2021年9月26日日曜日

よきサマリア人の譬(2021年9月26日 主日礼拝)

自転車で週報を配布する〔2021年9月19日)
旧讃美歌 520番 しずけきかわの 奏楽・長井志保乃さん



「よきサマリア人の譬」

昭島教会 秋場治憲兄

「この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに(私が)払います。」

                         2021年9月26日 

                         昭島教会 秋場治憲    

          「よきサマリア人の譬」

               ルカによる福音書10:25~37

               今週の聖句:ルカによる福音書10:35

 

今日のテキストは誰でもよく知っている「よきサマリア人の譬」です。そのお話は絵画的であり、また紙芝居的でもあり、教会学校でも恰好の教材となっています。私も何度か教会学校で取り上げたことがありますので、教会学校の礼拝にいつも出席されている方は、部分的には聞いたことがあるかもしれません。その時のことを思い出しながら読んでいただけたらと思います。

ただそれだけに私達が聖書を読んでいる時でも分かりきっているお話ということで、この物語に登場してくる祭司やレビ人のようにこの物語を横目に見ながら通り過ぎてしまうことはないでしょうか。よきサマリア人の譬か、「隣人に親切にしましょう」という教会学校のお話だ、というような先入観をもってはいないでしょうか。今日はこの分かりきっていると思われる物語を、今少し深堀をしてそのメッセージに耳を傾けてみたいと思います。

 

新約学者が10人集まると、10の意見があると言われるくらい、様々な意見がある中で、この「よきサマリア人の譬」は10人が8人までが間違いなく主イエスご自身が語られたものであるという点で一致しているとのことです。

このお話は色々な角度から読むことが出来ます。「律法と福音」「宗教と道徳」「永遠の命」「隣人とは」「信仰の確かさ」等、いずれの角度から読んでも実に深い示唆を与えてくれるお話です。それだけに内容は深く、全聖書がここに凝縮されていると言っても過言ではありません。礼拝の中でのお話は、時間の制限があり充分にお話することは出来ませんので、これを以って不足を補っていただけたら幸いです。

 

このお話を理解するためには、ユダヤ人とサマリア人の歴史に目を向けなければなりません。この歴史を理解しなければ、どうして元々は一つの民族であった両者が、骨肉の争いをするようになったのかが分からず、またこのお話も十分には理解することができません。また律法の規定にも目を向けなければなりません。そうしないと祭司やレビ人の行動を理解することができず、またイエスの言葉の意味も十分には理解することができません。従って、普段あまり読んだことのない旧約聖書のいくつもの箇所を参照しなければなりません。少々骨の折れる作業が必要です。でもこの作業を一つずつクリアしていくと、最後には今まで見たこともなかった景色が見られるのではないかと思います。

 

冒頭25節、新共同訳も口語訳も「すると」という言葉で始まっています。そうすると<どうすると?>ということが気になります。そこで少し前に目を転じますと、そこには七十二人が喜びにあふれて帰ってきた弟子たちを主イエスが迎えた時の様子が記されています。10:17~24を読んでみてください。今回はこの内容には深入りせず、この後に続く律法の専門家との関係においてだけ見てみたいと思います。

 

17節「主よ、お名前を使うと、悪霊さえも私達に屈服します。」18節「私は、サタンが稲妻のように天から落ちるのを見ていた。」21節「そのとき、イエスは聖霊によって喜びにあふれて言われた。『天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。』」。23~24節「それから、イエスは弟子たちの方を振り向いて、彼らだけに言われた。『あなた方の見ているものを見る目は幸いだ。言っておくが、多くの預言者や王たちは、あなた方が見ているものを見たかったが、見ることはできず、あなた方が聞いているものを聞きたかったが聞けなかったのである。』」

 

この状況をこの律法の専門家は間違いなく近くにいて、一部始終を見聞きしており、彼がこれからイエスに対してする質問は、それに対する反応であったと言うことをこの「すると」という言葉が示しています。上記の言葉を律法の専門家が聞いたとしたら、どんな思いを持つか考えながら読み返してみてください。当時のユダヤ人の社会では律法の専門家とは、神に関して必要なあらゆる知識を有する者、知恵あるもの、賢い者、教える者でした。今、目の前でくりひろげられている状況は、その彼の専門分野が完全にイエスの手に渡ってしまって、この分野の専門家であるはずの彼は、完全に蚊帳の外に置かれており、無視されてさえいます。これは専門家としては黙っている訳にはいきません。彼のうちにはイエスに対する対抗意識、競争心、嫉妬心が沸き起こってきており、その結果としての質問が「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。[1]」という質問になったのです。イエスはこの律法の専門家の下心を察し、その質問に対してイエスは「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか。」と問い返します。これに対して律法の専門家は専門家らしく、得々として自分の知識を語りだします。「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい[2]、また、隣人を自分のように愛しなさい[3]、とあります。」と。イエスは答えます。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」と。

 

さてここで図らずもこの律法の専門家の下心が露見してしまったのです。彼は十分すぎるほど答えの分かっていることを、イエスを試すために質問したということがばれてしまったのです。「先生」という呼びかけも、上辺だけのものであったことが明るみに出てしまったのです。そこでこの律法の専門家は、自分の下心の隠ぺいとイエスとの立場の違いを鮮明化させようとして、「自分を正当化[4]しようとして」(新共同訳)新たな質問を繰り出すのです。「では、私の隣人とはだれですか。」と。そこでよきサマリア人の譬が始まります。

 

エルサレムからエリコまで地図上の直線距離で22㎞、実測値では30㎞になるそうです。標高はエルサレムが790m、エリコは-250m、その落差は1040m、これは47m/㎞となりかなりの勾配となります。従って道は曲がり、必然的に死角が多くなります。強盗どもには格好の場所となったようです。

 

