2021年2月28日日曜日

罪と戦うキリスト(2020年2月28日 自宅・礼拝堂礼拝)

【お知らせ】

なおしばらく各自自宅礼拝を継続しますが、本日2月28日(日)より礼拝堂を開放いたします。10時半から礼拝を行います。出席は可能です。役割分担は当分決めません。通常礼拝再開に向けての準備段階です。ご理解とご協力をよろしくお願いいたします。
 
自転車で週報をお届けしています(昭島市つつじが丘付近)

讃美歌21 311番 血潮したたる ピアノ奏楽・長井志保乃さん

週報(第3557・3558号)PDFはここをクリックするとダウンロードできます

宣教要旨(下記と同じ)のPDFはここをクリックするとダウンロードできます

マタイによる福音書12章22~32節

「しかし、わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」

各自自宅礼拝は継続します。しかし、今日から礼拝堂を開放しています。「ぜひご出席ください」と強くお勧めする段階にはまだ至っていないと認識しています。どうかくれぐれもご無理のないようにご判断いただきますようお願いいたします。

私は決して忘れているわけではありません。今は「受難節」です。イエス・キリストのご生涯は苦難に満ちたものでした。わたしたちの罪の身代わりに十字架上で命をおささげになる日まで父なる神の御心に従われました。そのことを思い起こし、わたしたちの罪を悔い、主の前にひれ伏して過ごす大事な季節です。

しかし、いま私たちは各自自宅礼拝を続けています。教会のみんなが互いに顔を合わせることができていません。日本社会の中で定着しているわけでもない「教会暦」を重んじて行動することの困難を私は感じています。

しかし、先日ひとつの気づきがありました。それは、3日前の2月25日(木)に教会の週報を私が自転車で何人かの教会員のお宅まで届けに行った日です。ご高齢であるのと、お目がご不自由であるのとで、毎週の礼拝出席は難しいけれどもイースターとクリスマスの礼拝には毎年必ず出席してくださるMさんと、西立川駅の近くでお会いしました。

お互いにマスクをしていました。私がこの教会に来て丸3年です。クリスマスとイースターの礼拝に来てくださるMさんとは6回はお会いしていますと言いたいところです。しかし昨年(2010年)のイースター礼拝が各自自宅礼拝でした。Mさんとの出会いは1回引いて5回です。それくらいお会いすれば、マスクをしていてもMさんだと分かります。お声をかけたら「なんでこんなところにいらっしゃるんですか」と驚かれ、喜んでくださいました。

そのMさんが、3日前にお会いしたとき、「イースター礼拝は、今年はいつですか」と真っ先に尋ねてくださいました。手に持っていたアイパッドで確認して「4月4日です」とお答えしたら「イースター礼拝、今年はありますよね。出席したいです」とおっしゃいました。

Mさんはおひとりでお住まいです。どのような生活をされているかをお尋ねしたりお宅を訪問したりするのが難しいので、想像するだけです。年2回、クリスマスとイースターの礼拝に出席すると心に定めておられることが分かりました。そして、昨年のイースター礼拝が各自自宅礼拝になったことがMさんにとってどれほど残念だったかを想像して、胸がつまりました。

私が今しているのは「教会暦」の話です。生まれたときから教会生活をしてきた私などは教会暦に何の意味があるのかが分からないことのほうが多いです。しかし、いまご紹介したMさんのような方がおられることを忘れないようにしたいと思わされました。

今日の聖書の箇所の話に移ります。この箇所に描かれているのは、イエスさまが、目や口が不自由な人たちをいやされるわざを行われて、多くの人々の称賛をお受けになったとき、要するにそれを妬んだ人たちがいて、その人たちがイエスさまについてありもしない中傷誹謗を言い出したのに対して、イエスさまが反論されている場面であると説明できます。

イエスさまが病気や障碍を持つ人々をいやす方法が現代の医学とは全く違うのは、当然のことです。悪霊にとりつかれることが病気であり、その悪霊を心と体の中から追い出すことが治療であると信じられていた時代の話であるとしか言いようがありません。21世紀の私たちが2千年前と同じ治療方法を踏襲しなければならないわけがないし、よりよき治療方法が見つかればそれを用いるほうがよいに決まっています。イエスさまの治療方法は間違っているのではないかというような問題に引っかかって聖書が読めなくなるよりましです。

とにかく人の体や心が、痛い、苦しい、つらいと悲鳴を上げているときにその痛み、苦しみ、つらさを和らげること、取り除くことができれば、それがいやしなのだと思います。今のわたしたちでも、とにかく薬を飲めば治ると信じて、その薬を定められた量以上に飲むとかえって痛みが増したり、薬そのもので内臓が痛んだりするのを知っているはずです。

いやしは、ある意味で主観的な事柄でしょう。いいかげんなことを言っているように思われるかもしれませんが、自分にとって治ったと思えるなら治っているのです。「あなたは病気です」と人から言われても、自分にその自覚がないのなら、病気ではないのかもしれません。

しかし、いま申し上げている問題は、今日の箇所のテーマではありません。この箇所の問題は、イエスさまの働きが当時の多くの人々にとって有効なものであることが認められて、多くの人々から称賛を受けられたとき、それを妬んだ人たちがいたということです。

それは明らかに嫉妬です。私が持っている古い広辞苑(第4版)によると、「嫉妬」とは「自分よりすぐれた者をねたみ、そねむこと」です。「ねたみ」とは「他人のすぐれた点にひけ目を感じたり人に先を越されたりして、うらやみ憎むこと」です。「うらやむ」とは「人の境遇・資質などが自分より良いのを見てねたましく思うこと」です。

