2023年4月30日日曜日

自由と配慮(2023年4月30日)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)

讃美歌第2編 56番 主はその群れを


「自由と配慮」

コリントの信徒への手紙一8章1~13節

関口 康

「その兄弟のためにも、キリストが死んでくださったのです。」

今日の朗読箇所には「偶像に供えられた肉」をキリスト者が食べてもよいかという具体的な問題が取り上げられています。

結論を先に言えば、パウロ個人はそれを食べないという選択肢を選びます。それどころかパウロは「食物のことがわたしの兄弟をつまずかせるくらいなら、兄弟をつまずかせないために、わたしは今後決して肉を口にしません」(13節)とまで言います。

これは誤解を招きやすい表現です。パウロが菜食主義者だったという意味にはなりません。パウロは条件文を用いています。「わたしの兄弟」は教会の中での信仰に基づく兄弟姉妹です。その人たちをつまずかせないためにわたしは肉を食べないと言っています。「もしつまずく人がいないなら問題なく肉を食べる」という意味だと考えることが可能です。

ここで「つまずく」(ギリシア語「プロスコンマ」)の意味は、人の足を引っかけて転倒させるために意図的に仕掛けられた石でまさに転倒することです。具体的には、信仰をもっている人がその信仰を失うことを指しています。この私パウロがだれかにとっての石になる可能性があるかもしれないので、そうならないようにする、という決意表明です。

パウロはここで、キリスト者である人々が守るべき普遍的な生活規範や原理原則は何かを言おうとしているのではありません。そうではなく、今ここに、わたしたちの目の前にいるこの人あの人が信仰を失わないようにするために、つまずかせないようにために、わたしたちはどうすればよいかをよく考えて行動することが大事であるということを言おうとしています。

しかし、わたしたちの目の前にいる人は、時と場合とによって変わります。わたしたちは必ずいつも同じ人と一緒にいるわけではありません。そのことはパウロも分かっています。パウロが言っていることを広げて言い換えるとしたら、キリスト者である人は、あるひとりの人の前で見せる顔や態度と、別の人の前で見せる顔や態度とが、違う場合があるし、あってよいということです。

しかしまた、そういう人々を怖がる人や軽蔑する人もいます。そのため、別の意味では注意しなくてはなりません。そういう人がなぜ怖がられるのかといえば、まるで怪人二十面相のようだからです。結論はともかく、何が起ころうと何を問われようと、いつでも一定の態度を保ち、首尾一貫している人のほうが単純で扱いやすい相手だと思われるかもしれません。「だって、あの人はこういう人だから」と自分で納得したり他人に説明したりすることが簡単なのは一貫している人のほうです。

しかし、相手次第や状況次第でどんどん態度を変えていく人は、不可解で扱いにくいと感じられて敬遠されがちです。そういう人を軽蔑する人が出て来るのもだいたい同じ理由です。考え方や態度が首尾一貫していない人は優柔不断だとか支離滅裂だとか思われやすく、軽蔑を受けやすいと言えるでしょう。しかし、今日の箇所でパウロが勧めているのは、まさにそのように、相手に合わせてこちらの態度のほうを次々に変えていくあり方です。

「偶像に供えられた肉」を食べてもよいかという問題が取り上げられているのは、コリント教会のほうからパウロにこの件に関して問い合わせがあったので、その問いにパウロが答えようとしているからです。

それを食べることはユダヤ教においては禁じられていました。キリスト教会もそのことを禁じていました。しかし、コリントという町は、ギリシアのアテネから80キロ西にあり、エルサレムから遠く、コリント教会の内部もユダヤ人より異邦人が占める割合が多く、エルサレムあたりと比べればユダヤ教の影響が少なく、「偶像に供えられた肉」を食べることには問題がないだろうと考え、実行しはじめた人々がいたのです。

なぜその人々が「偶像に供えられた肉」を食べたのかといえば、単純に、その肉を食べたかったからという理由が当然考えられます。まだ十分食べることができるのにお供え物にしてからそれを捨てるのはもったいない、と考えた人がいたでしょう。

私の実家には仏壇も神棚もありませんでしたが、私の両親の各実家に仏壇がありました。果物や茶碗のごはんが供えられているのを見たことがあります。あれをどうするのだろうと、私は小さい頃から思っていました。食べたいとは思いませんでした。

