2023年5月28日日曜日

聖霊に満たされて(2023年5月28日)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)

旧讃美歌500 みたまなるきよきかみ



「聖霊に満たされて」

使徒言行録2章1~11節

秋場治憲

「一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」

 今日のテキストには聖霊が弟子たちの上に降った時の様子が描かれています。私たちは今までに何度もこの個所を読んできて、暗唱するほどになっています。そして慣れてくると、段々と何の感動もしなくなる。「使徒信条」も「主の祈り」もいつの間にか、惰性で祈り、告白するようになっていないだろうか。危惧するところです。

 

 今日は暗記するほどに聞かされてきた、また覚えてしまったこの個所に、今一度新鮮な風が吹き込んでこないものか、祈りながら立ち向かってみたいと思います。

 

 「五旬際の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いてくるようなが天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして炎のようなが分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。」と記されています。よく読んでみると激しい風が吹いてきたとは言っていない。激しい風が吹いてきたようなが、天から聞こえ、彼らがいた家中に響いた、というのです。また炎のようながであって、炎が燃えていたわけではない。

 

 しかしこの音に驚いた周辺の人たちが、一体何事が起ったのかと集っ

てきた。この集ってきた人たちというのは、世界中から集ってきていた人たちです。そして聖霊が降った弟子たちは、その彼らの故郷の言葉で、神の偉大なわざを語ったというのです。神の偉大なわざとは、主イエスの十字架と復活のことでしょう。詳細は続く「ペテロの説教」に述べられています。

 

 ここでこのペンテコステの出来事から少し距離をおいて、この出来事の位置づけを見てみたいと思います。この使徒言行録というのは、ルカ福音書を書いたルカによるものとされています。ルカという人は最初から第一巻と第二巻を書こうという目的をもって、第一巻で主イエスの生前の言葉と行いを書き、第二巻で聖霊を通して主イエスがその働きを継続していることを明らかにしようという意図をもって書き始めたと言われています。

 

 そのことが分かるのはルカ福音書の2:30の老シメオンの言葉です。

「私はこの目であなたの救いを見たからです。これは万民のために整えて下さった救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉です。」と老シメオンは告白していますが、ルカ福音書24章まででは、「万民のために整えて下さった救い」、「異邦人を照らす啓示の光」は未だ実現されていません。

 

ルカ福音書の中で主イエスは、ローマの百人隊長の信仰を称賛したり、重い皮膚病を患っていた10人を癒した際、神を賛美しながらイエスのもとに戻ってきたのは、当時外国人と言われていたサマリヤ人一人だけだったと、異邦人、外国人に対して光は当てられていますが、それらはまだユダヤの地においてであり、決して「万民の救い」「異邦人を照らす啓示の光」が実現されたわけではありませんでした。

 

ルカはルカ福音書で生前の主イエスの活動を述べ、第二巻使徒言行録で昇天された主イエスが、聖霊を通して働き続けておられることを伝えようとしているのです。確かに使徒言行録を読んでいて印象的なのは使徒言行録でありながら、同時に、あるいはそれ以上に、度々、主イエスが指示を与え、力を発揮しておられるのです。使徒言行録であると同時に、聖霊の活動記録と言うこともできるものとなっています。

 

例えば牢に閉じ込められたペテロの鍵を外し、その扉を開け放してペテロを救出したり、幻の中でペテロに現れ、律法で禁じられていた物を食することが求められます。ペテロが拒んでいると、それらは神が清めたものであるという言葉があり、異邦人への道を開いて行きます。

 

更に印象的なのはパウロがまだサウロと呼ばれていた時、大祭司の書状を懐にキリスト信者たちを捕らえ、投獄する目的をもって息はずませながらダマスコへ向かっていた時、「サウル、サウル、なぜ、私を迫害するのか」と語りかけ、彼を回心させ、異邦人伝道の器として彼を召し出される。この書は確かに使徒言行録にはちがいないのですが、その主人公は、今は神の右に座しておられる主イエスご自身です。