辞書の定義としては「うらやむ」とは「ねたむこと」であり「ねたむ」とは「うらやむこと」であると、同じ言葉が繰り返されてぐるぐる回っているだけですが、意味はわかります。共通しているのは、他人と自分の比較であり、とくに同一のあるいは類似した仕事や立場にいる同士の間での比較です。同じ肩書きを持ち、同じ職務についているのに、私にできないことが、あの人にはできる。そのことに我慢できず腹を立て、できる人の働きを妨害して、足を引っ張ろうとするのが、嫉妬であり、ねたみであり、うらやみの意味です。

そのような感情を抱いた人々が、イエスさまの働きについて「悪霊の頭ベルゼブルによらなければ、この者は悪霊を追い出せはしない」(24節)とくだらない噂を流したのです。「悪霊を追い出すためには悪霊の力を借りなくてはならない。つまり、イエスは悪霊を操っているのだ」と。

中傷誹謗のたぐいですから、無視なさってもよかったかもしれません。しかし、イエスさまは丁寧にお答えになりました。悪霊で悪霊を追い出すというのは内輪もめになるが、わたしは神の霊で悪霊を追い出しているのだと、興味深いお答えをなさっています。

「嫉妬」の問題は手強いです。おそらくだれもが持っていて、しかも制御しにくい感情です。それが心の中にとどまっているなら、まだ大丈夫です。心の外へと飛び出して精神的または物理的な暴力へと発展し、実際に他人の人生を破壊することがありうるだけに、凶悪な罪です。

しかし、その罪に対してイエスさまがどのような態度を示されたかが大事です。暴力に暴力で返すのではなく、丁寧にお答えになるイエスさまの姿を思い浮かべることができます。私たちの心の中の「嫉妬」という名の罪をイエスさまが取り除いてくださると信じようではありませんか。

(2021年2月28日 自宅・礼拝堂礼拝)


2021年2月21日日曜日

荒れ野の誘惑(2021年2月21日 各自自宅礼拝)

週報を自転車でお届けしています(昭島市中神町付近)

讃美歌21 458番 信仰こそ旅路を オルガン奏楽・長井志保乃さん

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マタイによる福音書4章1~11節

関口 康

「すると誘惑する者が来てイエスに言った。『神の子ならこれらの石がパンになるように命じたらどうだ。』イエスはお答えになった。『「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」と書いてある。』」

今日の午後、定例役員会・運営委員会を開きます。その中で通常礼拝再開のタイミングを協議します。協議を経る前に私が強い意見を持ちますと、自由な発言の妨げになりますので、それは控えます。しかし、ある程度は客観的な状況についてお話しすることは可能でしょう。

私は今でも週3日は朝早く電車やバスに乗り、2つの学校で聖書を教える授業をしています。行きも帰りも多くの人が、電車やバスに乗って移動しています。どちらの学校にも多くの生徒と先生が毎日集まっています。生徒は学校で昼食を食べています。もちろんすべての場所で対策がとられています。教会だけが極端に危険であるということはないでしょう。私に分かるのはその程度のことです。方針が固まり次第、皆様にご連絡いたします。

今日の聖書の箇所に記されているのは、教会生活が長い方にとっては何度聞いたか分からないほどよく知っているとお感じになるに違いない内容です。イエスさまが宣教活動をお始めになる前に、荒れ野で悪魔の誘惑に遭われたときの出来事です。

しかし、イエスさまが悪魔の誘惑に遭うとは具体的に言うと何のことでしょうか。その問題については私も毎回悩みます。皆さんはお分かりですか。人間でもなく野獣でもなく神でもない、怖い鬼のような顔の悪魔が歩いて来て、イエスさまに話しかけてきたのでしょうか。そうだったのかもしれませんが、そうでなかったかもしれません。

いえいえ、全くそういう話ではなく、イエスさまの心の中の葛藤のようなものだ。それを物語風に説明しているだけだ。つまりこれは、現代社会の中で高度に発達してきている心理学のようなことで十分に説明できる心理的な出来事である、という考え方もありうるでしょう。

私はどのように考えるか。どちらかというと今申し上げた二つのうち、あとのほうに近いです。イエスさまの心の中の葛藤のようなことではないかと考えます。ただし、イエスさまをあまりにも私たちと同じ人間としてとらえすぎて、イエスさまも選択肢をひとつ間違えば悪魔になる可能性もありえたかのように考えるのは、方向を間違っているような気がしてなりません。

しかし、この出来事をイエスさまの心の中の葛藤のようなこととしてとらえることにメリットがあります。それは、イエスさまが荒れ野で受けられたのと同じ誘惑を、わたしたちも受けるし、今も毎日のように受け続けているかもしれないことに気づかせてもらえるメリットです。

イエスさまがお受けになった3つの誘惑は、第1に「石をパンに変えること」、第2に「神殿の屋根から飛び降りること」、そして第3に「悪魔にひれ伏して世界の支配者になること」でした。それぞれの誘惑が何を意味するかは分かりません。マタイによる福音書にも、マルコによる福音書にも、ルカによる福音書にも同じ話が出てきますが、どれにも誘惑の意味は記されていません。記されていないということは、わたしたちがそれを解釈しなくてはならないということです。

石をパンに変えることができれば、自分自身だけでなく多くの人の利益になるので、みんなが喜んでくれるでしょう。そしてそれは、考えてみれば完全に不可能なこととは言い切れません。ダイヤモンドは石でしょう。あの石に値段をつけて売れば、相当なお金になるでしょう。それでパンを買って困った人に差し上げることができるでしょう。そのような意味のことが今日の聖書の箇所に記されていると、いま私が申し上げているわけではありません。「石をパンに変えることは絶対に不可能だろうか」という問いを立てて、その答えを考えてみているだけです。

