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| 日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13) |
讃美歌21 434番 主よ、みもとに
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前回はヨハネ福音書13章の主イエスが最後の晩餐において、弟子たちの足を一人ずつ洗い、腰に下げた手ぬぐいでその足をふかれたという出来事を学びました。十字架の死が目前となる中で、「主イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。[1]」と語られていました。
主イエスが置かれていた状況というのは時間的に言っても、まさに最後の最後までと言うことができる状況でした。この上なく愛し抜かれたと訳されている言葉は英語ではto the end と訳されています。ギリシャ語でも同じ表現になっています。これは「最後まで」という意味と同時に、「究極まで愛された」と解することもできる言葉です。「究極まで愛された」というのは、主イエスの命の炎が燃え尽きるまで愛されたと解することが出来ると思います。愛するということは、愛される者にとっては、実に喜ばしいこと、実に甘きことです。しかし愛する者にとっては、その身を削ることとなります。一本のろうそくが周りを照らしながら、その身を燃やし尽くす譬えは、そのことを表しています。
主イエスは御自分亡き後の弟子たちを愛おしみ、彼らの足を一人一人洗われた。当時のユダヤ人たちはサンダル履きで、その足は毎日洗わなければならなかった。そして弟子たちは主イエス亡き後、自分の足を洗うたびに主イエスが自分の足を洗って下さったことを思い起こし、主の愛を確かなものとしていったのだと思います。聖餐式もこれと同じこと。私たちの足もこの時同時に洗われていたことを信じ、その主イエスの愛の万分の一でしかないけれども、その愛に励まされながら隣人に関わっていく勇気を与えられる者でありたいと思います。その意味でも最後の晩餐における出来事として、共観福音書では聖餐式でしたが、ヨハネ福音書では主イエスによる弟子たちの洗足、ここには共に相通じるものがあると思います。聖餐式も洗足も人の子は、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである[2]と、言われていることを目に見える、具体的な形にして残していかれたのです。
神は人間を義としようとしておられる。神は罪人に対して、その道を開こうとしておられる。人間の罪にもかかわらず、人間を迎え入れようとしておられる。最後の晩餐で主イエスが残していったことは、こういうことだったのだと思います。
神のこの意志に対する私たちの応答が「信仰」です。信仰とは「まだ見ていない世界への架け橋である[3]」ということができると思います。このことを一言で言い表すなら、「神、我らと共にいます」ということを自分自身に対して語られた言葉として受けとめるということになると思います。私たちの信仰も、愛も、仲保者を必要とするのです。その仲保者として、神様は私たちに御子イエス・キリストを与えて下さった。この御子の霊が今のこの時だけでなく、今までも、これからも、陰府にまでも、そして父なる神のみもとに至るまで「共にいてくださる」というのが、クリスマスのメッセージです。
聖書の中には人がめったに読まない文書が二つや三つあるものです。コヘレトの言葉(口語訳聖書では、伝道の書)は、その代表的なものだと思います。非常に懐疑的で、暗い感じがする。ニヒリズムの世界が全体を覆っているかのようです。あまりの重苦しさに息がつまりそうにさえなってしまう。聖書の中の方丈記[4]と言うことができるかもしれません。私自身も普段あまり読まない。今回は3章だけでまた新約聖書に戻ろうと思っていたのですが、準備をしているうちにこの書を最初から最後まで読んでみたくなりました。それはこの書に対する正反対の理解があることを知ったからです。もちろんこれからアドベントがあり、クリスマスを迎えます。受難節があり、イースターが来ます。その時にはそれに相応しいテキストを選びたいと思いますが、その間隙を縫って機会が与えられた時に順次取り上げたいと思います。中々読むことのない書、聖書の正典に含まれていることが不思議にさえ思われる書ですから、こういう試みもいいのではないかと思った次第です。それで今日のテキストは3章と予告致しましたが、1章から読んでいくことをお赦しいただきたいと思います。
