2023年11月26日日曜日

大いなる喜び(2023年11月26日)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)

讃美歌21 386番 人は畑をよく耕し





「大いなる喜び」

コヘレトの言葉2章1~11節、24~26節

秋場治憲

「人間にとって最も良いのは、飲み食いし、自分の労苦によって魂を満足させること。しかしそれも、わたしの見たところでは神の手からいただくもの。」


 前回の宣教の後少ししてから、ある方から質問がありました。ヨブは苦難の中で仲保者を求めた、しかもこの仲保者が自分の味方として必ず地の上に立たれるということだったけれども、このことはヨブ記のどこに言及されているのか宣教要旨には記載されておらず、見つけることが出来ないので教えてほしいというものでした。新共同訳の言葉とは少しニュアンスが違いますので、それで見つけることが出来なかったのだと思います。これはヨブ記19:25~27に記載されている言葉です。口語訳の方が分かりやすいと思いますので、参考までにこの個所の口語訳を掲載しておきます。後でご自身で比較をしてみてください。

 

 25節 わたしは知る

     わたしをあがなう者はいきておられる、

     後の日に彼は必ず地の上に立たれる。

26節 私の皮がこのように滅ぼされたのち、

    わたしは肉を離れて神を見るであろう。

27節 しかもわたしの味方として見るであろう。

    わたしの見る者はこれ以外のものではない。

    わたしの心はこれを望んでこがれる。

 

ヨブは激しい苦難の中で、神と自分の間に立ってくれる仲保者を求め、しかも自分の味方として立って下さる方を待ち望んでいる。友人たちは因果応報の地番に立ち、ヨブがこのような悲惨な目にあっているのはヨブが罪を犯したからだと言って責め立てる。ヨブはそんなことは自分もよく承知していると言う。しかしヨブを打つ手は止むことがない。ヨブはこの悲惨の中で悲鳴をあげながら、彼はこの自分をあがなう者が、地の上に立たれることを切望しているのです。ここでヨブは因果応報の世界から、福音の世界へ突き抜けようとして、その出口を望み見ている。そしてよきおとずれを持ってこられる方を、待ち焦がれているのです。私たちは既にその方を知っています。聖書を通し既にこの私たちを贖ってくださった方、どこまでも私たちの味方としての救い主に出会っています。そしてその方の霊が、その方の息吹が日々私たちに向かって突入してきており、私たちを励まし、私たちと共に歩まれる。死の陰の谷を行くときも私たちと共にあることに感謝したいと思います。

「今やキリストイエスに結ばれている者は、罪に定められることがない。」(ローマ人への手紙8:1)

 

 来週からアドベントに入ります。毎度繰り返していますが、アドベントとは英語でadventと書きます。ad(~へ向かって、英語のto)であり、ventとは(やって来る)という意味です。ヨブが、預言者たちが待ち焦がれた方が、わたしたちを目指してやってくるというのです。心の備えをして迎えたいと思います。

 

 コヘレトの言葉2章に入りたいと思います。1章で空の空、一切は空である、と自らの言葉を開始したコヘレトは、日の下で行われる人間の様々な営みに注目し、一体それらの労苦が何になるのか、一代が過ぎればまた一代が起こる。日は昇り、日は沈み、あえぎ戻り、また昇る。風は南へ向かい北へ巡り、めぐり巡って吹き続ける。川はみな海に注ぐが海は満ちることがない。どの川も、繰り返しその道程を流れる。一切は繰り返すばかりで、その完成を見ることはないというのです。一切は実に単調な繰り返しに過ぎない。空の空、一切は空である、と言う。

 

しかしコヘレトは1章のまとめともいうべき言葉「神はつらいことを人の子らの務めとなさったものだ。」と言う。それらの人の子らに与えられる労苦の一つ一つに神の御手が添えられていることを見出した。しかしこれはコヘレトがイスラエルの王として、天の下に起こるすべてを知ろうとして熱心に探究し、知恵を尽くして調べた結果でした。そこにはクリスマスの夜、寒さと獣の危険から羊を守りながら夜明けを待ち望む羊飼いたちに、天使と天の軍勢によって高らかに告げ知らされた知らせに、小躍りして喜んだ羊飼いたちの喜びはありませんでした。

 

私たちはコヘレトには知らされていなかった「よきおとずれ」を既に聞かされている者として、日の上におられた方がこの空しき世界に姿を現されたことを知らされた者として、空の空、一切は空であるという世界が、神がその御心を実現し給う世界であることを学んで感謝しました。ただコヘレトにはこのことは、まだ知らされてはいませんでした。

 

彼は人の子らのつらい務めの一つ一つに神の御手が添えられているということを学んでも、なおこのことに慰めを得ることができませんでした。「見よ、どれもみな空しく、風を追うようなことであった。」というのです。

 

 ここでコヘレトはもっと直接的に自分を満たしてくれる、人の子らが求めるべき幸福というものを追求してみようという衝動に駆り立てられます。私はさあ「快楽を追ってみよう、愉悦に浸ってみよう。」この「快楽」は必ずしも感覚的、表面的な快楽、また悪い欲望とは限らないということです。また「愉悦」も同様に「幸いを見る、楽しむ」ということで、善と悪の倫理的対立の意味ではないというのです。神の創造の中で、すべての面で生き、かつ楽しもうと試みることである。楽しむことそれ自体は悪ではないとのこと[1]

 