神さまを信じているなら、神殿の屋根から飛び降りても、神さまが助けてくださるだろうから、試しにやってみる。そのことも、できるかどうかを言うなら、できるでしょう。そこが「神殿」でなくても、また「飛び降りる」というような口にしたくないことでなくても、あえて危険なことをしてみせて、何とかなるだろうと高を括る。それを「勇気」とか「信仰」とか呼ぶ。しかも悪魔はその危険行為を自分でするのではなく、イエスさまにさせるのです。使役するのです。

悪魔にひれ伏して世界の支配者になる、というのは、よくあることとまでは言わないにしても、人生経験を重ねて来れば、全く身に覚えがないとは言えなくなるでしょう。会社で出世したくて、社会で成功したくて、ライバルを蹴落とした、蹴散らした。ずるい方法も使った。越えてはならない一線を越えた。すべては自分の地位を守るため、財産を守るため。

イエスさまは、困った人にパンを差し上げることをなさいました。どんなことがあっても必ず助けてくださる神さまを信じて、冒険的なことをなさることもありました。そして、イエスさまは真の意味での世界の支配者になられました。クリスマスもイースターまでも世界中のどの国の人も、日本でも祝うようになりました。その意味を分かっているかどうかは深く問わないでおきましょう。どちらもイエスさまの生涯とかかわります。そのお祝いを世界中の人が今しています。

しかし、イエスさまは、今あげた3つの働きのどれについても、悪魔にひれ伏して手に入れたような方法でない、全く正反対の方法で成し遂げられました。その方法とは何でしょう。イエスさまがなさったのは、安息日ごとに会堂に集まって、礼拝をささげ、み言葉を語ることでした。それが宣教です。そして、お祈りと賛美をおささげになりました。そして、そのうえで、み言葉に耳を傾ける人々と共に生き、慰め励まし、病気の人をいやされました。

しかし、み言葉を語れば語るほど、反対する人たち、反発する人たちも増えて来て、その人々からの憎しみや怒りを買うようになり、とうとう十字架につけられて殺害されました。

もしイエスさまが、もう少しずる賢い方で、「うまく生きていく」すべをご存じなかったわけではないでしょうけれども、それを現実に実践し、人を人とも思わないような高圧的な態度で周囲を踏みつけるタイプの支配者だったとしたらどうだっただろうと考えてみることは、無意味ではないかもしれません。そのように考えた結果については言いません。各自で考えてみてください。

そして、それを考える際に、「教会」が「安心できるところ」であるともしわたしたちが感じるとすれば、どこにそれを感じるのだろうかということも、考えてみていただきたいです。

私の答えを言います。「教会」が「安心できるところ」なのは、悪魔にひれ伏して独裁的支配力を手に入れるイエスさまではなく、正反対のイエスさまがわたしたちと共にいて、わたしたちを力強く守ってくださっていることを感じるからです。

「退け、サタン」というイエスさまの声で悪魔は退散したのでしょう。あの安心できるところに、またみんなで集まり、「ああ なつかしい教会へ 今日こそみんなで帰ろう」(讃美歌第二編189番)と共に歌おうではありませんか。

(2021年2月21日 各自自宅礼拝)

2021年2月14日日曜日

奇跡を行うキリスト(2021年2月14日 各自自宅礼拝)

牧師館書斎

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宣教の音声(MP3)はここをクリックするとお聴きいただけます(13分42秒)

マタイによる福音書14章22~36節

関口 康

「夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた。弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、『幽霊だ』と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。イエスはすぐ彼らに話しかけられた。『安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。』」

昨夜の大きな地震には驚きました。23時8分、福島・宮城沖で発生したとのことです。教会は大丈夫でしたが、皆様はいかがでしたでしょうか。ご無事をお祈りしています。

今日の聖書箇所に登場するイエスさまの弟子たちも恐怖に怯えていました。それは湖に浮かぶ舟の中での出来事でした。

よく知られているように、イエスさまの弟子たちの中には何人か、元の職業が漁師だった人がいました。舟を漕ぐことのプロフェショナルが揃っていたと言えるでしょう。しかし、その彼らを悩ませるほどの逆風と波が襲いかかってきました。それが夕方から始まり、夜明けまで続いたというのです。

すると、夜が明けるころイエスさまが「湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた」(25節)というのです。通常はありえないことです。しかし、そのようなことが本当に起こったと、今日開いていただいているマタイによる福音書にも、マルコによる福音書にも、ヨハネによる福音書にも記されています。

「こういうことが書かれているから聖書が嫌いだ」とおっしゃる方がおられます。昭島教会の皆さんの中におられるという意味ではなく一般論です。ウソとしか言いようがないことがまるで本当に起こったかのように書いてある。おいそれと信じられるわけがないではないか。どうしてこんなことをクリスチャンは真顔で信じていられるのだろうと。そういう感想をいろんなところでよく聞きます。私もだいたい同じ気持ちです。すんなり受け入れられる内容ではありません。

もちろん、それはそうなのです。しかし、大事な点を見落としてはならないと私は思います。私が思い出す言葉は、英語で言えばDon't throw the baby out with the bathwater.という欧米圏で知られる有名な格言です。

それは「産湯と一緒にその中の赤ちゃんまで流さないでください」という意味です。どこの国の、どの時代の、だれが最初に言ったかは不明だそうです。しかし、この言葉が聖書の奇跡物語に当てはまります。書かれていることを信じられないからといって書かれている言葉に含まれている大切なことまで捨ててしまうのは勿体ないです。

