるのは、わざ

そのもののためではなく、信仰のためであり、そしてその信仰は、わざがどんなに数多

く、またどんなになに相異なっていようとも、すべてのわざの一つ一つの中に、唯一の

ものとして、差別なく存在し、生きてはたらくからである。」(「善きわざについて」第5

ルター著作集分冊3 P.14福山四郎訳 聖文舎

[14] マタイによる福音書20:1~16

[15] 「世界の名著 ルター」中央公論社 P.409

[16] 「世界の名著 ルター」P.386 詩篇1:5の講解より 笠利尚訳


(2022年9月25日 聖日礼拝)

2022年9月18日日曜日

真心をこめて(2022年9月18日 聖日礼拝)

昭島教会の教職(左から関口康、石川献之助、秋場治憲)

讃美歌21 520番 真実に清く生きたい(1、3節)
奏楽・長井志保乃さん 字幕・富栄徳さん




「真心をこめて」

マルコによる福音書12章35~44節

関口 康

「イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた。『はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。』」

今日の箇所は先週の続きです。3つの段落を朗読していただきました。イエスさまはエルサレム神殿の境内におられます。イエスさまが何をお語りになり、何をなさったかが記されています。

35節以下の段落でイエスさまは、ひとつの問題を取り上げておられます。それは「メシア」についてユダヤ教の律法学者が誤った見解を主張していたことに対する反論です。

当時のユダヤ教の人々は「メシア」が来ることを信じていました。「メシア」(マーシーアハ)はヘブライ語で、ギリシア語訳が「キリスト」(クリストゥス)ですので、彼らが「キリスト」の到来を信じていたと言っても同じです。

ただし、彼らにとって「メシア」は人間であり、しかも「ダビデの子孫」でした。「ダビデ」は紀元前11世紀に建国されたイスラエル王国の第2代国王です。ダビデの国王在位は紀元前1000年ごろから967年まで。当時のユダヤ教の理解では、「ダビデの子孫」として生まれる「メシア」は、ユダヤ人をローマ帝国の支配から解放して独立国家を打ち立てる王となるべき存在でした。

「メシア」が「ダビデの子孫」であることの根拠はすべて旧約聖書の言葉です。イザヤ書11章1~10節(「エッサイの株」)、エレミヤ書23章5節(「わたしはダビデのために若枝を起こす」)、エレミヤ書33章15節(「わたしはダビデのために正義の若枝を生え出でさせる」)、エレミヤ書33章17節(「ダビデのためにイスラエルの家の王座につく者は絶えることがない」)、エゼキエル書3章23節(「わたしは彼らのために一人の牧者を起こし、彼らを牧させる。それは、わが僕ダビデである」)、エゼキエル書3章24節「わが僕ダビデが彼らの真ん中で君主となる」)、詩編89編21節(「わたしはわたしの僕ダビデを見いだし、彼に聖なる油を注いだ」)。

イエスさまは「メシア」が「ダビデの子孫」であること自体については反論しておられません。この信仰は初代教会にも受け継がれました。ローマの信徒への手紙1章3節(「御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ」)、テモテへの手紙二2章8節(「この方はダビデの子孫で、死者の中から復活された」)、ヨハネの黙示録5章5節(「ダビデのひこばえが勝利を得た」)が証拠です。

イエスさまがおっしゃっているのは、「メシア」は単なる「ダビデの子孫」ではなく「主」でもあるということです。「主」はヤーウェ、すなわち神です。メシアは「神」です。そのことを証明するために、イエスさまが詩編110編1節を引用しておられます。旧約聖書(952ページ)のほうを読むと「ダビデの詩、賛歌。わが主に賜った主の御言葉」と記されています。これが「メシア」が「主」であることの根拠であると、イエスさまがお示しになりました。

代々のキリスト教会の信仰によれば、イエス・キリストは父・子・聖霊なる三位一体の神です。イエス・キリストは単なる人間ではなく神です。そのことをイエスさま御自身が述べられたことが証言されています。

38節以下の段落でイエスさまは、律法学者たちを激しく非難しておられます。「律法学者に気をつけなさい。彼らは、長い衣をまとって歩き回ることや、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを望み、また、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる」(37~40節)。

前の段落のイエスさまは律法学者の〝教え〟の間違いを指摘しておられますが、この段落では彼らの〝生活〟の間違いを指摘しておられます。ここまで言われれば彼らは激怒したでしょうし、関係修復は不可能です。そのことをイエスさまは恐れておられません。旧約聖書の預言者の姿を彷彿します(アモス書全体、エレミヤ書3章、エゼキエル書8章、13章、34章など)。