しかし「快楽」も「愉悦」もコヘレトの心を満たして、人生の生きる意味をもたらしてくれたかと思えば、これもまた空であり、風を捕らえるようなことであったとコヘレトは言うのです。コヘレトはその快楽と愉悦の中で得た笑いということに思いを馳せ、これは「狂気」(馬鹿げたこと)であると言い、「快楽」に対しては、これが一体何になろうと言う。

 

 何事も知恵に聞こうとするコヘレトにとっては潔しとしないことではありますが、しかし彼はなお、この天の下に生きる短い一生の間、何をすれば人の子らは幸福になるのかを見極めるまで、酒で肉体を刺激し、愚行に身を任せてみようと心に思い定めたというのです。

 

快楽と愉悦を見たコヘレトは、一転して愚行に身を任せてみようと言う。コヘレトの知恵に基づけば、愚行に過ぎないと思われることの中にさえ彼は人の子の幸せを探し求めるのです。この言葉には彼が自分が生きることの意味を必死に探し求めるその思いを読み取ることができます。そして彼は大事業を起こして成功し、多くの屋敷を構え、ぶどう園、果樹園を作らせた。池をいくつも掘らせ、木の茂る林に水をひかせた[2]。かつてエルサレムに住んだ誰よりも多くの奴隷を所有し、牛や羊と共に所有した。人の子らの喜びとする多くの側女を置いた。

 

 彼は事業に成功し、大庭園付きの大邸宅を構えただけではなく、ぶどう園、果樹園を持ち、木を植えて林をとし、池をいくつも掘らせた。これは日本ではなくエルサレムでのこと。途方もなく贅沢なこと。当時の世界では考えられる限りの豪華な生活であり、この世の楽園とも思えるような生活です。荒れ野にサフランの花[3]が咲き乱れるがごとしと言うことができる。池を掘るということは日本では造作もない事のように思われますが、ことエルサレムとなると話は別です。旧約聖書には井戸の取り合いの記事が、しばしば登場してくる。

 

ソロモン王は700人の妻、即ち王妃を有し、300人の側室を有していたと、列王記上11:1以下に「ソロモン王の背信とその結果」という小見出しがついて記されています。是非お読みください。ソロモンはこの妻たちを愛してそのとりことなってしまった。神は何度もソロモンに警告をした。しかしソロモンは妻たち、側室たちのとりこになり、神の再三にわたる警告に従わず、エルサレムで高台を設け、自分たちの神々に犠牲を捧げることを許した。その結果ソロモンの死後異国の神々によって惑わされた王国は、分裂し国を亡ぼす誘因となっていくのです。

 

「かつてエルサレムに住んだ誰よりも多くの」というのは、彼は優越感の中にさえも人の子の幸せを探った。目に望ましく映るものは、何ひとつ拒まず手に入れ、どのような快楽も余さず試みた。コヘレトの心は労苦さえ楽しんだ。彼は労苦をも楽しみ、その結果として快楽と愉悦を得た。しかし、彼は自分が為した労苦の結果の一つ一つを顧みてみた。結果は「見よ、どれも空しく、風を追うようなことであった。」とコヘレトは振り返る。

 

これは神が創造のわざを終えられた時、「神は御造りになったすべてのものをご覧になった。見よ、それは極めて(口語訳 はなはだ)良かった。」(創世記1:31)と記されています。しかしここでは、そうではない。神の創造のわざとは正反対。「見よ、どれも空しく、風を追うようなことであった。太陽の下に、益となるものは何もない。」と言う。全体としてかえりみた時、彼のこのような成功は、一体何であったのか。地上の楽園とも思えるような状況の中にありながら、彼の心は満たされないのです。隙間風が彼の心の中を吹き抜けていくのです。

 

ここで彼は愚行から身を転じて、より高尚な知的、精神的な活動に向かいます。「私はまた、顧みて知恵を見極めようとした。」(12節)現代風に言うならば、様々な思想を学び、それらを比較検討する。人間の様々な知的活動がもたらす結実を味わい楽しむ。賢者の目はその頭(あたま)に、愚者の歩みは闇にあることを学ぶ(14節)のです。

 

そして彼が次に見出したことは、知者にとっても愚者にとっても、人生は同じように終わるということです。「わたしはこうつぶやいた。『愚者に起こることは、わたしにも起こる。より賢くなろうとするのは無駄だ。』これまた空しい、とわたしは思った。賢者も愚者も、永遠に記憶されることはない。やがて来る日には、すべて忘れられてしまう。賢者も愚者も等しく死ぬとは何ということか。」(15節~16節)

 

これが分かった時、彼は生きることに対して倦怠感を覚えるのです。

「私は生きることをいとう。太陽の下に起こることは、何もかも私を苦しめる。どれもみな空しく、風を追うようなことだ。」(17節)

 

しかしここで彼は一瞬、自分の財産のことを思い出したようです。あるいはこれに頼って、生き甲斐を見出しえるのではないかと思ったのです。

しかし、次の瞬間、彼は自分の死後、墓の向こう側で自分が知力を尽くし、苦労して築いた財産が、他人のものになっていることを思い起こすのです。

20節以下を読むとこうあります。「太陽の下、労苦してきたことのすべてに、私の心は絶望していった。知恵と知識と才能を尽くして労苦した結果を、まったく労苦しなかった者に遺産として与えなければならないのか。これまた空しく大いに不幸なことだ。まことに人間が太陽の下で心の苦しみに耐え、労苦してみても何になろう。一生、人の務めは痛みと悩み。夜も心は休まらない。これまた、実に空しいことだ。」と言う。