その正反対の理解の一つはこの書を空しいこの世から逃げ出して、隠遁生活をすべきことを教える手引書と考えた人がいます。この人は4世紀の教会教父でヒエロニムス[5]です。彼はキリスト者はこの世で、神に仕えることはできないから、この世から逃げ出すべきだと教えている。
ところがこの同じ書をもっと肯定的に理解した人がいる。この人はこの書の著者を懐疑主義者として見ず、信仰者として見るのです。この人というのはルターです。彼はこの著者の目的は、我らを平和のうちに保ち、日毎に起こる出来事やこの世の仕事の中で、平静な心を我らに与えようとしているのだと言っている。
同じ書に対して、正反対ともいうべき理解があること。更にこの書の中に、信仰者の姿を見ようとした人がいることを知って、私はこの書を読んでみたくなった訳です。もちろんこの書は難解な書であり、否定的、懐疑的な言葉が書き連ねられています。それでも、本書の根底に神を信じる人
がいることを学びえるなら、これにまさる喜びはないと思います。
「コヘレト」というのは、「集める」という意味から集会を司る者という意味になり、「会衆に語る者」「講義する人」という意味を持った言葉です。ルターは「説教者」と訳し、人は本書の目的を、しっかりと見極めなければならない、と言っています。
時代背景は、紀元前250~150年ごろ、アレクサンダー大王が死去し、その将軍であったプトレミイとセレウカスがその領土を分け、パレスチナはセレウカスの支配のもとに入ります。そして迫害と虐待に苦しむことになります。「聖書は焼かれ、エルサレム神殿での礼拝は禁止され、律法では汚れているとされる食物を食べさせられ、律法に忠実なユダヤ人の多くが殺された。[6]」紀元前168年にはマカベアがその圧政に対して、反乱を起こしています。その時の様子は、旧約聖書続編マカバイ記一・二を読むと、この時の時代背景を知ることができます。アレクサンダー大王によってエルサレムがその手中に落ちたのが紀元前333年でしたから、それからローマのポンペイウスがエルサレムに入城する紀元前65年まで、ユダヤの民はアレクサンダー大王の後継者たちの支配下にあって、苦難の日々をおくることになります。
「コヘレトの言葉」と前後してダニエル書が書かれています。ダニエル書は、黙示文学の範疇に入る書ですが、私たちは「ヨハネ黙示録」という新約聖書の最後にある書によって慣れ親しんでいます。それでは黙示思想とはどんな思想なのでしょうか。「黙示録」というのはギリシャ語でアポカリュプシスという言葉で、「被いを取り除く」「現わす」という意味です。ギリシャ語の助けを借りなくても、漢字で「黙示」というのは黙していることを示すという意味であることが分かります。厳しい迫害の下にあって、現世は終焉を迎えようとしているかのような状況にあって、ダニエルは死後の世界、彼岸に希望を見出し、信仰者たちを励まします。しかし彼岸に希望を持つということは、現実世界からの逃避に向かうことにもなります。
コヘレトはこれに反対します。彼は彼岸に希望を持つことに反対します。死者の復活などは、信じていないようです。彼はあくまでも、人はこの現実世界にあって生きるべきことを主張します。ヒエロニムスとルターが対極にあったように、ダニエルとコヘレトは対極にあるようです。このような背景を念頭に置いて、コヘレトの言葉を読んでいきたいと思います。
1章から見てみたいと思います。
1:1には、「エルサレムの王、ダビデの子、コヘレトの言葉。」という言葉で始まっています。エルサレムの王で、ダビデの子と言えばソロモンですが、彼が書いたと考えることには無理があるようです。非常に深い洞察力をもった信仰者コヘレトが、ソロモンの名前を借りてこの書を捕囚後に書き上げたと言われています。ではコヘレトはなぜソロモンの名前を偽装したのか。
ソロモン王は最高の知恵者であることが、列王記上の三章に「ソロモンの知恵」という小見出しがついて記されています。ソロモンの知恵とはどういうものであったか。ソロモンは父ダビデの後を継いで、王位につきます。しかしその時はまだ神殿は造営中であり、完成していませんでした。彼は聖なる高台において、一千頭もの焼き尽くす献げ物をささげた。その夜、主はソロモンの夢枕に立ち、「何事でも願うがよい。あなたに与えよう。」と言われた。その時彼は、自分は父ダビデの後を継いで王位についたけれども、自分は取るに足らない若者にすぎず、どのようにふるまってよいか分かりません。そこでこれら多くの民を正しく裁き、善と悪を判断する心をお与えください、と答えた。その時主は、ソロモンの願いを喜ばれたそして、「あなたは自分のために長寿を求めず、富を求めず、また敵の命も求めることなく、訴えを正しく聞き分ける知恵を求めた。見よ、私はあなたの言葉に従って、今あなたに知恵に満ちた賢明な心を与える。あなたの先にも後にもあなたに並ぶ者はいない。私はまた、あなたの求めなかったもの、富と栄光も与える。生涯にわたってあなたと肩を並べうる王は一人もいない。もしあなたが父ダビデの歩んだように、私の掟と戒めを守って、私の道を歩むなら、あなたに長寿をも恵もう。」と言われた。
