2023年3月19日日曜日

途方に暮れても失望せず(2023年3月19日)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)

讃美歌21 436番 十字架の血に

礼拝チャイム
週報電子版
宣教要旨PDF


「途方に暮れても失望せず」

コリントの信徒への手紙二4章1~15節

「わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない」

今日の箇所は使徒パウロのコリントの信徒への手紙二4章1節から15節です。この箇所の中に「わたしたち」という言葉が繰り返し出てきます。だれのことでしょうか。最も狭く考えても、使徒パウロのことだけでないことは明らかです。パウロだけであれば「わたし」と言います。

中身を少し読みますと、「わたしたちは、憐れみを受けた者としてこの務めをゆだねられている」(1節)、「わたしたちは、自分自身を宣べ伝えるのではなく、主であるイエス・キリストを宣べ伝えています」(5節)、「わたしたち自身は、イエスのためにあなたがたに仕える僕なのです」(5節)など、記されているのが分かります。

つまり「わたしたち」の意味は、パウロ自身が含まれるのは当然として、あくまでもイエス・キリストを宣べ伝える「務め」に専門的に就いており、つまり宣教活動を自分の職業にしている人だけを指し、なおかつ「あなたがた」(5節)と呼ばれているコリント教会の人々に「仕える」立場にあった人だけを指す、と考えなくてはならないでしょうか。

そうではなく、もっと広い範囲の人々を含むべきでしょうか。たとえば今日の礼拝に出席しているわたしたちを含めてよいでしょうか。読み方はひとりひとりに任されています。

しかし、ひとつの点ははっきりしています。それは、コリントの信徒への手紙(第一の手紙、第二の手紙)をパウロが書いたのは、コリント教会の中にいた、パウロが「使徒」であることを否定したり相対化したりする人々を牽制する意図があった、ということです。

鶏が先か卵が先かは一概には言えません。コリント教会の中に、パウロと馬が合わない人々がいました。パウロの信仰に照らすと「卑劣な隠れた行い」をしている人々や、「神の言葉を曲げる」人々が教会の中にいました。後者は、聖書解釈の捏造です。その人々をパウロが批判しました。その人々もパウロに反発し、パウロの使徒性を否定しました。

パウロも引かない人でした。「わたしは使徒である」と明確に主張しました。その主張が、第一の手紙においても、第二の手紙においても、前面に押し出されています。「わたしたちは、憐れみを受けた者としてこの務めをゆだねられている」(1節)という言葉も、だれにも増して、わたしパウロがそうであると力説する言葉であることは明らかです。

「憐れみ」は、神の憐れみです。「わたしは神から使徒の務めを任された」とパウロは言っています。なぜ「憐れみ」なのかといえば、パウロが教会の迫害者だったことと関係あります。「使徒」たる要素がない人間なのに、神がわたしを使徒の務めに就かせてくださった、ということです。

しかし、それはパウロだけではないはずです。すべてのキリスト者も同じです。すべての使徒、伝道者、教会役員、牧師も同じです。「神の憐れみではなく、自分の実力でこの務めに就いている」と主張してもよい教会の職務はひとつもありません。それは事実に反します。

教会内で役があるか無いかも関係ありません。すべてのキリスト者が「神の憐れみ」によって選ばれた存在です。神の憐れみを具体的に表すのが洗礼式であり、役員選挙であり、牧師就任式です。わたしたちは自分で自分に洗礼を授けることはできないし、自分で自分を教会役員や牧師にすることはできません。

しかし、今申し上げていることは本題ではありません。今日お話ししたいのは、今日の箇所の「わたしたち」は、どんな試練や苦しみの中にあっても、勇気をもって忍耐する力を与えられた人々である、ということです。たとえば、4章1節の趣旨は「わたしたちは落胆しません」です。「落胆」の意味は、委縮する、断念する、疲れ果てる。そうならない人たちがいるというのです。

どんな妨害を受けても宣教の働きをやめません。たじろぎません。そして、それは個人としての働きではなく、教会の働きを指していることは明らかです。わたしたちは教会活動への参加をやめません、教会生活をやめません、ということです。引き下がりません。福音を恥としません。こういうことを語り続ける「わたしたち」が今日の箇所に登場する、ということです。

しかし、この「わたしたち」の中に、だれが含まれるのか、わたしは含まれているのかという問いは、自分の胸に手を当てて自分に問う他はありません。だれからも押し付けられるべきではありません。策を弄して誘導するなど、もってのほかです。

そして、その答えは正直なほうがいいです。教会生活を楽しんでいる人たちを故意に傷つけるようなことを言うとか、不機嫌な態度をとって嫌がらせをすることなどは慎むべきです。だからといって、心にもないことを口にする必要はありません。この点で、パウロは正直な人でした。彼の正直さがよく分かる言葉が7節以下に記されています。

「わたしたちは、このような宝を土の器に納めています」(7節)の意味は、福音を宣べ伝える務めのほうが「宝」で、その務めを担う人間の存在は「土の器」であるということです。

「土の器」は、まさに古代の土器を指しています。今のわたしたちにとっては古代の土器は、それ自体が国宝級ですが、当時は違います。「宝」を入れる「土器」は宝ではありません。貴金属、宝石などは耐久性があるのに対して、土器は耐久性が乏しく弱いものでした。器のほうが弱くて壊れやすいからこそ、貴金属や宝石を傷つけないで守ることができます。その関係性の構図が、神の言葉そのもの、福音そのものと、それを宣べ伝えるわたしたちとの関係に当てはまります。