 

 コヘレトはその生涯の活気ある時期に、自分の手で喜びを見出そうとしていそしみ励んだ。官能的悦楽、事業、豪華な生活、知的活動、みな人並み以上に追求し獲得したが、結局、彼の人生観は、虚無の感触に落ち着くのです。ことここに至れば、今風に言うならば、自殺するか、修道院に入るか、と言うことになるのかもしれない。事実教父ヒエロニムスは、このコヘレトの言葉によって、自分はこの世とこの世にあるすべてのものを軽蔑すべきことを学んだと言っている。

 

 

 ところがここで、思いがけない局面が24節以下で展開するのです。私たちを驚かすのは、この新しい局面というのは、この世に対する蔑視とか、人生への虚無感とはまったく違う、別のものなのです。ここでは修道院や自殺のことではなく、人が再び、この人生の日常の生活に立ち返ることが述べられている。何も肩をいからせたり、力んだりせず、落ち着いて、私たちの日常の生活に立ち返ることが述べられている。

 「人間にとって最も良いのは、飲み食いし自分の労苦によって魂を満足させること。しかしそれも、私の見たところでは神の手からいただくもの。自分で食べて、自分で味わえ。」(新共同訳2:24・25)

 

 「人は食い飲みし、その労苦によって得たもので、心を楽しませるより良い事はない。これもまた神の手から出ることを、私は見た。誰が神を離れて、食い、かつ楽しむことのできる者があろう。」(口語訳 2:24・25)

 

 労苦によって得たもので心を楽しませるという人生に対する肯定的な発言は、どこからでてくるのであろうか。その出所は今読んだ言葉の後半部分にあります。「それらは神の手からいただくもの」だからであるというのです。

 

人生は空の空なのだから、我らは食い、飲みし、歌って踊って楽しもうではないか、という刹那的な享楽主義ではない。享楽主義者はそれが、神の手から出ているなどとは言わない。私たちが従事している仕事、日々家庭において行っているすべてのこと、これらはすべて神の手から出ていることを私コヘレトは見たというのです。

 

 これまでコヘレトは自分で幸福を作り出そう、見出そうとして、死力を振り絞って探究してきた。それは自己実現を目指したものと言い換えることもできるでしょう。しかしそこにあったものは、空しさだけであった。彼はこの空しさは神によって満たされるのでなければ、永遠に満たされるものではないことに気づかされるのです。

 

アダムとエバも自分たちが神に守られていることに気づかず、自分の手で「善悪を知る木」の実に手を伸ばしたのです。神と等しくなろう、神と並ぶものになろう、更には神を超える者になろう、更には自分が神にとって代わろうという思いがそこにはあった。コヘレトは自分がまさに、アダムとエバが犯した罪を自ら犯してしまっていたことに気付かされたのかもしれません。彼は自分が傲慢であったことに気づかされるのです。

 

 「目を上げて、私は山々を仰ぐ。私の助けはどこから来るのか。私の助けは、天地を造られた主のもとから来る。」という詩篇121篇の言葉を思い起こしたのかもしれない。

 

次の新共同訳の25節の言葉は唐突なような感じが致します。しかも命令形で出ています。「自分で食べて、自分で味わえ。」というのです。これは24節の「神の手からいただくもの」を自分で食べて、自分で味わってみるのでなければ、この真理は分からないというのです。口語訳は「誰が神を離れて食い、かつ楽しむことのできる者があろう。」と訳されています。

 

彼のこの空しさは、神によって満たされるのでないならば、一切の空しさから抜け出すことはできないということに彼は気づかされたのです。これは彼の一大転機、彼のターニングポイントとなりました。そしてそれまで能動的であったコヘレトは、受動的なコヘレトに変えられます。ここには自分自身に絶望したコヘレトがいます。彼に課せられた労苦も含めて、神によって与えられていることに気付かされたコヘレトは、感謝と充足感を覚えるのです。自らの積極的な探究に疲れ果てたコヘレトは、神の癒しを素直に受け入れられる者に変えられています。

 

先週関口先生が宣教の中で、「神は私たちに贈り物を与える前に、まず私たちの内にあるものをお壊しになる性分をお持ちなのです。」という注解者の言葉を引用されておりましたが、今少しコヘレトが生きることにも倦怠感を覚えるほどに絶望の極みに達したことに関連してお話ししてみたいと思います。この破壊活動は我らの肉の思いに対して実行されるのです。我らが尊ぶ我らの自由意志、理性、知恵、知識、思いに対してこの破壊活動は実行されるのです。それは我らが神の恵みに対して最も感応しやすくなるためであり、我らの心の隅々にまで神の愛が染みわたるようになるためです。なぜなら肉の思いは、神の贈り物を受け取ることができないからです。神はその恵みを与える前に、私たちの中にある肉の思いを打ち砕くのです。それは取りも直さず、神の贈り物を恵みとして、無代価で私たちに与えるために他なりません。

 

神の愛のわざが神の本来のわざであるとするなら、我らには怒りとさえ見える神のわざは神の非本来的なわざであり、ルターはこれを神の「異なるわざ」と呼んでいます。神はその本来のわざを為したもうために、その異なるわざ、即ち破壊活動を遂行されるのです。ルターは神の異なるわざは神の本来的なわざを遂行するための手段である、マスクにすぎないと言うのです。神の怒りの背後に神の愛をみるのです。ルターはイザヤ書28:21の言葉を引用してこのことを説明しています。