この直後に語られたのが、有名なお話しです。皆さんご存じだと思いますが、簡単に説明しておきます。同じ屋根の下に生活する遊女二人がソロモン王に訴えでた。二人は相前後してそれぞれお産をした。ところが片方の女が寝ている時に子供に寄りかかり、子供が死んでしまった。そこでこの女は夜中に起きて、横で寝ているもう一人の女の赤ん坊と取り替えた。
取り換えられた女は、朝起きて自分の横で死んで横たわっている子は自分の子ではないということに気づきます。そこで二人の間に言い争いが起こり、ソロモン王のところへ訴え出たというお話です。今なら血液型を調べるとか、遺伝子を調べるという方法もありますが、紀元前960年頃の話ですから、そんなことは出来ない。コヘレトの時代をマカバイの反乱のころとすると、更に800年ほどさかのぼることになる。そこでソロモン王は、剣を持ってこさせ、その生きている子供を二つに裂き、それぞれに半分づつ与えよと命じた。この時生きている子の母親はその子を哀れに思い、「王様、お願いです。この子を生かしたままこの人にあげてください。この子を絶対に殺さないでください。」と言った。ところがもう一人の女は「この子を私のものにも、この人のものにもしないで、裂いて分けてください」と言ったというのです。ソロモン王はこれを聞いて、「この子を生かしたまま、さきの女に与えよ。この子を殺してはならない。その女がこの子の母である。」という判決を下したというのです。「王の下した裁きを聞いて、イスラエルの人々は皆、王を畏れ敬うようになった。神の知恵が王のうちにあって、正しい裁きを行うのを見たからである。」と結んでいます。
コヘレトはこの地上最高の知恵の持ち主であるソロモンの名を借りて、その最高の知恵者が日の下(太陽の下)で起こる出来事をつぶさに調べたが、一切は空であると語りだすのです。コヘレトの言葉だけでなく、箴言もこの最高の知恵者と言われたソロモンの威光を借りて書かれています。古代ではこのようなことは、珍しいことではなかったと言われています。
1:2「コヘレトは言う。何という空しさ 何という空しさ、すべては空しい。」という言葉で始まっている。口語訳聖書は「空の空、空の空、いっさいは空である[7]」と訳しています。そしてこの空しさが、コヘレトの言葉全体を覆っているように思われます。この「空しい」という言葉が38回も繰り返されているということです。この「空しい」世界が全体を覆っている。また、この空しいというヘブル語はへべルという言葉で、これは創世記に出てくるカインの弟アベルと全く同じ言葉であるということです。若くして兄カインに殺されてしまった弟アベルから、時間的な短さ、儚(はかな)さが含意[8]されているということです。
1:3~7「太陽の下、人は労苦するが すべての労苦も何になろう。一代過ぎればまた一代が起こり 永遠に耐えるのは大地。日は昇り、日は沈み あえぎ戻り、また昇る。風は南に向かい北へ巡り、めぐり巡って吹き 風はただ巡りつつ、吹き続ける。川はみな海に注ぐが海は満ちることなく どの川も、繰り返しその道程を流れる。」
コヘレトは一切が空しいということを説明するために、自然や歴史についての彼の省察を述べている。一切のものの運行は、単調であり、初めもなければ、終わりもない。人の営みは、退屈な反復、繰り返しに過ぎない、というのです。
次にコヘレトは人間の歴史に目を向けると、そこには同じ単調さ、退屈な繰り返しに出会う。
1:8~11「何もかも、もの憂い。語りつくすこともできず 目は見飽きることなく 耳は聞いても満たされない。かつてあったことは、これからもあり かつて起こったことは、これからも起こる。太陽の下、新しいものは何一つない。見よ、これこそ新しい、と言ってみても それもまた、永遠の昔からあり、この時代の前にもあった。昔のことに心を留めるものはない。これから先にあることも その後の世にはだれも心に留めはしまい。」
一切が霧のかなたへ消えていく。人々が「進歩」と名付けうるものはない。新しいものを追い求めても、古い世界は全体として古いままである、と言う。自然の営み同様に人間も満たされることなく、語り尽くすこともできず、目は見ても飽き足りることがない、何一つ完成を見ることが出来ない。すべては吹き抜ける風のようである。
