2023年6月25日日曜日

わたしについてきなさい(2023年6月25日)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)


讃美歌21 358番 小羊をばほめたたえよ

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「わたしについてきなさい」

ヨハネによる福音書15章1~17節

秋場治憲

「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。」

私たちは5月28日にペンテコステ、聖霊降臨節を記念する礼拝を持ちました。これからしばらく聖霊降臨節が続きます。いつまで続きますか、と質問してきた方がおられます。教会暦ではアドベントまで続きますが、実際は主イエスが再び来たりたもう日まで、つまり「かしこより来たりて 生けるものと死ねる者とをさばきたもう」再臨の時まで続きます。再臨というのは、読んで字のごとく「再び臨む」ということです。よみがえった主イエス・キリストは、40日にわたり弟子たちに現れ、天に上げられ、父なる神の右に今座し、聖霊を通して、今現在私たちを導いておられる。「かしこより」と訳されている言葉は、indeというラテン語で「そこから」という副詞です。その直前にあるのは「全能の父なる神の右に座したまえり」という言葉です。「神の右」というのは、神の支配を意味します。「そこからきたりて(未来形)、生けるものと、死ねるものとを裁きたまわん、我は聖霊を信ず、聖なる公同の教会、・・・と続きます。主が再び来たりたもう日まで、我は聖霊(復活した主イエスの霊)の導きを信じ、聖なる公同の教会を信じ[1]、聖徒の交わりを信じ、罪の赦しを信じ、体のよみがえりを信じ、永遠の命を信じて生きて参りますという信仰告白です。それぞれの詳細については今日の本題ではありませんので、別の機会に致します。キリスト教信仰における、現在という時の位置づけを理解していただければと思います。

主イエスが再び来たりたもう日まで、聖霊の時代が続きます。天にのぼり全能の父なる神の右に今現在座していたもう主イエス・キリストの支配のもとに私たちは日々歩んでいます。そのことを私たちに証しているのが聖霊です。だから聖霊について学ぶということは、とても大切なことなのです。

ペンテコステ礼拝において私たちは「神は愛である」という視点から聖霊の働きについて学びました。もうお忘れかもしれませんが、簡単に振り返りますと、唯一の神(父なる神、子なる神、聖霊なる神)のそれぞれがそれぞれの仕方で、人間を愛すること「神は愛である」ということを本質としているということを学びました。父なる神は人間を愛するが、それは罰すべき者を罰しないではおかない方であり、子なる神はその罰せられるべき者を赦して受け入れる方でした。それに対して聖霊なる神は、罪に打ち勝ち、死に打ち勝ち、神の怒りに打ち勝った「復活者イエスの霊」「勝利者イエスの霊」であるということを学んだと思います。この方が私たちに息を吹きかけて「聖霊を受けよ」と言っておられるのですから、私たちは何度でも罪に打ち勝ち、死に打ち勝ち、神の怒りに打ち勝ってよみがえるのです。よみがえらされるのです。

エペソの信徒への手紙4:30に「神の聖霊を悲しませてはいけない。あなた方は、あがないの日のために、聖霊の証印を受けたのである。[2](口語訳)という言葉があります。聖霊とは「復活者イエスの霊」であり、「勝利者イエスの霊」であることを学びましたが、北森嘉蔵先生はこの復活者、勝利者に最も似つかわしくないのが、「悲しみ」であるとその聖書百話の中で語っておられます。この聖霊によってあなた方は、キリストの死を代価とする罪よりのあがないの日のために、あなた方は封印(証印)されたのであるから、つまり「悲しみ」は克服された者なのだから、それに相応しく生きなさいというのです。封印(証印)というのは、その約束の日が来たなら、その約束されたことが必ず実現するという保証です。その日まで、この勝利者イエスの霊に導かれて生きる者は、その日の到来を待ち望みつつ、救いが必ず実現されるという望みによって歩む者とされているということです。しかしその日はまだ来てはおりません。その日というのは、「かしこより来たりて、生ける者と、死ねる者とを裁き」たもうその日のことです。それまでの間私たちは罪の中にありながら、この身のあがなわれることを待ち望みつつ日々の歩みを続けていくのです。私たちはこの希望によって、信仰と言い換えてもいいと思いますが、この希望によって義とされている、救われているのです。ルターが「信仰のみ」と言ったのは、私たちの救いは、この希望が真実で確実なものであると信じる信仰(希望)の中にのみある、ということを言ったのです。それではすべて将来のことなのか、という疑問が湧いてきます。そうではありません。私たちはすでに使徒信条の「全能の父なる神の右に座し給えり」という言葉が直説法現在で書かれていることを学びました。クリスマスのメッセージ「インマヌエル(神、我らと共にいます)」というのは、クリスマスだけに聞く言葉ではありません。今現在の私たちの日々の生活の中にあって、よみがえった主イエスの霊が私たちを導き、病の床にあって私たちを慰め、励まし、そして死の床にあって我らをよみがえらせ、父なる神の御前に至るまで「我らと共におられる」という意味です。となると私たちは自ずと自らの生活を律するものとならざるを得ないのではないでしょうか。「あがないの日」には、この聖霊が私たちの傍らにあって父なる神に執り成しをするために常に備えておられるというのです。