しかし、コリント教会の中にいたと考えられる偶像に供えられた肉を食べることにした側の人々は、ただ肉を食べたい、もったいないという理由付けではなく、もっともらしい理屈を考え始めました。「偶像の神」というのは、そもそも存在しないのだと彼らは考えました。

その点は、パウロも完全に同意しています。「世の中に偶像の神などはなく、また、唯一の神以外にいかなる神もいないことを、わたしたちは知っています」(4節)とあるとおりです。私もこの言葉が好きです。神はおひとりだけです。「偶像の神がいる」のではなく「偶像の神はいない」のです。

「偶像の神」は「存在しません」。仏壇や神棚は家具です。そこに何を置こうと、何を供えようと、食べ物自体が変化することはありません。時間が経てば腐ります。何の意味もありません。

ついでに言えば、私は幽霊を見たことがありません。信じたこともありません。心霊現象も信じたことがありません。そのことと神さま、イエス・キリスト、聖霊なる神を信じることは、関係ありません。わたしたちは、教会の建物や、お墓に特別な思いを抱いています。だからといって場所的にここに何かが宿っていると私個人は考えたことも信じたこともありません。

しかし、それはそれです。ここで冒頭の問題に戻ります。偶像の神は存在せず、神は唯一で、他の何も神でないという確信をもって、あらゆる異教的な要素を否定してシンプルに生きることができる人々は「信仰が強い人」であるとパウロは考えます。パウロ自身はそちらにの側に属しています。その一方でパウロは、世の中の人々や、教会の中にいる人々の中にも、そこまでシンプルに考えて行動することができない、様々な事情の中にある人々がいるということも知っています。

信仰の弱い人々のことを単純に「弱い人」と呼ぶとカチンとくる人がいると思いますので、言い方は注意しなくてはなりません。「強い」「弱い」を言うと、勝ち負けの問題になってしまいます。しかし、「弱い人」と言われていることの意味は、様々な異教的な慣習から抜け切れていないということです。

しかし、教会は強者だけの集まりになってはいけないというのが、パウロの結論です。「その兄弟のためにも、キリストが死んでくださったのです」と書いているとおりです。イエス・キリストは信仰の弱い人々のためにも十字架にかかって死んでくださったのです。

今日の宣教のタイトルを「自由と配慮」としました。キリスト者は、唯一の神を信じることによってあらゆる偶像崇拝や異教的慣習から全く解放された自由人です。しかし、わたしたちの自由な生き方が人を傷つけたりつまずかせたりすることがあるのを知っていますし、知っていなくてはなりません。そこで十分な配慮が必要です。

(2023年4月30日 聖日礼拝)


2023年4月23日日曜日

ラザロの復活(2023年4月23日)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)


讃美歌21 326番 地よ、声たかく

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「ラザロの復活」

ヨハネによる福音書11章17~44節

秋場治憲

「イエスは言われた。『わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる』」
 
私たちは4月9日のイースターを祝いました。教会暦では4月7日金曜日に十字架に架けられた主イエス・キリストは、二日半陰府におり、三日目、4月9日に復活し、その後40日にわたって弟子たちや他の人々に現れ、そして40日後、5月18日(木)に昇天されました。そしてこの主イエス・キリストを証しする聖霊[1]が送られ、それまで意気消沈していた弟子たちの上に大いなる力が与えられ、「主の復活の証人」としての活動が開始されます。そのことを記念したのが「聖霊降臨日[2]」(ペンテコステ)であり、私たちは5月28日にこの日を「教会の誕生日」として祝うことになります。その後は聖霊降臨節が主イエスの誕生を祝うクリスマスまで続きます。これは主が再び来たりたもう日(再臨の日)まで主イエス・キリストを証し、歴史を導いていく聖霊の時代とも言われています。これが教会暦の概略です。

 

 今日はその復活節と聖霊降臨節の間にあって、今少し復活ということについて考えてみたいと思い、ヨハネ福音書11章のラザロの復活をテキストと致しました。

 ヨハネ福音書10章の終わりには、主イエスは神を自分の父と呼んで、自分を神と等しいものとしたということで、ファリサイ人たちに石で殺されそうになり、彼らから逃れてヨルダン川の東側、かつてバプテスマのヨハネが洗礼を授けていた所、恐らくご自身も洗礼を受けた所に滞在しておられた。そこへべタニア村から、「主よ、あなたの愛しておられる者が病気です。」という知らせが届けられた。