しかし、私たちはここで主イエスの言葉を思い起こさないだろうか。「だれでもキリストに結ばれているなら、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。[9]」「過ぎ去った」は、過去形であり、「新しくなった」は現在完了形です。しかしコヘレトはまだ、この方の存在を知らされていません。
1:12以下、「私コヘレトはイスラエルの王として、エルサレムにいた。天の下に起こることをすべて知ろうと熱心に探究し、知恵を尽くして調べた。神はつらいことを人の子らの務めとなさったものだ。私は太陽の下に起こることをすべて見極めたが、見よ、どれもみな空しく、風を追うようなことであった。ゆがみは直らず 欠けていれば数えられない。」
この最高の知恵者が、天の下に起こることをすべて知ろうと熱心に探究した。しかし、それらのどれも「風を追うようなことであった」というのです。口語訳は「風を捕らえるようなものである」となっています。この語は元来「風を養う」「飼育する」という意味だということです。あたかも柵を作ってウサギを飼育するように、風を養うことができるだろうか。そんなことは出来ない、と言うのです。この世は曲がったものは曲がったままであり、ゆがんだものはゆがんだままである。欠けたものは数えられない。欠けたものは欠けたままである。これはこのまま現代にも当てはまる。紀元前の昔から、人間は殺し合いをやめない。コヘレトはこんな世に、何か積極的な意味があるだろうか、と問うのです。「すべては風を追うようなことである」と。「空の空 空の空、一切は空である」なら、ヒエロニムスの言うように、こんな世界から脱出して隠遁生活か、修道院に入るのも悪くないとさえ思わされる。
コヘレトの言葉は一章を読むだけでも、このように重苦しいものです。
ところが、この一章の中に、一か所注目すべき言葉が出てくる。「神」という言葉が出てくる。「神はつらいことを人の子らの務めとなさったものだ。」という言葉。口語訳は「これは神が、人の子らに与えて、骨折らせられる苦しい仕事である。」懐疑論者や虚無主義者は、こんな言い方はしない。私はこの言葉が否定的で、懐疑的で、ニヒリズム一色に見えるコヘレトの言葉を解く鍵ではないかと思うのです。
世界が空しく、労苦に満ちていることは確かです。しかし、伝道者コヘレトは、世界のこのような重苦しい状態を、何か理解できないもの、単なる謎、単なる宿命とは考えていない。空しく見える労苦にも、神の意志が働いている、と言うのです。運命がこれを与えたのではなく、神がこれを与えられたという。単調な繰り返しと思われる日々の出来事、今日も昨日と何も変わっていない。その空しく過ぎ去っていくようなこの現実の背後に、神の御手が添えられている、と言うのです。これは人は労苦と矛盾、不条理の中にあっても、神はやはり主でありたもう、と言うのです。これは実に慰めに満ちた言葉です。
これは信じる伝道者の言葉であって、疑う懐疑論者やニヒリストの言葉ではない。人生の様々な経験をした一人の知者が、否定の言葉の下に、信仰の下地を持っていることに私たちは注目しなければならない。
最後に一つ注意したいことは、旧約聖書の伝道者コヘレトには、一つ知らないことがあった。
「太陽の下」という言葉が3回出てくる。口語訳では「日の下」と訳されている。神が日の上に留まっておられず、日の下に降りたもうたということです。神はその活動の場所を日の上ではなく、日の下に求めたもうたということ。人間でさえこんな世界と愛想を尽かせて、世捨て人になる者さえいるような、この世界に降ってこられた。他ならぬ神ご自身が、人の子らの労苦を引き受けられたということ。このことをコヘレトは、まだ知らされてはいませんでした。
他ならぬ神ご自身が、地上の労苦を、有用なものと認め、自ら地上の労苦に参加されたということを、コヘレトは知らされていませんでした。ヨブはその厳しい苦難の中で、神と自分との間に立って下さる仲保者を求めた。しかも自分の味方として立って下さる方を求めた。預言者たちは皆、この方の到来を待ち望んでいたのです。その方がベツレヘムの馬小屋にお生まれになった。限りなく人間の側に立つ仲保者としてお生まれになった。讃美歌の280番にあるように、この方は、
馬槽のなかに うぶごえあげ、
木工の家に ひととなりて
貧しきうれい 生くるなやみ、
つぶさになめし この人をみよ。
「つぶさに」というのは、「残らず」「ことごとく」という意味です。
貧しさゆえのうれい、生きていく上での悩み、悲しみ、残らずその身に引き受けられたというのです。