 

そして私たちはこの主が私たちに語りかけ、私たちを励ましておられることを知っています。今ここに昭島教会が70年という歴史を背負って、今もなお存在し続けているということは、復活し、昇天された主イエスが、この教会の中におられ、働き続けておられるということを忘れて、私たちのペンテコステはないのです。

 

現在の私たちは、私たちの教会は、福音書に記された主イエスの十字架と復活によって支えられ、今現在聖霊によって主イエスが証しされ、励まされながら、再び来たりたもうこの主イエスを待ち望みながら、日々その歩みを進めています。

 

 「私は父にお願いしよう。父は別の弁護者(聖霊)を遣わして、永遠に(私が)あなたがたと一緒にいるようにして下さる。[1]」他ならぬ主イエスが私たちと一緒にいたいというのです。一緒にいるために父なる神にお願いしようというニュアンスをもった言葉です。どういうことかと申しますと、肉体をもって生まれた主イエスの活動範囲は、生きている限りそれは限定されています。しかし霊となるならその活動範囲は、全世界に広がり、一度に500人以上の人々に現れることも可能となります。今日のテキストはユダヤという小さな民族の民族宗教でしかなかったユダヤ教を土台として、キリスト教という世界的な普遍妥当性を有した世界宗教が誕生したことを証ししている個所でもあります。

 

主イエスの十字架の死の意味というのは、主イエスが死ななければ、分からなかったことです。十字架の死こそ、主イエスが「救い主」であることを示すものだったからです。しかし死んでしまっては、自分の死の意味について語ることはできません。だからと言って語らないではいられない。このことは必ず語らなければならない。そこで主イエスの霊をイエスの死後に世界に遣わして、主イエスの死の意味について明らかにしたのがペンテコステです。大音響が響きわたったというのは、この主イエスの思いが次元的、空間的な壁を突き破られた時の音ということもできるかもしれません。またこの知らせを世界中の人々に届かせよという、神の大願の響きということもできるのではないかと思います。

 

 私たちは「神は愛である。」という言葉を知っています。父なる神、子なる神、聖霊なる神、私たちはこれを三位一体の神と呼んでいます。すでに学んだように父なる神は確かに、人間を愛された。しかしその愛し方は、罰すべき者を罰しないではおかない仕方で愛された。そのことはアダムに対しては、園の中央にある木からは取って食べてはならないという命令として与えられた。しかしエバは蛇の「それを食べると、目が開け、神のように善悪を知る者となることを神はご存じなのだ。」つまりはあなたは善悪を知り、神と並ぶ者となるというのです。それはエバには素晴らしいことのように思われたのです。蛇の誘惑もまるでそのことを、神が望んでおられるかのような装いの下に差し出されたのです。主イエスの荒野におけるサタンの誘惑の時も同じように、一見神の意志ではないかと思われるようなベールに包まれて主イエスに差し出されています。蛇の誘惑に負けたエバは、取って食べ、そしてアダムにも食べさせました。その結果神は二人を楽園より追放しなければなりませんでした。

 

出エジプトの際には、モーセを通して更に広範にわたる十戒が与えられた。しかしイスラエルの民はこれを守らず、金の子牛を造って拝んだり、他国の神々を礼拝したりして主なる神に従おうとはしませんでした。神は多くの預言者たちを使わして、この民に警告を与え、御もとにあつめようとしましたが、彼らは預言者たちを殺して、主なる神に聞き従おうとはしませんでした。神はこのイスラエルという国を滅ぼさざるをえなかったのです。父なる神の愛し方は、Be my people, then I shall be your God. (我が民であれ、そうすれば、私はあなたがたの神でいよう)というものでした。それは人間の状態如何により、救われたり、救われなかったりするものでした。私たちの状態如何により「然り」ともなり、「否」ともなるのでした。

 