前置きが長くなりましたが、この希望によって救われている今も、私たちは現実には罪の中にあります。様々な困難や誘惑、試練に遭遇します。その私たちのことを心配して、「私は去っていくが、また、あなたがたのところへ戻って来る。」「私はあなたがたに平和を残していく」「父が私の名によってお遣わしになる聖霊が、あなた方にすべてのことを教えて下さる。」「事が起こったときに、あなた方が信じるようにと、今、そのことの起こる前に話しておく。」というのです。

このことをふまえて今日のテキストに入りたいと思います。主イエスの言葉は、その都度少しずつ視点を変え、繰り返し、繰り返し、「私につながっていなさい」ということを弟子たちに言い聞かせています。そこには主イエス亡き後の弟子たちが遭遇するであろう試練に対して、その備えをしておこうという主イエスの心遣いが伝わってきます。これは二千年前の弟子たちに対する心遣いであるだけでなく、同時に今を生きる私たちに対する心遣いでもあります。その冒頭の言葉は、驚くような言葉で始まっています。

「私はまことのぶどうの木、私の父は農夫である。私につながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる」

私たちは10章の「私は良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」という言葉は誰もが知っています。ここでは羊飼いと羊は、別の存在ですが、今日の譬えは更に親密度を増し、ぶどうの木と枝という一体を現わす譬えとなっています。ただ驚いたのは、実を結ばない枝は農夫である父が切り取られるというのです。そして実を結ぶ枝は農夫である父が、手入れをして益々多くの実を結ぶようになさるというのです。

これは今まで私たちが聞いてきたこととは違っているのではないか。私たちの救いは、条件付き救いになってしまったのだろうか。そもそも主イエスは、この最後の最後に来て、どうして弟子たちを不安に陥れるようなことを語られたのかという疑問を持たれた方もおられるかもしれません。

すでにキリスト・イエスに結ばれている者として、安心していたのに「私につながっていなさい」という命令が語られます。この言葉はつながっていないということ、また枝から離れていく可能性があるということが前提になっています。

ここで「真のぶどうの木」ということについて、考えてみたいと思います。古来イスラエルは「ぶどうの木」とたとえられてきました。詩篇80:9には、「あなたはぶどうの木をエジプトから移し、多くの民を追い出して、これを植えられました。」(新共同訳)という言葉があります。イスラエルの民がぶどうの木にたとえられています。またエレミヤ2:21には、「私はあなたを、甘いぶどうを実らせる確かな種として植えたのに、どうして私に背いて、悪い野ぶどうに変わり果てたのか。」(新共同訳)という言葉があります。ぶどうの栽培は、実に骨の折れる仕事です。かつて私も自分の家の庭にぶどうの木を植えたことがあります。実に外観は立派に実りました。しかし食べてみると美味しくないのです。恐らく土地がよくなかったのだと思います。数年たい肥を施したり、剪定したりしたのですが、結局美味しいぶどうはなりませんでした。最後はその木を抜き、ごみに出さざるをえませんでした。そのように手間暇をかけて主は、イスラエルというぶどうの木を育てようとされたのですが、育ったのは酸っぱいぶどうしか実らなかったというのです。預言者たちはそれでも、彼らこそが「真のぶどうの木」であるのだから、それに相応しい実を結ぶように、主に立ち返ることを求めたのですが、彼らは立ち返りませんでした。主イエスは弟子たちとの別れに際して、「真のぶどうの木は、(他でもない)この私なのだ」と言い切ります。主イエスはここで「真のぶどうの木」は、このように酸っぱいぶどうしか実らせないイスラエルではなく、私こそが「真のぶどうの木」である。他にはないと断言なさるのです。だから「私につながっていなさい」と言われるのです。ここには緊張感が走ります。イスラエルの民は自分こそ神のぶどうの木であると、選民としての肩書の上に安穏としてあぐらをかき、神の意志を求めようとはしませんでした。父なる神は彼らを切り落とさざるをえなかったのです。