キリストは伝道者コヘレトの目に映じたような空しい世界に来られて、働き、苦しみ、そして勝利された。神に栄光を帰するということは、神の愛を勝利に導くことです。
私たちが人生の意味を肯定する根拠は、ここにしかない。そうでなければ、単なる悲観論者か、或いは軽薄な楽観主義者であるに過ぎない。
だから主イエスは、ヨハネ福音書15章、告別の説教の中で、「私につながっていなさい」という言葉を繰り返されたのです。主イエス・キリスト
なしには、すべてがコヘレトの目に映じたことが真実となるからです。「私から離れては、あなた方は何もできない。」なぜなら、「空の空 一切は空である」という言葉が聞こえてくるからです。
十字架と復活という事実が明らかにされた今、彼岸と此岸が大きな神の意志によって貫かれ、私たちの前に明らかにされたのです。ダニエルの世界とコヘレトの世界が、一つになったのです。
今週の聖句「何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて(神の定められた)時がある。」そして、「神のなされることは皆その時にかなって美しい」(口語訳)
もうすぐクリスマスです。「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」この両者の間には、無限の距離があり、断絶がある。いと高きところには神がおられ、地の上には人間がうごめいている。しかしこの両者が、今や結ばれる時が来た。コヘレトがこの地上の最高の知恵者として調べ尽くして得た結論、「空の空 空の空、一切は空である」という世界が打ち破られ、「神は愛である」という御旗がはためき、いと高きところと地の上が、新しい関係に置かれるというのです。それは隔絶した断絶の状態ではなく、神の御心がこの地上にも行われるのです。空しい時は神が定められた時となり、悲しみの時は慰められる時となる。殺すは癒しに結びつき、壊すは建てるに結びつく。泣くことは笑うことに通じ、悲しむことは踊ることに変えられる、というのです。
救い主の誕生の記事を読む時、私たちは改めて主イエスを心の中に迎え、これまでの生活の歴史の中になかった、新しい始まり、新しい時、新しい使信、good tidingsを聞きたいと思います。
[1] ヨハネ福音書13:1
[2] マタイ福音書20:20~28
[3] へブル書11:1「確信することである」という言葉を、「架け橋である」と言い換えてみました。
[4] 方丈記 鴨長明作 「ゆく川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみにうかぶうたかたはかつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人と栖(すみか)と又かくのごとし。」
[5] 「コヘレトの言葉」ヴァルター・リュティ著 宍戸達訳 新教出版社 P.6
[6] 「聖書ガイド」日本聖書協会・編 P.73
[7] コへレトの言葉1:1 私たちが使っている「新共同訳聖書」の後に刊行された「聖書協会共同訳」では、ここの言葉は、従来の口語訳に戻り、「空の空 空の空、 一切は空である。」となっています。
[8] 「コへレトの言葉を読もう」P.21 小友 聡著 日本基督教団出版局
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「信徒の成長」
フィリピの信徒への手紙1章1~11節
関口 康
「そして、キリストの日に備えて、清い者、とがめられるところのない者となり、イエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受けて、神の栄光と誉れとをたたえることができるように。」
今日は日本キリスト教団の定める「信徒伝道週間」の初日にあたり、お2人の教会員の証しを伺いました。ご準備くださったお2人に心から感謝申し上げます。
今日の聖書箇所はフィリピの信徒への手紙1章1節から11節までです。この手紙は使徒パウロが書いたものです。今日の箇所に記されているのは、パウロがフィリピの信徒のためにささげた祈りの言葉(9~11節)と、その祈りをささげた理由(3~8節)です。
パウロはフィリピの教会のみんなのことを思い出すたびに、神に感謝し、喜びをもって祈っていると言います(3~4節)。なぜなら、あなたがたが最初の日から今日まで福音にあずかっているからだと言います(5節)。
「最初の日」(5節)の意味は、パウロとフィリピ教会が最初に出会った日を指していません。その意味で受け取ると、私パウロと出会ったことで初めてあなたがたがイエス・キリストの福音を受け入れることができた、その日から今日に至るまで、ということにならざるをえませんので、まるでパウロの伝道者としての個人的な力量について書いているかのように読めてしまいます。