イエスさまが抗議しておられるのは、彼らの見せかけの真面目さと偽善です。目立ちたがり、注目を集めたがり、尊敬されたがるエゴイズムです。「やもめ」(40節)は戦争や病気や事故などで配偶者と死別した女性です。その女性を律法学者が「食い物にする」とは、自分の身の回りの世話をさせたり、当時のユダヤ教ではラビが報酬を受け取ることは禁じられていましたが、その規定を無視して報酬を受け取ったりしているという意味です(Bolkestein, ebd. P. 283)。

旧約聖書には「寡婦や孤児はすべて苦しめてはならない」(出エジプト記22章22節)、「〔主は〕孤児と寡婦の権利を守る」(申命記10章18節)と明記されています。しかし、律法学者は貧しい女性たちを犠牲にしているというのが、イエスさまのおっしゃっていることの趣旨です。

ぞっとするほど激しいイエスさまの言葉を読んだ後、41節以下の段落を読むと、ほっとします。イエスさまがひとりの女性を擁護しておられるお姿が描かれているからです。

当時のエルサレム神殿は、紀元前63年に王位についたヘロデ大王が修復したものです。入口の階段を上ると最初に異邦人でもだれでも入れる庭があり、次にユダヤ人だけが入れる庭があり、その次に祭司だけが入れる庭があったそうです。そして、その先に「聖所」があり、いちばん奥に「至聖所」があるという構造です。

二番目の「ユダヤ人だけが入れる庭」に異邦人が入ると死刑でした。そしてそこは「女性の庭」とも呼ばれました。祭司は男性なので、「祭司の庭」よりも奥は男性しか入れなかったからです。これで分かるのは、このときイエスさまは、その「女性の庭」におられたようだということです。

その「女性の庭」に宝物庫と、ラッパ形の 13 個の賽銭箱があり、祭司の助けを借りてお金を入れることができました(Strack-Billerbeck II, p. 37. Vlg.)。しかも、お金を入れる人や、祭司に手渡すお金の金額を誰でも見ることができました。それは一種の見世物で、献金の金額の見せ合いの場でもありえました。そのほうが競争心を煽り、たくさん献金が集まるからでしょう。

その様子をイエスさまがご覧になっていました。お金持ちの人がたくさん献金しました。その次に「一人の貧しいやもめ」が「レプトン銅貨2枚」を献金しました。当時の最小の銅貨でした。

新共同訳聖書巻末付録「度量衡および通貨」によれば「1レプトン=1デナリオン(1日の労働賃金)÷128」です。わたしたちの「100円」に満たない銅貨2枚です。しかし、イエスさまは、それがあの女性にとっては「乏しい中から自分の持っているものをすべて、生活費の全部」(44節)であるとおっしゃいました。イエスさまは金額でなく、その人の真心を評価してくださいました。

イエスさまは「生活費の全部」をささげることが大事であるとおっしゃっているでしょうか。同じことがわたしたちにも求められているでしょうか。違います。イエスさまは貧しい人が衆人の目にさらされ、はずかしめられる状態にあることを非難し、屈辱に堪えているひとりの女性を全力で擁護され、その女性のひとりの人間としての尊厳をお守りになったのです。

わたしたちはどうでしょうか。教会はどうでしょうか。はずかしめを受けていると感じている方がおられるようでしたら、教会のあり方を反省し、改革しなくてはなりません。

(2022年9月18日 聖日礼拝)

2022年9月11日日曜日

神と隣人を愛する(2022年9月11日 聖日礼拝)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)

讃美歌21 とびらの外に 430番(1、3節)
奏楽・長井志保乃さん 字幕・富栄徳さん

「神と隣人を愛する」

マルコによる福音書12章28~34節

関口 康

「イエスは律法学者が適切な答えをしたのを見て、『あなたは、神の国から遠くない』と言われた。もはや、あえて質問する者はなかった。」

先週の礼拝後のご挨拶のときに申しましたが、岡山にいる父の命の時間がわずかであることを医師から告げられました。もう全くコミュニケーションはとれません。1933年11月生まれですので、今年の誕生日を迎えることが許されれば89歳になりますが、たどり着けそうにありません。

基本的にあっけらかんとした信仰の人です。死ぬことに対して、ずっと昔から全く恐れる様子がない人でした。とはいえ、やや口が重いタイプでしたので、本心がどうかは分かりません。