同じように主イエスは、あなたがたは確かにぶどうの木の一部ではあるけれども、そこに安穏としてあぐらをかき、惰眠をむさぼっていることはできないと言っておられるのです。だから「私につながっていなさい」という命令が続くのです。ぶどうの枝は一時一時、ぶどうの木につながらなくては、ぶどうの枝でいることはできないのです。このことは今の私たちに対する警告でもあります。私たちは教会に来ているから、キリスト者ではないのです。ルターの言葉の中に、こういう言葉があります。以前にもお話したことがあると思いますが、Der Christ steht nicht im sein sondern im werden. キリスト者というのは(肩書の上に安穏としてあぐらをかいている)状態にあるのではなく、キリスト者になろうとする者である。stehtというのは「立っている」、「在る」という意味です。英語にするとnot in being but in becoming となります。キリスト者というのは、ただ眉間にしわよせて考え込む瞑想的静観にあるのではなく、もっとダイナミックに活動させるもの。タラントンの譬えにある2タラントン、5タラントンを受け取った僕は、「すぐに」「即座に」出て行って、主人の期待に応えようとしたことを思い起こしてください。ここには主人に対する信頼が秘められています。喜びをもって主人から託された使命を果たさんとする姿が描き出されています。しかし1タラントン受け取った僕は、他の僕と比較したり、商売に失敗して失くしてしまったら、自らの尊厳に傷がつくことを恐れて、地中にその1タラントンを隠し、一歩を踏み出そうとはしませんでした。結局この僕の1タラントンは、5タラントンを更に稼いで10タラントンを持つものに渡されてしまった。この主人は失敗した者を受け止めてくれないような心の狭い方ではないのです。何度でもやりなおせるのです。小林稔訳のヨハネ福音書を読みますと、「私のうちにある枝で、実を結ぼうとしないものはすべて、父が刈り取る。」と訳しています。これは私たちが実を結ぼうとする意志があるかどうかという点に焦点を当てた訳になっています。私たちが実を結ぼうとする意志があるかどうかが問われています。私たちがぶどうの木につながっているというのは、自明のこと、既成事実ではないのです。旧讃美歌の中に、「くるあさごとに あさひとともに かみのひかりを 心に受けて 愛のみむねをあらたにさとる」という讃美歌[3]は、このことを歌った讃美歌だと思います。讃美歌21にもありますが、歌いなれたせいか旧讃美歌の詩が私にはしっくりきます。

この実を結ぶというのは、何も目立った業績をあげるということではないことは、私たちよく承知していることだと思います。私たちの為せる奉仕のすべてにおいてです。信仰をもって為すわざは、たとえそれがわらくず1本拾うわざであっても神は喜ばれると言ったのもルターです。

「あなたがたは私につながっていなさい。私もあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、私につながっていなければ実を結ぶことができない。私はぶどうの木、あなた方はその枝である。人が私につながっており、私もその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。私を離れては、あなた方は何もできないからである。」

長い信仰生活を続けてきた方には、これらの言葉は、決して驚くようなことではないと思います。主イエスから目をそらしたペテロが、ガリラヤ湖でおぼれそうになって主イエスに助けを求めた姿は、大なり小なり経験してこられたことと思います。次に続く言葉もうなずくことはあっても、驚くような言葉ではないと思います。「私につながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。」そんなことにならないように、ぶどうの枝がぶどうの木を離れていくことがないように、弟子たちを残して去って行かざるをえない主イエスが、恵みの言葉を語りながら、同時に命令の言葉を語ります。繰り返し、繰り返し、私につながっているようにと言い含めるのです。主イエスの弟子たちへの熱き思いが伝わってきます。

「父が私を愛されたように、私もあなた方を愛してきた。私の愛にとどまりなさい。私が父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなた方も、私の掟を守るなら、私の愛にとどまっていることになる。」

「私につながっていなさい」ということは、「私の愛の内にいなさい」ということ。父なる神が御子イエス・キリストを愛されたように、我らの主イエス・キリストも私たちを愛された。これはその通りなのですが、父なる神は罰すべき者を罰しないではおかない方でした。父なる神が御子イエス・キリストを愛したのは、彼が父なる神の負託に全面的に従ったからです。父なる神の戒めを守り、父なる神の意志に全面的に、十字架の死に至るまで服従されたから父なる神はその御子を愛されたのです。父なる神にとって主イエスは愛すべき者であり、み心に適う者でした。しかし、私たちは主イエス・キリストの戒めを守る者ではありません。日々罪を犯す者、犯さざるを得ない者です。毎週礼拝の冒頭で「私たちはあなたのみ言葉を全き心をもって信ぜず、あなたの戒めを守らなかったのみでなく、み心に背いて罪と過ちとを重ねてきたことをざんげいたします。しかしそれらのすべてを心から悔いて、あなたの恵みをひたすら求め奉ります。どうか今私たちをあわれみ、み子イエス・キリストのあがないのゆえに、私たちの罪と過ちとをすべておゆるしください。そして私たちが深く悔い改めあなたの命に満たされるよう、ゆたかな恵みをお与えください。救い主イエス・キリストによって、お願いいたします。アーメン。」と「懺悔の祈り」を祈ります。