はっきりしているのは、今日の箇所に描かれているのは、嵐の湖上で孤立して怯えながら一夜を明かした弟子たちのところに、何がどうなってそうなったかを説明するのはものすごく難しいことだけれども、そういうことはすべて脇に置いて、とにかくイエスさまが来てくださり、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」(27節)という言葉で励まし慰めてくださった出来事である、ということです。

そんなことを脇に置けるわけがないだろうとお考えになる向きがあることも当然理解できます。私もほとんど同じ気持ちです。しかし、この箇所に描かれているのと同じようなことが、わたしたち自身の現実の中でも、意外なほど、不思議なほど起こるということも、わたしたちは同時に知っていると思います。

なにがなんだか分からないけれども、とにかく助けられた。「一寸先は闇」の状況まで追い詰められたけれども、どっこいまだ生きている。あせって、乱れて、狂いそうだったけれども、心が落ち着いた。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」という、どこか懐かしくて温かい声が聞こえた、または聞こえたような気がした。それで我に返った。正気になった。冷静になることができた。そういう瞬間をわたしたちは体験するし、してきたのではないかと思います。

それが誰の声かは分かりません。もしかしたら自分自身の声かもしれませんし、家族の声かもしれないし、教会の仲間や牧師の声かもしれません。むかし学校で教えてもらった先生の声かもしれません。

しかし、それはだれの声でもいいでしょう。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われ、それで本当に心が落ち着き、「もうこれ以上は無理だ」とあきらめることをやめて、冷静な舵取りを再開し、向こう岸にたどりつくことを、自分の力だけで成し遂げたとはどう考えても言えないような仕方でやってのける。「終わりよければすべてよし」というような軽い話ではないと思いますが、とにかく要するに、まだ生きている、自分の足でまだ立っているという状況まで至れば、それでよいのです。

今日の箇所に書かれていることからだいぶ離れて、いいかげんなことを話しているようで申し訳ありません。ペトロがイエスさまに、自分も湖の水の上を歩きたいと言い出して、「来なさい」とイエスさまがおっしゃって、実際に水の上を歩き始めたけれども、強い風に気がついて、怖くなって、沈みかけたので「主よ、助けてください」とペトロが言ったら、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」とイエスさまに叱られた、というような話が続いています。

こういうのも面白おかしく読めばよい、というのは不謹慎な言い方かもしれませんが、「お話にならない非科学的で荒唐無稽な虚偽の記述である」と、しかめっ面で拒否するよりはましです。これも先ほどご紹介した「産湯と一緒に赤子を流すな」です。

ここに書かれていることの意味を考えるとしたら、ペトロは自分にもイエスさまと同じことができると思い込んで、自分の力に頼って、イエスさまの真似をしようとしたらできなかった、ということでしょう。「信じる」とは自分の力に頼ることの正反対を意味する、ということでしょう。このことさえ分かれば、この物語が読者に伝えようとしていることの目的は達成しているのです。あとのことはどうでもいいとは言いませんが、奇跡物語が苦手で聖書全体を捨ててしまうよりはましです。

私の話はしないでおきます。「先生、まだ若い」と皆さんからよく言われます。学校の生徒たちからまで言われます。人生体験を語る資格はありません。皆さんのほうが余程ご存じでしょう。あのとき危なかった。大怪我をしたけれども、まだ生きている。奇跡だとしか言いようがない。焦る気持ちの中で「安心しなさい」と、私を落ち着かせてくれる声が聞こえた気がした。

その体験がおありでしたら(きっとあるでしょう)、今日の聖書の箇所の意味が分かるはずです。わたしたちをいつも見守り、助けてくださるために、身を乗り出して来てくださる方がおられることを信じてよいのです。今ここに、各自自宅礼拝に、主が共におられるのです。

(2021年2月14日 各自自宅礼拝)

2021年2月7日日曜日

いやすキリスト(2021年2月7日 各自自宅礼拝)



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マタイによる福音書15章21~31節

牧師 石川献之助

「大勢の群衆が、足の不自由な人、目の見えない人、体の不自由な人、口の利けない人、その他多くの病人を連れて来て、イエスの足元に横たえたので、イエスはこれらの人々をいやされた。」

主イエスの御生涯について、宣教を通してお話できる事は、私にとって大変光栄に思う他はありません。特に今朝お読みしたマタイによる福音書は、その主イエスの御生涯について語られている共観福音書の冒頭の福音書でありまして、その一節である今週の御言葉は、特に私たちの心を打つ聖書の箇所の一つであります。

おそらく主イエスの晩年その短い公生涯に起こった、しかも主イエスの十字架の死に終わるその直前の出来事と思われます。そこには、娘の病に苦しむカナンの一人の女性の切実な求めに、主が応えられた話が書かれています。

パレスチナでは、主イエスが一人になれる場所は無かったと言えるでしょう。どこへ行っても群衆が主イエスの居場所を探しだしたからであります。そこで主イエスはガリラヤを通り抜けて、北にあるフェニキア人の地、ティルスとシドンに行かれました。

この地では主イエスは一時的であっても、学者、パリサイ人の悪質な反抗と群衆が主イエスによせる危険な期待とをさけることができました。ユダヤ人は主イエスについて異邦人の地までは行かなかったからであります。主イエスはわざわざ静かな場所に退かれました。それは最後の時を前にして、心備えのために、静かな時をもとうとされたのかもしれません。

