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| クリスマスイヴ音楽礼拝(2023年12月24日 宣教 秋場治憲先生) |
讃美歌 410番 鳴れかし鐘の音
宣教要旨ダウンロード
「すべての時は、御手のうちに」
コヘレトの言葉3章1~15節
秋場治憲
「何事にも時があり 天の下の出来事にはすべて定められた時がある。」
(2023年12月31日 歳末礼拝)
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| 日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13) |
「天に栄光、地に平和」
ルカによる福音書2章8~20節
関口 康
「『あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。』すると突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。『いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。』」
クリスマスおめでとうございます!
今日の聖書箇所は、ルカによる福音書2章8節から20節です。イエス・キリストがお生まれになったとき、野宿をしていたベツレヘムの羊飼いたちに主の天使が現われ、主の栄光がまわりを照らし、神の御心を告げた出来事が記されています。
「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ、主メシアである」(10節)と、天使は言いました。
天使の名前は記されていません。ルカ福音書1章に登場するヨハネの誕生をその母エリサベトに告げ、また主イエスの降誕をその母マリアに告げた天使には「ガブリエル」という名前が明記されていますし、ガブリエル自身が「わたしはガブリエル」と自ら名乗っていますが(1章19節)、ベツレヘムの羊飼いたちに現われた天使の名前は明らかにされていません。同じ天使なのか別の天使なのかは分かりません。
なぜこのようなことに私が興味を持つのかと言えば、牧師だからです。牧師は天使ではありません。しかし、説教を通して神の御心を伝える役目を引き受けます。しかし、牧師はひとりではありません。世界にたくさんいます。日本にはたくさんいるとは言えませんが、1万人以上はいるはずです。神はおひとりですから、ご自分の口ですべての人にご自身の御心をお伝えになるなら、内容に食い違いが起こることはありえませんが、そうなさらずに、天使や使徒や預言者、そして教会の説教者たちを通してご自身の御心をお伝えになろうとなさるので、「あの牧師とこの牧師の言っていることが違う。聖書の解釈が違う。神の御心はどちらだろうか」と迷ったり混乱したりすることが、どうしても起こってしまいます。
もし同じひとりの天使ガブリエルが、エリサベトにもマリアにもベツレヘムの羊飼いたちにも、さらにマタイ福音書に登場するヨセフにも、東方の占星術師たちにも現れたということであれば、天使自身は神ではありませんが、情報源が統一されている点で、聴く人や状況によって神の御心の内容が違って聴こえることは起こらないので、不統一よりは安心できるかもしれません。
ところで、ベツレヘムの羊飼いに現われた天使が「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる」(10節)と言いました。しかしこれは翻訳のひとつの可能性です。原文には4つの単語が並んでいます。「ユーアンゲリゾーマイ・ヒューミーン・カーラーン・メガレーン」ですが、最初の「ユーアンゲリゾーマイ」だけで「喜びを告げる」(announce glad tidings)という意味になります。「ヒューミーン」は「あなたがたに」(to you)。「カーラーン」は「喜び」(joy)。そして「メガレーン」が「大きな」(great)です。つまり「喜び」が“ダブって”いるということです。さらに「大きな」(great)で“ブースト”されています。とても大きな喜びです。
その内容は「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ、主メシアである」(11節)です。この言葉を厳密に理解することを求める方々は、「あなたがたのために」(to you)とは誰のためかが気になるはずです。大別して3つの可能性が考えられます。
第一に、「民全体」(10節)をイスラエル民族に限定して「あなたがたイスラエル民族のために」。その場合は、イスラエル王国の再建を目標とする人にとっての喜びを意味します。
第二に、ベツレヘムの羊飼いに限定して「あなたがたベツレヘムの羊飼いのために」。その場合は、差別の対象になっていた羊飼いの苦境と関係し、弱い立場の人にとっての喜びを意味します。
第三に、すべての限定を解除して「全人類のために」。まさにすべての人にとっての喜びです。クリスマス礼拝のメッセージとして最もありがたいのはこの可能性でしょう。私も同意します。ただし、自分の読みたいように読む、というのは危険な面があることは覚えておくべきです。
しかし、第三の読み方にも根拠があります。天使の言葉の中で「救い主」(ソーテール)、「主」(キュリオス)、「メシア」(クリストゥス)と、それぞれ意味が異なる3つの称号がイエスさまに当てはめられています。「救い主」(ソーテール)と「主」(キュリオス)はどちらもローマ帝国の皇帝が自ら名乗り、周囲に呼ばせた称号です。その称号がイエスさまに当てはめられたのです。それはつまり、地上におけるソーテールでありキュリオスである存在は、あの独裁者ローマ皇帝ではなく、今宵生まれたイエスさまである、ということが明確に示されたことを意味します。
そして「メシア」(ギリシア語でクリストゥス)は、ユダヤ人たちが長い歴史の中で待ち望んだ存在です。つまり天使が「あなたがたのために救い主(ソーテール)がお生まれになった。この方こそ、主(キュリオス)メシア(クリストゥス)である」と羊飼いたちに告げている言葉の中に出てくる3つの称号の意味は、ユダヤ人のためにも、異邦人(=「ユダヤ人以外の人々」を指す)のためにも、すなわち「全人類」(=ユダヤ人+異邦人)のためにイエスさまはお生まれになった、という意味であると理解できます。
天使は最後に「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」(14節)と言いました。これも翻訳のひとつの可能性です。しかも、この言葉は歴史や国境を越えて多くの人に誤解されてきた事実があることを指摘しておきたいと思います。
特に誤解されてきたのは後半の「地には平和、御心に適う人にあれ」です。私も誤解していたことを正直に告白します。「御心」は「神の御心」です。しかしそうなりますと、「神の御心に適う人(だけ)に平和が訪れますように」という意味なのかと考える人が必ず現れるでしょう。「神の御心に適わない人には平和は訪れなくても構わない」と、神は天使を通して羊飼いに告げたのか、聖書を通してそのことをわたしたちに告げているのか、と考える人が必ず現れるでしょう。
全く違います。完全に正反対です。しかし、翻訳をやり直す必要はありません。「御心に適う人」と「御心に適わない人」がいる、という読み方をやめるだけで済みます。「御心に適う“人”」は「全人類」を指していると理解すれば、問題は解決します。
日本語聖書で「御心」と訳される伝統になっている「エウドキア」の意味は「神の喜び」です。この言葉には旧約聖書の背景があります。特に創世記1章31節に「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった」とお喜びになったことと関係しています。
全人類が「神の喜び=神の御心」(エウドキア)に適った存在です。例外も限定もなく「全人類に平和がもたらされますように」と歌う天の大軍の歌声がベツレヘムの夜空に響き渡ったことを想像しながら、今夜のクリスマスイヴ音楽礼拝を共にささげたいと願います。
(2023年12月24日 クリスマス礼拝)
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| 日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13) |
ルカによる福音書1章26~38節
「マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った。」
(2023年12月17日 聖日礼拝)
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| 日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13) |
前回の宣教の後少ししてから、ある方から質問がありました。ヨブは苦難の中で仲保者を求めた、しかもこの仲保者が自分の味方として必ず地の上に立たれるということだったけれども、このことはヨブ記のどこに言及されているのか宣教要旨には記載されておらず、見つけることが出来ないので教えてほしいというものでした。新共同訳の言葉とは少しニュアンスが違いますので、それで見つけることが出来なかったのだと思います。これはヨブ記19:25~27に記載されている言葉です。口語訳の方が分かりやすいと思いますので、参考までにこの個所の口語訳を掲載しておきます。後でご自身で比較をしてみてください。