この罪と過ちとを繰り返す私たちに対して、「私の愛にとどまりなさい。」と言われるのです。私たちに「とどまりなさい」ということは、そこに十字架が立てられるということです。本来私たちはぶどうの木につながっているものではありません。「ぶどうの木につながっていない者」です。「外に投げ捨てられて、枯れ、火に投げ入れられて焼かれてしまう者以外ではありません。愛するに値しない者、それを一本一本拾い集め、十字架の血潮によって清め、自分に連なるぶどうの木の枝とされたのです。あなた方はすでに私の愛の内に入れられているのだから、だから「私の愛の内にとどまっていなさい。」「私の荷は軽く負いやすいからである。」といわれるのです。すでに触れてきたように、主イエスの愛の内にいるということは、安穏としてあぐらをかき、惰眠をむさぼっていられる状況ではないのです。教会に通いながらも、聖書も開かないような生活をしているなら、聖霊は主イエスが語られた言葉を思い起こさせることも、その意味を悟らせることもできないのです。父なる神がその枝を取り除かれるでしょう。しかし私たちは父なる神が切り落とす前に、私たち自身が連なっている枝を切り落としていることに気づくべきです。イスカリオッテのユダも同じです。主イエスが弟子たちの足を洗った時、ユダもまだその中にいたのです。最初は彼もイスラエルをローマの支配から解放してくれるのはこの人だと、他の弟子たちと同じように望みをかけていたのでしょう。しかし、頭脳明晰で先見の明のあったユダは、事態が緊迫の度を増すにしたがって、この船から降りる決意を固めたのでしょう。或いはこの船の危うさを敏感に感じ取り、二股をかけて成り行きを見守ろうとしたのでしょうか。主イエスが引導を渡す前に、すでに彼が自分のために差し出されていた枝を切り落としていたのです。

最後にまた驚くような言葉が主イエスから発せられます。「私があなた方を愛したように、互いに愛し合いなさい。これが私の掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。私の命じることを行うならば、あなた方は私の友である。もはや、私はあなた方を僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。私はあなた方を友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなた方に知らせたからである。」(ヨハネ福音書12~15)

厳しい言葉が語られています。「私があなた方を愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい。」友のために自分の命を捨てることが、果たしてこの罪深き自分にできるのだろうかという思いが湧いてきます。私たちは自分の中に決して捨てることのできない核のようなものを持っています。自己愛と言い換えることが出来るかもしれません。神を愛することさえ、神のためにしないで、自分のためにする。神をさえ利用して自己と自己のものを求めるという核を私たちは有しています。更に言い換えるなら、原罪と言い換えることができるかもしれません。しかし、主イエスはこのような核を有する私たちを「友」と呼ばれるのです。そしてこの「友」の罪の贖いとして、ご自身を捧げられ、ご自身の義をもって我らを包まれたのです。この核から私たちが完全に解放されるのは、死において実現されること。しかし同時に「死こそ神の仕事場である」と言ったのもルターです。私たちが互いに愛し合う愛は、極めて不完全なもの、不十分なもの、欠けるところの多きものでしかありません。しかしこの不完全で、不十分な愛も、信仰をもってなされる時、私たちのために十字架の死を忍ばれた方の愛を指し示すことはできるのです。それは私たちが主の友として、主が何をしているかを教えられた者として、十字架の愛を指し示すことはできるのです。私たちはこの地上にある限り、「罪人にして、同時に義人である」ということに甘んじなければならない。しかし、この罪深き者が同時に義人とされていることに感謝しながら、「あがないの日」を待ち望みつつ生かされていることに感謝をしたいと思います。

私たちはこの原罪ともいうべき核を自分の内に有しながらも、十字架の贖いに励まされながら、今週の歩みを進めて参りたいと思います。


[1] 普遍的な教会というのは、

[2] 「神の聖霊を悲しませてはいけません。あなた方は、聖霊により、贖いの日に対して保証されているのです。」(新共同訳)

[3][3] 旧讃美歌23番 讃美歌21 210番


(2023年6月25日 聖日礼拝)

2023年6月18日日曜日

主は必ず来てくださる(2023年6月18日)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)


讃美歌21 343番 聖霊よ、降りて

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「主は必ず来てくださる」

ルカによる福音書8章40~56節

関口 康

「イエスは言われた。『娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。』」

今日の朗読箇所は長いです。しかし、途中を省略しないで、すべて読むことに意義があります。

なぜなら、この箇所には2つの異なる出来事が記されていますが、もしそれを「第一の出来事」と「第二の出来事」と呼ぶとしたら、第一の出来事が起こっている最中に横から割り込んで来る仕方で第二の出来事が起こり、それによって第一の出来事が中断されますが、その中断の意味を考えることが求められているのが今日の箇所であると考えることができるからです。別の言い方をすれば、その中断は起こらなければならなかった、ということです。

出だしから抽象的な言い方をしてしまったかもしれません。もっと分かりやすく言い直します。

たとえていえば、教会に長年通い、教会役員にもなり、名実ともに信徒の代表者であることが認められているほどの方に、12歳という今で言えば小学6年生の年齢なのに重い病気で瀕死の状態の子どもさんがおられたので、一刻も早くそのお子さんのところに行ってください、来てくださいと、教会役員からも、その子どもさんのご家族からも緊急連絡が入ったので、イエスさまがすぐに行動を起こされ、その家に向かっておられる最中だった、と考えてみていただきたいです。

