2023年9月24日日曜日

弟子の足を洗う(2023年9月24日)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)

讃美歌21 475番 あめなるよろこび


「弟子の足を洗う」

ヨハネによる福音書13章1~20節

秋場治憲

「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」

 今日の聖書テキストは主イエスが最後の晩餐において、弟子たちの足を洗うという出来事です。この出来事はヨハネ福音書だけにでてくる出来事で、他の福音書には出てきません。最後の晩餐については、共観福音書(マタイ、マルコ、ルカ)とヨハネ福音書では、その内容に違いがあります。共観福音書では最後の晩餐において、聖餐式の制定[1]が為されていますが、ヨハネ福音書では主イエスが弟子たちの足を洗っています。

 また共観福音書では最後の晩餐が、過越しの食事であり、十字架刑はその翌日になっているのに対して、ヨハネ福音書では最後の晩餐は過越しの食事の前[2]になっており、十字架刑はまさに神殿で過越し祭の子羊が屠られる時に設定されています。

 これは共観福音書では聖餐式をキリスト教における過越しとみなしたのに対して、ヨハネ福音書では「見よ、世の罪を取り除きたもう神の子羊だ。」とバプテスマのヨハネが1:29で語っているように、<イエス=世の罪を取り除き給う神の子羊>というテーマで貫かれており、それ故に十字架刑は過越しの子羊が屠られるその時でなければならなかったのです。

その為には最後の晩餐は、過越しの子羊が屠られる前でなければなりませんでした。どちらが史実かということについては、今のところ確かめる資料はございませんが、それは課題として保持しながら、それぞれの主張から学べばいいことではないかと思います。

 それでは<世の罪を取り除き給う神の子羊>とは、どういうことなのでしょうか。このことを考えるために二つの出来事を覚えておきたいと思います。第一点はこのことの起源は出エジプト記にあります。イスラエルの民がモーセに率いられてエジプトを脱出するに先立って、エジプト中に疫病をもたらしたり、雹を降らせたり、イナゴの大軍を発生させたりしましたが、ファラオは彼らを去らせませんでした。最後に神は傷のない一歳の雄の子羊の血を家の二本の柱とかもいに塗ることを命じられました。(出エ12章)そして神は子羊の血が塗られた家の前は過越し、血の塗られていない家の初子はすべて打たれた。エジプト王ファラオの初子も例外ではなかった。ファラオは夜のうちにモーセを呼び出し、一刻も早くエジプトを去ることを願った。この時イスラエルの人々は、まだ酵母の入っていないパンの練り粉をこね鉢ごと外套に包み、肩に担いで出立したということが記されています。これが過越しの祭りにおいて子羊が屠られ、酵母の入っていないパンを食する習慣となりました。過越しの祭りとその食事は、このことをいつまでも感謝し、覚えておくための祭りです。イスラエルにとってはもっとも大切な祭りで、この祭りのために世界中から多くの人々がエルサレムに参集してきていました。これがそのままペンテコステの状況につながります。

 第二点は「子羊の血」に関することで、イザヤ書53章(旧P.1150)にあります。皆様よくご存じの「苦難の僕」と言われるイザヤ書の言葉です。時間の関係ですべてを読むことは出来ませんが、中核部分を読んでみたいと思います。

4.彼が担ったのは私たちの病

彼が負ったのは私たちの痛みであったのに

私たちは思っていた。

神の手にかかり、打たれたから

彼は苦しんでいるのだ、と。

5.彼が刺し貫かれたのは

  私たちの背(そむ)きのためであり

  彼が打ち砕(くだ)かれたのは

  私たちの咎(とが)のためであった。

  彼の受けた懲(こ)らしめによって

     私たちに平和が与えられ

  彼の受けた傷によって、私たちはいやされた。

6.私たちは羊の群れ

  道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。

  その私たちの罪をすべて

     主は彼に負わせられた。

10.病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ

彼は自らを償いの献げ物とした。

彼は、子孫が末永く続くのを見る。

主の望むことは

  彼の手によって成し遂げられる。

 私たちの一切の罪、一切の不義を彼の上に置き、そしてこれを打ち砕くことによって私たちの罪と不義の一切が赦されるという預言をしています。聖餐式というのはこの二本の柱とかもいに塗られた子羊の血が、イスラエルの民を神の怒りから守られたということです。

 共観福音書とヨハネ福音書では、その内容(聖餐の制定と洗足)という違いはあるとしても、主イエスと弟子たちの最後の晩餐であるという点においては同じです。そこで今日のテキストですが、ヨハネ福音書ではこの主イエスの洗足という行為が、聖餐の制定に匹敵する出来事として位置づけられているということが分かります。言葉を変えれば聖餐の意味を説明している出来事ということもできるでしょう。

「さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移るご自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。」と聖書は告げています。しかし、彼が置かれている状況は、彼を憎み彼に敵対する人々によって、あらゆる力を奪われて、今、まさに処刑されようとしている。そのような時に、彼(主イエス)の目は、そのような人間の目が見るのとは全く別なものを見ておられるということに注目した方がおられます。[3]刀折れ、矢尽き、詮方つくれどもなお希望を失わず、という世界がある。この言葉を読んでいて、私は遠藤さんのことを思い出した。遠藤さんは最後に「神の国への凱旋です」と言い残して旅立ちました。遠藤さんも全く別な景色を見ていたのだと思います。主イエスと同じ景色を見ておられたのかもしれません。門脇さんは「あなたが私を選んだのではない。他ならぬこの私があなたを選んだのだ」という言葉に慰められながら、やはり別の景色をみておられたのだと思います。二人とも私たちに多くの信仰の糧を残していかれた信仰の人でした。信仰の目とは人間の目が見るのとは異なった別の景色をみることと言えると思います。