25節 わたしは知る
わたしをあがなう者はいきておられる、
後の日に彼は必ず地の上に立たれる。
26節 私の皮がこのように滅ぼされたのち、
わたしは肉を離れて神を見るであろう。
27節 しかもわたしの味方として見るであろう。
わたしの見る者はこれ以外のものではない。
わたしの心はこれを望んでこがれる。
ヨブは激しい苦難の中で、神と自分の間に立ってくれる仲保者を求め、しかも自分の味方として立って下さる方を待ち望んでいる。友人たちは因果応報の地番に立ち、ヨブがこのような悲惨な目にあっているのはヨブが罪を犯したからだと言って責め立てる。ヨブはそんなことは自分もよく承知していると言う。しかしヨブを打つ手は止むことがない。ヨブはこの悲惨の中で悲鳴をあげながら、彼はこの自分をあがなう者が、地の上に立たれることを切望しているのです。ここでヨブは因果応報の世界から、福音の世界へ突き抜けようとして、その出口を望み見ている。そしてよきおとずれを持ってこられる方を、待ち焦がれているのです。私たちは既にその方を知っています。聖書を通し既にこの私たちを贖ってくださった方、どこまでも私たちの味方としての救い主に出会っています。そしてその方の霊が、その方の息吹が日々私たちに向かって突入してきており、私たちを励まし、私たちと共に歩まれる。死の陰の谷を行くときも私たちと共にあることに感謝したいと思います。
「今やキリストイエスに結ばれている者は、罪に定められることがない。」(ローマ人への手紙8:1)
来週からアドベントに入ります。毎度繰り返していますが、アドベントとは英語でadventと書きます。ad(~へ向かって、英語のto)であり、ventとは(やって来る)という意味です。ヨブが、預言者たちが待ち焦がれた方が、わたしたちを目指してやってくるというのです。心の備えをして迎えたいと思います。
コヘレトの言葉2章に入りたいと思います。1章で空の空、一切は空である、と自らの言葉を開始したコヘレトは、日の下で行われる人間の様々な営みに注目し、一体それらの労苦が何になるのか、一代が過ぎればまた一代が起こる。日は昇り、日は沈み、あえぎ戻り、また昇る。風は南へ向かい北へ巡り、めぐり巡って吹き続ける。川はみな海に注ぐが海は満ちることがない。どの川も、繰り返しその道程を流れる。一切は繰り返すばかりで、その完成を見ることはないというのです。一切は実に単調な繰り返しに過ぎない。空の空、一切は空である、と言う。
しかしコヘレトは1章のまとめともいうべき言葉「神はつらいことを人の子らの務めとなさったものだ。」と言う。それらの人の子らに与えられる労苦の一つ一つに神の御手が添えられていることを見出した。しかしこれはコヘレトがイスラエルの王として、天の下に起こるすべてを知ろうとして熱心に探究し、知恵を尽くして調べた結果でした。そこにはクリスマスの夜、寒さと獣の危険から羊を守りながら夜明けを待ち望む羊飼いたちに、天使と天の軍勢によって高らかに告げ知らされた知らせに、小躍りして喜んだ羊飼いたちの喜びはありませんでした。
私たちはコヘレトには知らされていなかった「よきおとずれ」を既に聞かされている者として、日の上におられた方がこの空しき世界に姿を現されたことを知らされた者として、空の空、一切は空であるという世界が、神がその御心を実現し給う世界であることを学んで感謝しました。ただコヘレトにはこのことは、まだ知らされてはいませんでした。
彼は人の子らのつらい務めの一つ一つに神の御手が添えられているということを学んでも、なおこのことに慰めを得ることができませんでした。「見よ、どれもみな空しく、風を追うようなことであった。」というのです。
ここでコヘレトはもっと直接的に自分を満たしてくれる、人の子らが求めるべき幸福というものを追求してみようという衝動に駆り立てられます。私はさあ「快楽を追ってみよう、愉悦に浸ってみよう。」この「快楽」は必ずしも感覚的、表面的な快楽、また悪い欲望とは限らないということです。また「愉悦」も同様に「幸いを見る、楽しむ」ということで、善と悪の倫理的対立の意味ではないというのです。神の創造の中で、すべての面で生き、かつ楽しもうと試みることである。楽しむことそれ自体は悪ではないとのこと[1]。
しかし「快楽」も「愉悦」もコヘレトの心を満たして、人生の生きる意味をもたらしてくれたかと思えば、これもまた空であり、風を捕らえるようなことであったとコヘレトは言うのです。コヘレトはその快楽と愉悦の中で得た笑いということに思いを馳せ、これは「狂気」(馬鹿げたこと)であると言い、「快楽」に対しては、これが一体何になろうと言う。
何事も知恵に聞こうとするコヘレトにとっては潔しとしないことではありますが、しかし彼はなお、この天の下に生きる短い一生の間、何をすれば人の子らは幸福になるのかを見極めるまで、酒で肉体を刺激し、愚行に身を任せてみようと心に思い定めたというのです。
快楽と愉悦を見たコヘレトは、一転して愚行に身を任せてみようと言う。コヘレトの知恵に基づけば、愚行に過ぎないと思われることの中にさえ彼は人の子の幸せを探し求めるのです。この言葉には彼が自分が生きることの意味を必死に探し求めるその思いを読み取ることができます。そして彼は大事業を起こして成功し、多くの屋敷を構え、ぶどう園、果樹園を作らせた。池をいくつも掘らせ、木の茂る林に水をひかせた[2]。かつてエルサレムに住んだ誰よりも多くの奴隷を所有し、牛や羊と共に所有した。人の子らの喜びとする多くの側女を置いた。
彼は事業に成功し、大庭園付きの大邸宅を構えただけではなく、ぶどう園、果樹園を持ち、木を植えて林をとし、池をいくつも掘らせた。これは日本ではなくエルサレムでのこと。途方もなく贅沢なこと。当時の世界では考えられる限りの豪華な生活であり、この世の楽園とも思えるような生活です。荒れ野にサフランの花[3]が咲き乱れるがごとしと言うことができる。池を掘るということは日本では造作もない事のように思われますが、ことエルサレムとなると話は別です。旧約聖書には井戸の取り合いの記事が、しばしば登場してくる。
ソロモン王は700人の妻、即ち王妃を有し、300人の側室を有していたと、列王記上11:1以下に「ソロモン王の背信とその結果」という小見出しがついて記されています。是非お読みください。ソロモンはこの妻たちを愛してそのとりことなってしまった。神は何度もソロモンに警告をした。しかしソロモンは妻たち、側室たちのとりこになり、神の再三にわたる警告に従わず、エルサレムで高台を設け、自分たちの神々に犠牲を捧げることを許した。その結果ソロモンの死後異国の神々によって惑わされた王国は、分裂し国を亡ぼす誘因となっていくのです。
「かつてエルサレムに住んだ誰よりも多くの」というのは、彼は優越感の中にさえも人の子の幸せを探った。目に望ましく映るものは、何ひとつ拒まず手に入れ、どのような快楽も余さず試みた。コヘレトの心は労苦さえ楽しんだ。彼は労苦をも楽しみ、その結果として快楽と愉悦を得た。しかし、彼は自分が為した労苦の結果の一つ一つを顧みてみた。結果は「見よ、どれも空しく、風を追うようなことであった。」とコヘレトは振り返る。
これは神が創造のわざを終えられた時、「神は御造りになったすべてのものをご覧になった。見よ、それは極めて(口語訳 はなはだ)良かった。」(創世記1:31)と記されています。しかしここでは、そうではない。神の創造のわざとは正反対。「見よ、どれも空しく、風を追うようなことであった。太陽の下に、益となるものは何もない。」と言う。全体としてかえりみた時、彼のこのような成功は、一体何であったのか。地上の楽園とも思えるような状況の中にありながら、彼の心は満たされないのです。隙間風が彼の心の中を吹き抜けていくのです。
ここで彼は愚行から身を転じて、より高尚な知的、精神的な活動に向かいます。「私はまた、顧みて知恵を見極めようとした。」(12節)現代風に言うならば、様々な思想を学び、それらを比較検討する。人間の様々な知的活動がもたらす結実を味わい楽しむ。賢者の目はその頭(あたま)に、愚者の歩みは闇にあることを学ぶ(14節)のです。
そして彼が次に見出したことは、知者にとっても愚者にとっても、人生は同じように終わるということです。「わたしはこうつぶやいた。『愚者に起こることは、わたしにも起こる。より賢くなろうとするのは無駄だ。』これまた空しい、とわたしは思った。賢者も愚者も、永遠に記憶されることはない。やがて来る日には、すべて忘れられてしまう。賢者も愚者も等しく死ぬとは何ということか。」(15節~16節)
これが分かった時、彼は生きることに対して倦怠感を覚えるのです。
「私は生きることをいとう。太陽の下に起こることは、何もかも私を苦しめる。どれもみな空しく、風を追うようなことだ。」(17節)
しかしここで彼は一瞬、自分の財産のことを思い出したようです。あるいはこれに頼って、生き甲斐を見出しえるのではないかと思ったのです。
しかし、次の瞬間、彼は自分の死後、墓の向こう側で自分が知力を尽くし、苦労して築いた財産が、他人のものになっていることを思い起こすのです。