しかし、この外国の地においても、主イエスは助けを求める人間の切なる願いから逃れることはできませんでした。ここには重病の娘を持つ母親がいました。この異邦人の女性は主イエスが行われる奇跡のことを知っていたに違いありません。そこで彼女は主イエスと弟子たちについてきて真剣に助けを求めました。これに対して主イエスはお答えになりました。

「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」(24 節)つまり私には関係がない、放っておきなさいということが主イエスの最初の答えでした。しかしこの女性は人々をかきわけて主イエスの前にひれ伏し助けを求めました。主イエスはまた答えて「子どもたちのパンを取って子犬にやってはいけない」(26節)といい、この女性の求めをもう一度退けられました。

この女性は、主イエスの度々の否定的な答えに、「主よ、ごもっともです。しかし子犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」(27節)と諦めることなく続けます。これに対して主イエスは答えました。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」(28節) その時娘の病気はいやされたとあります。

この出来事を通して、私たちも時に直面する祈りの問題について学ぶことが出来るでしょう。私たちの信仰の生活にとって大切な御言葉でありましょう。主イエスがユダヤ人の住むパレスチナの地域外に出られたのは、ただこの一回だけでありました。このことは、やがて福音が全世界に出ていくことを示唆しているという意味で意義深いと思います 。

この出来事に続くこの出来事に続く29節以下の箇所には、主イエスがガリラヤ湖のほとりに戻られてから、大勢の病人を癒された事が記されています。

すなわち主イエスが山に登って座っておられると、「大勢の群衆が、目の見えない人、身体の不自由な人、口のきけない人、その他多くの病人をつれて来て、イエスの足もとに横たえたので、イエスはこれらの人を癒された」(30節)

主イエスがまことの慈しみ深いお方であることを学びます。主イエスの愛の業に学び、私たちも、隣人と共に生きる道を歩んでいきたいと思います。

常に私たちは、様々な困難を抱えています。さらに今は新型コロナウイルスの深刻な影響が長期間となり、医療や福祉の問題はもとより、たくさんの社会問題が発生し心を痛める毎日が続いています。私たちは支え合い祈り合って、この難しい時を乗り越えていかなければならないと強く思います。

先週の自宅礼拝(1月31日)でささげた讃美歌403番(旧453番)は、私にとって思い出深い恵みの讃美歌でした。戦時中ですが、私の父・石川力之助牧師が牧会をしていた深川猿江町教会で当時十数名の出席者と共に礼拝をしていた時の記憶です。

教会から5分とかからない所に、野呂芳男氏が住んでおられました。当時、野呂氏は慶応大学文学部に通い、私は中学生で野呂氏は私にとって兄のような存在でした。野呂氏は後に神学者の道を歩むのですが、彼の信仰理解は私に多くの影響を与えてくれました。礼拝、その他の集会も休むことなく一緒に守ったものです。

その中で一緒にささげた讃美歌の一つが旧旧讃美歌453番でした。私は今でも、歌詞ばかりでなくベースのパートまで思い浮かぶのです。戦時中のことで今から七十数年前のことですが、懐かしく良く覚えています。戦時中、戦後共変わらずに礼拝を変わらずに礼拝を大切に守り通した歴史を思い浮かべます。希望に溢れた讃美歌ですのでここに記します。

(旧453番)

1.きけや愛の言葉を、もろ国人らの 罪とがをのぞく 主の御言葉を 主のみことばを

(繰り返し)

やがて時は来たらん、神のみ光りの あまねく世をてらす あしたは来たらん

2.見よや救いの君を、世のため悩みて あがないの道を 開きしイエスを、ひらきしイエスを

3.うたえ声を合せて あめつちと共に、よろこびにみつる さかえの歌を さかえのうたを

2月となり、今日で昭島教会の自宅礼拝も5回目であります。日曜日に教会で兄弟姉妹とお会いして、共に礼拝をささげ、交わりを深めながら励まし合うことの尊さ、大切さを改めて感じます。主にあって希望を紡ぎ、信仰を持って祈りに助けられ、信仰生活を全うするべく励んで参りましょう。

(2021年2月7日、各自自宅礼拝)


2021年1月31日日曜日

教えるキリスト(2021年1月31日 各自自宅礼拝)

石川献之助牧師

讃美歌「聞けよ、愛と真理の」奏楽・長井志保乃さん


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マタイによる福音書 5章17~20節

「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」

石川献之助

今朝久方ぶりで、宣教の場に立たせていただく務めを光栄と信じ、又主の御前に畏れを覚える者であります。

今日の聖書の御言葉は、マタイ 5 章 17 節以下の箇所でありますが、この 5 章から始まり7章まで、山上の垂訓と呼ばれる主イエスの大切な教えが語られております。その冒頭 5 章1節からの 8 つの「幸い」の教えは八福の教えと呼ばれ、あまりにも有名で教会学校の子どもたちにも暗誦聖句の主要な御言葉として教えられてきました。

ここで主イエスは、何が本当の「幸い」であるのかを教えられました。主イエスは教師として、神様の御言葉を人々に本質的にわかりやすく語っておられることに、真に驚きを覚える他はありません。

今日はそこに続く 17 節から、「律法について」主イエスが教えられた箇所について学びます。ユダヤ人が律法という時には、4つの違ったことを意味していました。

第一には十戒を意味していました。第二に聖書の最初の 5 書を意味し、ユダヤ人にとっては律法の真髄でありました。第三に律法と預言者、これは聖書全体を意味しています。第四に口伝律法つまり律法学者の律法でありました。主イエスの時代には、この四番目の意味で律法という言葉を用いることが一番多かったそうです。