この「隣人とはだれですか」という質問の背景には、レビ記19:18の「復讐してはならない。(自分の)民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。」という律法がありました。また少し前の15、16節には、「あなた達は不正な裁判をしてはならない。あなたは弱い者を偏ってかばったり、力ある者におもねってはならない。同胞を正しく裁きなさい。民の間で中傷をしたり、隣人の生命にかかわる偽証をしてはならない。わたしは主である。」カトリック教会の司祭でもある井上洋二著「新約聖書のイエス像[5]」には次のように解説されています。「隣人とは、明らかに同じアブラハムを祖先にいただく同胞のことであり、異邦人(サマリア人も外国人との混血児であり、異邦人同様にみなされていた)は隣人の対象から除外されている。「あなたの国の人々を恨んではならない」ということは、これをひっくりかえせば、同胞以外の人なら恨んでもよいということにもなろう。ある人々にとっては、敵国の手先になって税金を同胞からしぼりとっているローマ直轄地の取税人や、駐屯しているローマ兵を相手に春を売っている売春婦などは、もはや隣人とは考えられていなかったのではなかろうか。」と。取税人や売春婦と共に食事をするあなたは、この律法の規定を理解していないのではないか、というのが律法の専門家の趣旨です。よきサマリア人の譬は、その質問に対するイエスの答えとなっています。先の地理的、地勢的状況も念頭に置いて、イエス様が語られた以下の物語を読んでみて下さい。このお話には「よきわざ」と「信仰の確かさ(救い)」という二つのテーマが、最終的には一つに合流していく様子が描かれています。

 

<ルカ福音書10:30~37>

「ある人がエルサレムからエリコへ下っていく途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服を剥ぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。ある祭司がたまたまその道を下ってきたが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。同じように、レビ人もその場所にやってきたが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」律法の専門家は言った。「その人を助けたひとです。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」(新共同訳)

 

ルカ福音書ではこの出来事はイエスがガリラヤからエルサレムへ向かう途上での出来事としています。その旅の冒頭にサマリア人から歓迎されないイエス一行の話(ルカ9:51~56)が出ています。弟子のヤコブとヨハネが、「天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか[6]」とまで言ってイエスにいさめられています。

このことからもユダヤ人とサマリア人が骨肉の争いをしていたことがわかります。サマリア地方を通ってエルサレムに向かう巡礼者たちが、度々襲われていました。他にもシカルの井戸で水を飲ませて欲しいというイエスに、水を汲みにきたサマリアの女は、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女の私に、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか。[7]」と言っています。極めつけはイエスに対しても「あなたはサマリア人で悪霊に取りつかれている。[8]」とさえ言っています。ユダヤ人とサマリア人がどうしてこんなに憎み合い、争うようになったのかというと、北王国イスラエルは紀元前724年、アッシリアのサルゴン二世によって滅ぼされ、住民は捕囚としてアッシリア[9]へ連れていかれました。サルゴン二世はイスラエルに多くの外国人を移住させ、結果として残された人たちとの雑婚が始まり、イスラエルはその信仰の純粋性を失うに至るのです。この時の様子が列王記下17:24~41に記されています。その後アッシリアはバビロンに滅ぼされ、バビロンは紀元前586年エルサレムを陥落させ、ユダヤの住民は捕囚として1600㎞も離れたバビロンへ連れていかれます。この捕囚は50年の長きに及び、その間にメソポタミヤ文明の影響を受けたと言われています。しかしその後バビロンはペルシャに滅ぼされ、ペルシャ王キュロスはイスラエルの民の解放を宣言[10]し、民が帰国してエルサレム神殿の再建に着手することを認めます。その先遣隊の中心となったのがエズラ、という預言者です。エズラはユダヤの民がこのような捕囚にあったのは、神の律法を守らなかったからであるとして、厳格に律法を遵守することを打ち出します。異邦人の妻を持つ者は即刻その妻を去らせることを強要[11]したのです。また神殿再建に際してサマリアの住民からの協力を断り、サマリア人の神殿受け入れを拒否[12]しています。ユダヤの民はそれまでエルサレムの神殿を中心としてきていたのを改め、各地に会堂を建設して律法の遵守を徹底したのです。サマリア人はこれに対抗し、ゲリジム山に自分たちの神殿を建立し、自分達のモーセ五書を編集しています。この後ユダヤの地は紀元前333年アレクサンダー大王によりシリア、パレスチナが征服され、紀元前63年にローマの将軍ポンペイウスによってエルサレムが征服され、ローマの属州とされます。そして紀元前6・7年ごろ主イエスが誕生するのです。ユダヤ人とサマリア人の確執は続き、様々な出来事を通して更に増幅されてイエスの時代に及んでいたのです。

アレクサンダー大王[13]の東方遠征は、一つの歴史的出来事に過ぎませんが、彼は後の支配のため遠征の際、多くの言語学者を同行し征服した各地に配置していったのです。インドとの国境線からギリシャのマケドニアまで、そしてシリア、パレスチナ、エジプト、北アフリカという広大な地域を征服したことは、中学、高校の歴史で学んだことです。これは同時にイエスの福音が世界に伝えられるための下準備となりました。聖書がギリシャ語で書かれ、広く世界中の人たちがその福音に触れる機会の創出となりました。また離散したユダヤ人の子孫たちはギリシャ語の世界で成長し、もはやヘブライ語を理解出来なくなっていましたが、旧・新約聖書のギリシャ語訳聖書が登場して彼らの理解を助けました。このギリシャ語はコイネー(共通語)と呼ばれ、福音の普及に大きな役割を果たしたのです。

 

よきサマリア人のお話に戻りますが、律法を遵守することが神の意志であると考えるユダヤ人、祭司とレビ人がその代表として登場してきます。レビ人[14]の歴史はモーセの時代にさかのぼりますが、神殿に仕える務めを託された者達で、神殿、幕屋に付属する器物の管理や楽隊、合唱隊の役割を受け持っていました。これら神殿における役割を受け持つ祭司とレビ人が傷ついた旅人[15]を捨て置き、骨肉の争いをしてきたサマリア人が手を差し伸べたというのは全く意外なことであり、驚きだったのです。ありえないことだったのです。現代の私達から見れば、この神殿に仕える祭司とレビ人が半死半生となっている旅人を見捨てて立ち去ったということは、許されざることと思われるかもしれませんが、ここにも律法の壁が立ちはだかっていたのです。

 

1はレビ記21:1「親族の遺体に触れて身を汚してはならない。2.ただし、近親、すなわち、父母、息子、娘、兄弟、3.および同居している未婚の姉妹の場合は許される。4.間違っても、親族の遺体に触れて、身を汚すことがあってはならない。」という規定です。第2は民数記19:11~13「どのような人の死体であれ、それに触れた者は七日の間汚れる。12.彼が三日目と七日目に罪を清める水で身を清めるならば、清くなる。しかし、もし、三日目と七日目に身を清めないならば、清くならない。13.すべて、死者の体に触れて身を清めない者は、主の幕屋を汚す。その者はイスラエルから断たれる。清めの水が彼の上に振りかけられないので、彼は汚れており、汚れがなお、その身のうちにとどまっているからである。[16]」という規定です。