これに対してキリストは、神に背いている人間を赦し、受け入れるという仕方で愛された。しかし、父なる神は罰すべき者を罰しないで、赦し愛する者を罰しないではおきませんでした。ゴルゴタの丘の上では、神と神が戦ったと言われるのはそのことです。父なる神は徹底的に神の義を貫かれた。これは罪ある人間には、神の怒りとして臨みました。この怒りはすべての人間の罪を背負った、十字架上の主イエス・キリストの上に下されたのです。しかし、独り子なるキリストも父なる神の裁きに、最後まで従順に従った。使徒信条によれば、陰府(よみ)にまで従順であった。

 

しかしここで終わってしまっては、主イエスの死の意味というのは、日の目を見ることなく、そんな生き方をした人がいたという言い伝えくらいにしかならず、二千年後の世界にまでつたえられることはなかったでしょう。これを確かなものにしたのが、主イエスの復活でした。復活は罪に打ち勝ち、死に打ち勝ち、神の怒りに打ち勝った神(主イエス・キリスト)の愛が勝利したことを示しているのです。

しかしこのことを伝える者がいない。この役割を担ったのが、聖霊です。

「『あなたがたに平和があるように。父が私をお遣わしになったように、私もあなた方を遣わす。』そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい。』[2]聖霊は復活者イエスの霊なのです。聖霊は勝利者イエスの霊なのです。そしてこの方が永遠に私たちと共におられるのです。

 

第2コリント人への手紙1:20には「私たち、つまり私とシルワノとテモテが、あなた方の間で宣べ伝えた神の子イエス・キリストは、『然り』と同時に『否』となったような方ではありません。この方においては『然り』だけが実現したのです。神の約束は、ことごとくこの方において、『然り』となったからです。それで私たちは神をたたえるため、この方を通して『アーメン』と唱えます。[3]」と記されています。かつて神は人間に対して、人間が神の愛に価するような状態になれば「然り」と言い、その愛に価しないようになるなら「否」と言われた。申命記11:26~28には、「見よ、私は今日、あなたたちの前に祝福と呪いを置く。あなたたちは、今日、私が命じるあなたたちの神、主の戒めに聞き従うならば祝福を、もし、あなたたちの神、主の戒めに聞き従わず、今日、私が命じる道をそれて、あなたたちとは無縁であった他の神々に従うならば、呪いを受ける。」と言われていた時は、私たちの救いは私たちの状態によって、「然り」ともなり、「否」ともなったのです。

 

しかし、今や罪に打ち勝ち、死に打ち勝ち、神の怒りに打ち勝った方が、私たちの内に住みたもうというのです。もはや私たちの内に自分の救いについて何の不安も残されてはいないのです。自分の罪に対して、死に対して、神の審きに対して、不安要素は何も残されてはいないのです。パウロは、「だれが、神の選ばれた者たちを訴えるのか。神は彼らを義とされるのである。だれが、私たちを罪に定めるのか。キリスト・イエスは、死んで、否、よみがえって、神の右に座し、また、(「御霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもって、[4]」)私たちのために執り成して下さるのである。だれが、キリストの愛から私たちをはなれさせるのか。[5]」と力強く証しをしています。父なる神は聖霊によって、勝利を獲得したのです。父なる神は子なるキリストを通して、聖霊において、人間の救いのわざを完成したのです。この聖霊(主イエスの霊が)が、時には「助け主」として、時には「弁護者」として、父なる神の御前にまで私たちに同行されるというのです。「私は、あなた方をみなしごにはしておかない。」と言われるのです。

 

マタイ福音書は、1:23の「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。この名は『神は我々と共におられる』という意味である。」という言葉で始まり、28:20の「私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」という言葉で締めくくっています。この聖霊が私たちを励ましつつ、自分の負う十字架に押しつぶされることがないように、いつも主イエスの平安に包まれていることを私たちに語り続けておられるのです。