旧約聖書には、法則や規定は殆ど書かれていません。あるのは広い意味の原則だけでした。モーセが神から与えられた十戒にも何の法則も規定もなく、一つひとつが大原則で、そこから各人が生活の決まりを定めるべきものでありました。しかし、後世のユダヤ人はこれらの大原則では満足できず、律法学者と呼ばれる人たちが現れて、律法の大原則から幾千もの法則と規定をつくり出すことを本職とするようになりました。

ユダヤ的律法主義者たちは、何事も規定しないではすまなくなりました。安息日にどのような行為をしたら罪にあたるかなど来る日も来る日も論議したそうです。主イエスの時代には、厳格な正統派のユダヤ人にとって、神に仕えるという事は、数千の法則、規定を守ることでありました。

主イエス御自身は、たびたびこのような律法に苦しめられ罪に定められた人々を救い、癒すために、律法を自ら破り糾弾されました。主イエスが律法学者やファリサイ派の人々により姦通の現場で捕えられ石打の刑にあおうとしていた女を、「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石をなげなさい」と言って、その女を救われた話を思い起こします。(ヨハネ 8 章)

それでは「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」(17 節)という御言葉をどのように理解すればよいでしょうか。ここで、主イエスが語られた「律法の完成」とは、律法の本当の意味を示すことであるのです。

律法全体の真髄であり基盤である十戒の基本的な原則は、神に対する畏敬と同胞並びに自己に対する尊敬であります。この畏敬と尊敬がなければ律法というものは有り得ないと教えておられるのです。この畏敬と尊敬を完全なものとするために主イエスは来られたのだと。つまり主イエスはこの神に対する畏れと人間に対する尊敬とが、どのようなものであるかを、具体的な生活の中で示すために来られたのであります。

このように御言葉の学びを進めてくる中で、私の心に深く刻まれた御言葉を思い起こします。ローマ書の 3 章 21 節~24 節を引用します。

「ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわちイエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。」

現代に生きる私たちも、律法によって裁かれる罪を負う者でありますが、律法を通して神を畏れることを知り、神を畏れつつ愛し、主イエスの十字架の贖いの愛に導かれ、祈りつつ信仰生活を送りたいと思います。新しい年もひと月が過ぎましたが、この年、悔い改めと信仰を新たにして、主の御前にへりくだり励んでまいりましょう。

追って私事ですが、皆様のお祈りに支えられて、私も元気に残る日々を過ごしています。皆様にお会いする日の与えられることを願いつつ、お一人おひとりの上に主の祝福を祈り続けたいと思います。

(2021年1月31日 各自自宅礼拝)

2021年1月24日日曜日

宣教の開始(2021年1月24日 各自自宅礼拝)



礼拝開始のチャイムはここをクリックするとお聴きいただけます

週報(第3551・3552号)PDFはここをクリックするとダウンロードできます



マタイによる福音書4章12~17節

関口 康

「そのときから、イエスは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められた。」

おはようございます。今日は今年度第2回目の「各自自宅礼拝」の3週目です。

不安な状態が続いていますが、否定的で悲観的なことを言い出せばきりがありません。前向きでいましょう。神さまが必ず明るい希望を示してくださり、また共に集まって礼拝をささげることができるようにしてくださることを信じて、今週一週間を共に過ごしたいと願います。

今日の聖書の箇所は、新約聖書マタイによる福音書4章の12節から17節までです。1年前の同じ時期(2020年1月26日)にも全く同じ「宣教の開始」というタイトルで、私が宣教を担当しました。このタイトルは日本キリスト教団聖書日課『日毎の糧』からそのまま借用しています。

しかし、聖書の箇所とその内容は昨年と今年で全く違います。昨年はヨハネによる福音書2章1節から11節までの「カナの婚礼」についての箇所でした。ヨハネによる福音書によりますと、イエスさまの宣教活動の最初の出来事が「カナ」という名の小さな村で行われた結婚式でイエスさまが水をぶどう酒に変える奇跡を行われたことだった、というあの箇所です。

しかしマタイ福音書は、それとは異なる出来事をもってイエス・キリストの宣教が開始されたように記しています。マタイによる福音書が「そのときからイエスは宣べ伝え始められた」(17節)こととして描いているのは、「ナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある湖畔の町カファルナウムに来て住まわれた」(13節)こと。つまり、引っ越しです。イエスさまはカファルナウムに引っ越しされました。そのときが宣教の開始だった、ということです。

当たり前かもしれませんが、イエスさまも引っ越しなさいました。物理的・身体的な移動です。イエスさまはどんな荷物をどれほど持っておられたでしょうか。家具や服や本をたくさん持っておられたでしょうか。そういうことを想像してみるのは楽しいことです。

石川献之助先生が昭島市(当時は北多摩郡昭和町)に引っ越しなさったときが昭島教会の宣教の開始です。それだけの責任が牧師に与えられています。二代目の主任牧師の長山恒夫先生は、昭島市に引っ越しはなさいませんでした。三代目の飯田輝明先生は、引っ越ししてこられました。そのように伺っています。私も引っ越ししてきました。

すべての教会に「宣教の開始」のときがあります。それも大事ですが、もうひとつ大事なのは、すべての牧師に「宣教の開始」のときがあるということです。牧師だけの話にしたくありません。すべてのキリスト者に「信仰の開始」があり、それは同時に「宣教の開始」を意味します。

しかし、その問題はここまでにします。イエスさまが宣教活動の最初になさったお引っ越しの意味を考えることが大事です。

第一のヒントは12節です。「イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた」。そのガリラヤ地方にカファルナウムがあります。そこにイエスさまは「退かれた」のです。ガリラヤは「退く」場所でした。しかも「ヨハネが捕らえられたと聞き」。