 

祭司もレビ人もこの規定を知らないはずはなく、もしその旅人が死んでいたなら神殿での聖務につけなくなると考えたことでしょう。目の前に横たわる人間よりも、律法第一主義を旨とする二人にとっては律法に従ったまでのこと、なのかもしれません。しかし、この点こそが主イエスが批判して止まない点なのです。

 

33.ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、34.近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。35.そして、翌日になるとデナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』36.さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。

37.律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。行って、あなたも同じようにしなさい。

 

 イエスは律法の専門家の質問に正面から答えてはいません。「私の隣人とはだれですか。」という質問は、どこまでが私の隣人なのか、と問うているのです。主イエスが食を共にしている取税人や売春婦やサマリア人も含まれるのか、と問うているのです。これに対するイエスの答えは、誰が追いはぎに襲われ半死半生で道端に倒れている旅人の隣人となったか、というものでした。イエスは律法の専門家に問い返すことによって、彼のその問の設定そのものが間違っているということを指摘しているのです。ユダヤ人達が見下して止まないサマリア人をして、隔ての中垣を取り除き、民族、宗教、人種、地位等に関係なく、助けを必要としている人の隣人になることが、隣人を愛するということであり律法が求めていることである、と言っているのです。ユダヤの民族主義に凝り固まった律法(解釈)に風穴が開けられ、キリスト教が世界宗教としての基を据えた瞬間でもあります。

この律法の専門家の最後の言葉、「その人を助けた人です。」という言い方も、すべて代名詞で答えています。素直に「サマリア人です」という答えにはなっていません。この言い方は聞いたことがあります。放蕩息子の兄の言葉です。「あなたのあの息子が、・・・」であり、自分の弟ではなくなっています。私達もよく使うのではないでしょうか。「あの人は・・・」「あの方は・・・」と。どこかで自分との関係を断ち切っている使い方です。相手を物(it)として見ている時の使い方です。

 

 マルチン・ルーサー・キング牧師がこの「よきサマリア人の譬」をテキストにして説教した際、祭司とレビ人は自分がこの人を助けたなら、自分はどうなるか、と考えた。サマリア人はもし私が今この人を助けなかったなら、この人はどうなるか、と考えた、と語っていたというのをどこかで読んだことがあります。イエスの指摘していることを要約した言葉ではないかと思います。

 

 ところでこの譬については古来、全く別の解釈がなされてきました。それはこの旅人はアダムであり、律法の下で罪の呪縛のもとにのたうち回る罪人であり、この人によきサマリア人であるキリストが手を差し伸べるという理解の仕方です。その視点から読むと、サマリア人はその旅人の傷にぶどう酒を注ぎ、油を塗り、包帯をしてその傷を包み、自分が座すべきろばの背にこの旅人を乗せ、ご自身は本来この旅人が歩くべき埃にまみれた道を歩き、宿屋に連れて行って介抱した、となります。ルターはここで「聖なる交換」が行われていると言っています。我らの罪がキリストの罪となり、キリストの義が我らを覆われる、というのです。

35.そして、翌日になるとデナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』と。私達はこの言葉を軽く聞き流してはならないと思います。言葉を変えれば、この言葉は「この人の傷が完全に癒されるまでに必要なすべての代価は、私が払います。」と言っているのです。「もし更に費用がかかったら、私が帰ってくる時に、私が払おう」と言っているのです。「この人の傷は(罪は)、私が完全に贖おう」だからこの人の世話をお願いします。そして古来この宿屋は教会と理解され、「私が帰ってくるときに」というのは、キリストの再臨と理解されてきました。

私達は現実には罪人であり、罪人以外の何物でもありません。しかしこの言葉「この人の傷が完全に癒されるまでに必要なすべての代価は、私が払います。」「もし更に費用がかかったら、私が帰ってくる時に、私が払おう[17]」という言葉に希望を置く限り、現実には満身創痍で宿屋のベッドに横たわっている者ではあっても、確かな平安のうちに安らぐことが出来るのではないでしょうか。私達の信仰の確かさは、この約束の確かさにあるのです。永遠の命は無代価で、無償で、ちょうどクリスマスの夜にすやすやと眠る子供たちの枕元に、サンタクロースがそっとプレゼントを置いていくように、この旅人の枕元に置かれたのです。よきサマリア人のお話は、永遠の命が律法の専門家の問いのように何かをして獲得されるものではなく、すべての人に差し出されているというのです。神の子が既にその土台[18]を十字架の下に据えてくださったのです。

 

ヨハネ黙示録3:20に「見よ、私は戸口に立って、たたいている。だれか私の声を聞いて戸を開ける者があれば、私は中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、私と共に食事をするであろう。私達がキリストのもとへ行き、扉をたたくなら入れてもらえる、ではないのです。キリストが我々の心の扉をたたき、我々が心の扉を開くと、キリストが中に入り来たり、共に食事をするというのです。我々が苦行、修行を経て悟りに到達するというのではなく、放蕩息子の父親が息子の帰りを今か今かと待ちかねていたように、キリストは待ちかねているというのです。

 

「私は平安をあなた方に残していく。私の平安をあなた方に与える。私が与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。あなたがたは心を騒がせるな、またおじけるな。『私は去っていくが、またあなたがたのところに帰って来る。[19]』と、私が言ったのを、あなた方は聞いている。もし私を愛しているなら、私が父のもとに行くのを喜んでくれるであろう。[20]」(口語訳)

 

ここで言う平安というのは四海波穏やかな状態では必ずしもなく、大波が頭上を越えて行く時も、主に結ばれて平安なりと言っているのです。「いつも喜んでいなさい」とは、こういう信仰に支えられた平安であり、喜びなのです。傷つき倒れている旅人には、何の功(いさおし)もないのです。「しかし働きはなくても、不信人な者(罪人)を義とみなされる方を信じる人は、その信仰が義とみとめられるのです。不法をゆるされ、罪を覆われた人たちは、さいわいである。罪を主に認められない人は、さいわいである。」「罪を主に認められない人は幸いである。[21]」(口語訳)とは、現実には不法を行う者であり、罪を犯す者ではあっても、その不法が、罪がキリストのものとなり、キリストの義の衣をもって覆われていることを信じる者達のことなのです。あの(十字架の)呪いがキリストの全体を呑み込んだのではなく、むしろ、呪いが呑み込まれたことを、ユダヤ人達は理解しなかったのです[22]。イエスの問い返しの主眼点は、その律法に書かれていることをあなたはそれをどう読むかということだったのですが、そこまでは律法の専門家の考えは及ばなかったようです。そしてサマリア人の譬は私達に、その答えを提供してくれているのだと思います。