20節以下を読むとこうあります。「太陽の下、労苦してきたことのすべてに、私の心は絶望していった。知恵と知識と才能を尽くして労苦した結果を、まったく労苦しなかった者に遺産として与えなければならないのか。これまた空しく大いに不幸なことだ。まことに人間が太陽の下で心の苦しみに耐え、労苦してみても何になろう。一生、人の務めは痛みと悩み。夜も心は休まらない。これまた、実に空しいことだ。」と言う。
コヘレトはその生涯の活気ある時期に、自分の手で喜びを見出そうとしていそしみ励んだ。官能的悦楽、事業、豪華な生活、知的活動、みな人並み以上に追求し獲得したが、結局、彼の人生観は、虚無の感触に落ち着くのです。ことここに至れば、今風に言うならば、自殺するか、修道院に入るか、と言うことになるのかもしれない。事実教父ヒエロニムスは、このコヘレトの言葉によって、自分はこの世とこの世にあるすべてのものを軽蔑すべきことを学んだと言っている。
ところがここで、思いがけない局面が24節以下で展開するのです。私たちを驚かすのは、この新しい局面というのは、この世に対する蔑視とか、人生への虚無感とはまったく違う、別のものなのです。ここでは修道院や自殺のことではなく、人が再び、この人生の日常の生活に立ち返ることが述べられている。何も肩をいからせたり、力んだりせず、落ち着いて、私たちの日常の生活に立ち返ることが述べられている。
「人間にとって最も良いのは、飲み食いし自分の労苦によって魂を満足させること。しかしそれも、私の見たところでは神の手からいただくもの。自分で食べて、自分で味わえ。」(新共同訳2:24・25)
「人は食い飲みし、その労苦によって得たもので、心を楽しませるより良い事はない。これもまた神の手から出ることを、私は見た。誰が神を離れて、食い、かつ楽しむことのできる者があろう。」(口語訳 2:24・25)
労苦によって得たもので心を楽しませるという人生に対する肯定的な発言は、どこからでてくるのであろうか。その出所は今読んだ言葉の後半部分にあります。「それらは神の手からいただくもの」だからであるというのです。
人生は空の空なのだから、我らは食い、飲みし、歌って踊って楽しもうではないか、という刹那的な享楽主義ではない。享楽主義者はそれが、神の手から出ているなどとは言わない。私たちが従事している仕事、日々家庭において行っているすべてのこと、これらはすべて神の手から出ていることを私コヘレトは見たというのです。
これまでコヘレトは自分で幸福を作り出そう、見出そうとして、死力を振り絞って探究してきた。それは自己実現を目指したものと言い換えることもできるでしょう。しかしそこにあったものは、空しさだけであった。彼はこの空しさは神によって満たされるのでなければ、永遠に満たされるものではないことに気づかされるのです。
アダムとエバも自分たちが神に守られていることに気づかず、自分の手で「善悪を知る木」の実に手を伸ばしたのです。神と等しくなろう、神と並ぶものになろう、更には神を超える者になろう、更には自分が神にとって代わろうという思いがそこにはあった。コヘレトは自分がまさに、アダムとエバが犯した罪を自ら犯してしまっていたことに気付かされたのかもしれません。彼は自分が傲慢であったことに気づかされるのです。
「目を上げて、私は山々を仰ぐ。私の助けはどこから来るのか。私の助けは、天地を造られた主のもとから来る。」という詩篇121篇の言葉を思い起こしたのかもしれない。
次の新共同訳の25節の言葉は唐突なような感じが致します。しかも命令形で出ています。「自分で食べて、自分で味わえ。」というのです。これは24節の「神の手からいただくもの」を自分で食べて、自分で味わってみるのでなければ、この真理は分からないというのです。口語訳は「誰が神を離れて食い、かつ楽しむことのできる者があろう。」と訳されています。
彼のこの空しさは、神によって満たされるのでないならば、一切の空しさから抜け出すことはできないということに彼は気づかされたのです。これは彼の一大転機、彼のターニングポイントとなりました。そしてそれまで能動的であったコヘレトは、受動的なコヘレトに変えられます。ここには自分自身に絶望したコヘレトがいます。彼に課せられた労苦も含めて、神によって与えられていることに気付かされたコヘレトは、感謝と充足感を覚えるのです。自らの積極的な探究に疲れ果てたコヘレトは、神の癒しを素直に受け入れられる者に変えられています。
先週関口先生が宣教の中で、「神は私たちに贈り物を与える前に、まず私たちの内にあるものをお壊しになる性分をお持ちなのです。」という注解者の言葉を引用されておりましたが、今少しコヘレトが生きることにも倦怠感を覚えるほどに絶望の極みに達したことに関連してお話ししてみたいと思います。この破壊活動は我らの肉の思いに対して実行されるのです。我らが尊ぶ我らの自由意志、理性、知恵、知識、思いに対してこの破壊活動は実行されるのです。それは我らが神の恵みに対して最も感応しやすくなるためであり、我らの心の隅々にまで神の愛が染みわたるようになるためです。なぜなら肉の思いは、神の贈り物を受け取ることができないからです。神はその恵みを与える前に、私たちの中にある肉の思いを打ち砕くのです。それは取りも直さず、神の贈り物を恵みとして、無代価で私たちに与えるために他なりません。
神の愛のわざが神の本来のわざであるとするなら、我らには怒りとさえ見える神のわざは神の非本来的なわざであり、ルターはこれを神の「異なるわざ」と呼んでいます。神はその本来のわざを為したもうために、その異なるわざ、即ち破壊活動を遂行されるのです。ルターは神の異なるわざは神の本来的なわざを遂行するための手段である、マスクにすぎないと言うのです。神の怒りの背後に神の愛をみるのです。ルターはイザヤ書28:21の言葉を引用してこのことを説明しています。
「主はベラツィム山のときのように立ち上がり
ギブオンの谷のときのように憤られる。
それは御業を果たされるため。
しかし、その御業は未知のもの。
また、働きをされるため。
しかし、その働きは敵意あるもの。[4]」(新共同訳)
要するに神はイスラエルをその本来の民に立ち返らせるために、彼らにに対して敵対的になられるという個所です。ルターはこの個所をローマ書講義の中で、イザヤ書28:21を「主はそのみわざを遂行するために、主にとっては異なるわざをなしたもう[5]」と訳しています。また詩篇103篇11節を引用して「地よりも高い天の高さに従って、(すなわち、我らの思いに従わずに)、主は我らに対するいつくしみを強めたもうた。」と述べています。
神はコヘレトの思いには従わず、その向かった先はことごとく空しさの風を吹きさらし、彼の思いを超えて、今や一切が神の御手から出ていることを知らしめるのです。この恵みは自分で食べて、自分で味わう以外に知ることはできないというのはコヘレトの実感だったでしょう。神を離れては池を作って、庭を設計し、知的活動に専心しても、それは空しいというのです。神は一切において一切を為したもうと言うのです。この神が私たちに敵対しているかのように思われる時、神がその異なる業を為したもう時も、神は我らを捨ててしまったのではなく、もっとも近くにいましたもうというのは、ルターが主の十字架から学んだことです。
2章の最後の説になりました。26節です。「神は、善人と認めた人に知恵と知識と楽しみを与えられる。だが悪人には、ひたすら集め積むことを彼の務めとし、それを善人と認めた人に与えられる。これまた空しく、風を追うようなことだ。」
『善人』と訳されている言葉は、道徳的な善悪ということよりも、神に『恵まれた』『喜ばれる』人に近い。[6]」ということです。また「悪人」という言葉に関しても、「道徳的内包を持たない。『目的を誤る』原義(目標を逸れる)に近い」と言うことです。「的を外す」というのは、私たちがしばしば聞かされているように、ギリシャ語のハマルティア 「罪」という意味です。口語訳は「罪人」と訳しています。「神は、その心に適う人に、知恵と知識と喜びとをくださる。しかし罪人には仕事を与えて集めることと、積むことをさせられる。これは神の心にかなう者にそれを賜るためである。」と。これはやはりコヘレトの限界です。ヨブが悩まされた友人たちが主張した因果応報の世界が広がっています。
神はこの罪人に課せられた制限を取り払い、「大いなる喜び」「まったき喜び」をもたらされた。まさにこの罪人を目指して、神の独り子がベツレヘムの馬小屋で誕生した。もはやユダヤ人もギリシャ人もなく、その心にかなう者すべてにもたらされた喜びをあなたがたに伝えるというメッセージを私たちは野宿していた羊飼いと共に聞くのです。
「天使は言った。『恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなた方のために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなた方は、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなた方へのしるしである。』[7]」
すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。
「いと高きところには栄光、神にあれ、
地には平和、御心にかなう人にあれ。」
天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、