関連があるのは同じマタイ福音書の2章22節に産まれたばかりのイエスさまを抱えたヨセフとマリアについて「ガリラヤ地方に引きこもり」と書かれていることです。マタイ福音書によると、ガリラヤは「退く」だけではなく「引きこもる」場所でもあった、ということです。

彼らは何のためにガリラヤに引きこもったのかも記されています。当時のユダヤの王ヘロデが「ベツレヘムとその周辺一帯にいた2歳以下の男の子を、一人残らず殺させた」(2章16節)ことと関係しています。ユダヤの王は首都エルサレムに住んでいました。

そのエルサレムからできるだけ遠いところ、それが「ガリラヤ地方」だったということです。そこに「退き」、「引きこもる」ことで、産まれたばかりのイエスさまの命を守ろうとしたということです。その意味で「ガリラヤ」は彼らにとっての安全地帯でした。単純に都会ではなく田舎であるという話だけで片付きません。2歳以下の乳飲み子を容赦なく殺害し、ヨハネを殺害する。そのような凶悪な独裁者の殺害行為から逃れるために物理的距離を置く必要がありました。そのためにイエスさまは「ガリラヤのカファルナウム」に「退かれた」のです。

第二のヒントは13節から15節までに繰り返されていることです。読むと分かるのは、マタイによる福音書が、イエスさまが引っ越しなさった「カファルナウム」があるガリラヤ地方のことを、「ゼブルンとナフタリの地」と呼んでいる旧約聖書のイザヤ書8章23節の言葉に関連付けているということです。そのように関連付けたうえで、「それは預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった」(14節)という解説の言葉まで添えています。

この「ゼブルンとナフタリの地」とは何を意味するのかを説明するのは大変なことです。この分厚い聖書の旧約聖書の創世記から申命記までのモーセ五書を全部読み、さらに続くヨシュア記、士師記、サムエル記、列王記を読み、エズラ記、ネヘミヤ記を読むというような旧約聖書が描く歴史の流れをひと通り学んだうえで、旧約聖書が描いていないもっと後の時代の歴史を勉強してやっと少し意味が分かるといった具合です。

しかし、そのように言うのは意地が悪いかもしれませんので、ごく大雑把なことを申し上げます。私もそれ以上のことは知りません。

はっきりしているのは、ゼブルンとナフタリはアブラハムの子であるイサクの子であるヤコブの12人の子どもたちの中の2人である、ということです。ヤコブは「イスラエル」という名でも呼ばれた人です(創世記32章29節)。ヤコブの12人の子どもが、イスラエル12部族の先祖になりました。つまりゼブルンとナフタリはゼブルン族とナフタリ族の先祖であるということです。

ただし、複雑な事情がありました。ヤコブには2人の妻(姉レアと妹ラケル)と、その2人の妻のもとで働く女性の召し使いがそれぞれ1人ずついて(レア側にジルパ、ラケル側にビルハ)、ヤコブはその4人全員と関係をもつことで12人の子どもを得ましたが、ヤコブは12人の子どもを平等に扱わず、差をつけました。ヤコブが最も愛した女性がラケルで、その子どもたちを最も愛し、他の女性から生まれた子どもより大切に扱うというようなことをしました。

ゼブルンはレアの子ども、ナフタリはラケルの召し使いのビルハの子どもでした。そこから始まっていろいろ複雑に絡み合う部族同士の関係が、その後のイスラエルの長い歴史の中でよろしくない影響をもたらすことになっていきました。

すべて話す時間はありません。今日申し上げたいのはマタイ福音書がガリラヤ地方をわざわざ「ゼブルンの地とナフタリの地」と呼んでいるのは、西暦1世紀のガリラヤの人と関係あるわけがない昔話と結び付けられて、地域差別を受けていた地方であるということを言おうとしている、ということです。聖書を熱心に学ぶのは良いことですが、聖書の言葉で人やモノや地域を差別するのは悪いことです。そういうことがわたしたちの現実の中で起こるのは悲しいことです。

今日の宣教の要旨を週報紙面に書きました。それを読ませていただきます。

「イエスさまの宣教活動の最初の拠点はガリラヤ湖畔の漁師の町カファルナウムでした。そこは、ユダヤ人の歴史の中で辺境に追いやられ、弱い立場にある人々が暮らしていました。イエスさまはそのような人々を助け起こす救いの働きにお就きになりました。わたしたちも、弱さに寄り添う姿勢であり続けたいです」。

最後に書いたわたしたちの意味は「教会」です。

(2021年1月24日、各自自宅礼拝)

2021年1月17日日曜日

最初の弟子たち(2021年1月17日 各自自宅礼拝)


讃美歌21 404番 あまつましみず ピアノ・長井志保乃さん


週報(第3551・3552号)PDFはここをクリックするとダウンロードできます



マタイによる福音書4章18~25節

関口 康

「イエスは、『わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう』と言われた。」

おはようございます。今日は今年度(2020年度)第2回目の「各自自宅礼拝」の2回目です。最初の「各自自宅礼拝」は昨年4月と5月に実施しました。

最初のときも不安が無かったわけではありません。私個人はそんなふうには考えませんでした、と言うのは逃げの一手を打っているようでずるい気がしますが、教会堂にみんなで集まる礼拝をせず、各自自宅で礼拝をすることにすると、みんなの心が教会から離れてしまうのではないかと。

しかし、そのように考えることはお互いの信仰を疑うことを意味しますので、失礼なことだと思います。また、私などが考えるのは、世界中を混乱に陥れている感染症の問題に教会がまるで無関心であるかのような態度をとるならば、そのことこそ教会が多くの人から信頼を失う理由になるだろう、ということです。信頼を失った教会は、伝道を続けることができません。