パウロが「土の器」と呼んでいるのは、人間の骨肉の物理的存在だけではなく、人間の悩み、精神状態、心や体の苦痛、不安、周囲の敵対的な環境などのすべてを含みます。それは神の言葉そのもの、福音そのものよりも弱くなければなりません。

なぜ弱くなければならないのかといえば、「この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるため」(7節)です。

説教者の存在が福音より目立ってはいけません。十字架の上で真の神の愛を示してくださったイエスさまの福音を宣べ伝える人は、「イエスの死を体にまとう」(10節)ことが求められます。イエスさまの十字架を背負い、その堪えがたい苦しみに身悶えすることがすべての福音宣教者に求められます。福音という「宝」よりも強い「器」は要りません。福音を傷つけてしまいます。

「途方に暮れても失望せず」「虐げられても見捨てられず」「打ち倒されても滅ぼされない」人は、「途方に暮れている」人であり、「虐げられている」人であり、「打ち倒されている」人です。客観的には敗北している人です。私もその仲間です。だいたいいつもひどい目に遭っています。しかし、なお希望があり、信頼できる教会があり、勇気をもって何度でも立ち上がります。

もう一度問います。「わたしたち」(1節)は誰でしょう。「わたしは含まれていない」とお感じの方は、「途方に暮れながら失望していない」人になることを一緒に目指そうではありませんか。

(2023年3月19日 聖日礼拝)

2023年3月12日日曜日

キリストに従う人生(2023年3月12日 聖日礼拝)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)

讃美歌21 459番 飼い主わが主よ


「キリストに従う人生」

ルカによる福音書9章18~27節

関口 康

「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」

今日の箇所に記されているのは、イエスさまと弟子たちの対話です。イエスさまが弟子たちに「群衆は、わたしのことを何者だと言っているか」とお尋ねになったとき弟子たちが答えたのは、イエスさまについてのうわさ話でした。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『だれか昔の預言者が生き返ったのだ』と言う人もいます」(19節)と答えています。

これで分かるのは、イエスさまの時代のユダヤ人の中に「死者の復活」を信じる信仰があったということです。繰り返し解説されてきたように、ユダヤ教のサドカイ派の人々は「死者の復活」を信じませんでした、ファリサイ派の人々は信じていました。旧約聖書の中に「死者の復活」の教えがあり、それを根拠にすることができたからです。この件はあとで再び取り上げます。

イエスさまは弟子たちに「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」(20節)とお尋ねになりました。この問いは弟子たちに態度決定を求めています。ペトロが弟子たちを代表して「神からのメシアです」と答えました。これが弟子たちの態度決定でした。

そのペトロの答えをお聞きになったイエスさまは、弟子たちを戒め、このことをだれにも話さないようにお命じになりました(21節)。禁止の理由は明白です。イエスさまがメシアであることが多くの人々の前で明らかにされるのは、イエスさま御自身が「多くの苦しみを受け」「殺され」「三日目に復活する」(22節)という出来事を通してでなければなりませんでした。

イエスさまに「王になってもらうために連れて行こう」とした人々がいたことがヨハネによる福音書6章15節に記されています。ユダヤ人のメシア待望論の実際の中身は、イスラエル王国の再建を目指し、特に最大の英雄とみなされたダビデ王の時代の栄光を回復することであり、そのためにダビデの子孫を政治的な王にすることでした。

しかし、イエスさまは全く正反対の道を歩まれました。イエスさまが選ばれたのは、十字架の死に至るまで、罪ある人々を赦し、かばい、心から愛することにおいて徹底的に苦しむ道でした。その苦しみを通り抜けたときに初めて死者の中から復活する光栄にあずかるでしょう。しかし、それまではどこまでも苦しみ続ける道、それがイエスさまがお選びになった道でした。政治的な権力を行使し、国家と社会を統制する道と、イエスさまの道とは、正反対の方向を向いています。

ここで再び「死者の復活」の件を取り上げます。興味深い解説を読みました。うかつにも私は気づいていなかったことです。それは今日の箇所でイエスさまが「人の子は三日目に復活する」と言われており、それはマタイとルカ、そしてパウロも同じように記していますが、マルコだけが「三日の後に復活する」(マルコ8章31節、10章34節など)と書いている、ということです。「三日目」と「三日後」は違います。「三日目」は「二日後」です。

なぜこの違いが起こったのでしょうか。その理由は旧約聖書のホセア書6章2節にあるというのが、私が読んだ解説のポイントです。ホセア書6章2節には「二日の後、主は我々を生かし、三日目に、立ち上がらせてくださる」と記されています。この「二日の後」と「三日目」は、同じ意味です。そしてこのホセア書6章2節の教えがユダヤ教の伝統になったというのです。

ホセアが「我々」と言っているのはユダヤ人のことを指しますが、比喩として語られています。そして、この解説で大事な点は、イエスさまはホセア書6章2節をご存じであり、ご自身の存在に重ね合わせてお読みになっただろうということです。そう考えるほうが偶然の一致であるとか後代の教会が旧約聖書の言葉をイエスさまと結びつけたと考えるより説明しやすいというのです。

マルコひとり「三日後」と書き、マタイもルカもパウロも「三日目」と書いているのは、マルコ以外はホセア書6章2節のギリシア語訳を正確に理解していたからだろうとも解説されています。間違い探しをしたいのではありません。最も大事なことは、「三日目の死者の復活」という教えは旧約聖書とユダヤ教の伝統に根ざしているということです。

このことを明らかにされたうえでイエスさまが「皆に」、すなわちすべての弟子たちにお求めになったのは、「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(23節)ということでした。