「さあ、ベツレヘムへ行って主がお知らせくださったその出来事を見てこようではないか[8]」と喜びに満たされた羊飼いたちと共に、私たちもこの方をお迎えしたいと思います。
ヨブが、また多くの預言者たちが待ち焦がれながら、見ることが出来なかった方が、この地上にその姿を現されたのです。大いなる喜びの到来に感謝したいと思います。
[1] 「コヘレトの言葉」注解 西村俊昭著 日本基督教団出版局 p。129
[2] 「目で見る聖書の時代」月本昭男 写真 横山匡(ただし)日本基督教団出版局
ソロモン王の時代メギド、ハツォル、ゲゼルなどの町々が再建されましたが、(列王記上9章15節)、これらの町の遺跡からは、岩盤をうがって造られた縦穴と坑道を通って城壁内から地下水を汲みに行ける、りっぱな給水施設が発見されました。給水施設とならんで、汚水溝も整備されていました。ゲゼルでは城門の下に、メギドでは城壁の下に排水溝が造られ、汚水が城外に流れ出るようになっていました。P.17
[3] イザヤ書35:1・2新共同訳はサフランではなく、野ばらになっている。
[4] 口語訳はこの最後の言葉「敵意あるもの」を、「そのわざは異なったものである」と訳しています。
[5]イザヤ書28:21及び詩篇103:11節 「世界の名著 ルター」笠利 尚訳 中央公論社P.447
[6] 「コーヘレトの言葉」注解 西村俊昭著 日本基督教団出版局 P.183
[7] ルカ福音書2:10
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「新しき生」
ローマの信徒への手紙8章1~17節
関口 康
「肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。しかし、霊によって体の仕業を断つならば、あなたがたは生きます。」
今日の箇所は先週の続きです。先週の箇所はローマの信徒への手紙7章7節から25節まででした。しかし、教会創立71周年記念礼拝でしたので、その主旨に基づいてお話しする部分が必要でしたので、聖書の内容について詳しくお話しすることができませんでした。
かろうじてお話しできたのは、ローマの信徒への手紙の7章から8章までをわたしたちが読むときの大前提が違っている場合がある、ということでした。2点挙げました。
ひとつは、7章だけで45回出てくる「わたし」とはだれのことか。もしパウロだけを指しているとしたら、この箇所をパウロの自叙伝として読まなければならないことになるが、それでよいか。
ふたつめは、ここに描かれている「わたし」の葛藤は、キリスト教改宗前の人が味わっていた過去の葛藤であって、キリスト教への改宗後はもはや生じることがありえないものなのか。
どちらも「違う」と私は申しました。しかもそれは聖書解釈の問題として考えるだけでなく、わたしたち自身の現実から考えるほうが理解しやすいとも申しました。わたしたちのうち誰が、教会に通いはじめ、やがて洗礼を受けてキリスト者になったので自分の罪についての悩みも苦しみもなくなったと言えるでしょうか。「そんな人はいない」と言いたいわけですが、反論があるかもしれません。「罪についての葛藤は私にはありません」と。
しかし、もしそういう人が現われたら、多くの人が困ります。「私はキリスト者だと自覚してきたつもりだが、罪の葛藤が無くなったことはない。そうでない人がいるというなら、私の信仰が足りないという意味なのか」と苦しむ人が続出するでしょう。この箇所はキリスト教改宗前のユダヤ教徒だった頃のパウロの葛藤を描いたものではないとはっきり言うことによって、多くのキリスト者が救われると私は申し上げたいのです。
キリスト者でない人がキリスト者になることだけを「救い」と呼ぶのは狭すぎますし、事実でもありません。「教会」が天国の楽園のような場所で、涙はことごとくぬぐい取られ、悲しみも嘆きも労苦も無いと言えるなら別ですが、そうでないことはパウロ自身もよく知っています。
葛藤があるからと言って、信仰が足りないわけではありません。キリスト者になったからといって絶望することが完全に無くなるわけではありません。「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか」と悲痛な絶望の叫びを挙げる人は、イエス・キリストを信じる前の過去のわたしではなく、信仰をもって生きているこのわたしが今まさに抱えている問題を前にして絶望している叫び声でもあると言えることのほうが、むしろわたしたちは救われるでしょう。たとえば、キリスト者の自死は、その人の不信仰の結果でしょうか。そのように言われ、責められることのほうが、よほど残酷ではないでしょうか。
しかし、以上は先週申し上げたことです。今日の箇所の最初にパウロが「従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません」(1節)と記しています。
「罪に定められることがない」と訳されているカタクリマというギリシア語は、人間の決定でなく、神の決定を指します。カタクリマは「非難」という意味だけでなく「処刑」という意味を含んでいる点が重要です。人はあなたのことをなんとでも言うでしょう。しかし、神はあなたを非難しません。処刑もしません。あなたにもし不幸が起こっても、神の罰(天罰)ではありません。そうだろうか、そうかもしれない、神がわたしを罰しているのだ、だからわたしは不幸なのだと疑って、神の愛を否定しないでください。神はあなたを愛しておられます。このようにパウロが訴えていると読むことができます。
「キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。肉の弱さのために律法がなしえなかったことを、神はしてくださったのです。つまり、罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです」(2~3節)は、神の御子イエス・キリストがわたしたち罪人の身代わりに十字架にかかって死んでくださったこと、そしてそのイエス・キリストを通して示された神の愛が聖霊を通してわたしたち人間へと注ぎ込まれるとき、わたしたちは罪と死の法則から解放されることを指しています。
実はこれは新たな「葛藤」のはじまりを意味します。わたしたちの心の中に、神の愛を明確に伝え、ひとを善へとうながし、喜びと希望をもって生きていくようにと励ます「聖霊」が与えられるとき、その「聖霊」と、もともと人間の心の中に住んでいた「罪と死との法則」が取っ組み合いを始めるのです。その新たな葛藤を抱えて生きることこそが「霊による命」(新共同訳の小見出し)であり「新しき生」(本日の宣教題)です。決してそれは否定的な意味ではなく、悩みや苦しみ、葛藤や隘路、挫折や絶望も、すべて神に受け入れられていると信じることができることにおいて、喜びであり希望です。
しかも、ここで大事なことは、イエス・キリストの十字架を通して示された神の愛は、「罪深い肉と同じ姿」(3節)という性質を持っているという点です。キリスト者になっても自分の罪への悩みから解放されず、いつまでも葛藤し続けているこのわたしと同じ姿でイエスさまが生まれ、現実の世界を共に生きてくださり、しかも、地上のどんな律法も法律に照らしても死刑に値する罪を犯さなかったイエスさまが、十字架上で「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と絶望の叫びをあげられるほど苦しまれ、わたしたち罪人の身代わりに死んでくださったことで、あらゆる葛藤も絶望さえも、それは不信仰であるなどと神から責められ、処罰される理由にはならないことを明確に示されたことを意味する、ということです。
3節の註解(著者レカーカーカー(A. F. N. Lekkerkerker))に引用されていた言葉に私はぎょっとして立ちすくみ、考えさせられました。ベツェル(H. Bezzel)という人の言葉です。カール・バルトの『教会教義学』(原著Ⅰ/2, S. 169. 日本語版『神の言葉』Ⅱ/1、304頁)からの孫引きです。
「イエスが人間となるということだけではわれわれを決して救い出すことはできなかったであろう。ただイエスが肉となるということがわれわれを救い出してくれたのである。…人間となるということであれば、そのことはわれわれの苦痛を増大させたことであろう。それは、『なぜ汝は彼〔=イエス〕のような人間であることはできなかったのか』とわれわれを責めたて、ただ、われわれが罪におち入らなかったならばそのようなものとなり得たはずだという証拠をつきつけることになったであろう。人間となるということであれば、そのことは私の不幸に対する嘲りのようであったであろう。その辺の事情はちょうど、健康と力ではちきれるばかりの人が、病人の寝床に近づく時、そのことはつねに病人にとってたしかにひとつの悲哀としてうけとられるのと同様である」(吉永正義訳)。
イエスさまが「人間」として来られたとしたら、わたしたち人間はイエスさまのようになれないことに苦痛を感じるだけである。それは、元気な人がお見舞いに来ると病気の人は「私はなぜあなたのように元気でなく病気なのか」と悲しくなるだけなのと同じだというのです。続きは来週お話しします。
(2023年11月12日 聖日礼拝)