しかし、イエスさまがかけつけておられる最中に、見知らぬ女性がイエスさまに近づいて来ました。その女性はイエスさまが急いでおられることは理解していたので、邪魔をしてはいけないと遠慮する気持ちを持っていました。しかし、その女性は12年も病気に苦しみ、あらゆる手を尽くしても治らず、生きる望みを失っていましたが、イエスさまが自分の近くをお通りになったのでとにかく手を伸ばし、イエスさまの服に触ろうとして、そのときイエスさまが着ておられたと思われるユダヤ人特有の服装、それは羊毛でできたマント(ヒマティオン)だったと考えられますが、そのマントについていた、糸を巻いて作られた2つの房(タッセル)のうちのひとつをつかんだとき、イエスさまが立ち止まられて「わたしに触れたのはだれか」と探し始められた、という話です。

しかしそのとき、イエスさまには先約がありました。イエスさまのお仕事は客商売ではありませんので「上客」という言い方は当てはまりませんが、教会生活が長く、多大な貢献を果たし、教会内外で多くの人から絶大な信頼を獲得していた方のご家族が危篤であるという一刻の猶予もない状況の中で、まるでイエスさまが寄り道をされているかのように見えることをなさっているのを快く思わなかった人が、そのとき少なからずいたであろうことは、想像するに難くありません。

次のような問い方をすれば、そのときの状況をさらにリアルにご理解いただけるかもしれません。まるでイエスさまは、教会生活が長い信徒のわたしたちは後回しにしてもよいかのようにお考えで、わたしたちなどのことよりも、初めて出会う人とか、通りがかりの人とか、ふだんは教会に来ようともしない人とかばかりに夢中になられ、そういう人たちを優先する方でしょうか、それはわたしたちへの侮辱ではないでしょうかと疑問を抱いた人がいるのではないか、ということです。

このたび私はたいへん興味深い解説を読みました。それは、今日の箇所の46節に、「しかし、イエスは『だれかがわたしに触れた。わたしから力が出て行ったのを感じたのだ』と言われた」とありますが、この「わたしから力が出て行った」というイエスさまのお言葉には、もうひとつの翻訳の可能性がある、という解説です。それは「その力はわたしから出たものだ」という訳です。

私はこのイエスさまの言葉の意味を理解できていませんでした。通りがかりの女性がイエスさまの服に触ったら「わたしから力が出て行った」というのであれば、まるで風船に穴が開いて空気が抜けるようにイエスさまが脱力なさったのだろうかと想像していました。それだとまるでイエスさまが迷惑な通行人がいたものだと認識なさり、しかし私に助けを求めている人がいるようだから仕方ないとでもお考えであるかのようで、腑に落ちたことがありませんでした。

しかし、そういう意味ではないかもしれないと分かりました。「わたしから力が出て行った」のではなく、「その力はわたしから出たものだ」とイエスさまがおっしゃったとしたら、話は変わります。

たしかに、たまたますれ違っただけの人には違いないし、イエスさまには大切な先約があり、急いで駆けつけておられる最中であったことは間違いないけれども、それでもなお、今このとき、この瞬間に、12年もの間、病気に苦しんできた女性に神の力が働き、その人の病気がいやされるというみわざが起こったのだ、その神の力とみわざはこのわたしから出たものであると、イエスさまがその女性のいやしと救いの保証人になってくださった話に変わります。風船から空気が抜けた話ではありません。今このとき、この人を助け、救うことが神の御心であると、イエスさまが公に宣言なさったのです。

しかしその出来事は、最初に申し上げたことを繰り返せば「第二の出来事」であり、「第一の出来事」が起こっている最中にそれを中断する形で割り込んできたものであることに変わりはありません。

教会役員のような存在だったと、先ほど説明しました。ヤイロという男性は「会堂長」(ルーシュ・ハーケセット)と呼ばれるユダヤ教のシナゴーグ(会堂)の管理責任者でした。それは、安息日ごとに行われる礼拝に必要なあらゆる準備の責任者でした。名誉ある職責だったことは間違いありません。

その男性に「12歳ぐらい」の「一人娘」がいて「死にかけていた」(42節)と記されています。その家にイエスさまが駆けつけている最中に「第二の出来事」が起こり、そのために時間も削られ、会堂長ヤイロの危篤の娘さんが息を引き取る時刻までに、イエスさまは間に合いませんでした。

それで、会堂長ヤイロの家から人が来て「お嬢さんは亡くなりました。この上、先生を煩わすことはありません」とイエスさまに伝えに来ました。丁重な物言いですが、「もう来てくださらなくて結構だ」と訪問を断っているようでもあります。ヤイロの中ではもはやイエスさまの存在は不要になっていたし、憎しみや怒りの対象になっていた可能性すらあります。