4節、5節を読みますと、「食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた」とあります。これは典型的な奴隷のしぐさと言われています。しかしユダヤ人の奴隷は、この仕事を免ぜられていたといわれています。それほどユダヤ人はプライドを重んじた民族であったわけです。足を洗うのは、異邦人奴隷に課せられていたとのこと。しかし、主イエスは今や、そのような業をここで為されるのです。もうすぐクリスマスですがベツレヘムの馬小屋に生まれた神の子は、今や、弟子たちの足を洗ってその生涯を終えようとしておられるのです。

この個所を読んでいて分かることは、このように低き所におられるにもかかわらず、主イエスが語っておられることは、最初から最後まで威厳に満ち、抗(あらが)い難い力に溢れているということです。

弟子たちの足を洗いながら、ペテロの番になった。ペテロは「主よ、あなたが私の足をあらってくださるのですか。」と言った。「我が主」が、「我が師」が、奴隷の仕事である弟子の足を洗うなんて、まして私の足を洗うなんて、あってはならないことですと言うのです。

それに対して主イエスは、「私のしていることは、今のあなたには分かるまいが、後で、分かるようになる。」と言われた。他の弟子たちは黙って主イエスに足を洗ってもらいましたが、率直で、素直で思ったことはすぐ口をついて出てくるペテロは、「私の足など、決して洗わないでください」と言うのです。これに対して主イエスの答えは、驚くべきものでした。「もし私があなたを洗わないなら、あなたは私と何のかかわりもないことになる」というのです。この言葉は私はあなたの足を洗うために来たのだということになります。「私の足など、決して洗わないでください」ということは、主イエスが人となり、この世に来られたことの使命を拒否することになることをペテロはまだ理解していません。主イエスが求めておられるのは、私たちが罪なき者になることではなく、罪を赦されながら、足の汚れを洗っていただきながら信仰に生きることです。

しかし、この言葉に驚いたペテロは、「主よ、足だけでなく、手も頭も。」洗ってくださいと言った。ペテロの応答については、色々な見解がありますが、彼一流の率直さから出たユーモラスな一場面であるのだと思います。しかし、このユーモラスな発言も他の福音書を参考にするとき、私たちに多くの事を教えてくれる言葉でもあります。

13:8の言葉は、私たちにとって極めて教訓的です。私とのかかわり、人と人の関わりは、互いに足を洗い合う点において成り立つというのです。もし人がバラバラに存在するのではなく、人の間に、互いに関わりをもって生きることが出来るとすれば、その関わり合いは、支配と隷属の関係で成り立つのではない、というのです。強制の原理ではなく、自発的、積極的に互いの足を洗い合うという点においてこそ成り立つというのです。

 このことは「今はあなたに分かるまいが、後で、分かるようになる」とは、この後、主の十字架があり、そこから逃げ出した自分があり、よみがえりの主に出会い、聖霊が注がれるまでその意味は隠されていたのです。主イエスが弟子たちの足を洗われたのは、代わりにその汚れを自らに負い、その足に釘が打ち込まれるという刑罰を代わって引き受けられたということです。イザヤ書の言葉を思い出して下さい。「その私たちの罪をすべて、主は彼に負わせられた。」とあります。また、コロサイ書2:13b以下には、「神は、私たちの一切の罪を赦し、規則によって私たちを訴えて不利に陥れていた証書を破棄し、これを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました。」と記されています。私たちの足の汚れはきれいにされた。しかしそれは、私たちに代わってその汚れを負った足に、釘が打ち込まれるという刑罰と引き換えであったというのです。このようなことが私たちがまだ罪人であった時、何も知らなかった時に、既に成し遂げられていたというのです。

ペテロがこのことを理解するには、主イエスが言われたように、しばしの時が必要でした。ペテロも他の弟子たちも、聖霊が臨むまで、この主イエスの洗足という行為の意味を、理解することはできませんでした。

しかし、このことを誰一人理解していなかった時に、一人直感的にこのことを悟っていたと思われる人がいました。主イエスの膝元で、じっくりと主の言葉に耳を傾けてきたマリアです。この記事は今日のテキストの前の章、12章に記されています。彼女は弟ラザロがよみがえらされた時、主イエスとラザロの間で、命の交換が行われたこと、主イエスの十字架を悟ったのだと思われます。それ故に彼女は純粋で高価なナルドの香油を、前もって準備をしておき、間もなく釘が打ち込まれるであろう主の足に、それを惜しげもなく注ぎ出し、その足を自分の髪で拭いたのです。一リトラの香油とは、聖書巻末の換算表を見ると326グラムとなっています。相当な量です。その香りは部屋中に満ちたことでしょう。私は香水とか香料などとは、縁のない生活をしていますが、それでもわずか一滴の香水が放つ香りがどれほどのものであるかを想像するくらいのことはできます。それを326グラムとは。イスカリオッテのユダにしてみれば、「もったいない。なぜそれを売って貧しい人たちに・・・」ということになるのでしょう。しかし私たちの一切の罪を代わって引き受けて下さった方に、何をもってしても十分な償いなどできるはずもないのです。「もったいない」というユダに対して、それでも「十分ではない」というマリアの間には、天地の差があります。属している世界が違うと言えるかもしれません。

マリアは自分の思いのありったけをナルドの香油に込めて、主イエスの足に注いだのだと思います。主イエスはマリアの行為を前もって予期しておられたように、その行為を受け入れられた。「この人のするままにさせておきなさい。私の葬りの日のために、それを取って置いたのだから」(12:7)と。マリアと主イエスの間には、間もなく訪れる十字架が共有されていたのではないかと思われる場面です。