皆さんがきっと体験してこられたことを私はこれから体験することになります。悔しいという感情とは違うものを感じますが、神さまがお決めになった日まで、私は父に対して何をすることもできないことを寂しく思うところはあります。神に委ねるとはこのことかと実感しています。

兄が実家を守ってくれていますので、私は自由気ままに生きています。先日、秋場治憲先生が2回に分けてルカによる福音書15章の「放蕩息子のたとえ」をお話しくださいました。私はあのたとえ話の弟息子そっくりです。父は父で、あのたとえ話の父親のような人なので、今となっては申し訳ない気持ちでいっぱいです。

さて今日の聖書の箇所に、イエスさまがひとりの律法学者から「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか」(28節)と問われたことに対してお答えになる場面が描かれています。

当時は「新約聖書」はありませんでしたので、「あらゆる掟」が旧約聖書の律法を指していると説明することは大きな間違いではないはずです。明文化されていない口伝などまで含めることを考えなくてはならないかどうかは分かりません。はっきり分かるのは当時のユダヤ教がとにかく戒律ずくめだったということです。「248の命令と365の禁止事項」に区別されていたと言われています(Strack-Billerbeck I, p.900 vlg)。

その多くの戒律の中で「どれが第一でしょうか」と律法学者がイエスさまに問うているのは、イエスさまを試したのだと思います。すべての掟を比較したうえで、その中で最も重要な内容を持ち、他よりも秀でて最も質が高い掟はどれなのか、という意味の質問です。

その質問に対するイエスさまのお答えが、29節から31節までに記されています。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け。わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない」(29~31節)。

「第一の掟」は申命記6章4~5節(新共同訳、旧約291ページ)です。「第二の掟」はレビ記19章18節(同、192ページ)です。

第一の掟の「イスラエルよ、聞け」は、ヘブライ語で「シェマー・イスラエル」と言います。「シェマー」(聞け)は、ユダヤ教の最も簡潔な信仰告白です。ユダヤ教では一日2回、朝と夕に「シェマー・イスラエル」を唱えます。

申命記はモーセの遺言です。しかし、イエスさまはそれをユダヤ人だけに関係する掟であると、とらえておられません。世界のすべての人が対象です。

それを「心」と「精神」と「思い」と「力」を尽くして行います。この4つを合わせて「人間存在すべて」を意味します(G. Wohlenberg, p. 319. Vlg. M.H. Bolkestein, Marcus, PNT, 1966)。

第二の掟のレビ記19章18節は、文脈が大事です。「心の中で兄弟を憎んではならない。同胞を率直に戒めなさい。そうすれば彼の罪を負うことはない。復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない」の次に「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」(レビ記19章17~18節)と記されています。

「同胞を率直に戒めなさい」とあるように、ユダヤ人仲間(同胞)に限定されているのが旧約聖書の掟の限界と言えるかもしれません。イエスさまにとって「隣人」とは、ルカによる福音書10章の「善いサマリア人のたとえ」で示されたほど広い意味です。すべての人が「隣人」です。

しかし、レビ記19章18節の内容で大事な点は、たとえ「同胞」であるユダヤ人であっても、あなたに罪を犯すならば、あなたの「敵」になりうる存在であるということが前提されたうえで、その相手を憎むことも、復讐することも、恨むこともしないことが相手を「愛する」ことを意味すると教えられていることです。つまり「身内の中の敵を愛する」という意味が含まれています。

この掟に付加されている「自分を愛するように」という言葉の解釈は、真っ二つに分かれています。「自己愛を肯定している」ととらえる人もいれば(テルトゥリアヌス、クリュソストモス、アウグスティヌス、トマス・アクィナス、キルケゴール)、「自己愛の肯定ではない」ととらえる人もいます(ルター、カルヴァン、カール・バルト)。

この問題の詳細が、バルトの『教会教義学 神の言葉 Ⅱ/1 神の啓示〈下〉』新教出版社、2版1996年、353ページ以下に記されています。どちらの理解が正しいかの判断するための助けになります。私個人は、肯定する側に近いです。

ところで、このときイエスさまは、律法学者から「どれが第一でしょうか」と問われたのに、ひとつの掟でなく、ふたつの掟をお答えになっていることを、わたしたちはどのように考えればよいでしょうか。問い方を換えれば、「神を愛すること」と「隣人を愛すること」というふたつの掟を比べると、どちらのほうが上なのかと問うこともできます。