よく似た話が、ヨハネによる福音書11章に出てきます。弟ラザロの臨終の瞬間に間に合わなかったイエスさまに対してあからさまに腹を立てて非難する姉マルタと妹マリアの物語です。姉マルタも妹マリアも同じ言葉で「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」(ヨハネ11章21節、11章32節)と、イエスさまに抗議しています。まるで「わたしたちの弟が死んだのはあなたのせいです」と言わんばかりです。会堂長ヤイロもイエスさまに、マルタとマリアと同じような感情を抱いたのではないでしょうか。

しかし、イエスさまは、ご自分が遅れたとは全く考えておられません。イエスさまにとっては、事柄は終わっていませんし、始まってもいません。人は死んだらすべて終わりだというお考えが、そもそもありません。イエスさまがヤイロの家に到着なさり、「娘よ、起きなさい」(アラム語「タリタ・クム」)と呼びかけられたとき、その子は起き上がりました。

主は必ず来てくださいます。必ず助けてくださいます。イエスさまは、12年も病気で苦しんでいた女性も、12歳の少女も、どちらも助けてくださいました(両者の「12年」という年数は関係していると思われます)。優先順位を争うのは、イエスさまに求めすぎです。後回しにされたと腹を立てないでください。主は救いの約束を必ず果たしてくださいます。

(2023年6月18日 聖日礼拝)

2023年6月11日日曜日

喜びと真心をもって(2023年6月11日)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)


讃美歌第2編 26番 ちいさなかごに



「喜びと真心をもって」

使徒言行録2章43~47節

関口 康

「こうして、主は救われる人を日々仲間に加え一つにされたのである」

今日の聖書箇所は、先週の箇所の続きです。先週の箇所には、最初のペンテコステ礼拝で使徒ペトロが行った説教に多くの反応があり、その日に3千人ほどがキリスト教会の仲間に加わったことが記されていました。

もっとも、統計学的な見地から考えれば、最初のキリスト者人口は1千人ほどだっただろうというのが、今年1月8日の説教でご紹介した米国の宗教社会学者ロドニー・スターク教授(故人)の見解です(R. スターク『キリスト教とローマ帝国』新教出版社、2014年)。聖書の言葉を疑うような言い方はしたくありませんが、ひとつの参考意見です。

そして、今日の箇所に記されているのは最初のキリスト教会がどのような活動をしていたかについての比較的詳しい情報です。しかし、今日の箇所だけでなく4章32節以下にも同様の記事がありますので、両方を合わせて情報を整理することが肝要です。以下、箇条書きで整理します。

(1)最初のキリスト教会の人々は一人として持ち物を自分のものだと言う者は無く、すべてを共有していました(4章32節)。

(2)最初のキリスト教会の人々は、心も思いも一つにしていました(2章44節、4章32節)。

(3)最初のキリスト教会の中には自分の財産や持ち物、たとえば自分の土地や家や畑を売却して、教会に献金する人々までいました(2章45節、4章34節、4章37節)。

(4)その自分の不動産を売却した収益金は、教会の中の使徒職にある人々に預けられました(4章35節、4章37節)。

(5)使徒に預けられた献金は、教会内で必要に応じて分配されました(2章45節、4章35節)。

(6)その結果、最初のキリスト教会の中には貧しい人が一人もいませんでした(4章34節)。

(7)しかし、教会の仲間に加わった人々にとって、自分の不動産を売却することは義務ではありませんでした(5章4節)。

(8)さらに教会の中には、実際はすべてでなく一部だけ献金しながら、あたかも全財産を献げたかのように虚偽申告して自分の虚栄心を満たそうとする人々までいました(5章1節以下のアナニアとサフィラの例)。

(9)最初のキリスト教会の人々は、毎日エルサレム神殿の境内地で集会を開いて祈り、さらに家ごとに集まって「喜びと真心をもって」食事をしていました(2章46節)。

(10)そのような最初のキリスト教会の人々の様子を見ていた人々は、彼らに好意を寄せていました(2章47節)。

最初のキリスト教会の人々がこのようなことをしていた動機を想像するのは難しくありません。長い歴史と豊かな伝統を有するユダヤ人社会の中で、それまではだれも信じていなかった教えを受け入れ、新しい信仰共同体としての歩みを始めたばかりの人々は、爪弾きされる存在でした。仕事にありつくことすら、ままなりませんでした。その中で、とにかく互いに助け合って難局を乗り越えて行こうではないかという一心で、共に歩んでいたに違いありません。

しかし、その彼らにも、必ずしも賛成も同意もしてくれない家族や友人がいたでしょう。自分の不動産を売り払ってまで守るべき信仰なのかと周囲の人から問い詰められたに違いありません。けれども、物は考えようです。そもそも私有財産とは何なのかと根本から問い直すときがわたしたちにもあっていいでしょう。新しい信仰共同体に属する者たち同士が、金品を共有し合うほどまでに互いに助け合うことで、難局を乗り越えようとすることがあってもいいでしょう。