「福音」は宣べ伝えられた途端に伝道者の手を離れます。また、手を離さなければなりません。伝道者は「福音」そのものが持つ力を信頼し、「自分が宣べ伝えた、自分が教えた」という思いを捨て、教会の信徒を自分の支配から解放しなければなりません。
「あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています」(6節)の「その方」は、神です。福音宣教の主体は、神です。神はご自身が始めたことを最後まで成し遂げてくださり、完成してくださる方であるとパウロは言っています。パウロが始めたことをパウロが完成するわけではありません。
12節の「福音の前進」も、私パウロが福音を前進させた、という意味ではないし、あなたがたフィリピ教会に連なるみんなが福音を前進させた、という意味でもありません。福音それ自体が、自らの力で前進した、という意味です。福音そのものに躍動的な意志がある、ということです。
いま申し上げていることは、私が声を大にして言わなくても、比較的長いあいだ、教会生活、信仰生活を続けて来られた方々はよくご存じです。自分自身のことを振り返っても、家族や友人、教会の中で出会った方々のことを思い返しても、たとえば、教会が立てた伝道目標として、毎年何人を教会に招き、受洗者を何人生むかを決めて、その通りになったことがあったでしょうか。仮にあったとして、教会が計画通りに右肩上がりに教勢を拡大し、財政的にも潤い、社会的にも大きな影響を及ぼすようになっていく、というようなことが、どれほど続いたでしょうか。
もし続いていないのであれば、それはわたしたち人間の失敗でしょうか。「偉大でない」伝道者の力量不足が教会衰退の原因でしょうか。そのようなことを教会の中で言い争うこと自体が教会衰退の原因かもしれないと、手を胸に当てて考えてみることには、意味があるかもしれません。
パウロの祈りは9節以下です。注目すべき言葉は「あなたがたが清い者、とがめられるところのない者になるように」(9節)です。「清い者」と「とがめられるところのない者」はニュアンスが違います。前者は内面の状態を指し、後者は目に見える外面の状態を指します。「ひたむきに神を求めること」と「非の打ちどころのない生活を送ること」です。それが「知る力と見抜く力を身に着けて、愛がますます豊かになった」(9節)状態を指していることは明らかです。
これで分かることは、パウロは、イエス・キリストの福音は、信じて歩む人間の性質に内面的にも外面的にも変化をもたらすと信じているということです。信徒は福音と出会った最初の状態のままにとどまりません。人間としての性質が善きものへと変化し、成長します。それがパウロの信仰であり、代々の教会の教えです。「聖化」(sanctification)と言います。
このように言うと、教会の内からも外からも非難の声があがります。教会の外からは「それはキリスト者の傲慢である」とか「教会に通っている人より通っていない人のほうがはるかに誠実で高潔な生活を送っている」と。
教会の内からは、今日の箇所の「イエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受けて」の意味はあくまで「キリストの義」であって「人間の義」ではない。人間にはキリストの義が転嫁されるに過ぎず、人間はどこまでも罪人であり続ける、と。
教会の外からの非難については、私たち教会の反省材料として甘んじて受けるほかありません。しかし、教会の中の我々は、今日の箇所の「義の実」の意味を過小評価すべきではありません。たとえば、「日本基督教団信仰告白」(1954年制定)の「聖霊は我らを潔めて義の果を結ばしめ、その御業を成就したまふ」は、今日の箇所が典拠です。
「実」(英語のフルーツ)は、キリストの義が人間へと転嫁された「結果」を指します。原因と結果を混同してはいけません。「結果」は、聖霊(「聖霊」は「神」です)によって「与えられる」ものですが、聖霊の働きにおいては、人間の意志と主体性が排除されないことが重要です。
「あふれるほどに受けて」は新共同訳(1987年)ですが、以前の口語訳(1954年)でも、最新の聖書協会共同訳(2018年)でも「満たされて」と訳されています。新共同訳のように「受けて」と訳すほうが人間の主体性を後退させて、神の主体性と恩恵の一方性を強調することができますが、それではパウロの意図に反します。「知る」のも「見抜く」のも、「愛する」のも、「清い者となる」のも「とがめられるところのない者」となるのも、すべて人間が主体だからです。