私たちは祈りの最後に必ず、「主イエス・キリストによって」という短い言葉を枕詞のように使います。これは私たちの信仰は、仲保者を必要としているということです。「主よ信じます。信仰なき私をお助け下さい。」とは、私たちの実態は罪人であり、完全な信仰は持ちえない者であるということです。主イエス・キリストが私たちの足を洗ってくださって、傷なき者として神の御前に立たしめ、受け入れて下さることを信じて祈りをささげますということです。

「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい。」このことは、今の私たちには「洗礼」と考えていいと思います。洗礼によって全身がきれいにされた者であるけれども、それでも生きている限りは日々罪にまみれざるを得ない。日々の生活の中で私たちの足は否応なく汚れます。あなたがたはその汚れに押しつぶされることなく、私についてきなさい。あなたの日々の汚れは私が引き受けたのだから、新しい夜明けに向かってさあ、あなたの船をこぎ出しなさいというのです。

「主イエスは世にいる(残る)弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。」という言葉は、自分なき後の弟子たちが、直面する様々な困難に押しつぶされることなく、信仰を失うことなく、勇気をもって歩んでいくことができるようにと最後まで配慮されたということです。

主と呼ばれ、先生と呼ばれる私があなたがたの足を洗ったのだから、あなた方も出来る限り、互いの足を洗い合いなさいというのです。ここには一人で生きるのではなく、仲間を得て互いに足を洗い合いなさい。そこには互いに励まし合い、いたわり合う世界が生まれるというのです。これは律法的な意味ではなく、自分の足を洗ってきれいにしていただいたことへの感謝の思いから、その喜びをもって互いに仕え合いなさいというのです。

私たちは福音書を読んでいながら、そこから律法を作り出す場合が多い。聖書はそのように読んではならないのです。よい教師は子供を励まし、子供に自信を持たせると言われる。キリストの福音とはまさにそのようなものなのです。

旧約聖書は律法に従って我が民であるなら、私はあなた方の神でいよう、というものでした。しかし新約聖書の世界は、いなくなった一匹を見つけるまで探しまわる方が来られたことを知らせています。この方が傷ついた羊を見つけ、肩に担いで連れ帰ってくださる。私たちは最初から一点の非の打ちどころもないようなことはできません。それでも弟子たちの足を洗い、今も私たちの足を洗い続けていてくださるイエス様に励まされるというのです。

ルターの言葉をかりれば、彼は力強い主でありたもうたが故に、仕える者として、僕(しもべ)の業を為したもうたというのです。弱き者たちの弱さを担い、仕えることが力強いことである。というのです。

来週は世界聖餐日であり、私たちの教会でも聖餐式を行います。

主イエスがその生涯の最後に弟子たちに、そして私たちに伝えたかったことは、あなたの命はたった一つの命であり、それはこの地球よりも重たいということです。なぜなら、怖れと不安に翻弄される命がよみがえり、新たな命に生きるために、神の独り子が差し出されたからです。主イエスの洗足の行為に秘められた十字架のあがない、罪の赦しとは、さあ、あなたはきれいになった。あなたの汚れはすべて私が引き受けたのだから、胸を張って、心勇ましく、小さくていい、あなたの一歩を踏み出しなさいというメッセージをいただくことです。来週世界中で持たれる聖餐式に連なる一人一人の上に豊かな祝福がありますように。


[1] マタイ26:26以下、ルカ22:15以下、マルコ14:22以下

マルコ福音書では「取りなさい。これは私の体である。」また杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。彼らは皆その杯から飲んだ。そして、イエスは言われた。「これは、多くの人のために流される私の血、契約の血である。」となっています。マタイ、ルカもほぼ同じです。

[2] 今日のテキストの冒頭の言葉13:1は「さて、過越し祭の前のことである。」という言葉から始まっています。最後のページに図を添付してあります。理解の助けになると思います。図説 新約聖書の歴史と文化 M.ジョーンズ編 左近義慈(サコンヨシシゲ)佐々木敏郎(ササキ トシオ)松本富士夫(マツモト フジオ)新教出版社

[3] ヨハネ福音書を読む」井上良雄P.263

(2023年9月24日 聖日礼拝)

2023年9月17日日曜日

愛はすべてを完成させるきずな(2023年9月17日)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)

讃美歌21 520番 真実に清く生きたい

礼拝開始チャイム

「愛はすべてを完成させるきずな」

コロサイの信徒への手紙3章12~17節

関口 康

「これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです」

コロサイの信徒への手紙3章12節から17節を開いていただきました。最初に申し上げたいことは、今日の箇所に限らず、コロサイの信徒への手紙の全体に書かれていることはすべて「教会」に関することであり、しかも具体的な現実としての「キリスト者同士の交わりとしての教会」のあり方に関することである、ということです。

16節以下に「キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい」と記されています。「キリストの言葉」とは聖書に基づく説教を指していると言いたいところですが、この手紙が書かれた当時は「新約聖書」は存在せず、あったのは「旧約聖書」だけでした。

しかし、イエス・キリストが多くの人々の前で、または12人の使徒たちの前でお語りになった言葉は口づてに、または文書として教会に伝えられていました。それがなければ、その後の教会が「新約聖書」をまとめることはできませんでした。教会は「新約聖書」の成立以前からイエス・キリストの言葉を知っていました。

その言葉が「あなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい」と勧められているのは聖書の知識を増やすべきだということではなく、イエス・キリストにおいて現わされた神の御心があたかも自分自身の心になったかのように自分のからだと心に浸透させ、現実生活を御言葉通りに生きてみる、という意味です。

また、「知恵を尽くして互いに教え、諭し合い」とあるのは教会の具体的な交わりそのものです。「互いに教え」の「互いに」や、「諭し合い」の「合い」が大切です。一方通行ではなく相互関係です。教会はミーティングであり、コミュニケーションが交わされます。それが大事です。