このイエスさまの言葉の中に「自分を捨てること」と「日々、自分の十字架を背負うこと」と「わたしに従うこと」という三つの動詞が出てきますが、同じ意味のことが言い換えられていると解説されていました。

「自分を捨てる」の意味は自己否定です。しかし、それは自分の存在を自分で消去することではありませんし、単なる自己卑下でもありません。自分をあえてさらけ出し、あえて無防備にし、そのうえでイエスさまの意志と判断に服従し、イエスさまの後についていくことです。

「日々、十字架を背負う」は、ルカによる福音書では23章26節に登場するキレネ人シモンと同じようにイエスさまの十字架を背負い、イエスさまの後ろについて運ぶことと関係があります。しかも、それを「日々」すなわち「毎日」行うことが求められています。

これは、一般的な意味でわたしたちが毎日味わう苦労のことではありません。そうではなく、イエスさまに従って生きることの苦しみを指しています。イエスさまと初代教会の時代にユダヤ人やローマ人から受けたような迫害を、すべての時代のキリスト者が必ず受けるとは限りません。しかし、イエスさまに従って生きる人の人生は、どの時代であろうと危険な面を必ず伴います。わたしたちはあらゆることについて、日々、態度決定をしなくてはならないからです。死を覚悟することが求められるのは、信仰と人間存在は切り離せない関係にあるからです。

だれもが同じだと思いますが、苦しいのは嫌なことであり、逃げたくなります。イエスさまに従って生きることが苦しいことであると言われるならば、だれが好き好んで信じるのか、理解に苦しむ、と自分で考えたり他者から言われたりすることはきっとあるでしょう。

しかし、その後のイエスさまの御言葉の中に「わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子も、自分と父と聖なる天使たちとの栄光に輝いて来るときに、その者を恥じる」(26節)とあります。厳しい言葉ですが、納得できます。

ここにペトロとパウロの違いがあるという解説を読みました。イエスさまの弟子であることを恥じたペトロは、鶏が泣く前に三度イエスさまを「知らない」と言いました。パウロは「わたしは福音を恥としない」とローマの信徒への手紙(1章16節)に記しました。

付かず離れずの態度をわたしたちが互いに責め合うことはできません。それは間違っています。しかし、どうやらイエスさまは、わたしたちをお責めになります。「態度を決めて、わたしに従いなさい」とお求めになります。「わたしを恥じる者を、わたしは恥じる」とおっしゃいます。

厳しい先生のほうが、一生忘れない大事なことを教えてくれます。厳しい愛があります。

(2023年3月12日 聖日礼拝)

2023年3月5日日曜日

ノアの箱舟(2023年3月5日 聖日礼拝)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)

讃美歌21 411番 うたがい迷いの

礼拝チャイム
週報電子版
宣教要旨PDF


「ノアの箱舟」

創世記7章1~24節

関口 康

「地の続くかぎり、種蒔きも刈り入れも、寒さも暑さも、夏も冬も、昼も夜も、やむことはない」

今日の朗読箇所はノアの洪水物語です。この物語を歴史的事実であると教えることは教会でも学校でも少なくなったと思います。転換点は19世紀の終わりごろ。発掘された粘土板に古代メソポタミアの勇敢な王ギルガメッシュの活躍を描く「ギルガメッシュ叙事詩」が刻まれ、その11章に聖書の洪水物語とそっくりの物語が出て来ることが分かったときです。それを「バビロニアの洪水物語」と呼ぶとしたら、聖書よりも古いものです。メソポタミアは洪水多発地帯で、洪水物語は他にもあります。

いま申し上げたことの意味は、聖書の洪水物語には下敷きとして用いられたモデルがあったということです。ただし、完全なコピーではなく、聖書独自の視点から書き直されました。このことは長年、日本のキリスト教主義学校の聖書科の教科書として用いられてきた本に記されています。私も学校ではその線に従っています。心配は無用です。聖書と信仰の価値は少しも失われません。

現代人は「創作物語」と聴くだけで「うそなのか」と反応することがありえます。しかし聖書は悪意をもって人をだます目的で書かれていませんので「うそ」ではありません。そもそも、聖書が書かれた古代社会に、現代人が思い描くような科学的立証を求める「歴史」は存在しません。

聖書の洪水物語は創世記の中で特別な位置を占めています。6章4節に「大昔」と記されています。その「大昔」と呼ばれている古い時代と、創世記の著者が生きている新しい時代の境目になったのが「ノアの洪水」です。6章5節に「主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になった」と記されます。創世記1章31節に「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった」と記されていることの正反対です。人間は、最初は良かったのに悪くなりました。人間が悪くなったのは、人間を創造した神の責任ではなく、人間の責任です。

そして、神は「地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた」(6章6節)と記されます。「神の後悔」という思想が初めて登場します。「神の後悔」と、人間が自分の罪を「悔い改める」というときに用いられる言葉は同じです。「神が後悔する」と言われると奇妙に聞こえます。しかし、旧約聖書では、神について「悔い改め」が記されている箇所が29 回あるのに対して、人間の悔い改めは 6 回しか語られていません。神の悔い改めのほうがはるかに多いです。もっとも29回のうち8回分は「神は~について悔い改めない」と記されている箇所なので差し引く必要があります。それでもまだ21回も神の悔い改めを記した箇所があることが記憶されるべきです。

「後悔」であれ「悔い改め」であれ、聖書の場合の最も基本的な意味は、くよくよするのをやめることです。優柔不断をやめること。良いことは良い、悪いことは悪いと決断し、その判断にふさわしい行動をとることです。正反対の意味で考えている場合は、まだ悔い改めに至っていない証拠になります。