マルタ、マリア、それにラザロというべタニア村の三兄弟のうちのラザロが病気ですというのです。この知らせがわざわざヨルダン川の東側にファリサイ人からの難を逃れていたイエスのもとに届けられたということは、ラザロの危篤を知らせるものであり、一刻も早く来て欲しいという願いが込められた知らせでした。事は急を要するはずでした。しかし主イエスは「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」と答えて、更に二日間同じ所に滞在された。ここで注意しておきたいことは、ヨハネ福音書においては「神の子が栄光を受ける」というのは、「十字架」を意味しているということです。なぜ主イエスはすぐに出立しなかったのかということについては、様々な憶測、議論のあるところですが、エルサレムからわずかに2.7㎞のべタニア村へ行くということは、極めて危険なことです。二日後に主イエスは弟子たちに「もう一度ユダヤに行こう。」と言われるのですが、これを聞いた弟子たちは驚いています。そして「ラビ、ユダヤ人たちがついこの間もあなたを石で打ち殺そうとしたのに、またそこへ行かれるのですか。」と問い返しています。16節には「ディディモとよばれるトマスが、仲間の弟子たちに、私たちも行って一緒に死のうではないか」と言っています。このトマスは後に他の弟子たちは復活された主イエスに出会った時、その場に居合わせなかったため復活した主イエスに会うことができませんでした。そのトマスは私は、「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れて見なければ、また、この手をそのわき腹に入れて見なければ、私は決して信じない。」と言ったトマスです。11章の1節から16節までの言葉は、いずれもべタニアへ向かうことは主イエスの最後の道行きになるということを、誰もが承知していたことを物語っています。その危機的状況の中で主イエスは「さあ、もう一度ユダヤへ行こう」と言われたのです。そして一行はべタニア村に向かいます。そしてマルタに会います。マルタとマリアの所には多くのユダヤ人たちが、兄弟ラザロのことで二人を慰めに来ていました。そこでもマルタは姉としての立場上気丈に振る舞い、恐らくは涙も見せず来てくれた人たちの接待に甲斐甲斐しく立ち回っていたのでしょう。主イエスの来訪にもいち早く気づき、二人の会話が始まります。私たちの葬儀においても喪主の立場にあるものは、泣いている暇がない。葬儀社との打ち合わせ、弔問客への接待等で忙しい。しかしマリアは恐らく泣き続けていたのでしょう。慰めに来たユダヤ人たちはそのマリアを心配して、彼女と共にいた様子が記されています。

 

 主イエスがべタニア村に到着したのは、ラザロの死の四日後のことでした。マルタは主イエスに「主よ、もし(あなたが)ここにいてくださいましたら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」と言っています。エルサレムからエリコまでが23㎞です。ヨルダンの東側、ペレアと呼ばれている所から急げば一日で来れる距離なのに、イエスが到着したのはすでにラザロが亡くなって四日も経過していました。その間マルタとマリアの姉妹は、刻一刻と病状が悪化していくラザロを前にして、なすすべもなくただひたすら、今か今かと主イエスの到来を待ちわびていた。しかしその願いはかなえられず、今や取り返しのつかないことになってしまったことに対するマルタの恨みと愚痴と色々な感情が入り混じった言葉です。しかしそれだからといって、マルタのイエスに対する信頼が失われたわけではありません。マルタは続けて、「あなたが神にお願いになることは何でも、神はかなえてくださると、私は今でも承知しています。」と、すでに取り返しのつかない事態になってしまったけれども、主イエスが神に願うなら、神はこの自分たちのこのどうしようもない悲しみを癒して下さるという期待を述べています。

 

 それに対する主イエスの言葉は、「あなたの兄弟は復活する」というものでした。これは未来形です。your brother will rise again. (RSV)マルタは答えます。「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と答えています。I know that he will rise again in the resurrection at the last day.(RSV)これも未来形です。終わりの日に復活することは彼女も信じている、という信仰告白をしているのです。

 しかしそれに対して主イエスの有名な「私は復活であり、命である[3]。私を信じる者は、死んでも生きる。生きていて私を信じる者はだれも、決して死ぬことはない。(あなたは)このことを信じるか。」とマルタに問うています。マルタが終わりの日の復活を信じているというのに対して、主イエスは、エゴー(私は) エイミ(私は~である) ヘ(定冠詞) アナスタシス(復活) カイ(そして) ヘ(定冠詞) ゾーエー(命)[4]直説法現在で答えています。これは度々繰り返し説明している強調構文です。