「神」が「人間」よりも上であるのは自明のことであり、やはり結局、どこまで行っても「神を愛すること」が「第一」なのであって「隣人を愛すること」は二次的・副次的・従属的な掟であると言わなくてはならないでしょうか。それともイエスさまは「そうではない」とお考えになったからこそ、あえて「ふたつ」お答えになったのでしょうか。

この問題について、オランダの聖書学者が次のように記しています。「第一の掟〔神への愛〕は第二の掟〔隣人愛〕よりも劣ってはいない。イエスは旧約聖書に従っている。神秘主義に起こるように、神への愛が隣人愛を飲み込んではならないし、リアリズム(現実主義)に起こるように、隣人愛が神への愛に置き換えられてもならない」(Bolkestein, ebd.277)。

この意見に私も同意します。「神」と「人間」という次元が違う存在同士を比較して、どちらが大切かと考えること自体が間違っています。「神への愛」と「隣人愛」は同時に成り立ちます。

「教会を第一にするか、それとも家庭を第一にするか」という問いとも次元が違います。教会は「神への愛」だけでなく、十分な意味で「隣人愛」を実現する場でもあります。教会において、わたしたちが互いに助け合い、励まし合い、祈り合うことによって、どれほど大きな試練や難局を乗り越えてきたかは、数えきれないほどです。

イエスさまが「ふたつ」答えてくださったことが、わたしたちの慰めです。

わたしたちは「神を愛するように隣人を愛する」ことができます。

(2022年9月11日 聖日礼拝)

2022年9月4日日曜日

ぶどう園のたとえ(2022年9月4日 聖日礼拝)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)

讃美歌21 403番 聞けよ、愛と真理の(1、3番)
奏楽・長井志保乃さん 字幕・富栄徳さん

宣教要旨(下記と同じ)PDFはここをクリックするとダウンロードできます

「ぶどう園のたとえ」

マルコによる福音書12章1~12節

関口 康

「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石になった。これは主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える。」

先週8月28日(日)私は昭島教会の皆様から1日だけ夏季休暇をいただき、他の教会の礼拝に出席しました。休暇中の行き先についての報告義務はないかもしれませんが、興味を持っていただけるところもあるだろうと思いますので、この場をお借りして短く報告させていただきます。

朝の礼拝は港区赤坂の日本キリスト教団霊南坂教会に出席しました。日曜日の朝の礼拝に出席するのは、先週が初めてでした。しかし、日曜日の朝以外であれば、霊南坂教会で行われた礼拝に出席したことがあります。正確な日時は覚えていません。私が東京神学大学の学生だったのは1980年代の後半ですので、35年ほど前です。その頃に私の記憶では2回、いずれも夕方でしたが、東京教区西南支区主催のクリスマス礼拝などに出席しました。

先週霊南坂教会の会員の方にそのことをお話しし、「当時と同じ会堂ですか」と尋ねたところ、「同じです」と教えてくださいました。なぜその質問をしたかといえば、35年ほど前の私の記憶が夕方の礼拝と結びついていたこととおそらく関係して、かなり様子が違って見えたからです。

調べてみましたら、霊南坂教会は1985年に現会堂を新築されたようで、どうやら私は真新しい会堂での礼拝に出席したようだと分かりました。それも様子が違って見えた理由かもしれません。

新築の5年前の1980年に、当時最も有名な芸能人だった山口百恵さんと三浦友和さんの結婚式が霊南坂教会で行われたことも分かりました。その結婚式のとき私は中学生でしたので、岡山にいました。テレビで見た記憶が残っていますが、そのときは旧会堂だったようです。

わたしたちにとって参考になりそうなことは、先週の時点で非常に大勢の出席者がおられたことです。午前中は強い雨が降っていましたが、それにもかかわらず、です。ご高齢の方々も大勢おられました。会堂が広いから実現できることだろうと言えば言えなくはありませんが、大勢の聖歌隊による合唱がありましたし、もちろん全員マスク着用で、讃美歌の1節と4節を歌うなど短縮しながらも、いつもと同じように賛美がささげられ、礼拝が行われました。

インターネットでの同時中継も行われていましたので、自宅礼拝の方もおられたに違いありません。感染症に対するさまざまな考え方があるのは分かりますし、尊重されるべきです。しかし、むやみに恐れるのではなく、正しく気を付けることの大切さを思わされました。

とにかくみんながひとつに集まって礼拝をささげるとき、教会は大きな力を得、互いに励まし合うことができます。そのことを実感できました。霊南坂教会の皆さんに感謝いたします。