人間の意志も感情も主体性も奪われて、まるで夢にうなされているかのように「させられる」のではありません。わたしたちの身代わりにイエス・キリストが「知り」「見抜き」「愛し」「清い者となり」「とがめられるところのない者になってくださった」のであって、私たち人間自身には何の変化もないと、パウロは言っていませんし、考えてもいません。
「キリストの義」が転嫁された結果としての「実」(フルーツ)は、人間の側の主体的な行動の変化です。それもまた十分な意味で神の恵みです。人間が自分の努力で自分をつくりかえることはできません。神の導きと助けなしに自分の力で成長したと言い張るなら、傲慢のきわみです。またそれは事実ではありません。しかし、教会に何年、何十年と通っても、何の変化も無かったというのであれば、それはそれで寂しいことだと言わざるをえません。
「決してそうではない」ということを、今日証しをしてくださったお2人が教えてくださったと信じます。「この教会に通って良かった」とわたしたち自身が心から思えるような教会を、神の導きと助けのもとに、共に作り上げていくことを祈ろうではありませんか。
(2023年10月15日 聖日礼拝)
| 日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13) |
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「豊かさと貧しさ」
ルカによる福音書16章19~31節
関口 康
「やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。」
今日の聖書箇所に記されているのは、イエスさまのたとえ話です。登場する人物は3人です。
ひとりは「ある金持ち」です。名前は明かされません。西暦3世紀のエジプトの写本では名前が付けられていますが、後代の加筆です。名前がないことに意味があると考えるほうがよいです。名前があるとこの人物の言動が他人事になるからです。イエスさまの意図はむしろ、この金持ちは自分のことだと、自分に当てはめて受け取るように、聴衆(読者)に求めることにあります。
2人目には「ラザロ」という名があります。多くの方はヨハネによる福音書11章に登場するマルタとマリアの弟のラザロを思い出されるでしょう。しかし、今日の箇所のラザロは架空の人物です。とはいえ、大事な点があります。イエスさまのたとえ話の中で名前がある登場人物は、今日の箇所のラザロだけです。また、ラザロという名前は、ヘブライ語で「神が助ける」という意味の「エルアザール」をラテン語化したものです。この名前に大きな意味があると考えることができます。
3人目はアブラハムです。ユダヤ人の先祖です。しかし、アブラハムは血縁としてのユダヤ民族の父であるだけでなく、使徒パウロがローマの信徒への手紙4章で詳しく論じているとおり、キリスト者にとっての信仰の父でもあります。ただし、今日の箇所でアブラハムはやはりイエスさまのたとえ話の中に登場しているにすぎません。しかも、登場場面は死後の世界です。
「ある金持ち」は「いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた」(19節)とあります。「紫の布」は上着で、「麻布」は下着。上下とも高価な衣服を身に着けていた、という意味です。「ぜいたくに遊び暮らす」は毎日宴会を開いていた、という意味です。
金持ちの門前に「ラザロ」が横たわっていました。「できものだらけ」と訳されているのは医学用語で「ただれ」という意味です。ラザロが金持ちの門前にいた理由は「その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた」(21節)からです。ただし、書いてある通りに理解すべきなのは、ラザロはその家の食卓から落ちる物で腹を満たしたいと「思っていた」だけで、実際には、食卓から落ちる物すらもラザロの口に入るものはなかった、ということです。
しかも、当時の金持ちは、自分の(汚れた)手を拭くためにパンの切れ端を使い、使用後は食卓の下に投げ落としていたそうですので、「食卓から落ちる物」の中にそれが含まれている、と考えることができます(J. エレミアス)。「犬もやって来ては、そのできものをなめた」(21節)とあるのは、当時のユダヤ人にとって「犬」が不浄な動物と考えられていたことと関係あります。