「他ならぬ私が~」とか「私だけが~」ということが強調されている言葉です。

新共同訳では「復活」という言葉が使われていますが、口語訳では「よみがり」という言葉が使われています。私はどちらかというと口語訳の「よみがえり」という言葉の方が気にいっています。そこには「陰府(よみ)」から「帰る」という語源的ニュアンスが含まれているからです。陰府というのは、闇が支配している世界と理解していいと思います。そこから光の世界へ「帰る」というニュアンスが感じられるからです。創世記の冒頭に神は「光あれ」と言われた、と記されています。「地は混沌であって、闇が深淵の面(おもて)を覆っていた。」そこに、その混沌とした闇の世界に、光をしてあらしめよ、Let there be light. (RSV)という神の第一声が発せられた。「よみがえり」という言葉には、この闇から光へ、死から命へ、悲しみから喜びへ帰る、というニュアンスが感じられるからだと思います。

 

マルタは「主よ、信じます。あなたがこの世に来られるはずの神の子、メシアであると私は信じております。[5](11:28)マルタは現在完了形で答えています。私はそう信じてきたし、今もそう信じています、というのです。マルタは主イエスに対する信仰を告白しながらも、それは当時の一般的な信仰の域を出るものではありませんでした。それは終わりの日の「よみがえり」の理解を超えるものではなく、今この時点においては、この死という事実に対して抗いえないと諦めてしまっている言葉です。マルタはまだ主イエスが語った「私はよみがえりであり、命である」という言葉の意味を理解してはいません。遠い未来の終わりの日に起こるべきこととしてしか理解していません。

 

マルタと主イエスとの会話はこれで終わり、マルタはマリアを呼びに行きます。「『先生がいらして、あなたをお呼びです』と耳打ちした。」この耳打ちしたというのは、口語訳では「小声で言った」となっています。いずれにしてもこれは「内密に、こっそり」という言葉です。どうして「小声で」「耳打ち」しなければならなかったのか、また、主イエスがマリアを呼んでくるようにと言った言葉は記されていません。いずれも推測の域をでるものではありませんが、マルタはマリアをこっそりと主イエスに会わせたかったということが言えると思います。それはマルタはマリアの主イエスに対する特別な感情、思いを知っていたからではないかと言われています。それが12章でマリアの香油注ぎの伏線として語られたのではないかと推測されます。

 

 しかし彼女はこれを聞くと、すぐに立ち上がり、イエスのもとに行った。家の中でマリアと一緒にいて彼女を慰めていたユダヤ人たちは彼女が墓に泣きに行くのだろうと思って共に行った。マルタのマリアに対する思いやりというか配慮は遂げられなかったようです。マリアは主イエスを見るなり、その足もとにひれ伏し、「主よ、もしここにいてくださいましたら、私の兄弟は死ななかったでしょうに」とマルタと同じことを言った。マリアの思いは、マルタの思いと重なる部分もあり、またそうではない部分もあるように思われます。彼女は主イエスに会うなり、その足もとにひれ伏しています。発せられた言葉はマルタと同じでも、主イエスの置かれている立場を受け止めていたと推察されるからです。

 

主イエスはマリアが泣き、彼女と一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのをご覧になって、心に憤りを覚え、興奮して言われた。「どこに葬ったのか。」彼らは「主よ、来て、ご覧ください。」と言って主イエスをラザロの墓へ案内した。この時「主イエスは涙を流された。」(11:35)新約聖書を通じて主イエスが涙を流されたのは、後にも先にもここだけです。主イエスはラザロの墓の前に来て、再び心に憤りを覚えたと「憤り」という言葉が繰り返されています。いったい主イエスは何に対して、憤られたのでしょうか。

 

聖書を読んでみると、「イエスは彼女(マリア)が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して言われた。」となっています。またもう一つは、涙を流されたイエスを見て「ユダヤ人たちは、『御覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか』と言った。」「しかし、中には『盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか』という者もいた。」これらを見て、そして聞いて、主イエスは憤りを覚えた、というのです。

 

 これは主イエスが周りにいた誰もが「死」という現実の前に、何もすることができず、ただ泣くことしかできないでいることに対して憤られたのです。また人間をそのように悲しませ、絶望させる「死」そのものに対して憤られたのです。

 