      「主はベラツィム山のときのように立ち上がり

       ギブオンの谷のときのように憤られる。

       それは御業を果たされるため。

       しかし、その御業は未知のもの。

       また、働きをされるため。

       しかし、その働きは敵意あるもの。[4](新共同訳)

 

要するに神はイスラエルをその本来の民に立ち返らせるために、彼らにに対して敵対的になられるという個所です。ルターはこの個所をローマ書講義の中で、イザヤ書28:21を「主はそのみわざを遂行するために、主にとっては異なるわざをなしたもう[5]」と訳しています。また詩篇103篇11節を引用して「地よりも高い天の高さに従って、(すなわち、我らの思いに従わずに)、主は我らに対するいつくしみを強めたもうた。」と述べています。

 

神はコヘレトの思いには従わず、その向かった先はことごとく空しさの風を吹きさらし、彼の思いを超えて、今や一切が神の御手から出ていることを知らしめるのです。この恵みは自分で食べて、自分で味わう以外に知ることはできないというのはコヘレトの実感だったでしょう。神を離れては池を作って、庭を設計し、知的活動に専心しても、それは空しいというのです。神は一切において一切を為したもうと言うのです。この神が私たちに敵対しているかのように思われる時、神がその異なる業を為したもう時も、神は我らを捨ててしまったのではなく、もっとも近くにいましたもうというのは、ルターが主の十字架から学んだことです。

 

2章の最後の説になりました。26節です。「神は、善人と認めた人に知恵と知識と楽しみを与えられる。だが悪人には、ひたすら集め積むことを彼の務めとし、それを善人と認めた人に与えられる。これまた空しく、風を追うようなことだ。」

 

『善人』と訳されている言葉は、道徳的な善悪ということよりも、神に『恵まれた』『喜ばれる』人に近い。[6]」ということです。また「悪人」という言葉に関しても、「道徳的内包を持たない。『目的を誤る』原義(目標を逸れる)に近い」と言うことです。「的を外す」というのは、私たちがしばしば聞かされているように、ギリシャ語のハマルティア 「罪」という意味です。口語訳は「罪人」と訳しています。「神は、その心に適う人に、知恵と知識と喜びとをくださる。しかし罪人には仕事を与えて集めることと、積むことをさせられる。これは神の心にかなう者にそれを賜るためである。」と。これはやはりコヘレトの限界です。ヨブが悩まされた友人たちが主張した因果応報の世界が広がっています。

 

神はこの罪人に課せられた制限を取り払い、「大いなる喜び」「まったき喜び」をもたらされた。まさにこの罪人を目指して、神の独り子がベツレヘムの馬小屋で誕生した。もはやユダヤ人もギリシャ人もなく、その心にかなう者すべてにもたらされた喜びをあなたがたに伝えるというメッセージを私たちは野宿していた羊飼いと共に聞くのです。

 

「天使は言った。『恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなた方のために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなた方は、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなた方へのしるしである。』[7]

すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。

「いと高きところには栄光、神にあれ、

地には平和、御心にかなう人にあれ。」

 天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、

「さあ、ベツレヘムへ行って主がお知らせくださったその出来事を見てこようではないか[8]」と喜びに満たされた羊飼いたちと共に、私たちもこの方をお迎えしたいと思います。

 

ヨブが、また多くの預言者たちが待ち焦がれながら、見ることが出来なかった方が、この地上にその姿を現されたのです。大いなる喜びの到来に感謝したいと思います。

 

 



[1] 「コヘレトの言葉」注解 西村俊昭著 日本基督教団出版局 p。129

[2] 目で見る聖書の時代」月本昭男 写真 横山匡(ただし)日本基督教団出版局

ソロモン王の時代メギド、ハツォル、ゲゼルなどの町々が再建されましたが、(列王記上9章15節)、これらの町の遺跡からは、岩盤をうがって造られた縦穴と坑道を通って城壁内から地下水を汲みに行ける、りっぱな給水施設が発見されました。給水施設とならんで、汚水溝も整備されていました。ゲゼルでは城門の下に、メギドでは城壁の下に排水溝が造られ、汚水が城外に流れ出るようになっていました。P.17

[3] イザヤ書35:1・2新共同訳はサフランではなく、野ばらになっている。

[4] 口語訳はこの最後の言葉「敵意あるもの」を、「そのわざは異なったものである」と訳しています。

[5]イザヤ書28:21及び詩篇103:11節 「世界の名著 ルター」笠利 尚訳 中央公論社P.447

[6] コーヘレトの言葉」注解 西村俊昭著 日本基督教団出版局 P.183

[7] ルカ福音書2:10

[8] ルカ福音書2:15(口語訳)

(2023年11月26日 聖日礼拝)

2023年11月19日日曜日

悩みも多いが楽しく生きる(2023年11月19日)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)

讃美歌21 412番 昔 主イエスの



「悩みも多いが楽しく生きる」

ローマの信徒への手紙8章18~30節

関口 康

「同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。」

「現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います」(18節)とあります。「現在の苦しみ」の「現在」は、時間的な「今」を指しているだけではありません。神が天地万物を創造された日から、真の救い主イエス・キリストが再臨されて、世界が完成する終末までのすべての時間を指して「現在」とパウロは記しています。