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| 日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13) |
「葛藤と隘路からの救い」
ローマの信徒への手紙7章7~25節
関口 康
「わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。このように、わたし自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです。」
今日の礼拝は昭島教会創立71周年記念礼拝です。長い間、献身的に教会を支えて来られた皆さまに心からお祝い申し上げます。
この喜ばしい記念礼拝の日にふさわしい宣教の言葉を述べるのは重い宿題です。私がその任を担うことがふさわしいと思えません。2018年4月から鈴木正三先生の後の副牧師になりました。そして2020年4月から石川献之助先生の後の主任牧師になるように言われました。2020年4月は、日本政府から「緊急事態宣言」が出され、当教会も同年4月から2か月間、各自自宅礼拝としました。また、教会学校と木曜日の聖書に学び祈る会は3か月休会しました。そのときから3年半しか経っていません。
3年間、教会から以前のような交わりが失われました。なんとかしなくてはと、苦肉の策でインターネットを利用することを役員会で決めて実行したら「インターネットに特化した牧師」という異名をいただきました。申し訳ないほど「私」の話が多くなってしまうのは、3年間、家庭訪問すらできず、皆さんに近づくことがきわめて困難で、皆さんのことがいまだにほとんど分からないままだからです。
日本語版がみすず書房から1991年に出版されたアメリカの宗教社会学者ロバート・ベラ―(1927~2013年)の『心の習慣 アメリカ個人主義のゆくえ』で著者ベラーが《記憶の共同体》という言葉を用いたのを受けて、日本のキリスト教界でも特に2000年代にこの言葉を用いて盛んに議論されていたことを思い起こします。この言葉の用い方としては、個人主義、とりわけミーイズム(自己中心主義)に抵抗する仕方で「教会は《記憶の共同体》であるべきだ」というわけです。
なぜ今その話をするのかといえば、昭島教会の現在の主任牧師は、残念なことに《記憶の共同体》としての昭島教会の皆さんとの交わりの記憶を共有していないし、共有することがきわめて困難な状況が続いていると申し上げたいからです。この状態が長く続くことは決して良いことではないと、本人が自覚しています。不健全な状況を早く終わらせる必要があると考え、そのために努力しています。
教会はルールブックで運営されるものではありません。ルール無用の無法地帯ではありませんが、それ以上に大切なのは、教会の皆さんが共有しておられる「記憶」です。「記憶」が大切だからこそ、今日のこの礼拝が「昭島教会創立71周年記念礼拝」であることの意味があります。
今日開いた聖書の箇所は、ローマの信徒への手紙7章7節から25節です。理解するのが難しい箇所だと多くの方がおっしゃいます。私もそのことに同意します。しかし、この箇所を読むときの大前提が、読む人によって違っている場合が多くあります。特に重要な問題点を2つ挙げます。
第1に、この箇所に繰り返し出てくる「わたし」は誰のことかという問題です。7章だけで「わたし」が45回出てきます。シンプルに考えれば、この手紙は使徒パウロが書いたので、その中に「わたし」と単数形で書かれている以上、パウロ自身のことを指しているに違いないと言えなくはありません。しかし、そうなると、わたしたちがこの箇所を読む場合、これはあくまで《パウロの自叙伝》であるととらえて読む必要があることになります。伝統的にはそう読まれてきました。たとえば、オリゲネス、アウグスティヌス、ルター、カルヴァンがそう読みました。しかし、それで本当に正しいでしょうか。
第2は、いま申し上げた第一の問題と深い関係にあります。それは、この箇所で「わたし」は明らかに自分の心の中に潜む罪の問題で葛藤していますが、この葛藤はイエス・キリストを信じて救われる《以前の「わたし」》つまり《過去の「わたし」》の心の状態を描いたものであり、イエス・キリストを信じて救われた後はこの葛藤から全く解放され、罪の問題について悩むことも苦しむことも無くなる、という理解があるが、その読み方で正しいかという問題です。
第一の問題と第二の問題の関係性を言うなら、パウロが自叙伝として「わたし」が過去に属していたユダヤ教ファリサイ派からイエス・キリストを信じて救われたときに彼の中に内在していた罪の問題が解決し、葛藤が無くなったことを述べることがこの箇所に記されていることの趣旨であるということになるとしたら、先ほど挙げた2つの問題の読み方のどちらも正しいということになります。
しかし、結論だけ言いますと、今日的には、どちらの読み方も支持できません。それは聖書の解釈上の問題でもありますが、わたしたち自身に当てはめて考えてみれば理解できることだと思われます。
「律法は罪だろうか。決してそうではない。しかし、律法によらなければわたしは罪を知らなかったでしょう」(7節)とパウロが記していることの趣旨は、先ほど「教会はルールブックで運営されるものではないが、ルール無用の無法地帯でもない」と申し上げたことと関係します。「律法」は「法律」の字並びを逆さまにしただけで、英語では同じLaw(ロー)です。法律の存在そのものが罪であることはありません。しかし、律法にせよ法律にせよ、「法」の役割は私たち人間に、そのルールに従うことができない自分の罪や弱さや欠けを否応なしに自覚させることにあることは、わたしたちの体験上の事実でしょう。「法」の存在がわたしたち人間にとって究極的な意味の「救い」をもたらすことはなく、むしろ、ダメな自分をさらされ、それを直視することを求められるだけです。
しかも、法律の順序を逆さまにして「律法」という場合、その意味することは「神の言葉」であり、なおかつ「神を信じる者たちが従うべき教え」なので、個人的なものではなく、共同体が共有するときこそ意味を持ちます。「律法」は個人のルールブックではなく教会のルールブックだということです。そもそも誰ともかかわりを持たない完全な個人は存在しませんが、自室でひとりでいるときにルールは不要かもしれません。他の誰かとかかわりを持つときに初めてルールが必要になります。
しかし、それが先ほど第二の問題として挙げた、今日の箇所の「わたし」の葛藤はイエス・キリストを信じて救われるよりも前の、過去の「わたし」であると、もしわたしたちが読んでしまうと、共同体としてのキリスト教会は、ルール無用の無法地帯であるかのようになってしまいます。キリスト教会は律法主義には反対しますが、律法そのものを除外することはありませんし、あってはなりません。
そして、もうひとつ、今日の箇所の葛藤する「わたし」、なかでも特に「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこのからだから、だれがわたしを救ってくれるでしょうか」(24節)という悲痛な叫びは、あくまでも未信者だった頃の、あるいは他の教えに従っていた頃の過去のわたしであって、今は違うということになるとしたら、キリスト者にはこの葛藤は無いのかと問われたときにどのように答えるかの問題になります。キリスト者は「惨めな人間」ではなくなるのでしょうか。それはわたしたち自身がよく知っていることだと思います。
今日の宣教題を「葛藤と隘路からの救い」としましたが、救いはイエス・キリストへの信仰によってすべて成就され、今はもはや悩みも苦しみも無いと申し上げるためではありません。隘路(あいろ)は「狭くて通るのが難しい道」のことです。今のわたしたち自身が、昭島教会が「葛藤と隘路」の只中にいると申し上げたいのです。その中からの「救い」のために必要なのは、コロナ禍の3年間で失われた教会の交わりの回復と、《記憶の共同体》としての教会が再興されることだと、私は信じます。
教会の交わりの回復の第一歩として今日はこれから聖餐式を行います。今後の課題として、愛餐会、シメオン・ドルカス会、読書会や勉強会を取り戻すことを役員会で検討しています。
(2023年11月5日 昭島教会創立71周年記念礼拝)
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| 日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13) |
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| 日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13) |
前回はヨハネ福音書13章の主イエスが最後の晩餐において、弟子たちの足を一人ずつ洗い、腰に下げた手ぬぐいでその足をふかれたという出来事を学びました。十字架の死が目前となる中で、「主イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。[1]」と語られていました。