現代社会の只中でこのような話をしますと、たちまち非難の的になることは分かっています。しかし、大人も子どもたちも貧困にあえいでいるのに税金ばかり重くなっていく国の中に生きているわたしたちです。自分の子どもたちの教育費に苦しむ家庭も少なくありません。お金を何に使うかは各自に任されています。損得勘定だけで語ることはできません。

それと、これは比較的一般常識として広く知られていることですが、使徒言行録2章や4章に描かれた最初のキリスト教会の実践内容を指して「原始共産制」という名で呼ぶ人々がいます。現代の共産主義の方々にとって、どこまでが共通していて、どこからは違うのかをどのように理解しておられるかは私には分かりません。しかし、はっきりしているのは、最初のキリスト教会のあり方は、どこからどう見ても資本主義の原理とは正反対であるということです。

しかしまた、誤解を避ける必要を、いま私は感じています。最初のキリスト教会の実践内容において、私有財産の放棄そのものが目的でも義務でもなかったことは強調しなくてはなりません。比較対象として挙げうるのは、最初のキリスト教会が活動を始めたのと同じ時代のユダヤ教内部に存在した「クムラン教団」と呼ばれた人々です。彼らは私有財産を拒否しました。結婚することも許されませんでした。ルールを破った人は罰を受けました。

しかし、最初のキリスト教会のあり方は、クムラン教団とは全く正反対でした。イエスさまは独身でしたし、パウロも単身で伝道旅行に出かけました。しかし、ペトロは結婚していましたし、パウロも結婚を奨励こそすれ禁じたことはありません。とはいえ、キリスト教会も長い歴史の中で変質してきた面があることも否定できません。教会が反省すべき点は多々あります。

とにかくはっきりしているのは、教会の活動も奉仕も、最初から今日に至るまで「義務」ではないという点です。義務でないなら何なのかを説明するのは難しいですが、今日の箇所の「喜びと真心をもって」(46節)の意味を考えることによってヒントを得られるように私には思えます。

聖書における「喜び」とは「義務」の反対です。「楽しむこと」や「遊ぶこと」と同義語です。教会は会社でも学校でもありません。外部のルールを持ち込まれても困るだけです。まして国家権力のようなものとは完全に違います。ただ楽しみ、ただ遊ぶために教会は存在します。

「真心」の意味は単純(シンプル)であることです。正直であること、作為も技巧もないこと、作り笑いや下心や二枚舌がないことです。容赦なくずけずけ言えばいいのではありません。大切なのは「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣く」(ローマの信徒への手紙12章15節)ことです。相手の言葉と思いを肯定し、共感することです。相手の言葉や表情の裏側を常に詮索してしまう傾向を持っていると自覚しておられる方は、「裏を取ること」をやめて、相手の発する言葉どおりにまっすぐ受け止めて信頼することです。

教会はそういうところです。たとえば、教会員になるために戸籍や住民票など「証拠書類」の提出を求める教会を、私は寡聞にして知りません。愚者だと言われれば愚者かもしれませんし、最もだまされやすいタイプかもしれません。しかし、互いにそれができるようになれば、教会は最も安心できる場所になります。他のどこでも得られない喜びと安心を得ることができます。

(2023年6月11日 聖日礼拝)

2023年6月4日日曜日

悔い改めと赦し(2023年6月4日)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)


讃美歌21 494番 ガリラヤの風

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「悔い改めと赦し」

使徒言行録2章37~42節

関口 康

「すると、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。』」

先週私は体調不良で大切なペンテコステ礼拝を欠席し、秋場治憲先生にすべての責任をお委ねしました。ご心配をおかけし、申し訳ありません。私はもう大丈夫ですので、ご安心ください。

キリスト教会の伝統的な理解としては、わたしたちの救い主イエス・キリストは、もともと神であられましたが、母マリアの胎から人間としての肉体を受け取ることによって人間になられた方です。その人間としての肉体を受け取ることを「受肉(じゅにく)」と言います。

しかし、キリストは人間になられたからといって神であられることを放棄されたわけではなく、神のまま人間になられました(フィリピ2章6節以下の趣旨は「神性の放棄」ではありません)。そしてキリストは十字架と復活を経て、今は天の父なる神の右に座しておられますが、人間性をお棄てになったわけではなく、今もなお十字架の釘痕(くぎあと)が残ったままの肉体をお持ちであると教会は信じています。不思議な話ですが、これこそ代々(よよ)の教会の信仰告白です。

それに対して、聖霊降臨(せいれいこうりん)の出来事は、順序が逆です。もともと人間以外の何ものでもないわたしたちの中に父・子・聖霊なる三位一体の神が宿ってくださるという出来事です。わたしたち人間の体と心の中に神であられる聖霊が降臨するとは、そのような意味です。