しかし、今のわたしたちも、いまだイエス・キリストの再臨の日を迎えていませんので、二千年前のパウロの「現在」と同じ意味の「現在」の「苦しみ」を、わたしたちも味わっていると言えます。その「現在の苦しみ」が「取るに足りない」すなわち「大したことはない」と思える日が来るというのが、今日の箇所の趣旨です。しかし、「現在の苦しみ」が「取るに足りない」と言われると、将来は苦しくなくなるという意味なのか、それとも、もっと苦しくなるという意味なのかと考えてしまいます。

結論を言えば、両方の意味です。今より負担が大きくなり、もっと苦しくなります。しかし、それに耐えられるだけの意味や楽しみがあることを理解させていただけるので、「苦しいけれども苦しくない」という境地に達しうるという線で理解して大丈夫です。「悩みも多いが楽しく生きられるようになる」という線です。

「被造物は虚無に服しています」(20節)は、旧約聖書のコヘレトの言葉に通じます。口語訳聖書で「空の空、空の空、一切は空である」、新共同訳聖書で「なんという空しさ、なんという空しさ、すべては空しい」と記されているあの書物です。私が愛用するローマ書の註解書(著者レカーカーカー)に「ローマ8章20節はコヘレトの言葉の註解である」と記されていました。

「被造物」は「被選挙権」などで用いるのと同じ「被」を用いて「神によって造られたもの(物・者)」を表現しますので、当然「人間」を含みます。神が造られた被造物が、なぜ「虚無」に服しているのかは、常に大きな謎です。なぜなら、そうなるとまるで、神は人間を含む被造物を造りっぱなしで、管理責任も監督責任も負わず、放置しておられるかのようだからです。

神の支配力が弱い、とも言えます。旧約聖書の創世記によれば、神が最初に造られた人間アダムに「善悪の知識の木からは決して食べてはならない」と、神はただ言葉で禁じただけで、それは抑止力にならず、アダムは木の実を食べました。本当に食べてはいけないなら最初から神がその木を造らなければよかったし、近づけないように柵を設けておけばよかったのに、と言いたくなる出来事です。

しかしそれは、神が人間の主体性と自由を尊重してくださったことの証拠です。神は人間を奴隷にしたくないのです。被造物に干渉し、根掘り葉掘り情報を聞き出して、心配しているのか監視しているだけか分からない接触を取り続ける、かまってくれる、支配という名の過干渉の神ではありません。

それを「温かい」と感じるか「冷たい」と感じるかは、各自の感覚の問題です。しかし、「被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志による」(19節)は“神が被造物を虚無に服させた”という意味なので、神は本気で被造物を突き放されたと考えるほうがよさそうです。いつまでも依存して甘えないでいるように。自分で判断することを怠らないように。

“神が被造物を虚無に服させた”からこそ「同時に希望も持っています」(28節)という命題が成立します。「虚無」は数字で言えばゼロです。数学だとゼロ以下はマイナスですが、会計帳簿ならば赤字なので、どこかから借りられなければ終わりなのが「虚無」です。それが「同時に希望も持っている」というのは愉快です。虚無(ゼロ)より下は無いので、上を見上げて生きるしかないということです。

「被造物がすべて、今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています」(22節)の「うめき」や「産みの苦しみ」の直接の意味は、母親が子どもを出産するときに上げる声や、そのとき味わう陣痛です。女性にしか体験できないことだとも言えますが、もう少し広い意味で比喩的にとらえることも可能です。

はっきりしているのは「うめき」も「苦しみ」も否定的な意味であるということです。自分の側から買って出るのは自虐です。なるべく避けたいのがうめきや苦しみです。パウロが記している「うめき」という言葉にも否定的な意味の「ためいき」や「嘆き」というニュアンスが含まれます。

しかし、どのような意味やニュアンスで理解するにせよ、共通していなくてはならない要素は、その陣痛のうめきや苦しみを経た後に、それまで見たことも触ったこともなかった新しい存在が生まれ、そこから新しい何かが始まるという希望につながるので、その希望ゆえに苦しみに耐えられるということです。目標が大きいほど苦しみは大きいのですが、その苦しみを経て産まれる存在への期待ゆえに苦しみに堪えることができるということです。

新しい存在とは何かといえば、パウロの確信によれば、真の救い主イエス・キリストの贖いのみわざを通して生み出された「わたしたち」すなわちキリスト教会の存在です。加えて、イエス・キリストが再び来られる終末的完成をめざして歩む新しい信仰告白が与えられた世界の存在です。

その新しい存在の誕生を、希望をもって待ち望んでいる存在が今日の箇所に3つ示されています。第1が「被造物」(19節)。第2は「“霊”の初穂をいただいているわたしたち」(23節)。キリスト者のことだと言ってよいでしょう。そして第3は「“霊”」(26節)です。

「“霊”」(26節)については「待ち望んでいる」ではなく「助けてくださる」と記されていますが、意味は同じです。そして新共同訳聖書で二重引用符が付いている「“霊”」は「聖霊」です。聖霊なる神です。