[1] ヨハネ福音書14:16

[2] ヨハネ福音書20:22

[3] 第2コリント人への手紙1:20~22参照

[4] ローマ人への手紙8:26(口語訳)

[5] 同書9:33(口語訳)

2023年5月21日日曜日

主イエスの遺言(2023年5月21日)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)

讃美歌21 356番 インマヌエルの主イエスこそ

週報電子版ダウンロード

宣教要旨ダウンロード


「主イエスの遺言」

ヨハネによる福音書14章15~31節

秋場治憲

「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る」

 

今日のテキストは「聖霊を与える約束」という小見出しがついています。来週は聖霊降臨日(ペンテコステ)です。4月9日(日)のイースターから数えて40日目の今月18日(木)がキリストが天に帰られる昇天日でした。皆様の所へはよみがえられた主イエス・キリストは訪れましたでしょうか。復活した主を迎えることができましたでしょうか。きっと親しく臨まれたことと思います。今日は主イエスの昇天を記念する礼拝ということになります。日本基督教団の聖書日課は、マタイ福音書の最後28:16~20を選んでいます。復活した主が弟子たちを派遣する記事で、「私は天と地の一切の権能を授かっている。だからあなたがたは行って、すべての民を私の弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」マタイ福音書はこの言葉をもって終わっています。

 

我らの主イエス・キリストはすでによみがえって天にのぼられたというのに、どうして今日のテキストは依然として十字架前夜にとどまっているのかと思われた方もおられるかもしれません。それは主イエスは自分がいなくなった後の弟子たちのことを心配し、切々とその時の心構えを説いておられるからです。また聖霊についても詳しく説明しておられるので、今日の昇天を記念する礼拝、また来週にペンテコステ(聖霊降臨節)を迎えるに当たって、今日のテキストを選ばせていただきました。

 

ヨハネ福音書ではこの主イエスの「告別の説教」ともいうべきものが、13章の31節から16章の終わりまで続きます。来週はペンテコステ(聖霊降臨節)です。これから主イエス亡き後「聖霊の時代」に入ります。是非お帰りになりましたら、この長い告別の説教を一気にお読みになることをお勧め致します。

 

今日のテキストはその前半の一部分です。13章31節以下には「新しい掟」という小見出しがついています。「掟」という言い方は少々きつい言い方のような気も致しますが、その内容は「『互いに愛し合いなさい。私があなた方を愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたが私の弟子であることを、皆が知るようになる。』[1]」というもの。主イエスの遺言の冒頭の言葉です。

 

戦国時代の武将で毛利元就という人が、三人の息子たちに自分亡き後を託して「三本の矢」の譬えを教えたという逸話が残っています。元就は3人の息子たちそれぞれに、矢を1本ずつ渡し、折ってみよと言う。矢は簡単に折れる。今度はそれぞれに3本の矢を渡し、同じように折ってみよと言う。矢は簡単には折れない。これによって父である元就は、自分(あるじ=主)亡き後、兄弟3人がお互いに助け合い、一族が結束することの大切さを説いたというもの。主イエスの遺言とは、その趣旨を異に致しますが、主(あるじ)亡き後を心配して語られた言葉として相通じるものがあると思います。主イエスはこれに先立って、弟子たち一人一人の足を洗い、互いに足を洗い合うこと、互いに愛し合うことの手本を示されています。そうすれば周りの人たちはみんな「あなたがたが私の弟子」であることを知るようになるというのです。神の国はこのようにして、互いの足を洗い合うことによって広がっていくというのです。

 

 そしてユダの裏切りの予告、ペテロの離反の予告をしながらも、主イエスは事が起こったとき、弟子たちが信じるようにと切々と16章の終わりまで、主イエス逮捕の直前まで語りつづけます。私はここに書かれている内容もさることながら、主イエスが最後に渾身のエネルギーをふり絞って弟子たちの今後に向けて、語り続けている姿に圧倒されるのです。闇の世界へと出て行ったユダが祭司長、ファリサイ派の人たちが遣わした下役どもを引き連れて[2]イエス逮捕に戻ってくるまでには、もう時間が残されていません。その逮捕までに残されたわずかな時間に主イエスは父なる神に祈りを捧げられます。それは17章です。そこでも祈ることは、弟子たちの今後のことです。そういう流れの中で、主イエスは弟子たちに自分の代わりに聖霊を遣わすという約束をします。