 

ところでそもそもこのお話は、律法の専門家の「何をしたら永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」という質問から始まりました。主イエスの「律法には何と書いてあるか、またあなたはそれをどう読むか」という問い返しに、彼は心を尽くし、精神を尽くし・・・、あなた自身のようにあなたの隣人を愛しなさい。と答えました。それに対してイエスは「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる」、と答えたのではなかったでしょうか。それなのに、神は働きがなくても、不信人な者を義と認められる、不法がゆるされ、罪が覆われた者は幸いである、という。前回学んだローマ書3章「20.なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。23.人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、24.ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。」ということと明らかに矛盾しています。律法の専門家が答えた律法を「それを実行しなさい、そうすれば命が得られる」、とは「主イエスの皮肉であり、真面目なイエスの様の御教えではない」と榊原康夫牧師はルカ福音書講解第3P.501で指摘しています。律法を為すことによっては誰も、神の義に到達することはできないのです。律法を実行することによっては、罪の自覚しか生じないのですが、それにしても律法の専門家は、律法を熟知しながら、まったく罪の自覚がしょうじていないということは驚くべきことです。律法は霊的なものであり、心の底を求める、ということに気づいていませんでした。この律法の字義的解釈が主イエスを十字架へと追いつめていったのです。

 

最後の「あなたも行って同じようにしなさい。」という言葉は、命令法で書かれています。私はこの言葉を命令ではなく、励ましの言葉として受け止めたいと思います。命令法は依頼や願いも表します。このサマリア人が主イエスで旅人が私であるなら、主イエスは私があなたの隣人になったのだから、あなたも同じように今あなたの助けを必要としている人の隣人になってくれないか。是非そうしてもらいたいのだが、と読むことも可能です。私達は福音から律法をつくりだすことがないように気を付けなければなりません。

 

最後にそれでは私はいったい祭司・レビ人なのか、それともサマリア人なのか。皆様はどちらでしょうか。私はどちらかというとこの旅人に寄り得なかったかもしれない、と思うのです。むしろ、祭司・レビ人の方であったかもしれない。しかし今日のメッセージに励まされ、私もまた主イエスの万分の一にならって、いと小さき者に、いと小さきことをなす者でありたいと願う者です。自分を必要としている人の隣人になりたいものだ、是非そうしたいものだと思う者です。

 

それでも私達が助けを必要としている人の隣人になり得ない時のために、昭島教会ではサマリア基金を創設致しました。様々な事情で困難に直面した人を支援するための基金です。運用は牧師と役員が担当し、支援を受ける人の氏名は伏せられ、返済義務等はありません。返済はその方の経済的困窮がなくなった時、この基金へ感謝の献金をして頂くということになります。皆様のすこしずつの献金が、この旅人を再起させる力となります。ご協力をお願い致します。

 

「隣人のために存在する時、教会は初めて教会となる。」とはボンヘッファーの言葉です。使徒ペテロに「私の羊を飼いなさい」と言われたように、教会は主イエスから、この旅人の介抱を託されています。

 

宗教改革者ルターは1526年のこのテキストの説教の中で、この旅人の姿に義とされつつある罪人、現実には罪人でありながら、希望において義とされているキリスト者の姿を見ています。有名な「キリスト者は罪人であり、同時に義人である」というルターの義認論の基を見ています。

 

ルターのローマ書4:7講解からサマリア人の譬に関係する部分をご紹介致します。「以上のこと(すなわち我らは罪の中にいるが神は必ず我らを自由にしたもうこと)は次のような病人の場合に似ている。すなわちこの病人は最も確かな治癒を約束する医者を信じ、また約束された治癒を望んで神の戒めに従う一方、この医者が約束したことを果たすまで、約束された治癒を妨げないように、病気を悪化させないように、医者に禁じられたことから遠ざかる人である。いったい、この病人は癒されているのだろうか。いや、むしろ病人であると同時に健康なのである。彼は事実病人であるが、医者の確実な約束のゆえに健康である。医者が病人を癒すことは確実であるから、病人は、今や、彼をあたかも健康な者とみなす医者を信じている。なぜなら、医者は病人をすでに癒し始めており、死に至る病を病人に帰してはいないからである。善きサマリヤ人であられる我らのキリストは、同じ方法で半死半生の人間を、看護を要する彼の病人として宿屋に連れて行き、死に至る罪すなわち欲性(concupiscentia[23])を彼に帰せず、むしろその間に約束された治癒を望む希望において、この治癒が妨げられたり、また、罪すなわち欲性が増大するようなことを行ったり、行わないことを禁じながら、永遠の命に至る最も完全な治癒を約束して癒すことを始められるのである。それなら彼は完全に義人であるのか。そうではない。むしろ彼は同時に罪人であり、義人なのである。彼はまことに罪人であるが、彼を罪から解放し、最後に完全に彼を癒す神の認定(reputatione)と神の確かな約束によって義人なのである。(WA.56.272)」。またこうも言っている「だから、我らを同時に罪人、また罪なき者とみなしたもう神の憐みは驚くべきもの、いとも甘きものである。(ibid.270[24]」。

「なぜなら、罪は、もはや、あなた方を支配することはないからです。あなた方は律法の下ではなく、恵みの下にいるのです。[25]



[1] 「受け継ぐ」と訳されている言葉は、自分のものとするという意味もあります。同じような質問が以下の箇所にも、少しずつニュアンスを変えて出てきています。マタイ19:16~22、マルコ10:17~31、ルカ18:18~30

[2] ユダヤ人ならだれでも知っているシェマの祈りに出てくる一節です。シェマ イスラエル(聞け イスラエルよ)で始まるので、シェマの祈りと言われています。

[3] レビ記19:17~18「民の人々(あなたの国の人々)に恨みを抱いてはならない。自分自身のように隣人を愛しなさい。」

[4]29節「すると彼は自分の立場を弁護しようと思って」(口語訳)

[5] P.116~117

[6] ルカ福音書9:51~56

[7] ヨハネ福音書4:9

[8] ヨハネ福音書8:48

[9] アッシリアの首都はニネベです。預言者ヨナが神から宣教に向かえと言われたチグリス河流域の都市。しかしヨナはヤッファから海路正反対の西の果てタルシシュへ向かったのです。