 「死」という出来事は、私たちの生前の労苦を嘲笑うかのように私たちが築き上げた一切を私たちから引きはがされる。ブラックホールのように、一切を飲み込んでしまう。だれしもこの現実の前では、ただ泣く以外にすべがない。それはイエスといえども例外ではないと思われた時、ラザロの墓の前で「その石を取りのけなさい」と言われた。死の世界、闇の世界と命の世界を隔てている大きな石を取り除けよと言われる。それに対してマルタは現実的です。「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます。」とこの大きな石を取りのけようとしない。これは致し方のないもの、受け入れるしか他にすべのないことなのだというのです。湿気の多い日本では、荼毘に付され一握の灰となる。私たちが目にしている世界では、どこにも命のかけらさえ見当たらない。マリアがその周りの者たちがそして私たちが、ただ悲しみ嘆くしかない世界、その現実に打ちひしがれ諦めるしかない現実が、厳然として我らの前にある。これは二千年前も今も変わらない現実です。ただその死者の、ラザロの墓の前に、「私はよみがえりであり、命である」という方が立たれた。しかしマルタはまだ、主イエスが「私はよみがえりであり命である」と言われた言葉の意味を理解してはいませんでした。『私はよみがえりであり、命である」ということは、私は死者を甦らせ、命を与える者である、ということです。

 

前回学んだことを思い出して下さい。5:25「はっきり言っておく[6]。死んだ者が神の子の声を聞くときが来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる。父は、ご自分の内に命をもっておられるように、子にも自分の内に命を持つようにしてくださったからである。また、裁きを行う権能を子にお与えになった。子は人の子だからである。驚いてはならない。時が来ると、墓の中にいる者は皆、人の子の声を聞き、善を行った者は復活して命を受けるために、悪を行った者は復活して裁きを受けるために出てくるのだ。[7]

 

 その主イエスが憤って言われた言葉は、「『もし信じるなら神の栄光が見られると言っておいたではないか。』と言われた。」これはとても語気強く叱りつけるように言われた言葉だと思います。そして「イエスは天を仰いで言われた。「『父よ、私の願いを聞き入れてくださって感謝します。私の願いをいつも聞いて下さることを、私は知っています。(今までいつもあなたは私の願いを聞いてくださったことを知っています、と言うのです。)しかし、(今)私がこういうのは、周りにいる群衆のためです。あなたが私をお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。』」主イエスがその力を発揮される時は、いつも人々のためであり、ご自身のために発揮されることはありませんでした。ここでも死人の復活ということを起こすことは、自分の栄光のためではなく、人々がそれによって主イエスが父なる神より遣わされたものであることを信じるようになるため、というのです。

そして大声で「『ラザロよ、出てきなさい』と叫ばれた。」「すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出てきた。顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に、『ほどいてやって、行かせなさい』と言われた。」

 

 こんな世迷言(よまいごと)を言っているからキリスト教はだめなんだ、という声が聞こえてきそうですが、しかし私たちは誰しも大なり小なりこのことを、自分の人生の中で経験してきているのではないでしょうか。私たちもラザロのように墓(闇)の中から呼び戻された経験を持っているのではないでしょうか。主イエスが「私はよみがえりであり、命である」と現在形で言われたことは、今の時代においても二千年前と同様に私たちに現在形で語られている言葉です。仮定法で語られた言葉ではないのです。確かに死人を生き返らせるのは、ご自身の内に命を持っている神の子の権限に属することですが、その神の子から命を与えられた私たちは何度でもよみがえるのです。

 

マルタがいつの日か終わりの日に私の兄弟がよみがえると未来形で言ったことは、今の今、キリスト・イエスに結ばれている私たちにも現在形で語られている言葉なのです。だから私たちは「生きていて私を信じる者はだれも、決して死ぬことはない。」のです。「たとえ死んでも生きる」者とされているのです。従って絶望の淵に空しく沈み行くということはないのです。主イエスと共にあるなら「この病は死で終わるもの」とはならないのです。終わりの日に起こることが、主イエスに結ばれている者には現在のこととして起こるのです。

 

「死」の世界、闇がすべてを覆い隠し、のみ込んでしまう死の道の限界を、私たちの主イエスは突き抜けて、再び弟子たちの前にその姿を現されたのです。この復活の主イエスに出会ったパウロは、そのコリント人への手紙第一の15:53~57に