被造物とキリスト者と聖霊なる神が、陣痛とうめき声をあげて何を待ち望んでいるのかは、先ほど言いました。キリスト教会の存在であり、かつ終末的完成を目指す世界の存在です。しかし、いずれにせよ、それらは将来に属することを少なくとも含みます。それは、今ここにいるわたしたちも見ることができない将来の教会と世界です。そのためにわたしたちは苦労しているのです。教会も、幼稚園も、キリスト教主義学校も、何十年後、何百年後の教会と世界の将来を待ち望みながら働くのです。

これも私の愛用註解書(著者レカーカーカー)のことですが、8章26節「私たちはどう祈るべきかを知らない」の解説にルターの言葉が引用されていました。愉快な内容でしたので紹介します。わたしたちの祈りが必ずしも聞かれず、願い通りにならないことの理由をルターが述べている言葉です。

「ルターが次のように述べています。『私たちが祈っているとき、明らかに反対のことが起こるのは最良のしるしです。それは私たちが祈った後、すべて計画通りに進むのが良い兆候ではないのと同様です。まるで神は私たちのすべての考えに反対し、私たちが祈る前よりも後のほうが、さらに私たちに対して怒っておられるように感じます。神は私たちに贈り物を与える前に、まず私たちの内にあるものをお壊しになる性分をお持ちなのです』」(Vgl. A. F. N. Lekkerkerker, Romeinen 1, 1962, p.350)

神の怒りを買いながら、神の御心がどこにあるかを探り求めながら祈ることの大切さを、ルターが教えてくれています。“自分の願い通りにならないことのほうが良い”ことだってあるのです。

(2023年11月19日 聖日礼拝)


2023年11月12日日曜日

新しき生(2023年11月12日)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)

讃美歌21 532番 やすかれ、わが心よ 

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「新しき生」

ローマの信徒への手紙8章1~17節

関口 康

「肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。しかし、霊によって体の仕業を断つならば、あなたがたは生きます。」

今日の箇所は先週の続きです。先週の箇所はローマの信徒への手紙7章7節から25節まででした。しかし、教会創立71周年記念礼拝でしたので、その主旨に基づいてお話しする部分が必要でしたので、聖書の内容について詳しくお話しすることができませんでした。

かろうじてお話しできたのは、ローマの信徒への手紙の7章から8章までをわたしたちが読むときの大前提が違っている場合がある、ということでした。2点挙げました。

ひとつは、7章だけで45回出てくる「わたし」とはだれのことか。もしパウロだけを指しているとしたら、この箇所をパウロの自叙伝として読まなければならないことになるが、それでよいか。

ふたつめは、ここに描かれている「わたし」の葛藤は、キリスト教改宗前の人が味わっていた過去の葛藤であって、キリスト教への改宗後はもはや生じることがありえないものなのか。

どちらも「違う」と私は申しました。しかもそれは聖書解釈の問題として考えるだけでなく、わたしたち自身の現実から考えるほうが理解しやすいとも申しました。わたしたちのうち誰が、教会に通いはじめ、やがて洗礼を受けてキリスト者になったので自分の罪についての悩みも苦しみもなくなったと言えるでしょうか。「そんな人はいない」と言いたいわけですが、反論があるかもしれません。「罪についての葛藤は私にはありません」と。

しかし、もしそういう人が現われたら、多くの人が困ります。「私はキリスト者だと自覚してきたつもりだが、罪の葛藤が無くなったことはない。そうでない人がいるというなら、私の信仰が足りないという意味なのか」と苦しむ人が続出するでしょう。この箇所はキリスト教改宗前のユダヤ教徒だった頃のパウロの葛藤を描いたものではないとはっきり言うことによって、多くのキリスト者が救われると私は申し上げたいのです。

キリスト者でない人がキリスト者になることだけを「救い」と呼ぶのは狭すぎますし、事実でもありません。「教会」が天国の楽園のような場所で、涙はことごとくぬぐい取られ、悲しみも嘆きも労苦も無いと言えるなら別ですが、そうでないことはパウロ自身もよく知っています。

葛藤があるからと言って、信仰が足りないわけではありません。キリスト者になったからといって絶望することが完全に無くなるわけではありません。「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか」と悲痛な絶望の叫びを挙げる人は、イエス・キリストを信じる前の過去のわたしではなく、信仰をもって生きているこのわたしが今まさに抱えている問題を前にして絶望している叫び声でもあると言えることのほうが、むしろわたしたちは救われるでしょう。たとえば、キリスト者の自死は、その人の不信仰の結果でしょうか。そのように言われ、責められることのほうが、よほど残酷ではないでしょうか。

しかし、以上は先週申し上げたことです。今日の箇所の最初にパウロが「従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません」(1節)と記しています。

「罪に定められることがない」と訳されているカタクリマというギリシア語は、人間の決定でなく、神の決定を指します。カタクリマは「非難」という意味だけでなく「処刑」という意味を含んでいる点が重要です。人はあなたのことをなんとでも言うでしょう。しかし、神はあなたを非難しません。処刑もしません。あなたにもし不幸が起こっても、神の罰(天罰)ではありません。そうだろうか、そうかもしれない、神がわたしを罰しているのだ、だからわたしは不幸なのだと疑って、神の愛を否定しないでください。神はあなたを愛しておられます。このようにパウロが訴えていると読むことができます。

「キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。肉の弱さのために律法がなしえなかったことを、神はしてくださったのです。つまり、罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです」(2~3節)は、神の御子イエス・キリストがわたしたち罪人の身代わりに十字架にかかって死んでくださったこと、そしてそのイエス・キリストを通して示された神の愛が聖霊を通してわたしたち人間へと注ぎ込まれるとき、わたしたちは罪と死の法則から解放されることを指しています。