主イエスが置かれていた状況というのは時間的に言っても、まさに最後の最後までと言うことができる状況でした。この上なく愛し抜かれたと訳されている言葉は英語ではto the end と訳されています。ギリシャ語でも同じ表現になっています。これは「最後まで」という意味と同時に、「究極まで愛された」と解することもできる言葉です。「究極まで愛された」というのは、主イエスの命の炎が燃え尽きるまで愛されたと解することが出来ると思います。愛するということは、愛される者にとっては、実に喜ばしいこと、実に甘きことです。しかし愛する者にとっては、その身を削ることとなります。一本のろうそくが周りを照らしながら、その身を燃やし尽くす譬えは、そのことを表しています。
主イエスは御自分亡き後の弟子たちを愛おしみ、彼らの足を一人一人洗われた。当時のユダヤ人たちはサンダル履きで、その足は毎日洗わなければならなかった。そして弟子たちは主イエス亡き後、自分の足を洗うたびに主イエスが自分の足を洗って下さったことを思い起こし、主の愛を確かなものとしていったのだと思います。聖餐式もこれと同じこと。私たちの足もこの時同時に洗われていたことを信じ、その主イエスの愛の万分の一でしかないけれども、その愛に励まされながら隣人に関わっていく勇気を与えられる者でありたいと思います。その意味でも最後の晩餐における出来事として、共観福音書では聖餐式でしたが、ヨハネ福音書では主イエスによる弟子たちの洗足、ここには共に相通じるものがあると思います。聖餐式も洗足も人の子は、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである[2]と、言われていることを目に見える、具体的な形にして残していかれたのです。
神は人間を義としようとしておられる。神は罪人に対して、その道を開こうとしておられる。人間の罪にもかかわらず、人間を迎え入れようとしておられる。最後の晩餐で主イエスが残していったことは、こういうことだったのだと思います。
神のこの意志に対する私たちの応答が「信仰」です。信仰とは「まだ見ていない世界への架け橋である[3]」ということができると思います。このことを一言で言い表すなら、「神、我らと共にいます」ということを自分自身に対して語られた言葉として受けとめるということになると思います。私たちの信仰も、愛も、仲保者を必要とするのです。その仲保者として、神様は私たちに御子イエス・キリストを与えて下さった。この御子の霊が今のこの時だけでなく、今までも、これからも、陰府にまでも、そして父なる神のみもとに至るまで「共にいてくださる」というのが、クリスマスのメッセージです。
聖書の中には人がめったに読まない文書が二つや三つあるものです。コヘレトの言葉(口語訳聖書では、伝道の書)は、その代表的なものだと思います。非常に懐疑的で、暗い感じがする。ニヒリズムの世界が全体を覆っているかのようです。あまりの重苦しさに息がつまりそうにさえなってしまう。聖書の中の方丈記[4]と言うことができるかもしれません。私自身も普段あまり読まない。今回は3章だけでまた新約聖書に戻ろうと思っていたのですが、準備をしているうちにこの書を最初から最後まで読んでみたくなりました。それはこの書に対する正反対の理解があることを知ったからです。もちろんこれからアドベントがあり、クリスマスを迎えます。受難節があり、イースターが来ます。その時にはそれに相応しいテキストを選びたいと思いますが、その間隙を縫って機会が与えられた時に順次取り上げたいと思います。中々読むことのない書、聖書の正典に含まれていることが不思議にさえ思われる書ですから、こういう試みもいいのではないかと思った次第です。それで今日のテキストは3章と予告致しましたが、1章から読んでいくことをお赦しいただきたいと思います。
その正反対の理解の一つはこの書を空しいこの世から逃げ出して、隠遁生活をすべきことを教える手引書と考えた人がいます。この人は4世紀の教会教父でヒエロニムス[5]です。彼はキリスト者はこの世で、神に仕えることはできないから、この世から逃げ出すべきだと教えている。
ところがこの同じ書をもっと肯定的に理解した人がいる。この人はこの書の著者を懐疑主義者として見ず、信仰者として見るのです。この人というのはルターです。彼はこの著者の目的は、我らを平和のうちに保ち、日毎に起こる出来事やこの世の仕事の中で、平静な心を我らに与えようとしているのだと言っている。
同じ書に対して、正反対ともいうべき理解があること。更にこの書の中に、信仰者の姿を見ようとした人がいることを知って、私はこの書を読んでみたくなった訳です。もちろんこの書は難解な書であり、否定的、懐疑的な言葉が書き連ねられています。それでも、本書の根底に神を信じる人
がいることを学びえるなら、これにまさる喜びはないと思います。
「コヘレト」というのは、「集める」という意味から集会を司る者という意味になり、「会衆に語る者」「講義する人」という意味を持った言葉です。ルターは「説教者」と訳し、人は本書の目的を、しっかりと見極めなければならない、と言っています。
時代背景は、紀元前250~150年ごろ、アレクサンダー大王が死去し、その将軍であったプトレミイとセレウカスがその領土を分け、パレスチナはセレウカスの支配のもとに入ります。そして迫害と虐待に苦しむことになります。「聖書は焼かれ、エルサレム神殿での礼拝は禁止され、律法では汚れているとされる食物を食べさせられ、律法に忠実なユダヤ人の多くが殺された。[6]」紀元前168年にはマカベアがその圧政に対して、反乱を起こしています。その時の様子は、旧約聖書続編マカバイ記一・二を読むと、この時の時代背景を知ることができます。アレクサンダー大王によってエルサレムがその手中に落ちたのが紀元前333年でしたから、それからローマのポンペイウスがエルサレムに入城する紀元前65年まで、ユダヤの民はアレクサンダー大王の後継者たちの支配下にあって、苦難の日々をおくることになります。
「コヘレトの言葉」と前後してダニエル書が書かれています。ダニエル書は、黙示文学の範疇に入る書ですが、私たちは「ヨハネ黙示録」という新約聖書の最後にある書によって慣れ親しんでいます。それでは黙示思想とはどんな思想なのでしょうか。「黙示録」というのはギリシャ語でアポカリュプシスという言葉で、「被いを取り除く」「現わす」という意味です。ギリシャ語の助けを借りなくても、漢字で「黙示」というのは黙していることを示すという意味であることが分かります。厳しい迫害の下にあって、現世は終焉を迎えようとしているかのような状況にあって、ダニエルは死後の世界、彼岸に希望を見出し、信仰者たちを励まします。しかし彼岸に希望を持つということは、現実世界からの逃避に向かうことにもなります。
コヘレトはこれに反対します。彼は彼岸に希望を持つことに反対します。死者の復活などは、信じていないようです。彼はあくまでも、人はこの現実世界にあって生きるべきことを主張します。ヒエロニムスとルターが対極にあったように、ダニエルとコヘレトは対極にあるようです。このような背景を念頭に置いて、コヘレトの言葉を読んでいきたいと思います。
1章から見てみたいと思います。
1:1には、「エルサレムの王、ダビデの子、コヘレトの言葉。」という言葉で始まっています。エルサレムの王で、ダビデの子と言えばソロモンですが、彼が書いたと考えることには無理があるようです。非常に深い洞察力をもった信仰者コヘレトが、ソロモンの名前を借りてこの書を捕囚後に書き上げたと言われています。ではコヘレトはなぜソロモンの名前を偽装したのか。
ソロモン王は最高の知恵者であることが、列王記上の三章に「ソロモンの知恵」という小見出しがついて記されています。ソロモンの知恵とはどういうものであったか。ソロモンは父ダビデの後を継いで、王位につきます。しかしその時はまだ神殿は造営中であり、完成していませんでした。彼は聖なる高台において、一千頭もの焼き尽くす献げ物をささげた。その夜、主はソロモンの夢枕に立ち、「何事でも願うがよい。あなたに与えよう。」と言われた。その時彼は、自分は父ダビデの後を継いで王位についたけれども、自分は取るに足らない若者にすぎず、どのようにふるまってよいか分かりません。そこでこれら多くの民を正しく裁き、善と悪を判断する心をお与えください、と答えた。その時主は、ソロモンの願いを喜ばれたそして、「あなたは自分のために長寿を求めず、富を求めず、また敵の命も求めることなく、訴えを正しく聞き分ける知恵を求めた。見よ、私はあなたの言葉に従って、今あなたに知恵に満ちた賢明な心を与える。あなたの先にも後にもあなたに並ぶ者はいない。私はまた、あなたの求めなかったもの、富と栄光も与える。生涯にわたってあなたと肩を並べうる王は一人もいない。もしあなたが父ダビデの歩んだように、私の掟と戒めを守って、私の道を歩むなら、あなたに長寿をも恵もう。」と言われた。
この直後に語られたのが、有名なお話しです。皆さんご存じだと思いますが、簡単に説明しておきます。同じ屋根の下に生活する遊女二人がソロモン王に訴えでた。二人は相前後してそれぞれお産をした。ところが片方の女が寝ている時に子供に寄りかかり、子供が死んでしまった。そこでこの女は夜中に起きて、横で寝ているもう一人の女の赤ん坊と取り替えた。