 

 聖霊というのはギリシャ語でパラクレートスと言います。パラというのは「傍ら」で・に」「そば」で・に」という前置詞で、クレートスというのはカレオ―「呼ぶ」「呼び出す」という動詞から派生した形容詞で「呼び寄せられた」「招かれた」という意味があります。これらが結び合わされてパラカレオーという動詞になると、「側へ呼ぶ」「呼び寄せる」という意味になり、また「助けを求める」「願う」更には「元気づける」「慰める」「励ます」という意味になります。

 

従ってパラクレートス(聖霊)というのは、私たちの傍らに呼び寄せられて「慰める者」「励ます者」「助ける者」「執成す者」「弁護する者」という広い意味を持った言葉であり、それは主イエス・キリストの霊であるというのです。新共同訳は「弁護者」を採用していますが、文語訳、口語訳、新改訳は、「助け主」を採用しています。どれが正しくて、どれが間違っているというものではありません。文脈上しっくりくると思われる訳を選べばいいと思います。

 

 今日のテキストの冒頭に「あなた方は、私を愛しているならば、私の掟を守る。私は父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は真理の霊である。」

この「真理の霊」が永遠に私たちと一緒にいて下さるというのです。しかもこの「真理の霊」は、私たちと共におられるだけではなく、私たちの内におられるというのです。「私はあなた方をみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。」と言われる。この「みなしご」という表現はもはや師弟関係ではなく、父と子の関係であると言うのです。          少し前にトマスが「主よ、どこへ行かれるのか私たちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」と質問したのに対して、「私はであり、真理であり、命である。私を通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。[3]」と言われたように、聖霊は「真理の霊」であると同時に、「主イエス・キリストの霊[4]」であると言うことができます。私たちはこの言葉を忘れないようにしたいと思います。この言葉を忘れると、私たちは主イエスを通らずに、直接父なる神のもとへのぼろうとする

のです。そうすると私たちは自ら十字架を背負うことになり、自分が罪の内にあり、何と不信仰な者であるか思い知らされることになります。主イエス・キリストを通るということは、「主よ、信じます。信仰なき我を助けたまえ。」という我らを受け入れ、その衣をもって覆い、傷なき者として父なる神の御前に立たしめてくださるということです。人はだれもこの方を通らなければ、父のもとへ行くことは出来ないのです。私たちが自分の信仰に懐疑的になる時、この方を見失っています。次の15章にはぶどうの木の譬えが語られています。「私はぶどうの木、あなたがたはその枝である。人が私につながっており、私もその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。私を離れては、あなたがたは何もできないからである。[5]」とは、先に述べた「私こそが道である」「私だけが真理である」「私以外に命はない」という言葉を分かりやすく解説している譬えだと思います。肝に銘じておきたい言葉です。

 

 「しばらくすると、世はもう私を見なくなるが、あなた方は私を見る。私が生きているので、あなたがたも生きることになる。」この「しばらくすると」という言葉は、ギリシャ語でミクロンという言葉が使われています。「今少しで」「間もなく」というニュアンスで、事が切迫してきている緊張感が伝わってきます。

 

「かの日には、私が父の内におり、あなた方が私の内におり、私もあなた方の内にいることが、あなたがたに分かる。」という言葉が続きます。「かの日には」というのは、聖霊が臨む時ということです。

 