さて、今日の聖書箇所は、マルコによる福音書12章1節から12節までです。ここに記されているのは、イエスさまのたとえ話と、それを聴いた人々の反応です。

暗い話になるのはなるべく避けたいと願います。しかし、今日の箇所の最後の節に「彼らは、イエスが自分たちに当てつけてこのたとえを話されたと気づいたので、イエスを捕えようとした」(12節)と記されているのは穏やかではありません。気になりましたので原文を調べてみました。それで分かったのは、少し強すぎる訳のようだということです。

ギリシア語の原文には「イエスが〝自分たちに対して〟(プロス・アウトゥース(προς αυτους))このたとえを話された」と記されているだけです。古い英語聖書では「アゲインスト・ゼム(against them)」と訳されていますので、最も強く訳して「彼らに反対する」です。比較的新しい英語聖書の中に「エイム(aim)」という動詞の例がありました。「狙う」「当てつける」などの意味です。

あえて取り上げるほど重要な問題ではないとお感じになるかもしれません。しかし、日本語の「当てつける」に「はっきりそれと言わずに、何かにかこつけて悪く言う」(広辞苑)という意味を感じるのは私だけではないはずです。まるでイエスさまが陰険な嫌味を言われたかのようです。

「陰険」の意味は「表面はよく見せかけて、心のうちでは悪意をもっていること。陰気で意地わるそうなさま」。「嫌味」は「相手に不快感を抱かせる言葉や態度。いやがらせ」です(いずれも広辞苑)。わたしたちが思い描くイエスさまのイメージに大きく影響するでしょう。

昔の文語聖書(改譯)に「この譬(たとえ)の己(おのれ)らを指して言い給へる」と訳されていました。この訳が私は最も腑に落ちましたのでご紹介します。

このときの場所は、11章27節によると「エルサレム神殿の境内」です。そこにいた「祭司長、律法学者、長老たち」が「彼ら」です。当時のユダヤ教の指導者です。イエスさまは持って回った嫌味をおっしゃったのではありません。むしろはっきり分かるように正面から対決されたのです。

彼らは「イエスが我々に当てこすった」と感じたかもしれませんが、それは彼らの受け止め方です。イエスさまが彼らを恐れて、逃げの一手で遠回しの話をされたのではありません。恐れていたのは彼らのほうです。「群衆を恐れた」(12節)と記されているとおりです。

たとえ話の内容は次の通りです。ある人がぶどう園を作り、それを農夫たちに貸して、自分は旅に出かけました。収穫のときになったので主人が自分の僕を農夫たちのところに送ったところ、農夫たちはこの僕を捕まえて袋叩きにし、何も持たせずに主人のもとに帰しました。

主人は他の僕を送りましたが、農夫たちは頭を殴り、侮辱しました。次に送った僕は殺されました。他にも多くの僕を送りましたが、ある者は殴られ、ある者は殺されました。

最後に主人は愛する息子を送りました。主人の期待は「わたしの息子なら敬ってくれるだろう」(6節)というものでした。しかし農夫たちは、主人の跡取りを殺してしまえば「相続財産は我々のものになる」(7節)と言い出し、その息子を殺してぶどう園の外に放り出しました。

「さて、このぶどう園の主人はどうするだろうか」(9節)とイエスさまが問いかけられました。これが何のたとえなのかがユダヤ教の指導者たちにははっきり分かりました。

ぶどう園の主人は神さまです。主人の僕たちは旧約聖書に描かれた預言者たちです。そして、最後の「息子」はイエスさまご自身です。「ぶどう園」は直接的にはエルサレム神殿ですが、広い意味で受け取れば、真の信仰をもって生きることを志す人々の信仰共同体です。

そうであるはずの大切な「ぶどう園」を、神から奪って自分たちのものにしようとし、神から遣わされた預言者たちをはずかしめ、本来の目的から外れた邪悪なものにしてしまったのは誰なのか。そして、わたしのことまで殺そうとしている、それは誰なのか、あなたがただと、分かるように、イエスさまは「彼ら」を「指して」(文語訳)言われました。

イエスさまはご自身の命をかけてその人々に、真の信仰と命に至る悔い改めを迫られたのです。しかし、イエスさまは十字架にかけられて殺されました。そのイエスさまが「隅の親石」です。イエスさまの命が、新しい信仰共同体としての「教会」の土台です。

わたしたちの教会をイエスさまが支えてくださっていることを、心に刻んでまいりましょう。

(2022年9月4日 聖日礼拝)