取り換えられた女は、朝起きて自分の横で死んで横たわっている子は自分の子ではないということに気づきます。そこで二人の間に言い争いが起こり、ソロモン王のところへ訴え出たというお話です。今なら血液型を調べるとか、遺伝子を調べるという方法もありますが、紀元前960年頃の話ですから、そんなことは出来ない。コヘレトの時代をマカバイの反乱のころとすると、更に800年ほどさかのぼることになる。そこでソロモン王は、剣を持ってこさせ、その生きている子供を二つに裂き、それぞれに半分づつ与えよと命じた。この時生きている子の母親はその子を哀れに思い、「王様、お願いです。この子を生かしたままこの人にあげてください。この子を絶対に殺さないでください。」と言った。ところがもう一人の女は「この子を私のものにも、この人のものにもしないで、裂いて分けてください」と言ったというのです。ソロモン王はこれを聞いて、「この子を生かしたまま、さきの女に与えよ。この子を殺してはならない。その女がこの子の母である。」という判決を下したというのです。「王の下した裁きを聞いて、イスラエルの人々は皆、王を畏れ敬うようになった。神の知恵が王のうちにあって、正しい裁きを行うのを見たからである。」と結んでいます。
コヘレトはこの地上最高の知恵の持ち主であるソロモンの名を借りて、その最高の知恵者が日の下(太陽の下)で起こる出来事をつぶさに調べたが、一切は空であると語りだすのです。コヘレトの言葉だけでなく、箴言もこの最高の知恵者と言われたソロモンの威光を借りて書かれています。古代ではこのようなことは、珍しいことではなかったと言われています。
1:2「コヘレトは言う。何という空しさ 何という空しさ、すべては空しい。」という言葉で始まっている。口語訳聖書は「空の空、空の空、いっさいは空である[7]」と訳しています。そしてこの空しさが、コヘレトの言葉全体を覆っているように思われます。この「空しい」という言葉が38回も繰り返されているということです。この「空しい」世界が全体を覆っている。また、この空しいというヘブル語はへべルという言葉で、これは創世記に出てくるカインの弟アベルと全く同じ言葉であるということです。若くして兄カインに殺されてしまった弟アベルから、時間的な短さ、儚(はかな)さが含意[8]されているということです。
1:3~7「太陽の下、人は労苦するが すべての労苦も何になろう。一代過ぎればまた一代が起こり 永遠に耐えるのは大地。日は昇り、日は沈み あえぎ戻り、また昇る。風は南に向かい北へ巡り、めぐり巡って吹き 風はただ巡りつつ、吹き続ける。川はみな海に注ぐが海は満ちることなく どの川も、繰り返しその道程を流れる。」
コヘレトは一切が空しいということを説明するために、自然や歴史についての彼の省察を述べている。一切のものの運行は、単調であり、初めもなければ、終わりもない。人の営みは、退屈な反復、繰り返しに過ぎない、というのです。
次にコヘレトは人間の歴史に目を向けると、そこには同じ単調さ、退屈な繰り返しに出会う。
1:8~11「何もかも、もの憂い。語りつくすこともできず 目は見飽きることなく 耳は聞いても満たされない。かつてあったことは、これからもあり かつて起こったことは、これからも起こる。太陽の下、新しいものは何一つない。見よ、これこそ新しい、と言ってみても それもまた、永遠の昔からあり、この時代の前にもあった。昔のことに心を留めるものはない。これから先にあることも その後の世にはだれも心に留めはしまい。」
一切が霧のかなたへ消えていく。人々が「進歩」と名付けうるものはない。新しいものを追い求めても、古い世界は全体として古いままである、と言う。自然の営み同様に人間も満たされることなく、語り尽くすこともできず、目は見ても飽き足りることがない、何一つ完成を見ることが出来ない。すべては吹き抜ける風のようである。
しかし、私たちはここで主イエスの言葉を思い起こさないだろうか。「だれでもキリストに結ばれているなら、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。[9]」「過ぎ去った」は、過去形であり、「新しくなった」は現在完了形です。しかしコヘレトはまだ、この方の存在を知らされていません。
1:12以下、「私コヘレトはイスラエルの王として、エルサレムにいた。天の下に起こることをすべて知ろうと熱心に探究し、知恵を尽くして調べた。神はつらいことを人の子らの務めとなさったものだ。私は太陽の下に起こることをすべて見極めたが、見よ、どれもみな空しく、風を追うようなことであった。ゆがみは直らず 欠けていれば数えられない。」
この最高の知恵者が、天の下に起こることをすべて知ろうと熱心に探究した。しかし、それらのどれも「風を追うようなことであった」というのです。口語訳は「風を捕らえるようなものである」となっています。この語は元来「風を養う」「飼育する」という意味だということです。あたかも柵を作ってウサギを飼育するように、風を養うことができるだろうか。そんなことは出来ない、と言うのです。この世は曲がったものは曲がったままであり、ゆがんだものはゆがんだままである。欠けたものは数えられない。欠けたものは欠けたままである。これはこのまま現代にも当てはまる。紀元前の昔から、人間は殺し合いをやめない。コヘレトはこんな世に、何か積極的な意味があるだろうか、と問うのです。「すべては風を追うようなことである」と。「空の空 空の空、一切は空である」なら、ヒエロニムスの言うように、こんな世界から脱出して隠遁生活か、修道院に入るのも悪くないとさえ思わされる。
コヘレトの言葉は一章を読むだけでも、このように重苦しいものです。
ところが、この一章の中に、一か所注目すべき言葉が出てくる。「神」という言葉が出てくる。「神はつらいことを人の子らの務めとなさったものだ。」という言葉。口語訳は「これは神が、人の子らに与えて、骨折らせられる苦しい仕事である。」懐疑論者や虚無主義者は、こんな言い方はしない。私はこの言葉が否定的で、懐疑的で、ニヒリズム一色に見えるコヘレトの言葉を解く鍵ではないかと思うのです。
世界が空しく、労苦に満ちていることは確かです。しかし、伝道者コヘレトは、世界のこのような重苦しい状態を、何か理解できないもの、単なる謎、単なる宿命とは考えていない。空しく見える労苦にも、神の意志が働いている、と言うのです。運命がこれを与えたのではなく、神がこれを与えられたという。単調な繰り返しと思われる日々の出来事、今日も昨日と何も変わっていない。その空しく過ぎ去っていくようなこの現実の背後に、神の御手が添えられている、と言うのです。これは人は労苦と矛盾、不条理の中にあっても、神はやはり主でありたもう、と言うのです。これは実に慰めに満ちた言葉です。
これは信じる伝道者の言葉であって、疑う懐疑論者やニヒリストの言葉ではない。人生の様々な経験をした一人の知者が、否定の言葉の下に、信仰の下地を持っていることに私たちは注目しなければならない。
最後に一つ注意したいことは、旧約聖書の伝道者コヘレトには、一つ知らないことがあった。
「太陽の下」という言葉が3回出てくる。口語訳では「日の下」と訳されている。神が日の上に留まっておられず、日の下に降りたもうたということです。神はその活動の場所を日の上ではなく、日の下に求めたもうたということ。人間でさえこんな世界と愛想を尽かせて、世捨て人になる者さえいるような、この世界に降ってこられた。他ならぬ神ご自身が、人の子らの労苦を引き受けられたということ。このことをコヘレトは、まだ知らされてはいませんでした。
他ならぬ神ご自身が、地上の労苦を、有用なものと認め、自ら地上の労苦に参加されたということを、コヘレトは知らされていませんでした。ヨブはその厳しい苦難の中で、神と自分との間に立って下さる仲保者を求めた。しかも自分の味方として立って下さる方を求めた。預言者たちは皆、この方の到来を待ち望んでいたのです。その方がベツレヘムの馬小屋にお生まれになった。限りなく人間の側に立つ仲保者としてお生まれになった。讃美歌の280番にあるように、この方は、
馬槽のなかに うぶごえあげ、
木工の家に ひととなりて
貧しきうれい 生くるなやみ、
つぶさになめし この人をみよ。
「つぶさに」というのは、「残らず」「ことごとく」という意味です。
貧しさゆえのうれい、生きていく上での悩み、悲しみ、残らずその身に引き受けられたというのです。
キリストは伝道者コヘレトの目に映じたような空しい世界に来られて、働き、苦しみ、そして勝利された。神に栄光を帰するということは、神の愛を勝利に導くことです。
私たちが人生の意味を肯定する根拠は、ここにしかない。そうでなければ、単なる悲観論者か、或いは軽薄な楽観主義者であるに過ぎない。
だから主イエスは、ヨハネ福音書15章、告別の説教の中で、「私につながっていなさい」という言葉を繰り返されたのです。主イエス・キリスト
なしには、すべてがコヘレトの目に映じたことが真実となるからです。「私から離れては、あなた方は何もできない。」なぜなら、「空の空 一切は空である」という言葉が聞こえてくるからです。
十字架と復活という事実が明らかにされた今、彼岸と此岸が大きな神の意志によって貫かれ、私たちの前に明らかにされたのです。ダニエルの世界とコヘレトの世界が、一つになったのです。
今週の聖句「何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて(神の定められた)時がある。」そして、「神のなされることは皆その時にかなって美しい」(口語訳)