「神が後悔する」と言われると、まるで神が「失敗は成功の母」と言いながら試行錯誤を続ける発明家であるかのようです。しかし、「神の後悔」は違います。聖書の神は、人間に都合よく動いてくれる「機械仕掛けの神」(デウス・エクス・マキーナ)ではありません。だからといって優柔不断に態度を変えたり、支離滅裂な行動をとったりすることはありえず、すべてにおいて首尾一貫しておられます。しかし、人間が絶えず変化するので、神が人間に対応してくださるのです。それが「神の後悔」です。

6章7節に「わたしは人を創造したが、これを地上からぬぐい去ろう」とあります。「ぬぐい去る」は、使用済みの食器を洗わずに放っておくと臭くなるので洗うというのと同じです。腐敗したものを洗い流すことです。「魚」が含まれていないことに注目する解説を読みました。魚は神の後悔の対象外だったというのは、罪があるのは人間だけで、動物にも植物にも罪はないことの証拠だというのです。

ノアが選ばれた理由は「ノアは神に従う無垢な人だった」(9節)ことだけです。完璧な聖人であるという意味ではありません。同じ時代の人たちとは一線を画す仕方で「神と共に歩む」という生き方を貫いた人であるという意味です。洪水の最中もノアは、箱舟の中でじっとしていただけです。

箱舟の素材に指定された「ゴフェルの木」(6章14節)の意味は分かりません。聖書の中でここだけに出て来る名前です。「編んだ木の幹」と訳すことができるという解説があります。

バビロニアの洪水物語の箱舟は正方形でした。しかし、聖書の箱舟は長さ300アンマ、幅50アンマ、高さ30アンマ。アンマは前腕の長さで約45センチ。長さ135メートル、幅22.5メートル、高さ13.5メートルの巨大な箱。舵もなく、かい(オール)もなく、帆(マスト)もありません。自力で移動することができず、ただ水の上に浮かぶことができるだけの、いわば「巨大な棺桶」です。

箱舟の中でのノアと家族の食べ物は野菜です。箱舟の中の動物たちは、彼らの食糧ではありません。神の関心は、新しい時代に子どもが生まれ、人類の歴史が続くことです。7章2節を見ると「清い動物」だけでなく「清くない動物」も箱舟に入れと言われています。新しい時代に残るのは「清いもの」だけであるという思想ではないことの証拠です。

8章6節以下の「鳥を放す」エピソードは、バビロニアの洪水物語との最も顕著な類似点です。昔の船乗りは鳥を飛ばして岸が近いかどうかを調べるのが一般的でした。「鳩はもはやノアのもとに帰って来なかった」(8章12節)は美しい表現です。箱舟の中のどの存在も、ノアの所有物ではありません。神の恵みのもとで自由に生きるべき存在です。

鳩がノアのもとから去ってから、さらに1か月待ってやっと地上の水が乾きました。そのときノアは601歳でした。ノアたちが水の上に浮いていた期間は1年と10日です。その間、箱舟の中でノアが聞いていたのは水の跳ねる音だけでした。神の言葉すら語られていません。

箱舟を出て新しい時代に生きることは、創世記1章の天地創造の状態からのやり直しを意味します。天地創造の物語が安息日で終わるように、洪水物語は祭壇建設で終わります(8章20節以下)。祭壇を意味するヘブライ語の意味は「屠殺場」です。供え物は丸ごと焼かれます。人間はそれを食べません。あくまでも神への贈り物です。焼けた肉の「宥(なだ)めの香り」は神の怒りを和らげます。いけにえによってノアは感謝の気持ちを表し、主は感謝のしるしとしてこのいけにえを喜びます。

その香りをかいだ神は「御心に言われた」(8章21節)とは、ご自身の胸に誓われたということです。「人に対して大地を呪うことは二度とすまい。人が心に思うことは、幼いころから悪いのだ。わたしはこの度したように生き物をことごとく打つことは、二度とすまい」と神はご決意されました。

人の悪を神が放置するという意味ではありません。しかし、人類と自然を消去するという方法で罪に対する罰をくだすことは二度としない、ということです。この教えの意味は、「自然」に罪はなく、人間の意志の中にだけ罪がある、ということです。悪いのは、環境でもなければ、自分自身の肉体でもなく、あなたの心の中にあるものが悪い。変わらなければならないのは、あなたの心です。

ノアの洪水物語の意味は、神がどこまでも私たち人間の心を罪から救い出そうとする決意を示してくださったことにあります。

受難節の意味は、イエス・キリストを十字架につけたこの私の罪を悔い改めることです。

(2023年3月5日 聖日礼拝)

2023年2月26日日曜日

ベトザタの池での癒し(2023年2月26日)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)

讃美歌21 287 ナザレの村里

礼拝開始のチャイムはここでお聴きになれます

週報(第3661号)電子版はここでダウンロードできます

宣教要旨(下記と同じ)PDFはここでダウンロードできます(近日公開)

「ベトザタの池での癒し」

ヨハネによる福音書5章1~18節、申命記2章13~15節

秋場治憲

「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ」

(2023年2月26日 聖日礼拝)

2023年2月19日日曜日

五千人の食事(2023年2月19日 聖日礼拝)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)
讃美歌21 6番 つくりぬしをさんびします