「私の掟を受け入れ、それを守る人は、私を愛する者である。私を愛する人は、私の父に愛される。私もその人を愛して、その人に私自身を現わす。」「私の掟を受け入れ、それを守る人」とは、「互いに愛し合う」ということであり、主イエスの言葉を守る人ということです。その人は私の父に愛されるというのです。そして「私もその人を愛する」更に「その人に私自身を現わす。」と言うのです。「現す」という動詞は、「明らかにする」「示す」という言葉です。

 

ここでイスカリオッテでない方のユダが、「主よ、私たちにはご自分を現わそうとなさるのに、世にはそうなさらないのは、なぜでしょうか。」と唐突とも思えるような問いを出しています。このユダも他のユダヤ人たちと同じように、主イエスがいつか蜂起されることを期待しているようです。しかし主イエスはこの問いには直接お答えにはなっていません。その時は間もなくやって来るという思いをご自身の中に秘めながら、事が起こった時に弟子たちが信じるようにとその時の心構えをお話になります。

 

「私を愛する人は、私の言葉を守る。私の父はその人を愛され、父と私はその人のところに行き、一緒に住む。」今語ってきたことの繰り返しになっていますが、ここで後半の言葉に注目してみたいと思います。父なる神は御子の言葉を守る人を愛される。それは「これは私の愛する子。私の心に適う者[6]」であると言われた方の言葉であるからです。続く言葉は「父と私はその人のところに行き、一緒に住む。」というのですが、これは正しい訳なのですが、その構造を見てみたいと思います。「その人のところに 我々は赴くだろう そして 住まいを その人と一緒に 造ろう」 

 

RSVの訳を見てみると、易しい英語ですから、解ると思います。

Jesus answered him “If a man loves me, he will keep my word, and my Father will love him, and we will come to him and make our home with him.

 

となっています。ここでour home となったことで、ここの言葉に一気に血が通ったと私は思うのです。(我々のために)と加えたのは、ギリシャ語では能動相、受動相の他に中道相というのがあります。これは例えば「分配する」という動詞が中道相になると「互いに分け合う」という相互的なニュアンスを持ちます。ここで「造ろう」という動詞は中道相であり、RSVWe will make our home with him. の英語の方が、「一緒に住む」よりも、しっくりくるような気が致します。RSVour home と訳したことで、その中道相のニュアンスを含めたのだと思います。少々専門的なことになって恐縮ですが、そんなに難しいことではないと思います。

 

パウロは「生きているのは、もはや、私ではない。キリストが、私のうちに生きておられるのである。」(口語訳―ガラテヤ2:20と語っています。

これは私たちみんなの告白となるのではないでしょうか。

 

この方は「傷ついた葦(あし)を折ることなく、ほの暗い灯心を消すことなく、真実をもって道を示される[7](口語訳)方、この方が私たちの内に生きておられるのです。私たちの心が傷つきうなだれる時でも、私たちの信仰が消えかけている時でも、あるいは消えてしまったと思われる時でも、キリストの愛はその燃えカスに火をともし、新たな炎を燃え上がらせる方である。

 

「私は、あなたがたといたときに、これらのことを話した。」これは現在完了形です。これらのことは主イエスがあなた方と生活を共にしながら語ってきたというのです。

 

しかし、弁護者、すなわち、父が私の名によってお遣わしになる聖霊が、

あなたがたにすべてのことを教え、私が話したことをことごとく思い起こさせてくださる。

 

 この聖霊は主イエスが地上におられる間は、弟子たちに臨まないのです。16:7を見てみますと、「しかし、実を言うと、私が去っていくのは、あなた方のためになる。私が去っていかなければ、弁護者(聖霊)はあなたがたのところに来ないからである。私が行けば、弁護者(聖霊)をあなたがたのところに送る。」とあります。主イエスが死に、復活し、昇天してはじめて人々に臨むことになるというのです。そして主イエスが存命中に語っても理解されなかったことを思い出させ、理解させ、主イエスについて証をなし、栄光を帰するというのです。(14:26、15:26)