[10] エズラ記1章

[11] エズラ記10章

[12] エズラ記4:1~5

[13] 紀元前358年~323年、哲学者であり、科学者でもあったアリストテレスの教えを受けていた。

「伝説によれば、アレクサンダーは神殿から祭司が行進してくる姿にひじょうに心うたれ、エルサレムを破壊しなかったのだという。彼はまたユダヤ人が特別の習慣に従うことをゆるした。」聖書の歴史 サムエル・テリエン著 創元社 P.53~54

 

[14] 出エジプト記32:19~29、歴代誌15:1~2

[15] 物語全体からユダヤ人と推定される。

[16] ガリラヤのカナでの婚礼の記事の中に、「そこには、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてあった。」(ヨハネ福音書2:6)という言葉を思い出して下さい。日本にも「清めの塩」なる

[17] ここは協調構文で書かれています。Αποδωσω(アポドウソウ 私が支払おう[直接法未来) σοι(ソイ あなたに)このΑποδωσωという動詞には「私が」という主語が含まれているので、通常人称代名詞は必要ありません。しかし、ここではεγω(エゴー 私が)という人称代名詞が別に添えられています。これは「他ならぬこの私が、」とか「私こそが」という力点が、この主語に置かれていることを示しています。「私は良い羊飼いである」とか「私はよみがえりであり、命である」という聞きなれた言葉も、協調構文で書かれています。

[18] 第1コリント3:11「イエス・キリストという既に据えられている土台を無視して、だれもほかの土台を据えることはできません。」

[19] 「私が言ったのを、あなた方は聞いている」というのは、以下の箇所のことです。ヨハネ福音書14:2・3「私の父の家には、住まいがたくさんある。もしなかったならば、私はそう言っておいたであろう。あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。そして、行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたを私のところに迎えよう。私のおる所にあなたがたもおらせるためである。」(口語訳)14:18「私はあなたがたを捨てて、孤児とはしない。あなたがたのところに帰って来る。」(口語訳)新共同訳は「孤児」を「みなしご」と訳しています。

[20] ヨハネ福音書14:27~28(新共同訳は「平和」と訳しています)

[21] ローマ人への手紙4:5~8

[22] 「世界の名著 ルター」P.400 詩編講義69:5

[23] Concupiscentia(コンクピスケンチア ラテン語の読み方はローマ字読みです) reputatione はラテン語です。この文章の訳者でもある笠利尚先生は、キリスト教のお話 第三集P.58~59で次のように解説しています。「欲性」と訳した原語は concupiscentia です。この語は元来人間の欲情とか情欲と訳され、伝統的にもこの意味で用いられました。しかし、ルターはこれに新しく深い内容を与えています。彼はこの語のなかに人間を縛り上げ、突き動かす自己追及の力を見ております。人間はすべてを用い、神をさえ利用して自分自身を求めると言うのです。彼は『欲性とは原罪である』とも述べています。また彼は、律法を実行する facere ことと完全に実行する perficere ことを区別します。実行するとは、わざによって、額にしわをよせて精進し、罰を恐れたり報奨目当てに律法を行うこと。完全に実行するとは、律法のわざを喜び勇んで、自発的に行うことです。これは律法から自由でなければできません。この自由は神の恵みを信仰によって受け入れる所に生まれるのです。

[24] 「聖書解釈の歴史」出村彰、宮谷宣史編 ルター派の聖書解釈 改革者ルターを中心として 笠利尚 P318~319

Igitur(従って) mirabilis(驚くべきこと)et(そして) dulcissima(極めて甘きこと) misericordia Dei(神の憐みは),qui (神は)nos(我らを) simul(同時に) peccatores(罪人) et(そして) non-peccatores(罪なき者) habet(とみなしたもう)。

 

[25] ローマ人への手紙3:14



2021年9月23日木曜日

にじのいえ信愛荘(教団隠退教職ホーム)訪問

2021年9月23日(木) 昭島教会を代表して関口康牧師と滝澤操一兄が日本キリスト教団隠退教職ホーム「にじのいえ信愛荘」(東京都青梅市)を訪問し、以前昭島教会で牧師としてお働きくださった2組の牧師ご夫妻を訪問しました。共同生活を営む隠退教職の方々の健康と安全が守られるようお祈りください。

にじのいえ信愛荘にて(動画)
みんなで寄せ書きした色紙と花束
教会の上空はおおむね好天。暑い
青梅マラソンスタート地点を通過
にじのいえ信愛荘に到着
鈴木正三先生、鈴木信子姉と
滝澤操一さんと鈴木先生ご夫妻
長山恒夫先生、長山篤子姉ご夫妻と
にじのいえ信愛荘の近くを散策
帰り道に多摩川の清流のほとりまで
ままごと屋(青梅線沢井駅すぐ)で食事
多摩川を渡るつり橋の前で
鮎釣りの方ががんばっておられた
青梅市のまちおこし「レトロ映画看板」



2021年9月19日日曜日

新しい戒め(2021年9月19日 主日礼拝)

ご長寿をお慶び申し上げます(2021年度 敬老はがき)
讃美歌21 155番 山べに向かいて 奏楽・長井志保乃さん


「新しい戒め」

エフェソの信徒への手紙5章1~5節

関口 康

「キリストがわたしたちを愛して、御自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとしてわたしたちのために神に献げてくださったように、あなたがたも愛によって歩みなさい。」
明日9月20日が敬老の日で国民の祝日です。昭島教会としても、毎年恒例ですが、75歳以上の方に敬老のはがきを今年もお贈りします。

村上明子さんが生けてくださった美しいいけばなの写真と聖書のみことば付きのはがきです。一言メッセージを私の下手な手書きで書かせていただきました。

送り先のご住所とお名前も、ご奉仕くださった方々がそれぞれ手書きで書いてくださいました。75歳以上の方はどうぞ遠慮なさらず、ぜひお受け取りくださいますようお願いいたします。

手書きであるということを強調させていただきました。下手な字よりもワープロの活字のほうが読みやすくてきれいではないかとお思いになる方がおられるかもしれません。それどころか、21世紀なのだから、紙のはがきより電子メールのほうがかさ張らなくていいのではないかというご意見をお持ちの方がおられるかもしれません。

しかし、こういうことを言いながら笑いが止まらなくなっています。すべて冗談です。不謹慎で申し訳ありません。手書きのほうがいいに決まっているではありませんか。すべて活字の手紙などをもらっても、ありがたくもなんともありません。手書きのほうが、気持ちが伝わる、心の思いが伝わる、それは人間として当然のことです。