何が正解であるかは分かりません。「各自自宅礼拝」をいつまで続けるのかは決めていません。1月3日日曜日に行った緊急役員会で私が申し上げたことは、通常礼拝を再開しても大丈夫だとみんなが納得できるような、なんらかの分かりやすいしるしがきっと示されるでしょう、ということです。それが何かは分かりませんけれども、きっと神さまがそれを示してくださるでしょう。

今日の聖書の箇所は、新約聖書5ページ、マタイによる福音書4章18節から22節までです。イエス・キリストが最初の弟子として、「ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレ」(18節)、また「ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ」(21節)の計4人を呼び寄せられた場面です。

この箇所は教会で繰り返し読まれ、語られてきましたので、改めて読むまでもないと言いたくなるほどです。しかし、何かわたしたちが《原点に立ち返る》必要があるときに役に立つ内容が記されていると思います。

このときペトロとアンデレは「湖で網を打っていた」(18節)最中でした。ヤコブとヨハネは「父親のゼベダイと一緒に、舟の中で網の手入れをしている」(21節)最中でした。

つまり、彼らは仕事中でした。しかも過酷な肉体労働です。からだじゅうの筋肉がパンパンに膨れ上がるような仕事です。そして、漁師の仕事は魚をとることですから、それは当然、同じ村に住む人々や遠くから買いに来る人々にその魚を分けることで漁師自身が収入を得ることを意味します。漁師たち自身がその場で店を開いて魚を売りさばいていたかどうかは、私は知りません。しかし、その魚は人の食べ物ですから、人の命に直接かかわる仕事です。

ぜひ想像してみていただきたいです。そのような過酷で、自分たち自身の生活がかかっていて、しかも多くの人々の命と生活を支えることに直接かかわる仕事をしている最中の人たちに対して、客観的に見れば湖のほとりをぶらぶら歩いているだけのように見えたかもしれないイエスさまが「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」(19節)と言い出す場面を。

わたしたちの毎日の生活の中でも同じような場面があると思います。会社勤めをしている方々の勤務時間中です。産まれたばかりの赤ちゃんがいるご家庭の方々の授乳中です。医師や看護師の方々にとっては深刻な病気にかかっている人の治療や看護をしている最中です。

漁師であった彼らにとって、漁をしている最中や、網の手入れをしている最中の状況は、それと全く同じです。どの人の仕事のほうが重要で、どの人の仕事は大したことがない、などと誰も言われたくないし、事実でもありません。みんなたいへんです。自分が生きることのためにも、人を生かすためにも、みんな必死で働いています。

今日の聖書の箇所に描かれているのは、まさにその場面です。自分が長年取り組んできた仕事に対する知識と経験と技能を駆使し、神経をとがらせ、全集中の作業に取り組んでいる最中に、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」という声が聞こえてきたというわけです。

2つの可能性が考えられます。そのひとつは、全く堪えられないほどひどいことを言われたと感じて激怒する可能性です。まるで自分が今していることを、頭ごなしにすべて否定されたかのようです。「漁師の仕事だなんていうようなそんなつまらない仕事は、今すぐやめて、人間をとる漁師になればいい」と言われてしまったと、彼らが感じ、そのとき虫の居所が悪ければ、イエスさまに食ってかかることになったかもしれません。

しかし、そうはなりませんでした。そうならなかった、ということは、いま申し上げた第一の可能性は、今ただちに否定してよいかもしれません。ただ、私が申し上げたいこと、みなさんに考えていただきたいことは、イエスさまが、あるいは弟子になった人たちが、漁師だなんていうつまらない仕事を、というように考えることがなかったとしても、この聖書の箇所を読むわたしたち自身がそのように考えてしまう可能性がありうる、ということです。

それは、世俗的な仕事よりも宗教的な働きのほうが上にある、というような感覚です。そんなつまらない、どうでもいいことはやめて、もっと高尚なことをしなさいと言っているのと事実上同じであるような考え方です。

わたしたちがよくよく考え、気を付けなければならないことだと私が思いますのは、いま申し上げたような感覚をわたしたちがほんの少しでも持っているようなら、伝道は不可能だということです。少なくともそれは、イエス・キリストの教会に属する者たちの考え方としてふさわしくないです。イエスさまが漁師たちのしていることを遠くから眺めて、そんなつまらない仕事よりも人間をとる漁師になるほうが高尚な生き方なので、わたしについて来なさい、というようなことをお考えになったでしょうか。ありえないです。

この場面で、4人の漁師がイエスさまの呼びかけを聞いて何を感じ、考えたので、ただちに従うことにしたのかは記されていません。しかし、彼らが腹を立てなかったことは大切な点ではないかと思います。彼らのプライドを傷つけるようなことを、イエスさまはおっしゃっていません。そういう意味ではないと、彼らの耳で聴いて分かったからこそ、4人の漁師はイエスさまに従うことができたのです。同じ言葉でも、字で読むだけでなく(心の)耳で聴くことが大事です。

第二の可能性は、「人間をとる漁師」の働きに就くことが今こそ求められていると、イエスさまの呼びかけを聞いた4人がはっきり理解できたということです。今は緊急事態であると分かったのです。人の心が弱っている。不安に陥っている。その人々を暗い海の中から希望の光へと引き上げる働きが、今こそ必要だと自覚できたので、彼らはイエスさまに従うことにしたのです。

今の私たちも同じです。毎日必死で働いている方々のために祈り、お役に立てることがあれば何でも喜んでお引き受けしたいと願うばかりです。

(2021年1月17日)


 
ご挨拶