礼拝開始のチャイムはここをクリックするとお聴きになれます

週報(第3660号)電子版はここをクリックするとダウンロードできます

宣教要旨(下記と同じ)PDFはここをクリックするとダウンロードできます

「五千人の食事」

ルカによる福音書9章10~17節

関口 康

「しかし、イエスは言われた。『あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい。』」

今日の箇所の小見出しに「五千人に食べ物を与える」と記されています。この記事は4つの福音書すべてにあります。どの福音書にも共通しているのは、この奇跡の後、イエスさまがご自分の死と復活についてお語りになることです。十字架において真の神の愛をお示しになることこそが、イエスさまが救い主としてお生まれになったことの意味であり、目的です。そのことをイエスさまが弟子たちにお語りになる前に「五千人の食事の奇跡」が行われたことは記憶されるべきです。

そして、いま申し上げたこととの関連でもうひとつ言えるのは、イエスさまは十字架にかけられる前の夜、弟子たちと共に最後の晩餐を囲まれました。そのときイエスさまはパンをお取りになり、感謝の祈りを唱えてパンを裂かれ、弟子たちにお与えになって、「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である」とおっしゃいました。またぶどう酒の杯をおとりになって、「この杯はあなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である」とおっしゃいました。

この最後の晩餐でイエスさまが示されたのも、まさに十字架における真の神の愛そのものでした。つまり、「最後の晩餐」と「五千人の食事の奇跡」とに明らかに共通する要素がある、ということです。

その「最後の晩餐」を記念する聖礼典が「聖餐式」です。今日の週報をご覧ください。先週の役員会で4月12日のイースター礼拝をもって聖餐式を再開することにしました。3年前の2020年3月1日に最後の聖餐式をして以来の再開です。ぜひ重んじてご出席いただきたくお願いいたします。

しかし、今日これからお話しすることは、「聖餐式」の意義ではありませんし、「最後の晩餐」の意義でもありません。「明らかに共通する要素がある」と申し上げましたが、しかし、明らかな違いもある「五千人の食事の奇跡」についてお話ししたいと願っています。違いについては最後に申し上げます。

「使徒たちは帰って来て、自分たちの行ったことをみなイエスに告げた。イエスは彼らを連れ、自分たちだけでベトサイダという町に退かれた」(10節)とあります。

12人の弟子は「村から村へと巡り歩きながら、至るところで福音を告げ知らせ、病気をいやし」ていました(6節)。しかしどの働きであれ休みなく続けることは不可能です。それで彼らはイエスさまのもとに戻りました。すべてをイエスさまに報告する義務があったわけではありません。もっと自由な関係です。楽しい報告だったかもしれませんし、愚痴を聞いていただいたかもしれません。

なぜそう言えるのか。イエスさまは疲れた弟子たちを連れて「自分たちだけでベトサイダという町に退かれた」は、プライベートな慰安旅行を意味するからです。わたしたちでいえば、携帯電話の電源を切る場面です。他の福音書はベトサイダを「村」と呼びますが、ルカは「町」(ポリス)と呼びます。ベツサイダは「村」でした。しかし、ヘロデ大王の子どものヘロデ・フィリポ(在位前4~後34年)が父の死後ガリラヤ湖東岸地方の領主になりました。そしてベトサイダにローマ皇帝アウグストゥスの娘ユリアスにちなんで「ユリアス」と名付けて再建した湖畔のリゾート地でした。イエスさまの弟子たちに対する優しさと思いやりに満ちた、粋な計らいであると言えます。

しかし、どこから情報が漏れたのか、群衆がイエスさまの居場所を突き止めて追いかけてきました。するとイエスさまは、その人々を歓迎され、神の国について語り、治療の必要な人々をいやされた、というのです(11節)。ここで用いられている「語る」や「いやされる」という言葉が繰り返しの行為であることを意味する未完了形であるという解説を読みました。休みたいのに休めない、遊びたいのに遊べない。残業と休日出勤。それでもなお、どこまでも優しく温かい姿勢を貫かれたということです。

「日が傾きかけたので、十二人はそばに来てイエスに言った。『群衆を解散させてください。そうすれば、周りの村や里へ行って宿をとり、食べ物を見つけるでしょう。わたしたちはこんな人里離れた所にいるのです』」(17節)とあります。日没がユダヤ教の一日の終わりです。夕食の通常の時間でした。周りの村や里に「宿」があったことが分かります。しかし、そのときイエスさまと弟子たちと群衆は「人里離れた所」にいたというのは砂漠の無人地帯だったことを意味します。その場所はガリラヤ湖の東部の、ユダヤ人が住んでいなかった異邦人の住むデカポリスではないかという解説があります。

「しかし、イエスは言われた。『あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい。』彼らは言った。『わたしたちはパン五つと魚二匹しかありません。このすべての人々のために、わたしたちが食べ物を買いに行かないかぎり』」(13節)。弟子たちは明らかに驚き、困惑します。彼らはイエスさまに皮肉を返しているのではありません。ひたすら困っているだけです。

それでイエスさまが行われたのが「五千人の食事の奇跡」です。イエスさまが弟子たちに命じられたのは、まず「人々を五十人ぐらいずつ組にして座らせなさい」(14節)です。この「五千人」という数は大人の男性だけなのでもう少し多かったと考えられますが、「女性と子どもははるかに少なかった」という解説を読みました。五十人ぐらいずつ分ければ百組。五千人、五十人という数と「五つのパン」が関係あるのかという問いには「何らかの関係があるとは考えにくい」という解説があります。

そしてイエスさまは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで祝福し、裂いて弟子たちにお与えになりました。イエスさまがなさったのは、ユダヤ社会で主人または家長が行う通常の食事前の行いでした(レビ記 19章24節参照)。ユダヤ教が重んじる『タルムード』には「感謝しないで何でも楽しむ者は神を盗んだようなものだ」と書かれているそうです。