過去3年、コロナ禍で教会の最も大事な要素であるミーティングとコミュニケーションが破壊された感がありました。全世界の教会が同じ状況でした。インターネットのやりとりでも十分に代用できると私個人は考えたことがありませんし、考えることができません。全く別物です。

そして「詩編と賛歌と霊的な歌によって神をほめたたえる」のが教会です。讃美歌を歌うことは教会の存在にかかわります。祈りを込めて共に歌う人々の具体的な交わりこそ教会の存在そのものであるという理解は、西暦1世紀から今日まで、なんと2千年以上も引き継がれています。

16節と17節についての説明を先にしました。12節以下に記されているのは、教会の中の具体的な人間関係のあり方についてです。「あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい」と記されています。

これを読むと心配になる方がおられるとしたら、ご心配には及びませんと申し上げたいです。「身に着けなさい」と言われている「憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容」はすべて、イエス・キリストが持っておられます。「あなたがたは神に選ばれ、聖なるものとされ、愛されている」は、直前の11節の「キリストがすべてであり、すべてのもののうちにおられるのです」と結びつけて考えるべきです。

その意味は、キリストはすでにわたしたちの中におられるので、わたしたちがこれから無理をしてでも努力して得ようとする以前から、キリストの恵みはわたしたちの中へと注がれ、宿っているのであって、「身に着けなさい」と確かに言われているが、実際にはすでに身に着いているし、少なくとも身に着きはじめているので、「私には憐れみの心も慈愛も謙遜も柔和も寛容もないし、得ようと努力する忍耐もない」と嘆いたり卑下したりする必要は全くない、ということです。

この箇所で私にとって特に興味深く考えさせられたのは「憐れみの心」と訳されている言葉の意味です。カール・バルト(Karl Barth [1886-1968])が興味深い解説をしていました。

バルトによると、「神の愛と神の恵みは数学的で機械的な関係ではなく、神の心の動きの中にその本来な場所と起源を持っている」のであり、「人格的な神は心を持っておられ、神は感情を持っておられ、心を動かされる」のであり、「他のものに対して、同情し、他のものの苦しみを助け、みずから身代わりとなるべく心を開き、用意し、進んでそのように心がけておられる」のであり、それが「神の憐れみ」の意味であるということです。

しかも、「憐れみの心」というギリシア語の言葉のヘブライ語の原意は「はらわた(内臓)」であるということを、バルトも書いています。聖書の神は、機械仕掛けの神(Deus ex machina)ではなく人格的(パーソナル)な存在であり、神は心を持ち、苦しんだり痛んだりする「はらわた(内臓)」を持ち、人間と世界を愛するために苦しむ方であるというのが「神の憐れみ」の意味だというのがバルトの説明です(Vgl. Karl Barth, Die Kirchliche Dogmatik, II/2, S. 416 f.)。

なるほどたしかに、私たちは人間ですから、どこまで行っても神になることもキリストになることもできません。神とキリストが持っておられる「憐れみの心」や「慈愛、謙遜、柔和、平和、寛容」を「身に着けなさい」とか言われても無理です。それはそのとおりです。しかし、それは「身に着ける」という言葉を自分の努力目標であるかのような意味でとらえるから出てくる反発や不安なのであり、実際の意味はそうではない、ということです。

すべてのもののうちにキリストがすでにおられ、わたしたちの中にもキリストはおられるのだから、意図的に猛然と拒否しないかぎり、「憐れみの心」はわたしたちの心の中に生まれ、育ち、わたしたちはそのようにして内部からつくり変えられているのだ、と信じてよいということです。ですから、「身に着けなさい」とは「すでに身に着きはじめているし、十分に身に着いて来ていることを感謝して受け取りなさい」という意味です。

今日の宣教題と今週の聖句として選んだ「これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛はすべてを完成させるきずなです」も趣旨は同じです。この「愛」はイエス・キリスト自身であり、十字架において現わされた真実の犠牲の愛です。人間が生まれつき持っている情愛とは別物です。

「私には愛がない」と嘆くか、「あの人には愛がない」「あの教会には愛がない」と不満を言うか、どちらにせよその意味で14節をとらえ、完全な愛を身に着ける努力をしたり、「身に着けてください」と他人に要求することに用いてはいけません。むしろヨハネによる福音書13章34節のイエス・キリストの言葉を思い起こすべきです。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」。

わたしたちはイエス・キリストに愛されているから、互いに愛し合うことができるようになるのです。すべてを完成させるきずなは、イエス・キリストの愛と憐れみの心(はらわた(内臓))です。わたしたちのために心を動かし、はらわたを痛め、苦しんでくださるほどにわたしたちを愛してくださったイエス・キリストの愛が、教会の一致と平和をもたらすきずなです。

(2023年9月17日 聖日礼拝)

2023年9月10日日曜日

十字架を背負う教会(2023年9月10日)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)

讃美歌21 430番 とびらの外に

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「十字架を背負う教会」

ガラテヤの信徒への手紙6章11~18節

関口 康

「しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです」

先週は夏期休暇を取らせていただき、別の教会の礼拝に出席させていただきました。どの教会に行くか考えていたとき■さんのお怪我の話を伺い、にじのいえ信愛荘でも聖日礼拝が行われているので、ご出席なさってはと、おすすめをいただきました。

そうしようと思い、にじのいえ信愛荘に電話したところ、■先生ご夫妻は療養のため別のところにおられると教えていただきましたので断念し、別の教会に出席しました。

「のんびりできたか」とお尋ねがありましたが、あまり休めませんでした。文句を言っているわけではありません。私が行った教会の牧師もずいぶん疲れておられる様子で、私も同じだなと、いろいろ考えさせられる機会になりました。

今日開いていただいた聖書の箇所は、これも日本キリスト教団聖書日課に基づいて選びました。聖書日課には「十字架を背負う」とだけ書かれていましたが、私が「教会」という言葉を加えて「十字架を背負う教会」としました。