昨年11月6日の昭島教会創立70周年記念礼拝で、井上とも子先生がお話しくださいました。井上先生が力強く語ってくださったのは、わたしたちが毎週礼拝の中で告白している使徒信条の「われは聖なる公同の教会を信ず」の意味でした。わたしたちは父なる神を信じ、かつ神の御子イエス・キリストを信じるのと等しい重さで「教会を信じる」のであると教えてくださいました。私もそのとおりだと思いました。

教会は人間の集まりであると言えば、そのとおりです。「教会を信じる」と言われると、それは人間を神とすることではないか、それは神への冒瀆ではないかと警戒心を抱かれる方がおられるかもしれません。しかし、聖霊降臨の意味は、わたしたち人間の体と心に聖霊なる神が宿ることですから、矛盾はありません。教会は「神」ではありませんが、神の御心を体現する存在です。

ただし、教会は多くの人によって構成されています。イエス・キリストはただおひとりです。しかし、教会は二千年前から今日に至るまでのすべてのキリスト者によって構成されています。今は天の御国におられる雲のように多くの信仰の先達と地上に残るわたしたちが一緒に集まって会議を開いたり、くじを引いたり、じゃんけんしたりすることはできませんが、教会の意志決定はいわばそのような形で行われます。いま地上にいる者たちだけの多数決で決められることは、ひとつもありません。聖なる公同の教会が簡単に人の手に落ちることはありません。聖霊なる神を宿すすべてのキリスト者が教会の過去・現在・未来においてひとつとなり、神の御心をたずね求めつつ、共に生きて行きます。教会の伝統を重んじるとは、そのようなことです。

今日の聖書箇所に記されているのは、最初のペンテコステ礼拝でなされた使徒ペトロの説教を聴いた人々の反応と、それに対するペトロの答えです。

ペトロはそこに集まった多くの人々に二度、「あなたがたがイエスを十字架につけて殺した」と言いました。「あなたがたは律法を知らない者たちの手を借りて、(イエスを)十字架につけて殺してしまったのです」(23節)、「あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです」(36節)とあるとおりです。

ペトロの説教に人々は激しく動揺しました。わたしたちがメシアを殺してしまったというのが事実であれば神の裁きを免れないと恐れたに違いありません。人々はペトロとほかの使徒たちに「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と言いました。

神の言葉の説教を聴いた人々が「それでは、わたしたちはどうしたらよいのですか」と説教者に問い返す例が新約聖書の中にいくつかあります。たとえば、ルカによる福音書3章7節以下において、洗礼者ヨハネに対して群衆が「それでは、わたしたちはどうしたらよいのですか」と、三度も繰り返し問うています(ルカ3章10節、12節、14節)。また、言葉づかいは少し違いますが、使徒言行録16章で、使徒パウロがフィリピの牢で出会った看守がパウロとシラスに対して「先生方、救われるためにはどうすべきでしょうか」(使徒16章30節)と問うています。

その使徒言行録16章におけるパウロの答えは「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます」(使徒16章31節)でした。今日の箇所のペトロの答えは「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます」(38節)です。

ペトロの答えとパウロの答えは、趣旨が同じとも言えますし、違うとも言えます。自分の罪を悔い改めて罪を赦していただくことと、イエス・キリストを信じて救われることは別々に扱おうと思えばできなくありませんし、そうしたい気持ちがわたしたちに起こらないとも限りません。なぜなら、自分の罪を悔い改めるためには、その前に自分が罪人であることを認め、自分の罪を真摯に直視しなければなりませんので、そこに心の痛みが生じるからです。

心の痛みを避けたい人は悔い改めることができません。もし可能なら、自分の罪を認めることも直視することもせずに、悔い改めないまま、ありのままの私のままでイエス・キリストの愛と恵みのうちに受け入れられて救われるほうがありがたいに決まっています。

ここで語られている「悔い改め」(メタノイア)とは、罪から目を背け、間違った方向から向きを変え、新しい方向に進むことを意味しています。イエス・キリストも洗礼者ヨハネも、人々に「悔い改め」を迫りました(マタイ3章2節、4章17節)。その教えをペトロが受け継ぎました。パウロは受け継がなかったでしょうか。パウロは「悔い改めを求めない信仰と救い」を教えたでしょうか。私はそのように考えることはできません。パウロもイエス・キリストの弟子です。

「悔い改めなさい。洗礼を受けてください。罪を赦していただきなさい」というペトロの言葉は、今のわたしたちにも語りかけられています。すでに洗礼を受けている方々が二度目の洗礼を受ける必要はありません。自分の罪を認めて直視する痛みを避けず、自分の行動を変更する勇気をもって生きるとき、イエス・キリストの愛と恵みが、わたしたちの心に深く沁みます。

(2023年6月4日 聖日礼拝)