しかし、パンをお裂きになったり、祈られたりしたことに、イエスさまの「最後の晩餐」や初代教会から今日まで受け継がれている「聖餐式」との共通点を見出さないわけには行きません。しかし明らかな違いがあることも見逃すべきではありません。対比してみます(参考:マーシャル)。

五千人の食事の奇跡

最後の晩餐

過越祭「ではない」

過越祭「である」

12弟子でない人が食べ、12弟子は手助け

12弟子だけが食べた

パンと魚の「量が増えた」

パンとぶどう酒の「量は増えていない」

バンと「魚」(「ぶどう酒」ではない)

パンと「ぶどう酒」

イエスさまによる解釈の言葉が「無い」

イエスさまによる解釈の言葉が「ある」

「身体的な休息」との関係が強調される

「霊的な食物」であることが強調される

イエスさまが「天を見上げた」

天を見上げる場面は「ない」

この奇跡の意味の説明は、聖書のどこにも見当たりません。わたしたち自身が考えることができるだけです。はっきり言えるのは、イエスさまの十字架において示された真の神の愛は「最後の晩餐」と「聖餐式」に表される「霊的な祝福」だけでなく、「五千人の食事」と、教会が重んじる「愛餐会」に表される「身体的な休息」においても鮮やかに示されるものである、ということです。

イエスさまはわたしたちの心も体も強めてくださいます。そのように信じようではありませんか。

(2023年2月19日 聖日礼拝)

2023年2月12日日曜日

起きて歩きなさい(2023年2月12日 聖日礼拝)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)


讃美歌21 390番 主は教会の基となり

礼拝開始のチャイムはここをクリックするとお聴きになれます

週報(第3659号)電子版はここをクリックするとダウンロードできます

宣教要旨(下記と同じ)PDFはここをクリックするとダウンロードできます

「起きて歩きなさい」

ルカによる福音書5章12~26節

関口 康

「そして、中風の人に、『わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい』と言われた」

今日の朗読箇所に描かれている出来事は大きく分けてふたつあります。欲張らないでどちらかを選ぶことも考えましたが、両方読むことにしました。共通するテーマがあります。どちらも、イエスさまが「病気の人をいやされた」出来事です。

ルカによる福音書の著者ルカは「医者」だった可能性があります。ひとつの根拠は、コロサイの信徒への手紙4章14節に見つかる「医者ルカ」という言葉です。もうひとつの根拠は、まさに今日の箇所などに、医者である人しか用いない医学の専門用語が出て来ることです。

そのひとつが「全身重い皮膚病にかかった人」(12節)です。「重い皮膚病」と訳されています。ギリシア語で「レプラ」と言いますが、初期の新共同訳聖書では「らい病」と訳されていました。

「らい病」と訳された聖書をお持ちの方は「重い皮膚病」と訂正していただきたく願います。大きな問題になった点です。ギリシア語の「レプラ」が「らい病」または「ハンセン氏病」と同じかどうかは不明であるというのが、今日通用している見解です。不明なのにそうだと決めつけてしまいますと、聖書の言葉がその病気で苦しむ方々に対する差別や偏見の原因になりかねません。

しかし、今申し上げた点を踏まえたうえで、この福音書の著者がこの重い皮膚病は「全身」に広がるものであることを描いているのは医学的症状への知識がある人だと考えることができます。また、今日の箇所に出て来るもうひとつの医学用語が「中風を患っている人」(18節)です。体の一部に麻痺している箇所がある人を指します。

最初に登場する重い皮膚病にかかった人のことから申します。どの皮膚病かは特定できません。しかし、今日の箇所に記されているのは、その皮膚病にかかった人のその病気が治ったときは、祭司のところに行って自分の体を見せ、モーセが定めたとおりに清めの献げ物をする必要がありました(14節)。「祭司」は宗教家です。

なぜそのようなことをしなければならなかったのかといえば、あくまで古代社会の話ですが、この皮膚病にかかった人は、過去になんらかの罪を本人か親か先祖が犯したと考えられました。そしてその罪の結果としての神の罰がその病気であると考えられました。「応報思想」と言います。善いことをした人には神から善い報いをいただける。しかし、悪いことをした人には神から悪い報いを受ける、「天罰が下る」と信じられていました。つまり、病気の問題は宗教の問題でした。

17節以下の「中風の人」についても同じことが言えます。この話はルカだけでなくマタイにもマルコにも記されています。比較すると違いがあります。しかし、共通しているのは、この病気の人をなんとかしてイエスさまのところに連れて行こうとした人たちがいた、という点です。

「医者ルカ」と記されているとおり、紀元後1世紀のユダヤ社会に病気治療の専門家としての「医者」はいました。しかし、イエスさまは医者ではありません。福音を宣べ伝える宣教者です。宗教的な存在です。その方のところに人々が病気の人を連れて行こうとしたのも、病気の問題は宗教の問題だったからです。その人がかかった病気は「天罰」だと考えられていたからです。

イエスさまは、「重い皮膚病」にかかった人の皮膚病も、また「中風」にかかった人も、お癒しになったことが今日の箇所に記されています。これも宗教の観点からとらえる必要があります。今日の医学の観点から考えても正しい答えは出ません。次元が違うとしか言いようがありません。

しかし、だからといって私は、今日の箇所の2人の人の病気をイエスさまがいやされたことを疑っているわけでも否定しているわけでもありません。病気とは何を意味するか、病気が治るとは何を意味するかと、根本問題を考えています。