 主イエスは「言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。[8]」なぜなら主イエスがこの地上に来られた意味は、主イエスが十字架上に死んではじめて理解されることだからです。しかし死んでしまった主イエスは、もう語ることはできません。そこで主イエスに代わってその意味を人々に語り、証しするために聖霊(主イエスの霊)が私たちに遣わされているのです。[9]

 

「私はあなた方に平和を残し、私の平和を与える。私はこれを世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。」と言う。さて主イエスが言われる「私の平和」とは何か。世が与える平和というのは、一喜一憂するもの。ある時は平和である。しかし次の瞬間には不安のどん底に突き落とされることがある。病気もある。災害もある。戦争もある。しかし、ここで主イエスが約束している平和は、すでに確立されている。だから心騒がせるな、おびえるなというのです。どういう風に確立されているのかというと、「キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることがない。[10]」と確立されている平和だからです。

 

 パウロはローマ人への手紙8章で私たちに対するキリストの愛が不動のものであることを、高らかに歌い、ほめたたえています。「私たちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものを私たちに賜らないはずがありましょうか。だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。だれが私たちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるであるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、私たちのために執り成してくださるのです。だれがキリストの愛から私たちを引き離すことができましょう。艱難か、苦しみか、迫害か、飢えか、裸か、危険か、剣か。」

 

こんこんと切々と繰り返し「恐れるな。心を騒がせるな。[11]」「私はあなた方をみなしごにはしておかない。[12]」と語り、「自分は去っていくが、また、あなた方のところへ戻ってくる。」そして、父なる神は自分の代わりに「聖霊」を遣わして、永遠に(いつまでも、いつも)あなた方と一緒にいることができるようにしてくださるということを伝え、だから「事が起こったときに、あなた方が信じるようにと、今、その事の起こる前に話しておく。[13]」と最後の最後まで語り続けられました。

 

「もはや、あなた方と多くを語るまい。世の支配者が来るからである。だが、彼は私をどうすることもできない。」という言葉も印象的です。「彼は私をどうすることもできない。」という言葉は、「彼は私に対して、何も持っていない」といっている簡単な言葉ですが、深く、重く響いてくる言葉です。ピラトが主イエスに語った言葉と対比する時、その違いが際立ちます。ピラトは「私に答えないのか。お前を釈放する権限も、十字架につける権限も、この私にあることを知らないのか。」というのに対して、主イエスは「神から与えられていなければ、私に対して何の権限もないはずだ。」と答えています。すべての権限を持っていると豪語するピラトの前にあって、何も持たない主イエスはこのピラトの権限の外に立っておられる。そして完全に自由である。文字通り「彼(ピラト)は私(主イエス)に対して何も持っていないのです。」

 

しかし、そのことを理解していなかった弟子たちは、主イエスが捕らえられた時、みんな姿を消してしまいました。

 

 この弟子たちのところへ、よみがえられた主イエスが40日にわたって現れ、そして昇天、そして主イエスが約束しておられた聖霊を送られた。

そのことは弟子たちに生前の主イエスの為したこと、語られたことの真意を理解させたのです。

 

ユダヤ人たちを恐れて、すべての扉に鍵をかけて閉じこもっていた弟子たちが、聖霊を受けて、よみがえります。主イエスが約束していたように、弟子たちを代表してペテロの大説教が使徒言行録にあり、来週ペンテコス

テのテキストとなっています。聖餐式もあります。

 



[1] ヨハネ福音書13:34、35

[2] ヨハネ福音書18:3

[3] ヨハネ福音書14:5~6

[4] フィリピの信徒への手紙1:19「というのは、あなた方の祈りと、イエス・キリストの霊の助けにとによって、このことが私の救いになると知っているからです。」

[5] ヨハネ福音書15:5

[6] マタイ福音書3:13~17

[7] イザヤ所42:3

[8] ヨハネ福音書16:12

[9] 「聖書百話」北森嘉造著 筑摩書房 P.134

[10] ローマ人への手紙8:1

[11] ヨハネ福音書14:1

[12] ヨハネ福音書14:18

[13] ヨハネ福音書14:29


2023年5月14日日曜日

祈りの共同体(2023年5月14日)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)