この話の流れで申し上げておきたいことがあります。それは、このコロナ状況になって以来、昭島教会の新しい取り組みとして、教会のブログと電子メールを活用して、礼拝開始チャイム、オルガンやピアノによる讃美歌の奏楽、教会が毎週発行している週報、そして宣教要旨などを、インターネット経由で電子的にお配りしていることについてです。

手書きの要素は全く無く、すべて活字です。また、物質的な紙ではなく、電気信号を人間の脳が解読可能な文字に変換して、コンピュータやスマートフォンなどの画面に表示する形です。

敬老はがきも、メールに添付したPDFという形でお送りすれば、いけばなの見事に美しい写真を見ていただくことができますし、字が小さくて読みにくい場合は指先でピッと大きくして見ることができたりします。紙ではないので、汚れたり朽ちたりかびたりすることはありません。

しかし、どうでしょう。電子メールで敬老はがきが届いて「うれしい」と思う方がどれくらいおられるでしょうか。ひとりもおられないとは思いませんが、少数派だろうなと思います。

当然です。そんなのが届いてもありがたくもなんともないです。どうしてだと思われますか。私なりの答えですが、その方法であれば送る側の手間が省け、いとも簡単に大量生産できるからです。100人分でも1000人分でも同じ労力で作ることができます。

そんなものが届いて「うれしい」と思うご高齢の方はおられないと思います。大変失礼なことだと思います。冗談じゃない、どれだけの苦労、どれだけの手間をかけて今日まで生きてきたと思っているんだ、それをなんだ、大量生産の画一的な敬老はがきなど送りつけてきて、失礼にも程があると、お叱りを受けて当然です。

週報や宣教要旨をお送りするメールについても全く同じことが言えると、私は考えています。こんな失礼なものを毎週お送りするのは申し訳ないと本気で考えています。しかし、新型コロナウィルス感染拡大防止の観点から、やむをえず始めたことです。

また、メールやブログで伝えるだけで済むなどと決して考えず、太古の時代から人類の歴史において受け継がれてきた最も素朴な方法で直接お伝えすることと併用することで、なんとか補うという考え方を決して忘れてはなりません。表情と共に、口で、言葉で伝えること。今はマスクで口が塞がれているので、目の表情や声のトーンが大事です。

また、紙と鉛筆や筆で、ひとりひとり固有の、だれが書いたか分かるほど個性ある字で伝える。そのようなことが大事です。お体がご不自由で、字を書いたりすることがおできにならない方を責める意図などは全くありません。そんなことを言いたいのではないということは活字では正確に伝わらないかもしれません。しかし、直接お会いして、目と声の表情を伝え合いながらお話しすれば、必ず真意が伝わるはずです。

今日は、エフェソの信徒への手紙5章の1節から5節までを朗読しました。この中で特に今日、敬老のお祝いとの関係で申し上げたいのは、2節に「キリストがわたしたちを愛して、御自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとしてわたしたちのために神に献げてくださったように、あなたがたも愛によって歩みなさい」と記されていることについてです。

ここに書かれている意味の「供え物」とか「犠牲」は、ユダヤ教では今でも行っている、動物を屠殺して火で焼いて祭壇に置く儀式のことを指しています。それで分かるのは、供え物から立ちのぼる「良い香り」は、香水のかおりではなく、動物の肉を焼いた薫りのことだということです。

動物ならば「おいしそうだ」で済む話ですが、イエス・キリストの場合はそれでは済みません。イエスさまがお受けになったのは火炙りの刑ではありません。しかし、文字通りの命を献げて、全人類を愛し、弟子たちを愛し、わたしたちを愛してくださっています。

そのイエス・キリストの愛に倣ってわたしたちも互いに愛し合い、愛によって歩むべきであることが勧められています。ということは、互いに愛し合いながら生きていくわたしたちから立ちのぼる香りも、動物の肉が火で焼かれて食用にされるときと同じような性質のかおりであることを想像するほうが正しいということです。

もちろん、すべてはたとえです。実際に自分の体を焼いたりしないでください。そんなことをしてはいけません。しかし、イメージとしては、実際に自分の体が現実の火で焼かれているような痛みや苦しみを味わい、最終的に地上の命そのものが終わるのと同じであるということです。

人生というのは、そういうものでしょう。先輩がたはそのことをよくご存じでしょう。現実の火で現実の体を焼かれているのと同じほどの激しい痛みや苦しみを味わいながら生きていくのが人生であり、逃げ場がないオーブンや鍋の中に入れられて焼き殺されるのと大差ないことを。

それだけの痛みや苦しみを現実に味わい続けて来られた方々だからこそ敬老のお祝いをさせていただきたいのです。それは犠牲の愛であり、息の長い、時間をかけた、熟練した愛です。

その愛を、いとも簡単に大量生産が可能なインターネットのメールやブログ、またすべて活字で埋め尽くされた印刷物で伝えることは不可能です。「これですべて片付いた」と私は全く考えることができません。その方向に突き進んで行ったりは決していたしませんので、ご安心ください。

いろんな制約や苦労を伴う形であっても「対面」で行う礼拝や集会を、これからも重んじます。

(2021年9月19日 主日礼拝)

2021年9月12日日曜日

隣人(2021年9月12日 主日礼拝)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)
  
讃美歌21 510番 主よ、終わりまで 奏楽・長井志保乃さん


「隣人」

ヤコブの手紙2章5~13節

関口 康

「憐れみは裁きに打ち勝つのです」

ヤコブの手紙についての宣教を、昭島教会で過去2回させていただいたことが、手元の記録で確認できました。2回とも2年前の2019年で、その年の9月1日と10月13日です。しかも今日は2章5節から13節までを朗読しましたが、2年前の2019年10月13日に2章の1節から9節までを朗読し、その箇所についてのお話をしましたので、重複しています。

そのときの原稿を読み直しました。それで分かったのは、私の聖書の読み方は変わっていないということです。2年くらいで変わってしまうようでは信用ならない説教者であると言われても仕方がありません。私の信仰がブレていないという意味だろうと、よく解釈しておきます。

この手紙の2章は、新共同訳聖書が「人を分け隔てしてはならない」という小見出しを付けているとおり、《差別》の問題を取り上げています。1節以下に次のように記されています。