病気を甘く考える意図はありません。ひどい苦しみに疲れ果てて身動きがとれなくなっている状態からほんの少しでも解放されて動けるようになれば、それはそれで「治った」と言えるのではないでしょうか。「病気」の問題についてはいろいろ微妙で、複雑で深刻なお立場におられる方が多いと思いますので、これ以上のことは申しません。医学を否定する意図は全くありません。

もうひとつ大事な点があります。今日においてはもはや病気の問題は、いかなる意味でも宗教の問題ではないのでしょうか。決してそうではないと私は考えます。今日の箇所の2人にイエスさまがなさったことが、まさに当てはまります。

重い皮膚病にかかった人がイエスさまのもとに来て、「主よ、御心ならば、わたしを清くすることができます」(12節)と願ったとき、イエスさまはその人の体に直接手でさわられ、「よろしい。清くなれ」(13節)とおっしゃいました。皮膚病の患部に直接さわられました。それは「あなたは宗教的な意味で忌み嫌われなくてはならない存在では断じてない」という強い意思表示です。

また、その人が遠慮がちに言った「御心ならば」という言葉に対するイエスさまの返事としての「よろしい」は、「あなたがだれからも遠ざけられたり偏見で見られたりしないようになることこそが神の御心である」というその人の存在への全面的な肯定です。

さらにイエスさまは、中風の人に対して「あなたの罪は赦された」(20節)とおっしゃったことに疑問を抱いた律法学者やファリサイ派の人々に「『あなたの罪は赦された』というのと、起きて歩けと言うのと、どちらが易しいか」(23節)と尋ねられました。

どちらが易しいかの模範解答は、昨年もお話ししました。簡単なのは「あなたの罪は赦されたと言うこと」のほうです。なぜか理由はお分かりでしょうか。どれも古いですが今回3冊の註解書(Plummer (ICC):1896, Marshall (NIGC):1978, Nielsen (PNT):1979)を丁寧に読みました。どれも同じ理由でした。罪が赦されたかどうかは「確認できない」ので言うだけなら簡単だが、起きて歩けるようになったかどうかは「具体的な証拠が必要」なので難しい、ということです。

だからこそ、イエスさまはその人の罪が本当に赦されたことの具体的な証拠を見せるために、その人に「起きて歩きなさい」と言われ、その人は本当に起きて歩くことができました。「あなたの罪は赦された」とイエスさまがおっしゃったのは、その人の犯した罪が原因で病気にかかっていたことを意味しません。そうではなく、あなたの病気とあなたの罪は関係ないという切り離しです。応報思想に対する全面的な抵抗です。「あなたの病気は天罰ではない」という宣言です。

それを立証するのは、わたしたちには不可能です。イエスさまは奇跡を起こすことがおできになりました。立証できないわたしたちは「言葉」が必要です。言うだけなら簡単ならば、言えばいいではありませんか。「あなたの罪は赦された」と。「あなたは神に愛されている」と。「あなたの人生は肯定されている」と。そのように遠慮なくどんどん言えばいいではありませんか。

教会の役割が今日まだ残っています。それは、神がわたしたちを全面的に肯定してくださっていることを語り続けることです。イエスさまがしてくださったことを受け継ぐことです。

(2023年2月12日 聖日礼拝)

2023年2月5日日曜日

忍耐して実を結ぶ(2023年2月5日 聖日礼拝)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)


讃美歌21 412番 昔主イエスの

礼拝開始のチャイムはここをクリックするとお聴きになれます

週報(第3658号)電子版はここをクリックするとダウンロードできます

宣教要旨(下記と同じ)PDFはここをクリックするとダウンロードできます

「忍耐して実を結ぶ」

ルカによる福音書8章4~15節

関口 康

「良い土地に落ちたのは、立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人たちである」

今日の聖書の箇所に記されているのは「種を蒔く人のたとえ」です。共観福音書(マタイ、マルコ、ルカ)のすべてに記されています。たとえ話はクイズの一種です。質問と正解がペアになっています。テストであるとも言えますが、成績はつきません。点数の問題ではなく、よく考えることが大切です。イエスさまは、どのたとえ話においても、趣旨や意図を考えてほしいと願っておられます。

ただしその場合、すでに入門しているかまだ入門していないか、弟子であるかそうでないかは区別されます。その区別自体が、イエスさまがたとえを用いて語られた理由です。このように言うと困惑する方がおられるかもしれません。しかし、イエスさまは意地悪な方ではありません。ご自分の弟子でない人たちをからかったり非難したりする方ではありません。

もしそうでないとしたら、区別の意図は何でしょうか。まだ弟子でない人々には「神の国の秘密」(10節)がたとえで伝えられます。秘密の答えが分かる弟子とそうでない人に明確な違いがあります。その違いは「知識」の差です。「彼らが見ても見えず、聞いても理解できない」(10節)と言われます。

それなら話は簡単です。勉強すればいいだけです。知らないことがあるから我々は学び続けるわけでしょう。イエスさまは、知識が無い人をからかったり非難したりしておられるのではなく、真理を知るために光の中に入ってきてほしい、同信の仲間に加わってほしいと強く呼びかけておられます。

ある人が種蒔きに出て行きました。道端に落ちた種は、人に踏みつけられ、空の鳥が食べてしまいました。石地に落ちた種は、芽は出ましたが、水気が無いので枯れてしまいました。他の種は茨の中に落ち、茨も一緒に伸びて、押しかぶさってしまいました。「茨」はパレスチナの畑を悩ませたとげのある雑草の総称です。その茨が若芽のときに、良い種と一緒に落ちたと理解する必要があります。一緒に成長したとき、茨が「押しかぶさった」とは、良い種が「窒息」したことを意味しています。しかし、他の種は良い土地に落ち、生え出て、百倍の実を結びました。