「この朽ちるべきものが、朽ちないものを着

 この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになります。

 この朽ちるべきものが朽ちないものを着、

 この死ぬべきものが死なないものを着るとき、

次のように書かれている言葉が実現するのです。」

「死は勝利にのみ込まれた。

 死よ、お前の勝利はどこにあるのか。

 死よ、お前のとげはどこにあるのか。」

と、高らかに勝利宣言をしています。

 

 「私はよい羊飼いである。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。」「ラザロよ、出てきなさい。」と大声でラザロを死から呼び戻したように、私たち一人一人の名を呼んで私たちをも呼び戻される。その声を聞いたものは、生きる。「私が来たのは羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。[8]」だから私たちは何度でもよみがえるのです。主イエスは、常に私たちに現在形で語りかけられておられるのですから。

 

「私の羊は私の声を聞き分ける。私は彼らを知っており、彼らは私に従う。私は彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らを私の手から奪うことはできない。私の父が私にくださったものは、すべてのものより偉大であり、だれも父の手から奪うことはできない。私と父は一つである。[9]」 復活、よみがえりということは、いつの日か遠い未来に起こることが、主イエスキリストと共に在る者には今現在のこととなるというのです。

 

 よみがえった主イエスは、確かに十字架上で死んだイエスです。しかし確かに生きておられる。生きているけれども死んでいる、死んでいるけれども生きている。私たちが絶対と思っている死も生も絶対ではなくなっています。死と生を超えたところにおられる。「私たちの国籍は天にあり[10](口語訳)とはそういうことなのだと思います。そしてここに「キリスト者の自由」がある。

 

 

最後に以前にお話ししたかもしれませんが、私たちはいつも何かをすることによって、何かを語ることによって、何かを神に与えることによって神に感謝し、仕え、神に栄光を帰すことができると考えている。ところがラザロの場合は違う。彼は受け取り、彼の中に神を働かせることによって、彼は神に栄光を帰し、最も純粋に、そして強力に、神を証しする者とされています。主イエスは確かにマリアの三百デナリもするナルドの香油をよみせられた。しかし私たちは同時に、ラザロの道もあることを忘れないでおきたい。病人である彼は自分では何もすることができない。何も語らない。食事を与えられ、床を用意してもらい、愛されることによって神に感謝し、神に仕えたのです。私たちの主イエスはこのラザロをこよなく愛した。私たちは今日はこのラザロという人について、思いを新たにしたいと思います。因みにこのラザロという名前は、エレアザールというヘブル語のギリシャ語訳と言われています。エレアザールという言葉は、「神は助けたもうた」という意味なのです。

 

 ローマ人への手紙3:24に「人は、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いによって義とされるのである。」というパウロの言葉がありますが、ラザロの墓の前に立った主イエスの思いは、この言葉の意味を余すところなく私たちに伝えているのではないでしょうか。

 

 この出来事はエルサレムにも伝えられ、人々はイエスを王として迎え入れます。「ホサナ、ホサナ 主の御名によって来るものに祝福あれ」と言ってロバの子にのったイエスを歓迎します。その後のことはご存じの通りです。



[1] ヨハネ福音書14:25~29

ヨハネ福音書15:26「私が父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち真理の霊が来るとき、その方が私について証しをなさるはずである。あなたがたも初めから私と一緒にいたのだから、証しをするのである。」

[2] その時の様子は使徒言行録2章に記されています。

[3] 「私はよみがえりであり、命である。私を信じる者は、たとい死んでも生きる。また、生きていて、私を信じる者は、いつまでも死なない。あなたはこれを信じるか。」(口語訳 ヨハネ福音書11:25、26)

[4] I am the resurrection and the life; he who believes in me, though he die, yet shall he live, and whoever lives and believes in me shall never die. do you believe this? (RSV)

 

[5] 口語訳は「主よ、信じます。あなたがこの世に来るべきキリスト、神の御子(みこ)であると信じております。」となっています。原典もキリストとなっていますが、新共同訳はなぜかメシアというヘブル語に置き換えています。その事情は分かりません。

[6] この5:25の「はっきり言っておく」と訳された言葉は、原典ではアーメン アーメン レゴー ヒューミン となっていて、アーメンが二度繰り返されています。レゴーは私は言っておく ヒューミンはあなた方にという代名詞です。RSVTruly truly I say to you となっています。口語訳では「よくよくあなた方に言っておく。」となっています。「誠にまことに汝らに伝えおく」という訳もあったと記憶しています。今これから大事なことをあなたがたに伝えよう、というのです。