この箇所は使徒パウロが書いたガラテヤの信徒への手紙の結びの部分です。「パウロが書いた」と言ったばかりですが、11節の意味は、パウロ自身が自分の手で書いた部分は今日の箇所だけだということです。「このとおり、わたしは今こんなに大きな字で、自分の手であなたがたに書いています」というのは、この箇所より前の部分は別の人に書いてもらっていた、という意味です。

つまり口述筆記です。パウロが口で話すことを書記役の人に書いてもらっていました。しかし、手紙の最後の部分だけは自筆で書きます、しかも大きな字で書きますというのは、手紙ですから「声を大にして言う」ことはできませんが、これだけは分かってほしいと、パウロが強調したい内容を書いた部分であるという意味です。

パウロは何をそれほど強調したがっているのかといえば、ひと言でいえば、教会の中に分裂が起こっているが、それを食い止めなければならないということです。12節の「肉において人からよく思われたがっている者たちが、ただキリストの十字架のゆえに迫害されたくないばかりに、あなたがたに無理やり割礼を受けさせようとしています」というのが、教会の分裂の原因です。この問題はガラテヤの信徒への手紙の始めから終わりまで一貫して取り上げられているものです。事件の経緯が比較的詳しく記されているのは2章ですので、ぜひお読みください。

そこに書かれていることを短く言えば、この手紙で「ケファ」と呼ばれている使徒ペトロまでがイエス・キリストの十字架の福音を信じて律法の束縛から全く解放されて自由になったはずのキリスト者にユダヤ教の割礼を受けさせようとする勢力に負けて妥協していることに、パウロが我慢できず、ペトロ本人に面と向かって抗議した、というのです。

教会の洗礼は「水」を用います。水はかけたら流れ落ちるだけで、からだに証拠は残りません。しかし、割礼はからだに傷をつけることですから、動かぬ証拠が残ります。旧約聖書に基づいているので権威が生じますし、いわゆる包茎手術と同じですので、相応の費用がかかったはずです。そういうことで優越感と主導権と実利を得ようとした人々がいました。

私の教会生活は生まれたときからなので、もうすぐ58年になります。24歳で伝道師になってからも33年目です。そのことで悩んだことまではありませんが、キリスト者であることについて、目に見える客観的な「証拠」や「しるし」を求める人々のニードに、何度となく接してきました。

揶揄したいわけではないので、具体例を挙げること自体に躊躇がありますが、何も言わないと分かりにくいので例を挙げます。たとえば、仏教や神道にあるような仏壇や神棚のようなものがキリスト教には無いのか、というようなニードです。あるいは、カトリック教会の人々が用いるロザリオやベールのようなものはあなたがた(日本キリスト教団はプロテスタントです)に無いのか、というようなニードです。「ありません」と答えると、とても残念がられました。

いま申し上げていることは、パウロが直面した問題と本質的に同じです。この手紙の5章6節に「キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です」と記されていることの意味は、わたしたちキリスト者には第三者の目に見える客観的な「しるし」や動かぬ「証拠」となる割礼のようなものは何も無いし、要らないし、有害無益なのであって、外側からは決して見えない心の中の信仰だけが必要である、ということです。

なぜそういうものが何も無いし、要らないし、有害無益なのかといえば、そのような「しるし」を持っているかどうかで争いが始まり、教会を分裂させるからです。それを持っている人たちは持っていない人たちを見下げてもよいと思い込んで威張り、押し付けたり売りつけたりしようとするからです。西暦1世紀の生まれたばかりの赤ちゃんのようなヨチヨチ歩きの小さな教会の中で主導権争いが始まり、コップの中の嵐が起こり、教会が分裂して弱くなり、イエス・キリストの福音を宣べ伝える、教会本来の使命を果たすことができなくなるからです。

パウロは言います、「しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです」(14節)。

この言葉は正確に理解される必要があります。特に後半の「この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされている」の意味は何かをよく考えることが大切です。

「はりつけにされる」の意味は、死ぬこと、または殺されることです。しかし、「この十字架によって」が「イエス・キリストの十字架」を指していることは明らかですので、イエス・キリストの十字架にわたしまではりつけにされるという意味ではありません。ここに書かれているとおり「世がわたしにはりつけにされている」のであり、「わたしが世にはりつけにされている」という意味です。その意味は、わたしと世とは「死んだ」関係であり、つまり「終わった」関係である、ということです。わたしが「世」のマナーやルールに従う理由はもはやない、ということです。

「世」とは現代の世俗社会(Secular society)よりも広い意味です。しかし、かなり近い意味です。教会の中にまで持ち込まれる「心の中の信仰」だけでは足りないとする、目に見える客観的な動かぬ「証拠」を見せつけてまで主導権争いをしようとする人の動きそのものが「世」です。

「イエス・キリストの十字架以外に誇るものがあってはならない」とは、そのような争いとは一切手を切って生きる者に自分はされた、というパウロの信仰告白です。

パウロだけでしょうか。わたしたち「教会」もそうでなければならないのではないでしょうか。私が今日の宣教題に「教会」と付け加えたのは、そのことを申し上げたかったからです。

(2023年9月10日 聖日礼拝)

2023年9月3日日曜日

我は聖なる公同の教会を信ず(2023年9月3日)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)


讃美歌21 403番 聞けよ、愛と真理の


「我は聖なる公同の教会を信ず」

コリントの信徒への手紙一12章12~27節

秋場治憲伝道師

「あなたがたはキリストの体であり、また一人一人はその部分です」
(コリントの信徒への手紙一12章27節)

「また、御子はその体である教会の頭です」
(コロサイの信徒への手紙1章18節)

 