実はこれは新たな「葛藤」のはじまりを意味します。わたしたちの心の中に、神の愛を明確に伝え、ひとを善へとうながし、喜びと希望をもって生きていくようにと励ます「聖霊」が与えられるとき、その「聖霊」と、もともと人間の心の中に住んでいた「罪と死との法則」が取っ組み合いを始めるのです。その新たな葛藤を抱えて生きることこそが「霊による命」(新共同訳の小見出し)であり「新しき生」(本日の宣教題)です。決してそれは否定的な意味ではなく、悩みや苦しみ、葛藤や隘路、挫折や絶望も、すべて神に受け入れられていると信じることができることにおいて、喜びであり希望です。

しかも、ここで大事なことは、イエス・キリストの十字架を通して示された神の愛は、「罪深い肉と同じ姿」(3節)という性質を持っているという点です。キリスト者になっても自分の罪への悩みから解放されず、いつまでも葛藤し続けているこのわたしと同じ姿でイエスさまが生まれ、現実の世界を共に生きてくださり、しかも、地上のどんな律法も法律に照らしても死刑に値する罪を犯さなかったイエスさまが、十字架上で「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と絶望の叫びをあげられるほど苦しまれ、わたしたち罪人の身代わりに死んでくださったことで、あらゆる葛藤も絶望さえも、それは不信仰であるなどと神から責められ、処罰される理由にはならないことを明確に示されたことを意味する、ということです。

3節の註解(著者レカーカーカー(A. F. N. Lekkerkerker))に引用されていた言葉に私はぎょっとして立ちすくみ、考えさせられました。ベツェル(H. Bezzel)という人の言葉です。カール・バルトの『教会教義学』(原著Ⅰ/2, S. 169. 日本語版『神の言葉』Ⅱ/1、304頁)からの孫引きです。

「イエスが人間となるということだけではわれわれを決して救い出すことはできなかったであろう。ただイエスが肉となるということがわれわれを救い出してくれたのである。…人間となるということであれば、そのことはわれわれの苦痛を増大させたことであろう。それは、『なぜ汝は彼〔=イエス〕のような人間であることはできなかったのか』とわれわれを責めたて、ただ、われわれが罪におち入らなかったならばそのようなものとなり得たはずだという証拠をつきつけることになったであろう。人間となるということであれば、そのことは私の不幸に対する嘲りのようであったであろう。その辺の事情はちょうど、健康と力ではちきれるばかりの人が、病人の寝床に近づく時、そのことはつねに病人にとってたしかにひとつの悲哀としてうけとられるのと同様である」(吉永正義訳)。

イエスさまが「人間」として来られたとしたら、わたしたち人間はイエスさまのようになれないことに苦痛を感じるだけである。それは、元気な人がお見舞いに来ると病気の人は「私はなぜあなたのように元気でなく病気なのか」と悲しくなるだけなのと同じだというのです。続きは来週お話しします。

(2023年11月12日 聖日礼拝)

2023年11月5日日曜日

葛藤と隘路からの救い(2023年11月5日 昭島教会創立71周年記念礼拝)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)

讃美歌21 510番 主よ終わりまで

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 「葛藤と隘路からの救い」

ローマの信徒への手紙7章7~25節

関口 康

「わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。このように、わたし自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです。」

今日の礼拝は昭島教会創立71周年記念礼拝です。長い間、献身的に教会を支えて来られた皆さまに心からお祝い申し上げます。

この喜ばしい記念礼拝の日にふさわしい宣教の言葉を述べるのは重い宿題です。私がその任を担うことがふさわしいと思えません。2018年4月から鈴木正三先生の後の副牧師になりました。そして2020年4月から石川献之助先生の後の主任牧師になるように言われました。2020年4月は、日本政府から「緊急事態宣言」が出され、当教会も同年4月から2か月間、各自自宅礼拝としました。また、教会学校と木曜日の聖書に学び祈る会は3か月休会しました。そのときから3年半しか経っていません。

3年間、教会から以前のような交わりが失われました。なんとかしなくてはと、苦肉の策でインターネットを利用することを役員会で決めて実行したら「インターネットに特化した牧師」という異名をいただきました。申し訳ないほど「私」の話が多くなってしまうのは、3年間、家庭訪問すらできず、皆さんに近づくことがきわめて困難で、皆さんのことがいまだにほとんど分からないままだからです。

日本語版がみすず書房から1991年に出版されたアメリカの宗教社会学者ロバート・ベラ―(1927~2013年)の『心の習慣 アメリカ個人主義のゆくえ』で著者ベラーが《記憶の共同体》という言葉を用いたのを受けて、日本のキリスト教界でも特に2000年代にこの言葉を用いて盛んに議論されていたことを思い起こします。この言葉の用い方としては、個人主義、とりわけミーイズム(自己中心主義)に抵抗する仕方で「教会は《記憶の共同体》であるべきだ」というわけです。

なぜ今その話をするのかといえば、昭島教会の現在の主任牧師は、残念なことに《記憶の共同体》としての昭島教会の皆さんとの交わりの記憶を共有していないし、共有することがきわめて困難な状況が続いていると申し上げたいからです。この状態が長く続くことは決して良いことではないと、本人が自覚しています。不健全な状況を早く終わらせる必要があると考え、そのために努力しています。