「わたしの兄弟たち、栄光に満ちた、わたしたちの主イエス・キリストを信じながら、人を分け隔てしてはなりません。あなたがたの集まりに、金の指輪をはめた立派な身なりの人が入って来、また、汚らしい服装の貧しい人も入って来るとします。その立派な身なりの人に特別に目を留めて、『あなたは、こちらの席にお掛けください』と言い、貧しい人には、『あなたは、そこに立っているか、わたしの足もとに座るかしていなさい』と言うなら、あなたがたは、自分たちの中で差別をし、誤った考えに基づいて判断を下したことになるのではありませんか」(1~4節)。

ほとんどはっきり言えるのは、これは空想の話や仮定の話でなく、西暦1世紀のキリスト教会の中で現実に起こった出来事についての、あからさまな描写であろうということです。どうしてそのようなことが「ほとんどはっきり言える」と言えるのかといえば、どの時代のどの国のどの教会の中でも実際に起こってきたし、今のわたしたちが全く無関係であると言えるだろうかと自分自身に問いかけてみるとおそらくすぐ答えが出るだろうことだからです。

昔も今も人間は変わっていないし、教会も変わっていません。この箇所に描写されているような状況の中で、人が考えること、行動することに大差はありません。しかし、だからといって、教会の中ですら差別が起こるのはやむを得ないことだと開き直って、それをまるで抵抗しえない運命であるかのように言い張るようなことでもするとしたら、果たしてそれはイエス・キリストの体なる教会なのでしょうか、教会ならざる別の集団へと成り代わってしまっているのではないでしょうかと、わたしたち自身も激しく自問自答すべきですし、ヤコブの手紙の著者ヤコブも、同じ問いの前に立たされていたのではないかと、容易に想像することができます。

昭島教会でこのようなことを私が見かけたことは一度もありませんが、美しい身なりの人には「どうぞこちらへ」と勧められる席があり、そうでない人には(椅子が汚れるから、でしょう)「立っていなさい」と言われてみたり、「地べたに座っていろ」と言われてみたり。そんなとんでもないことは、教会に限った話ではなく全世界の全領域において起こってはならないことですが、百歩譲ってせめて教会の中では完全に否定されなければなりませんが、現実はどうでしょうか。

5節に大切なことが記されています。「わたしの愛する兄弟たち、よく聞きなさい。神は世の貧しい人たちをあえて選んで、信仰に富ませ、御自身を愛する者に約束された国を、受け継ぐ者となさったではありませんか」(5節)。

これは、最初にイエスの弟子になった12人の使徒を中心にした弟子集団、そしてまたイエス・キリストの復活と昇天、さらに聖霊降臨の出来事を経て誕生したキリスト教会を指しています。その人々が「世の貧しい人たち」であるというのは、社会的・経済的な意味での貧困層に属していた人々を指します。神はそういう人たちを「あえて」選んだと言われているのは、そこに神の明確な御意志が働いていたという意味です。

もちろん人それぞれの面があるでしょうけれども、教会に初めて足を運び、門をくぐる気持ちになったきっかけが、必ずわたしたちひとりひとりにあるでしょう。「貧しさ」ゆえに現実の生活が立ち行かなくなり、助けを求めて彷徨い、教会にたどり着いたという人もいるでしょう。

しかしまた、その教会自身も、ほとんど同じ境遇の中で、それぞれの個人の歴史の中で貧困を体験し、助けを求めて彷徨って、イエスさまのもとへと、あるいはイエスさまを信じる信仰へとたどり着いた人々の集まりであって、特定の篤志家が築いた財団であるわけでない。教会に援助を求めたとしても、さっとお金を渡してもらえるわけではない。長い年月をかけての地味で地道な助け合いと支え合いの中で各自の人生を立て直していく、その意味での「生活共同体」として教会がある。その事情は二千年の教会の歴史の初めからそうだった、ということです。

そうだったはずでしょうと、ヤコブは読者に問いかけたがっています。「だが、あなたがたは、貧しい人を辱めた」(6節)。教会は初心を忘れてしまったのか、と。身なりの良し悪しなどで差別するような集団に、どうしてなってしまったのでしょうか、と。

「富んでいる者たちこそ、あなたがたをひどい目に遭わせ、裁判所へ引っ張って行くではありませんか。また彼らこそ、あなたがたに与えられたあの尊い名を、冒瀆しているではないですか」(6~7節)とあるのは、当時実際に起こった具体的な出来事を指していると思われます。

イエス・キリストの名を冒瀆する人々が、教会を妨害するための口実を見つけては裁判所に訴えて、教会の活動を妨げる判決を引き出そうとしていたかもしれません。お金が物を言う場合があります。貧しい人たちには太刀打ちできません。そのような妨害者たちが使う手口と、教会がすることと同じでもよいと思いますか、おかしいと思いませんかとヤコブは問いたがっています。

「憐れみは裁きに打ち勝つ」(13節)とヤコブが書いています。この文脈での「裁き」の意味は、裕福な人たちがお金と権力を用いて思いのままに動かす裁判所の判決のことであると思われます。裕福な人たちは自分たちに都合の良い判決を引き出し、弱い人たちを敗訴に追い込もうとするが、人を差別している時点でその人たち自身が重大な罪を犯しているので、神の裁きにおいて敗けているのはその人たちのほうだ、という意味です。

ですから、「人に憐れみをかけない者には、憐れみのない裁きが下されます」(13節)の意味は、支配力をほしいままにして弱い人を虐め、貧しい人を嘲笑したりしてきた人は、神の厳しい裁きを受けるということです。そのようなことをしなければよいのです。神の厳しい裁きを免れるでしょう。「隣人」に対する(良い意味での)「憐れみ」を持つことを決して忘れてはなりません。

わたしたちに直接当てはまることかどうかは各自で考えることです。「耳が痛い」と感じる点があるとすれば、そこがわたしたちの急所です。教会だけが例外であることはありません。

(2021年9月12日 主日礼拝)

2021年9月5日日曜日

教会の一致と交わり(2021年9月5日 主日礼拝)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)
讃美歌21 390番 主は教会の基となり 奏楽・長井志保乃さん



「教会の一致と交わり」

コリントの信徒への手紙一 1章10~17節

関口 康
「皆、勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を一つにし思いを一つにして、固く結び合いなさい。」

今日から礼拝堂での主日礼拝を再開することにしたのは、先週までの状況と比べて今日の状況に大きな変化があったからではありません。それどころか、もしかしたら先週より状況がもっと悪化していると考えなければならないのかもしれません。