 私たちは「さあ、使徒信条を学ぼう」といって、使徒信条を学び始めた訳ではありません。ヨハネ福音書の後半部分を読みながら、その都度、事柄が関連する時に言及してきたところです。私たちはこの使徒信条を毎週、自分自身の信仰として告白しています。多くの方が「主の祈り」同様に、既に暗唱しておられることと思います。今まで学んできたことは、「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず(現在形)、我はその独り子我らの主イエス・キリストを信ず(現在形)、主は聖霊によりて宿り、処女マリヤより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、よみにくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、天にのぼり(完了形)、全能の父なる神の右に座したまえり(現在形)、かしこよりきたりて、生けるものと死ねるものとを裁きたまわん(未来形)、と、ここまでだったと思います。ただ聖霊については、度々言及してきたところです。神は完了形で表された事柄により、私たちをご自身と和解させられました。そして御子イエス・キリストは神の右に座すものとされ、再び来たりたもう日に向けて日夜我らの罪を執り成してくださっているということでした。ここが今現在、私たちが置かれている所。神が私たちに対して既に成し遂げて下さったこと、そして将来に向けての約束のもとに、今現在の私たちを支えておられるというのです。

 

ここからは神が私たちに対して成し遂げて下さったことを受けて、それに対する私たちの信仰告白です。「我は聖霊を信ず」で始まります。よみがえられた主イエスが、狼狽する弟子たちに息を吹きかけて「聖霊を受けよ」と言われる。罪に打ち勝ち、死に打ち勝ち、父なる神の怒りに打ち勝った主イエスの霊を受けよと言うのです。この霊の導きのもとに私達は、「我は聖霊を信ず(現在形)、聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体のよみがえり、永遠の生命を信ず(現在形) アーメンと告白します。どういうことかと申しますと、今のこの時というのは、神が私たちのために成し遂げて下さったことに、私たちが感謝し、讃美の歌を歌いながら御もとに来ることを望んでおられる時であるというのです。たとえそれが貧しき讃美であったとしても、神はそれを喜ばれる。なぜなら、そのためにこそ御子の十字架はゴルゴタの丘の上に立てられたからです。

エデンの園には善悪を知る木の他に、もう一本「生命の木」がありました。アダムとエバを楽園から送り出した後、神が最初に行ったことは「命の木に至る道を守るために、エデンの園の東にケルビムときらめく剣の炎を置かれた。[1]」これは人間が罪あるままで永遠に生きる者となることがないようにと為された処置でした。ただこの命の木がゴルゴタの丘の上に立てられたのです。主イエスの血潮によってその罪が贖われた者たちが、「永遠の命[2]」を得るためでした。私たちの主は、「主よ、信じます。不信仰な私をお助け下さい。[3]」と叫ぶ者を受け入れてくださる方です。受け入れて私たちの不信仰を払しょくされる。御子によって成し遂げられた神と人間との和解という出来事に、感謝と讃美が捧げられることを望んでおられるからです。

 

それでは今日のテーマである「我は聖なる公同の教会を信ず」とは、どういうことなのだろうか。

今日の「聖なる公同の教会を信ず」というところを原文ラテン語で読みますと、Credo in Spiritum Sanctumsanctam Ecclesiam catholicam, となっています。最後の頁に参考までに原文で全文を掲載しておきます。

 

 Ecclesia という言葉は、私たちも度々耳にする言葉です。これはギリシャ語の εκ-κλησια (エクレーシア)という言葉がラテン語に置き換えられたものです。エクレーシアとは、εκκαλεω(エカレオ― 

呼び出す、召し出す)という動詞の名詞化された言葉です。従って、「神によって呼び出された者たち、召された者たちの群れ(集まり・集会)」という意味になります。

 

 このエクレーシアという言葉をsanctam(聖なる)という言葉とcatholicam(公同の)という言葉が前後から挟む形で、説明しています。そしてこの言葉の直前にCredo in Spiritum Sanctum(私は聖霊を信じます)という言葉があり、その後にこの「聖なる公同の教会」を信じます、という言葉が続いています。主イエスの姿はすでにこの地上にはなく、全能の父なる神の右に座し、私たちにご自身の霊である聖霊を送り、私たちを導いておられる。今はこの「聖霊の時代」ということも出来ると思います。

 

 

この聖霊の導きと支配の下に、私たちは罪人でありながら、同時に、新たに義とされた者として、自由にされた者として覚醒せしめられるのです。私は前回「罪人にして、同時に義人」ということについてお話ししましたが、聖霊はこの罪人の中に、罪人に過ぎない者の中に、新たな人間を創造する神であるのです。私たちがいつもペンテコステに読む使徒言行録2章には、ユダヤ人を恐れて部屋に鍵をかけて閉じこもっていたペテロや弟子たちが、この聖なる霊を受けて、そのユダヤ人達を前にして主イエスの甦りの証人となったということを毎年ペンテコステに確認している所です。

 

パウロは第1コリント15:45以下に「『最初の人アダムは命のある生き物となった[4]』と書いてありますが、最後のアダム(キリスト)は、命を与える霊となったのです。最初に霊の体があったのではありません。自然の命の体があり、次いで霊の体があるのです。最初の人は土ででき、地に属する者であり、第二の人(キリスト)は天に属する者です。土からできた者たちはすべて、土からできたその人に等しく、天に属する者たちはすべて、天に属するその人に等しいのです。私たちは、土からできたその人の似姿となっているように、天に属するその人の似姿にもなるのです。」

 

御子イエス・キリストの聖なる霊によってこのことがすでに、成し遂げられたと信じることが許された者たちには、その人の内にこの聖なる霊の神殿が建てられ、常に新鮮な命の霊が吹き込まれるのです。この新鮮な命の霊が与えられる時、この聖なるイエス・キリストの霊が、自分自身においては何ら聖なるものでなく、特別なものでもない私が、そして教会が、主の「聖」にあずかるのです。このことについては、主イエスご自身の言葉が残されています。