もうすぐクリスマスです。「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」この両者の間には、無限の距離があり、断絶がある。いと高きところには神がおられ、地の上には人間がうごめいている。しかしこの両者が、今や結ばれる時が来た。コヘレトがこの地上の最高の知恵者として調べ尽くして得た結論、「空の空 空の空、一切は空である」という世界が打ち破られ、「神は愛である」という御旗がはためき、いと高きところと地の上が、新しい関係に置かれるというのです。それは隔絶した断絶の状態ではなく、神の御心がこの地上にも行われるのです。空しい時は神が定められた時となり、悲しみの時は慰められる時となる。殺すは癒しに結びつき、壊すは建てるに結びつく。泣くことは笑うことに通じ、悲しむことは踊ることに変えられる、というのです。
救い主の誕生の記事を読む時、私たちは改めて主イエスを心の中に迎え、これまでの生活の歴史の中になかった、新しい始まり、新しい時、新しい使信、good tidingsを聞きたいと思います。
[1] ヨハネ福音書13:1
[2] マタイ福音書20:20~28
[3] へブル書11:1「確信することである」という言葉を、「架け橋である」と言い換えてみました。
[4] 方丈記 鴨長明作 「ゆく川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみにうかぶうたかたはかつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人と栖(すみか)と又かくのごとし。」
[5] 「コヘレトの言葉」ヴァルター・リュティ著 宍戸達訳 新教出版社 P.6
[6] 「聖書ガイド」日本聖書協会・編 P.73
[7] コへレトの言葉1:1 私たちが使っている「新共同訳聖書」の後に刊行された「聖書協会共同訳」では、ここの言葉は、従来の口語訳に戻り、「空の空 空の空、 一切は空である。」となっています。
[8] 「コへレトの言葉を読もう」P.21 小友 聡著 日本基督教団出版局
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| 日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13) |
「信徒の成長」
フィリピの信徒への手紙1章1~11節
関口 康
「そして、キリストの日に備えて、清い者、とがめられるところのない者となり、イエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受けて、神の栄光と誉れとをたたえることができるように。」
今日は日本キリスト教団の定める「信徒伝道週間」の初日にあたり、お2人の教会員の証しを伺いました。ご準備くださったお2人に心から感謝申し上げます。
今日の聖書箇所はフィリピの信徒への手紙1章1節から11節までです。この手紙は使徒パウロが書いたものです。今日の箇所に記されているのは、パウロがフィリピの信徒のためにささげた祈りの言葉(9~11節)と、その祈りをささげた理由(3~8節)です。
パウロはフィリピの教会のみんなのことを思い出すたびに、神に感謝し、喜びをもって祈っていると言います(3~4節)。なぜなら、あなたがたが最初の日から今日まで福音にあずかっているからだと言います(5節)。
「最初の日」(5節)の意味は、パウロとフィリピ教会が最初に出会った日を指していません。その意味で受け取ると、私パウロと出会ったことで初めてあなたがたがイエス・キリストの福音を受け入れることができた、その日から今日に至るまで、ということにならざるをえませんので、まるでパウロの伝道者としての個人的な力量について書いているかのように読めてしまいます。
「福音」は宣べ伝えられた途端に伝道者の手を離れます。また、手を離さなければなりません。伝道者は「福音」そのものが持つ力を信頼し、「自分が宣べ伝えた、自分が教えた」という思いを捨て、教会の信徒を自分の支配から解放しなければなりません。
「あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています」(6節)の「その方」は、神です。福音宣教の主体は、神です。神はご自身が始めたことを最後まで成し遂げてくださり、完成してくださる方であるとパウロは言っています。パウロが始めたことをパウロが完成するわけではありません。
12節の「福音の前進」も、私パウロが福音を前進させた、という意味ではないし、あなたがたフィリピ教会に連なるみんなが福音を前進させた、という意味でもありません。福音それ自体が、自らの力で前進した、という意味です。福音そのものに躍動的な意志がある、ということです。
いま申し上げていることは、私が声を大にして言わなくても、比較的長いあいだ、教会生活、信仰生活を続けて来られた方々はよくご存じです。自分自身のことを振り返っても、家族や友人、教会の中で出会った方々のことを思い返しても、たとえば、教会が立てた伝道目標として、毎年何人を教会に招き、受洗者を何人生むかを決めて、その通りになったことがあったでしょうか。仮にあったとして、教会が計画通りに右肩上がりに教勢を拡大し、財政的にも潤い、社会的にも大きな影響を及ぼすようになっていく、というようなことが、どれほど続いたでしょうか。
もし続いていないのであれば、それはわたしたち人間の失敗でしょうか。「偉大でない」伝道者の力量不足が教会衰退の原因でしょうか。そのようなことを教会の中で言い争うこと自体が教会衰退の原因かもしれないと、手を胸に当てて考えてみることには、意味があるかもしれません。
パウロの祈りは9節以下です。注目すべき言葉は「あなたがたが清い者、とがめられるところのない者になるように」(9節)です。「清い者」と「とがめられるところのない者」はニュアンスが違います。前者は内面の状態を指し、後者は目に見える外面の状態を指します。「ひたむきに神を求めること」と「非の打ちどころのない生活を送ること」です。それが「知る力と見抜く力を身に着けて、愛がますます豊かになった」(9節)状態を指していることは明らかです。
これで分かることは、パウロは、イエス・キリストの福音は、信じて歩む人間の性質に内面的にも外面的にも変化をもたらすと信じているということです。信徒は福音と出会った最初の状態のままにとどまりません。人間としての性質が善きものへと変化し、成長します。それがパウロの信仰であり、代々の教会の教えです。「聖化」(sanctification)と言います。
このように言うと、教会の内からも外からも非難の声があがります。教会の外からは「それはキリスト者の傲慢である」とか「教会に通っている人より通っていない人のほうがはるかに誠実で高潔な生活を送っている」と。
教会の内からは、今日の箇所の「イエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受けて」の意味はあくまで「キリストの義」であって「人間の義」ではない。人間にはキリストの義が転嫁されるに過ぎず、人間はどこまでも罪人であり続ける、と。
教会の外からの非難については、私たち教会の反省材料として甘んじて受けるほかありません。しかし、教会の中の我々は、今日の箇所の「義の実」の意味を過小評価すべきではありません。たとえば、「日本基督教団信仰告白」(1954年制定)の「聖霊は我らを潔めて義の果を結ばしめ、その御業を成就したまふ」は、今日の箇所が典拠です。
「実」(英語のフルーツ)は、キリストの義が人間へと転嫁された「結果」を指します。原因と結果を混同してはいけません。「結果」は、聖霊(「聖霊」は「神」です)によって「与えられる」ものですが、聖霊の働きにおいては、人間の意志と主体性が排除されないことが重要です。
「あふれるほどに受けて」は新共同訳(1987年)ですが、以前の口語訳(1954年)でも、最新の聖書協会共同訳(2018年)でも「満たされて」と訳されています。新共同訳のように「受けて」と訳すほうが人間の主体性を後退させて、神の主体性と恩恵の一方性を強調することができますが、それではパウロの意図に反します。「知る」のも「見抜く」のも、「愛する」のも、「清い者となる」のも「とがめられるところのない者」となるのも、すべて人間が主体だからです。
人間の意志も感情も主体性も奪われて、まるで夢にうなされているかのように「させられる」のではありません。わたしたちの身代わりにイエス・キリストが「知り」「見抜き」「愛し」「清い者となり」「とがめられるところのない者になってくださった」のであって、私たち人間自身には何の変化もないと、パウロは言っていませんし、考えてもいません。
「キリストの義」が転嫁された結果としての「実」(フルーツ)は、人間の側の主体的な行動の変化です。それもまた十分な意味で神の恵みです。人間が自分の努力で自分をつくりかえることはできません。神の導きと助けなしに自分の力で成長したと言い張るなら、傲慢のきわみです。またそれは事実ではありません。しかし、教会に何年、何十年と通っても、何の変化も無かったというのであれば、それはそれで寂しいことだと言わざるをえません。
「決してそうではない」ということを、今日証しをしてくださったお2人が教えてくださったと信じます。「この教会に通って良かった」とわたしたち自身が心から思えるような教会を、神の導きと助けのもとに、共に作り上げていくことを祈ろうではありませんか。
(2023年10月15日 聖日礼拝)