8月1日(日)にわたしたちは礼拝堂で礼拝を行いました。しかし、その翌日の8月2日(月)に政府が「重症患者や重症リスクの高い方以外は自宅での療養を基本とする」という声明を発表したことを知り、事実上の「医療崩壊」が公言されたと判断しました。それは、最初は私個人の判断でしたが、役員会の全員が同意してくださいましたので、8月8日(日)から8月末まで礼拝堂での礼拝を取りやめ、各自自宅礼拝の形に切り替えさせていただきました。

しかし、誤解が無いようにはっきり申し上げます。昨年度も今年度も、当教会を含む宗教法人に対する礼拝堂封鎖のようなことが要請されたことは一度もありません。もしそのような要請があるとしたら、言い方は悪いですが「お役所仕事」ですので、紙に印刷された通知の書面が政府名義で全宗教法人に必ず届くはずですが、そのような書面は存在しません。

悪口や当てこすりを言いたいのではありません。しかし、全国の教会の中に「緊急事態宣言が発出されたので」という理由で各自自宅礼拝やオンライン礼拝に切り替えたところがあることを私は知っています。しかし「されたので」と関連付けて言ってしまいますと、まるで政府が教会に何かを命令したかのように誤解する人が出てきかねません。しかも政府は「発令」という言葉を一度も使っていないはずですが、何かにつけて「発令」と言いたがる向きを感じます。誤解や誇張があると言わざるをえません。

なぜこんな話を長く続けているかというと、「まだ緊急事態宣言は終わっていないではないか、さらに延長する可能性があるらしいではないか、それなのにどうして今日からの再開なのか」という疑問があるだろうと思うからです。

結論からいえば、我々は「緊急事態宣言が出たので」礼拝堂を閉鎖するとか、「解除されたので」礼拝堂での礼拝を再開するという関係にない、ということです。だれが何と言おうとお構いなしにやりたい放題やってよいということではありません。冗談にも口にすべきでない。そうでなくわたしたちは、政府とは別に独自の判断をせねばならないということです。

わたしたちが自主的になすべき判断の根拠や基準は何なのかは、必ず問われることになりますが、それは別問題だと私は考えます。このあたりで今日の聖書の箇所に記されていることが深く関係してくると思いますので、そろそろ聖書の話に移ります。

しかし、その前に言うべきことがあります。「主の日」と呼ばれる日曜日ごとに、共に集まって礼拝をささげること自体は、それを「する」か「しない」かを教会ごとに判断するという関係にありません。「する」ことが教会にとって自明なことであり、「しない」という選択肢は教会にはありません。教会の信仰によれば、天地創造の初めから神ご自身が6日働いて7日目に休まれたという教えに基づき、7日ごとに神の前で安息を得るために礼拝することが教会の存在理由です。

ただ、その「共に集まる」の意味する内容が広がってきたことも事実です。特に今日インターネットを用いて「ヴァーチャルに集まる」ことが可能になってきました。それが今のわたしたちのギリギリの判断です。しかし礼拝を「する」か「しない」かは、わたしたちが自由に決める問題ではありません。その選択肢が自分たちの手中にあると思い込んでいるとしたら、もはや「教会」ではありません。

それで今日の聖書の話です。使徒パウロがコリントの教会に宛てて書いた手紙の、比較的冒頭に近い部分です。そこに「皆、勝手なことを言わず、仲違いせず、心を一つにし思いを一つにして、固く結び合いなさい」(10節)と記されています。

「勝手なことを言わず」というのは、ずいぶんきつい言い方ですが、理解はできます。大切なのは「心を一つにし思いを一つにする」ことです。それが「教会」だとパウロは確信しています。心も思いも一つにすることができない状態が続くことを、パウロは懸念しています。

今日の箇所に書かれている内容は、比較的よく知られていることです。コリント教会の設立者はパウロです。パウロが開拓伝道者です。しかし、この手紙を書いているパウロはもうコリントにはいません。別の地で伝道しています。コリント教会にパウロの後に来た伝道者がアポロです。しかし、どうやらアポロの言うこととパウロの言うことに違いや差があったようです。それで、コリント教会の中にどちらが正しいかの論争が始まりました。

しかし、どちらも正しくないと考える人たちが出てきました。当時のキリスト教会の最高責任者は、最初にイエスさまの弟子になったペトロでした。「ペトロ」はギリシア語人名ですが、その意味は「岩」です。当時イエスさまもペトロもアラム語で話していました。「ケファ」は「岩」のアラム語です。つまり、聖書に登場する「ケファ」は使徒ペトロのことです。

パウロの言うこともアポロの言うことも、どちらも正しくないと考えた人たちが、当時の教団の最高責任者のペトロに従おうと考えました。それが「わたしはケファに」(12節)の意味です。いや違う、我々が従うべきは、生前のイエスさまの最初の弟子のペトロだとかではないし、生前のイエスさまに直接会ったことがあるわけでないパウロやアポロでもなく、イエスさまご自身だ、キリストだと言い出した人たちもいました。それが「わたしはキリストに」(同上節)の意味です。

そのような言い争いをしているコリント教会にパウロが言いたいことは、「わたしは誰につく」という発想そのものをやめなさい、ということです。「キリストにつく」という答えが最も正しいという説明を私もどこかで聞いたことがありますが、パウロが言っていることとは違います。

パウロの主旨は、けんかをやめなさい、心と思いを一つにしなさいです。この点、わたしたちは惑わされてはいけません。もし「キリストにつく」だけが正しい選択肢で、パウロもアポロもペトロも神でも救い主でもなく、ただ邪魔なだけで信仰とは関係ないなどと言って、蹴散らしてしまうのであれば、わたしたちが新約聖書を読む意味がなくなってしまうでしょう。なぜなら、新約聖書のすべてがイエスさまの(広い意味での)弟子たちが書いたものなのですから。

回りくどい話になりました。わたしたちが今日から礼拝堂での礼拝を再開するのは、「心と思いを一つにする」ためです。「各自自宅礼拝」が長期化すると、この点が難しくなります。とにかく集まり、顔と顔を合わせて共に礼拝する。それが「教会」です。

礼拝堂での礼拝を再開する「判断基準」があるとすれば、「心と思いが一致しているかどうか」にかかっています。そうかどうかを確認できなくなっていくことが教会にとって最も危機です。インターネットが「共に集まる」の趣旨にぴったり当てはまるかどうかは、今後の課題です。

(2021年9月5日 主日礼拝)