 

「また彼らが真理によって聖別されるように(ために)、彼らのため私自身を聖別いたします。」(ヨハネ福音書17:19 口語訳)

「彼らのために、私は自分自身をささげます。彼らも、真理によってささげられた者となるためです。」(同上 新共同訳)

 

 「聖別する」という言葉には「(供え物として)捧げる」という意味もあります。「聖別する」というのは、同時に「神にご自身を供え物としてささげる」という意味です。教会は自分自身としては聖なるものではなく、また、何ら特別な存在でもありませんが、この方の「聖」にあずかるのです。

 

 更に言うなら、へブル人への手紙9:13以下に「なぜなら、もし、雄山羊と雄牛の血、また雌牛の灰が、汚れた者たちに振りかけられて、彼らを聖なる者とし、その身を清めるならば、まして、永遠の“霊”によって御自身をきずのないものとして神に献(ささ)げられたキリストの血は、わたしたちの良心を死んだ業(わざ)から清めて、生ける神を礼拝するようにしないでしょうか。」

 

 「主よ、信じます。不信仰な私をお助け下さい。」と言って、御前にぬかずく時、主は私たちを受け入れ、私たちの不信仰を払しょくし、聖なる者の一人に加えてくださるのです。

 

教会に関しては聖書には実に多くの個所があります。その中から教会を考える時に真っ先に浮かんでくる言葉は、第1コリント12:12の「体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。」という言葉です。私たちの体には多くの部分(肢体)があるように、教会のかしらであるキリストも多くの部分(肢体)から成っている、というのです。私たちはここの部分を注意深く読まなければなりません。ここでパウロが力説していることは、私たちの体同様にキリストも多くの部分から成り立っているというのです。そしてその部分とは私たち一人一人である(27節)というのです。

これは驚くべき言葉です。私たちがキリストの体の一部を成しているというのです。

 

この部分が、「ユダヤ人であろうとギリシャ人であろうと、奴隷であろうと自由な身分のものであろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊を飲ませてもらったのです。体は一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。」というのです。とりたてて説明する必要がないくらい、明確に解き明かされています。

 

この事実があってはじめて次の聖句が現実となります。「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えてくる時、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、私の父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、私が飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていた時に飲ませ、旅をしていた時に宿を貸し、裸の時に着せ、病気の時に見舞い、牢にいた時に訪ねてくれたからだ。』すると正しい人たちが王に答える。『主よ、いつ私たちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』そこで王は答える。『はっきり言っておく。私の兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、私にしてくれたことなのである。[5](マタイ福音書25:31~40 50頁)この最も小さい者は、キリストの体の一部であるという事実がなければ、この言葉は成り立たないのです。

 

また使徒言行録9章以下にはサウロ(パウロ)の回心について記されています。そこでサウロが「なおも主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んで、大祭司のところへ行き、ダマスコの諸会堂あての手紙を求めた。それは、この道に従う者を見つけ出したら、男女を問わず縛り上げ、エルサレムに連行するためであった。ところが、サウロが旅をしてダマスコに近づいた時、突然、天からの光が彼の周りを照らした。サウロは地に倒れ、「サウル、サウル、なぜ、私を迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。「主よ、あなたはどなたですか。」というと、答えがあった。「私は、あなたが迫害しているイエスである。・・・」この出来事[6]も、主イエス・キリストを信じる者たちが、その体の一部分であるという事実があってはじめて、言えることなのです。(使徒言行録9:1~19 229頁)

 

 ここで「はてな?」と思う方もおられるかもしれない。私たちは御子イエスは全能の父なる神の右に座しておられるのではなかったか、と。確かに御子は全能の父なる神の右に座していながら、この地上に自らの体なる教会を形成しようとしておられるのです。かれは<かしこ>にもいますが、<ここ>にもおられるのです。教会の頭としては、神の右に座しつつ、その体なる教会をこの地上に造り上げようとしておられるのです。

 

「あなた方は、自分が神の神殿(口語訳)であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。神の神殿を壊す者がいれば、神はその人を滅ぼされるでしょう。神の神殿は聖なるものだからです。あなた方はその神殿なのです。」(コリント人への手紙第一3:16~17)

 

「わたしたちの一つの体は多くの部分から成り立っていてもすべての部分

が同じ働きをしていないように、わたしたちも数は多いが、キリストに結

ばれて(キリストという)一つの体を形づくっており、各自は互いに(キリスト

の体の一)部分なのです。(ローマ12:3~5)

 

 使徒信条は個人の信仰告白ではあっても、これは自分だけの信仰という

ことではありません。自分だけがよければ、それでよいというものではあ

りません。「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部

分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。」(第一コリント12:26)

してこれは単なる倫理的な教えというのではなく、現実にこのキリストの

体がこの教会を覆っているという事実なしには語りえない言葉なのです。

それは私たちがキリストの体の一部分であり、尊き主イエス・キリストの

十字架の血潮を代価として買い取られた者たちだからです。私たちが聖な

る神の神殿と言われるのは、それが私たちの功績に起因するもの

ではなく、聖なる方の「聖性」によって覆われた者たちだからです。

 

「また御子はその体である教会の頭です。御子は初めの者、死者の中から

最初に生まれた方です。こうして、すべてのことにおいて第一の者となら

れたのです。神は、御心のままに、満ちあふれるものを余すところなく御

子のうちに宿らせ、その十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるも

のであれ、天にあるものであれ、万物をただ御子によって、ご自分と和解

させられました。あなたがたは、以前は神から離れ、悪い行いによって心

の中で神に敵対していました。しかし、今や、神は御子の肉の体において、

その死によってあなたがたと和解し、ご自身の前に聖なる者、きずのない

者、とがめるところのない者としてくださいました。(コロサイ1:18~24)