[7] ヨハネ福音書5:25以下

[8] ヨハネ福音書10:10

[9] ヨハネ福音書10:27以下

[10] フィリピの信徒への手紙3:20「しかし私たちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、私たちは待っています。」(新共同訳)


2023年4月16日日曜日

出会いとしての復活(2023年4月16日)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)


讃美歌21 325番 キリスト・イエスは


「出会いとしての復活」

ルカによる福音書24章13~35節

関口 康

「二人が、『道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、私たちの心は燃えていたではないか』と語り合った」

(2023年4月16日 聖日礼拝)

2023年4月9日日曜日

イースターの喜び(2023年4月9日)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)


讃美歌21 299番 うつりゆく世にも

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「イースターの喜び」

ルカによる福音書24章1~12節

関口 康

「婦人たちが恐れて地に顔を伏せると、二人は言った。『なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ』」

(2023年4月9日)


2023年4月2日日曜日

十字架のキリスト(2023年4月2日 棕櫚の主日)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)


讃美歌21 300番 十字架のもとに


「十字架のキリスト」

ルカによる福音書23章32~49節

関口 康

「するとイエスは、『はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる』と言われた。」

今日の聖書箇所についての説教は、昨年11月20日の主日礼拝でしたばかりです。4か月しか経っていません。「また同じ箇所か」と思われる方がおられるかもしれません。

私はそのことを忘れて、今日この箇所を選んだわけではありません。受難節と復活節が毎年巡って来ることは分かっていますので、そのとき改めて取り上げようと考え、昨年11月20日の礼拝では、深く立ち入らないで残した箇所があります。

それはゴルゴタの丘にイエスさまと2人の犯罪人がはりつけにされた「3本の十字架」が立てられたことについてです。そのことをすべての福音書が記しています。「犯罪人たち」(κακούργοι)と記しているのは、ルカ(23章32節、33節、39節)だけです。マタイ(27章38節)とマルコ(15章27節)は「強盗たち」(λησταί, ληστάς)。ヨハネ(19章18節)は「二人」(δύο)と記しているだけです。

そして、ルカによる福音書には3人とも十字架にはりつけにされた状態のままの、イエスさまと2人の犯罪人の対話が記されていますが、他の福音書にはそのようなことは何も記されていません。その対話の内容を知ることができるのは、今日開いている箇所だけです。

対話の内容はわたしたちが繰り返し学んできたとおりです。「十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。『お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ』」(39節)。

「自分を救え」は英語でセーブ・ユアセルフです。今日の箇所に3回繰り返されます。最初はユダヤ最高法院の議員たち(35節)。2度目はローマ軍の兵士たち(37節)。3度目がこの犯罪人です(39節)。

「世界を救え」はセーブ・ザ・ワールド、「子どもたちを救え」をセーブ・ザ・チルドレン。それと同じ言い方ですが、イエスさまに向けられた言葉は罵倒と嘲笑です。

あなたは自称メシアだろう。それなのに惨めだね。あなたは世界を救えない。ユダヤ人も救えない。異邦人も救えない。せめて自分ぐらい救ってみろよ(セーブ・ユアセルフ)、どうせできやしない。

次に起こったことも、わたしたちはよく知っています。「すると、もう一人の方がたしなめた。『お前は神をも恐れないのか。同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない』」(40~41節)。

イエスさまを罵った側の犯罪人をもう一人の犯罪人がたしなめました。たしなめた理由は、我々は自分たちがおかした犯罪の当然の刑罰を受けているのに対し、この人は無罪なのに刑罰を受けている。我々がこの人を罵倒できる理由は無いはずだ、ということです。

ただし、「たしなめた」は弱い感じです。英語の聖書を4冊(KJV、RSV、NIV、REB)確認しました。すべてrebuke(レビューク)でした。「叱責する、強く非難する、戒める」または「譴責(けんせき)」です。会社などで「譴責処分」と言えば、処罰の度合いとしては軽いほうだと言われますが、辞職勧告や解雇でなくても、始末書を書かされて上司から厳重注意を受けますので、それなりに厳しいです。

しかし、「たしなめる」と言われると、柔らかさや優しさを込めて言い聞かせるというニュアンスを感じるのではないでしょうか。私がいま申し上げたいのは、そうではなさそうだということです。英語聖書のrebukeの「強く非難した」というニュアンスのほうに近いと考えるほうがよさそうです。