ラザロの苦痛は肉体的にも精神的にも激しかったに違いありません。しかし、彼の口からの苦情については何も言及されていません。金持ちは自分の家の門前に横たわっている人がいることを知っていましたし、その名が「ラザロ」であることも知っていましたが、何も与えず、何もしませんでした。
そして、2人の人生が終わりました。ラザロは「神が助ける」という名前にふさわしく「天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれ」ました(22節)。天国です。「アブラハムのすぐそば」(アブラハムの胸)はユダヤ人にとって最高の名誉ある場所です。そこは涼しいそうです。
「金持ちも死んで葬られ」ました(22節)。ラザロは「葬られた」と記されていませんので、葬儀はなかったかもしれません。金持ちのほうは葬儀が行われましたが、行き先は「陰府(よみ)」(ハデス)でした。いわゆる死後の世界です。ただし、このたとえ話において「陰府」は中間状態を指しています。最後の審判の判決が下る前の「未決」(pending)の状態の人々が置かれる場所です。
陰府の金持ちから、アブラハムのすぐそばのラザロの姿が見えたそうです。ただし、「はるかかなたに」(23節)とあるとおり、距離が遠い。それで「大声で」、金持ちがアブラハムに「父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます」と(24節)と言う。
丁寧な言い方をしているようですが、ラザロに対してはもちろんアブラハムに対しても事実上命令しています。金持ちの習性かもしれません。彼が「ラザロ」の名前を知っているのは、ある意味で驚きです。ラザロが自分の家の前にいたのだから名前を知っていて当然かもしれませんが、生前のラザロに対して何もせず、見て見ぬふりしていました。自分が陰府の業火で苦しんでいるときだけ、ラザロの名前を呼び、しかも、自分に仕えさせようとする。そうするようにラザロに言ってほしいとアブラハムに依願するような言い方で、アブラハムに対しても事実上命令する。
この傲慢な金持ちに対するアブラハムの対応はとても冷静で公平でした。天において報いを受けるのはラザロであってあなたではないということを、この金持ちに明確に示しました。そもそもの前提として、この人が金持ちだったのは地上の人生においてだけで、死後は無一文です。死んだ後まで貧富の差は無いし、財産争いもありません。そういうのはすべて地上の事柄です。
金持ちとアブラハムの対話の中で特に大事な点は、金持ちが、自分が陰府(ハデス)の火で焼かれても仕方ないほどひどい仕打ちをラザロにしたことを認め、自分の救いは断念したうえで、まだ生きている5人の兄弟たちには「こんな苦しい場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください」(28節)とアブラハムにお願いしたとき、アブラハムが「お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい」(29節)と答えているところです。
「モーセと預言者」とは、わたしたちの呼び方では「旧約聖書」のことです。「モーセ五書」と呼ばれる創世記から申命記までが、ユダヤ教の聖書の第1部「律法」(トーラー)です。そしてユダヤ教の聖書の第2部が「預言者」(ネビイーム)、第3部が「諸書」(ケトゥビーム)です。ここで「モーセと預言者」はトーラーとネビイームを指しています。
「彼らに耳を傾けるがよい」(29節)とアブラハムが答えたと、イエスさまがおっしゃっている、という点を忘れないようにしましょう。これはイエスさま御自身の教えです。わたしたちは律法主義を避ける勢いで、律法を否定する危険があります。自分は贅沢三昧で、貧しい人を見下げ、愚弄し、無視するような人生を送らないために旧約聖書の律法が役に立つことをイエスさまが教えておられます。
イエスさまはマタイ福音書の「山上の説教」では「心の貧しい人々は、幸いである」(マタイ5章3節)とおっしゃっていますが、ルカ福音書の「地上の説教」では「貧しい人々は、幸いである」(ルカ6章20節)とおっしゃっています。後者は明らかに物質的な貧困を指しています。「貧しさ」自体は「悪いもの」と今日の箇所(ルカ16章25節)で呼ばれています。しかし貧しい人を「神が助ける」(エルアザール=ラザロ)と信じることができるのが、わたしたちの信仰です。
助けを求めている人を助けなかった人々が、自分の救いと報いを求めるのは、虫が良い話です。豊かな人々のためにもイエスさまは死んでくださいました。しかし、それを免罪符にして贅沢三昧を続け、貧しい人を見下げ、愚弄し、無視するのがキリスト教なのかと自問することが求められています。
(2023年10月1日 聖日礼拝)