 

 ここに私たちの「信仰の確かさ」があります。パウロは多くの問題を抱えていたコリントの教会に対して神の教会へと書き出し、キリスト・イエスによって聖なる者とされた人々召されて聖なる者とされた人々へと、自分の正しさ、自分の正当性に固執して争っている彼らに、彼らが拠って立つべき原点を思い起こさせようとしているのではないかと思われます。

 

 次に「公同の(catholicam)」ということについて考えてみたいと思います。この「公同の」という言葉は、聖書の中には出てこない言葉です。カトリック教会の聖典と言われるラテン語聖書ウルガータにも、この言葉は出てきません。ラテン語の辞書を調べますと、「普遍的な」という訳語がでています。この言葉は私たちに、カトリック教会を連想させます。まさにその通りで、英語の使徒信条を開いてみますと、I believe in the Holy Spirit, the Holy Catholic Church, (聖なるカトリック教会を信じます)となっています。英語の辞書には、カトリック教会のという形容詞の他に、普遍的な、一般的な、万人に共通の、という意味が載っています。従ってカトリックという言葉は、カトリック教会の専有物ではなく、広く普遍的なという意味を有した形容詞です。

 

 パウロという人は、三回にわたって大旅行をしています。それは異邦人の地に教会を建て、「キリストの十字架と復活による」福音を伝えるためであり、同時にそれらの教会が同じ信仰を持つためでした。直接訪れることが出来ない教会へは、度々手紙を書き、信仰による一致を求めています。それらの手紙が今の私たちの教会にとっても指針となっています。パウロのような巡回伝道者たちに代わってその役割を担ったのが、信条です。私たちが毎週告白している「使徒信条」もその一つです。この使徒信条は多少の文言の違いはあっても、全世界で広く受け入れられ告白されています。

 

 catholicamというこの言葉そのものは聖書の中には出てきませんが、その根拠を聖書の中に探してみると次のような言葉があります。「イエス・キリストは昨日も今日も変わることのない方です。[7](新共同訳 へブル書13:8)

 

「公同性」というのは「普遍性」であり、世界中の場所を超えて、民族、文化、習慣を超えて普遍的であり、また時代を超えて普遍的であるというのです。私たちの教会は、場所を超え、時代を超え、更にすでに召された方たちもその御手の内に置きながら、昨日も今日も変わることがない方の体であるというのです。聖なる教会ということについては、既にみてきました。私たちの教会は弱さ、愚かさをその内に抱えながら、「我は聖なる公同の教会を信ず」と告白しつつその歩みを進めています。このことを使徒信条は、<公(おおやけに)(いずこにあっても)同じ>という言葉で表現しています。それは言葉を変えるなら、主イエス・キリストをその頭とするあるべき教会の姿を信じるということにもなります。同時にこれはCREDO(我、信ず)という私の信仰告白となった時、この聖なる教会に相応しく地上にある教会は常に、改革されるべき教会となるのです。

 

今述べてきた聖なる普遍的な教会を実現するべく、私たちの教会は果たして、この「聖なる公同の教会」を尋ねながら、日々改革される教会であるだろうか、ということが問われているのです。

 

「聖なる公同の教会」は決して自明のものではないというのです。いつでも、誰の目にも確認されることではなく、ただ信仰の目によってのみ確認されることであり、それ故にこの教会は信ずることを求めているのです。いつでも、誰にでも、確認されることであるなら、使徒信条は信ずることを求めはしません。自分の目で見て確認すればいいのです。

 

 神は私たちが御子によって成し遂げられたことが、広く告げ知らされ、

感謝と讃美の歌を歌いつつ御もとに従い来ることを望んでおられる。私た

ちはこの神のわざの遂行に参加しているのです。今のこの時は御子イエス

によって示された人間への愛に対して、私たちの応答が求められている時

であり、我らがその貧しき讃美をもってこの御わざに参加することを、神

は喜ばれるのです。

 

Credo in Deum, Patrem omnipotentem, Creatorem caeli et terrae,
et in Iesum Christum, Filium Eius unicum, Dominum nostrum, qui conceptus est de Spiritu Sancto, natus ex Maria Virgine, passus sub Pontio Pilato, crucifixus, mortuus, et sepultus, descendit ad inferos, tertia die resurrexit a mortuis, ascendit ad caelos, sedet ad dexteram Patris omnipotentis, inde venturus est iudicare vivos et mortuos.
Credo in Spiritum Sanctum, sanctam Ecclesiam catholicam, sanctorum communionem, remissionem peccatorum, carnis resurrectionem, vitam aeternam.
Amen.
        — "Symbolum Apostolicum".



[1] 創世記3:24

[2] ヨハネ福音書3:16

[3] マルコ福音書9:24

[4] 創世記2:7 これは父なる神が人間を創造された時の言葉です。

[5] はっきり言っておく」というのは、「アーメン レゴー ヒューミン」というギリシャ語で、「誠に汝らに伝えておく」という意味で、これから大事なことを伝える時の前置きの言葉です。またこの「最も小さい者の一人に」という言葉は、ミクロスというギリシャ語の最上級が使われています。最も小さい者、取るに足らない者、という意味が含まれています。また私たちがクリスマスによく聞く「ユダの地、ベツレヘムよ、お前はユダの指導者たちの中で決して最も小さいものではない。お前から指導者が現れ、私の民イスラエルの牧者となるからである。」という言葉の中にも用いられています。

[6] カール・バルト「和解論」の教会論「地上を旅する神の民」井上良雄訳 P.28

[7] イエス・キリストこそ、昨日も、そして今日も、そして永遠にまさにその(同じ)方なのである」というニュアンスをもった言葉です。

(2023年9月3日 聖日礼拝)