そしてその人が「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言うと、イエスさまは「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と応えてくださいました(42~43節)。

以上が今日の箇所に記されている内容の説明です。比較的細かく説明させていただいたのは、前回11月20日の礼拝でも申し上げたことですが、昭島教会の週報の表紙に、今から55年前の1967年1月29日号(第792号)から今日まで「3本の十字架」のイラストが描かれていることと関係あります。

イラストだけでなく、同じ1967年に教会の敷地に高さ約10メートルの3本の十字架の鉄塔が立てられました。昨年70周年を迎えた昭島教会は、55年間「3本の十字架」を掲げて歩んできました。

なぜ「3本の十字架」なのかと言うと、その理由が今日の聖書箇所にあることは間違いありません。しかし、ただ単に、二千年前のゴルゴタの丘に3人の死刑囚をはりつけた十字架が3本立てられたことが歴史的な事実なので、わたしたちも同じようにしたということではありません。

それよりも大切なことは、まさに今日わたしたちが開いているルカによる福音書に詳しく記され、他の福音書には記されていない、イエスさまと2人の犯罪人との対話そのものです。

この対話をどのように理解するかについて、今日的に大きな影響を与えたひとつの説教があることを私は知っています。それは、スイス生まれのプロテスタント神学者カール・バルト(Karl Barth [1886-1968])が、1957年4月19日(受難日)にスイスのバーゼル刑務所の礼拝で行った説教です。

説教題は「イエスと共なる犯罪人」です。その説教の日本語版が『カール・バルト著作集』第17巻(新教出版社、1970年)177頁以下に、その後『カール・バルト説教選集』第11巻(日本基督教団出版局、1992年)に、いずれも日本キリスト教会の蓮見和男牧師の訳で収録されました。

昭島教会に「3本の十字架」が立てられた1967年は、バルトのその説教の日本語版が出版される1970年より前ですので、「昭島教会のほうが早い」と言ってよいと思います。

バルトが何を言ったかは、ぜひご自身でお読みいただきたいです。前後の祈りを含めて14頁もある長い説教です。しかし、最も大切なことが比較的冒頭で語られています。以下はバルトの言葉です。

「『イエスと共なる犯罪人』、それが何を意味するのか、御存知であろうか。『それは、最初のキリスト教会である―最初の、確かな、解消することも打ち破ることもできないキリストの教会である』と申し上げたとしても、あまり驚かないでいただきたい。キリスト教会は、イエスが近くにおり、イエスが共にいる人びとの集いのあるところ、どこにも存在する。―つまり、イエスの約束・確言・確約が直接にじかにふれられるような―イエスの全存在は自分たちのためであり、イエスの全行動は自分たちのために行われたということを聞くことができる、この約束によって生かされているような場所である。それこそがキリストの教会であって、この二人の犯罪人は、最初の確かなキリスト教会であったのである」(『著作集』179頁、『説教選集』122頁)。

カール・バルトは1935年から1968年に亡くなるまでスイスのバーゼル大学神学部の教授でしたが、1954年から並行してバーゼル刑務所で受刑者対象の説教を続けました。バルトの刑務所説教の比較的初期に今ご紹介した説教が行われました。「2人の犯罪人は最初の教会である」と明確に語られました。

「ひとり」ではなく「ふたり」です。自分の罪を認め、悔い改めた人だけが「教会」ではありません。イエスさまに「自分自身と我々を救ってみろ」と罵った人も「教会」です。

バルトが言ったから正しいという意味で申し上げるのではありません。教会は正論だけを語る人の集まりではありません。愚痴を言っていいし、イエスさまに文句を言っても構いません。すべてイエスさまが受け入れてくださいます。それが、イエスさまの十字架の愛のもとで生きる「教会」の姿です。

(2023年4月2日 棕櫚の主日礼拝)

モーツァルト ピアノソナタk331 第1楽章主題・第1変奏

昭島教会の富栄徳さんがモーツァルトの「ピアノソナタk311 第1楽章主題・第1変奏」の演奏動画をご提供くださいました。ありがとうございます! 

 「イースターも近づくこの季節、桜も満開となりました。モーツァルトの響きも心地良いです。(ここの演奏では疑問ですが・・・)新たな道に進もうとしている方に力が与えられますことを祈ります」(富栄さん)