教会はルールブックで運営されるものではありません。ルール無用の無法地帯ではありませんが、それ以上に大切なのは、教会の皆さんが共有しておられる「記憶」です。「記憶」が大切だからこそ、今日のこの礼拝が「昭島教会創立71周年記念礼拝」であることの意味があります。

今日開いた聖書の箇所は、ローマの信徒への手紙7章7節から25節です。理解するのが難しい箇所だと多くの方がおっしゃいます。私もそのことに同意します。しかし、この箇所を読むときの大前提が、読む人によって違っている場合が多くあります。特に重要な問題点を2つ挙げます。

第1に、この箇所に繰り返し出てくる「わたし」は誰のことかという問題です。7章だけで「わたし」が45回出てきます。シンプルに考えれば、この手紙は使徒パウロが書いたので、その中に「わたし」と単数形で書かれている以上、パウロ自身のことを指しているに違いないと言えなくはありません。しかし、そうなると、わたしたちがこの箇所を読む場合、これはあくまで《パウロの自叙伝》であるととらえて読む必要があることになります。伝統的にはそう読まれてきました。たとえば、オリゲネス、アウグスティヌス、ルター、カルヴァンがそう読みました。しかし、それで本当に正しいでしょうか。

第2は、いま申し上げた第一の問題と深い関係にあります。それは、この箇所で「わたし」は明らかに自分の心の中に潜む罪の問題で葛藤していますが、この葛藤はイエス・キリストを信じて救われる《以前の「わたし」》つまり《過去の「わたし」》の心の状態を描いたものであり、イエス・キリストを信じて救われた後はこの葛藤から全く解放され、罪の問題について悩むことも苦しむことも無くなる、という理解があるが、その読み方で正しいかという問題です。

第一の問題と第二の問題の関係性を言うなら、パウロが自叙伝として「わたし」が過去に属していたユダヤ教ファリサイ派からイエス・キリストを信じて救われたときに彼の中に内在していた罪の問題が解決し、葛藤が無くなったことを述べることがこの箇所に記されていることの趣旨であるということになるとしたら、先ほど挙げた2つの問題の読み方のどちらも正しいということになります。

しかし、結論だけ言いますと、今日的には、どちらの読み方も支持できません。それは聖書の解釈上の問題でもありますが、わたしたち自身に当てはめて考えてみれば理解できることだと思われます。

「律法は罪だろうか。決してそうではない。しかし、律法によらなければわたしは罪を知らなかったでしょう」(7節)とパウロが記していることの趣旨は、先ほど「教会はルールブックで運営されるものではないが、ルール無用の無法地帯でもない」と申し上げたことと関係します。「律法」は「法律」の字並びを逆さまにしただけで、英語では同じLaw(ロー)です。法律の存在そのものが罪であることはありません。しかし、律法にせよ法律にせよ、「法」の役割は私たち人間に、そのルールに従うことができない自分の罪や弱さや欠けを否応なしに自覚させることにあることは、わたしたちの体験上の事実でしょう。「法」の存在がわたしたち人間にとって究極的な意味の「救い」をもたらすことはなく、むしろ、ダメな自分をさらされ、それを直視することを求められるだけです。

しかも、法律の順序を逆さまにして「律法」という場合、その意味することは「神の言葉」であり、なおかつ「神を信じる者たちが従うべき教え」なので、個人的なものではなく、共同体が共有するときこそ意味を持ちます。「律法」は個人のルールブックではなく教会のルールブックだということです。そもそも誰ともかかわりを持たない完全な個人は存在しませんが、自室でひとりでいるときにルールは不要かもしれません。他の誰かとかかわりを持つときに初めてルールが必要になります。

しかし、それが先ほど第二の問題として挙げた、今日の箇所の「わたし」の葛藤はイエス・キリストを信じて救われるよりも前の、過去の「わたし」であると、もしわたしたちが読んでしまうと、共同体としてのキリスト教会は、ルール無用の無法地帯であるかのようになってしまいます。キリスト教会は律法主義には反対しますが、律法そのものを除外することはありませんし、あってはなりません。

そして、もうひとつ、今日の箇所の葛藤する「わたし」、なかでも特に「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこのからだから、だれがわたしを救ってくれるでしょうか」(24節)という悲痛な叫びは、あくまでも未信者だった頃の、あるいは他の教えに従っていた頃の過去のわたしであって、今は違うということになるとしたら、キリスト者にはこの葛藤は無いのかと問われたときにどのように答えるかの問題になります。キリスト者は「惨めな人間」ではなくなるのでしょうか。それはわたしたち自身がよく知っていることだと思います。

今日の宣教題を「葛藤と隘路からの救い」としましたが、救いはイエス・キリストへの信仰によってすべて成就され、今はもはや悩みも苦しみも無いと申し上げるためではありません。隘路(あいろ)は「狭くて通るのが難しい道」のことです。今のわたしたち自身が、昭島教会が「葛藤と隘路」の只中にいると申し上げたいのです。その中からの「救い」のために必要なのは、コロナ禍の3年間で失われた教会の交わりの回復と、《記憶の共同体》としての教会が再興されることだと、私は信じます。

教会の交わりの回復の第一歩として今日はこれから聖餐式を行います。今後の課題として、愛餐会、シメオン・ドルカス会、読書会や勉強会を取り戻すことを役員会で検討しています。

(2023年11月5日 昭島教会創立71周年記念礼拝)