イエスさまはこのように言われて、「聞く耳のある者は聞きなさい」と大声で言われました。「大声で言われた」のギリシア語の原意は「大声で泣く」です。イエスさまが泣かれたという意味かどうかは分かりません。泣くほどの勢いで感情をこめて強く激しく訴えられたと考えることができます。

このたとえ話は、畑にとうもろこしを蒔くパレスチナの農夫のイメージが用いられています。このたとえの趣旨は、多くの実を結ばなければならないという成果主義の教えなのかどうかが必ず問題になると思います。そうではないと私は申し上げたいですが、そのように言うための根拠が必要です。

11節以下に記されているのがイエスさま御自身によるこのたとえの説明です。道端のもの(12節)、石地のもの(13節)、茨の中に落ちたもの(14節)、良い土地に落ちたもの(15節)と四者の存在が描かれていることは明白ですし、四者が比較されていると考えることは可能です。

それぞれの特徴も描かれています。道端のものとは、後から悪魔が来て、その心から御言葉を奪い去る人たち(12節)。石地のものとは、試練に遭うと身を引いてしまう人たち(13節)。茨の中に落ちたのは、途中で人生の思い煩いや富や快楽に覆いふさがれて、実が熟すまで至らない人たち(14節)。そして、良い土地に落ちたのは、忍耐して実を結ぶ人たち(15節)。

四者は確かに比較されています。しかし、強調されているのは、神の言葉を聞く人の側の責任ではなく、神の言葉それ自体の行方です。聞き方が悪いとか、根がないことが悪いとか、悪魔による妨害や、試練や、人生の思い煩いや富や快楽の支配下にいるのが悪いと人間の態度や状況を責めているのではありません。

そうではなく、このたとえの趣旨は、神の言葉の宣教には、失敗する場合も成功する場合もあるということです。「はたらけど はたらけど 猶わが生活楽にならざり ぢっと手を見る」と石川啄木が詠んだあの詩と同じ言葉をつぶやきながら宣教する教会と説教者を慰めることにあります。

だいぶ古い英語の註解書に危険な解釈を見つけました。それによると、このたとえはキリスト者の中に4つの「階級」があることを教えています。たとえば、イスカリオテのユダは第3の「階級」に属しています。しかし、我々自身や他の人々がどの「階級」に属するかは人間の目で見分けることはできないので、自分のことかもしれないと、常に自分の胸に手を当てて考えなければなりません。

これは危険な解釈です。なぜ危険かといえば、わたしたちは、そのように言われても、自分の胸に手を当てて考えたりはしないからです。他の人に当てはめて責める道具にしはじめるからです。あの人は道端の人、この人は石地の人、その人は茨の人であると、他人の言動の分析に明け暮れ、差別と排除の論理に用いはじめるからです。

いや、そうではない。私は自分の胸に手を当ててばかりであると、反発を感じる方がおられるかもしれません。まさに自分のことだと、自分を取り巻き、がんじがらめにしている環境を恨む。夫婦、親子、兄弟、親戚、地域社会、国、経済、政治、時代、運命。そういうものに苛まれて、私は信仰を失った。私のせいではない。私が悪いなどとだれにも言わせない。私は十分すぎる意味で石地の上や茨の中にいるし、鳥だろうと怪獣だろうと絶え間なく容赦なく襲いかかって来るので、信仰など持つ余裕も理由もありません、と言いたい方がたくさんおられるかもしれません(いえ「おられます」)。

しかし、今申し上げた線の上に立っておられる方々にとっては、この種蒔きのたとえは、解釈さえ間違えなければ慰めになるはずです。特に思うのは、第3の「思い煩いや富や快楽」という茨の問題です。この茨と無関係でいられる人がどこにいるでしょうか。お金の心配も欲望も関係ないほど裕福な「階級」の人だけが真のキリスト者でしょうか。非常に愚昧な結論です。

しかも、「道端のもの」や「石地のもの」と「茨のもの」との違いは時間の差です。踏みつけられたり食べられたりするのは一瞬です。しかし、茨が覆いかぶさるまでには時間がかかります。この点は大事です。そして、その時間の問題と、第4の「良い土地に落ちたもの」が「忍耐して実を結ぶ」と言われていることが関係しています。「忍耐」は時間的な概念だからです。一瞬の忍耐には意味がありません。ずっと長く、とにかく耐えることが「忍耐」です。

「忍耐して実を結ぶ」という言葉は、同じたとえ話が出て来る他の福音書(マタイ、マルコ)には記されていません。記しているのはルカだけです。どういう意味だろうと調べてみましたが、「忍耐」という言葉の意味が説明されているだけで、なぜこの文脈で「忍耐」なのかは分かりませんでした。ですから、これから申し上げるのは、あくまで私の解釈です。

「種は神の言葉である」(11節)と言われているのですから、「忍耐して実を結ぶ」のはわたしたちの功績ではなく、「神の言葉」それ自体の力です。わたしたちの努力や辛抱強さではなく、神御自身が圧倒的な恵みの力で、わたしたちの中に多くの実を結んでくださいます。そのことを信じようではないかという呼びかけです。わたしたちが絶望しているときも、神はわたしたちをあきらめません。イエス・キリストはわたしたちをあきらめません。そのことを教えるたとえ話です。

(2023年2月5日 聖日礼拝)