讃美歌21 327番 すべての民よ

週報電子版ダウンロード

「祈りの共同体」

テサロニケの信徒への手紙二 3章1~5節

関口 康

「終わりに、兄弟たち、わたしたちのために祈ってください。主の言葉が、あなたがたのところでそうであったように、速やかに宣べ伝えられ、あがめられるように」

(2023年5月14日 聖日礼拝)

2023年5月7日日曜日

友なるイエス(2023年5月7日)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)


讃美歌21 328番 ハレルヤ、ハレルヤ

週報電子版ダウンロード

「友なるイエス」

ヨハネによる福音書15章12~17節

「わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。」

(2023年5月7日 聖日礼拝)


2023年4月30日日曜日

自由と配慮(2023年4月30日)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)

讃美歌第2編 56番 主はその群れを


「自由と配慮」

コリントの信徒への手紙一8章1~13節

関口 康

「その兄弟のためにも、キリストが死んでくださったのです。」

今日の朗読箇所には「偶像に供えられた肉」をキリスト者が食べてもよいかという具体的な問題が取り上げられています。

結論を先に言えば、パウロ個人はそれを食べないという選択肢を選びます。それどころかパウロは「食物のことがわたしの兄弟をつまずかせるくらいなら、兄弟をつまずかせないために、わたしは今後決して肉を口にしません」(13節)とまで言います。

これは誤解を招きやすい表現です。パウロが菜食主義者だったという意味にはなりません。パウロは条件文を用いています。「わたしの兄弟」は教会の中での信仰に基づく兄弟姉妹です。その人たちをつまずかせないためにわたしは肉を食べないと言っています。「もしつまずく人がいないなら問題なく肉を食べる」という意味だと考えることが可能です。

ここで「つまずく」(ギリシア語「プロスコンマ」)の意味は、人の足を引っかけて転倒させるために意図的に仕掛けられた石でまさに転倒することです。具体的には、信仰をもっている人がその信仰を失うことを指しています。この私パウロがだれかにとっての石になる可能性があるかもしれないので、そうならないようにする、という決意表明です。

パウロはここで、キリスト者である人々が守るべき普遍的な生活規範や原理原則は何かを言おうとしているのではありません。そうではなく、今ここに、わたしたちの目の前にいるこの人あの人が信仰を失わないようにするために、つまずかせないようにために、わたしたちはどうすればよいかをよく考えて行動することが大事であるということを言おうとしています。

しかし、わたしたちの目の前にいる人は、時と場合とによって変わります。わたしたちは必ずいつも同じ人と一緒にいるわけではありません。そのことはパウロも分かっています。パウロが言っていることを広げて言い換えるとしたら、キリスト者である人は、あるひとりの人の前で見せる顔や態度と、別の人の前で見せる顔や態度とが、違う場合があるし、あってよいということです。

しかしまた、そういう人々を怖がる人や軽蔑する人もいます。そのため、別の意味では注意しなくてはなりません。そういう人がなぜ怖がられるのかといえば、まるで怪人二十面相のようだからです。結論はともかく、何が起ころうと何を問われようと、いつでも一定の態度を保ち、首尾一貫している人のほうが単純で扱いやすい相手だと思われるかもしれません。「だって、あの人はこういう人だから」と自分で納得したり他人に説明したりすることが簡単なのは一貫している人のほうです。

しかし、相手次第や状況次第でどんどん態度を変えていく人は、不可解で扱いにくいと感じられて敬遠されがちです。そういう人を軽蔑する人が出て来るのもだいたい同じ理由です。考え方や態度が首尾一貫していない人は優柔不断だとか支離滅裂だとか思われやすく、軽蔑を受けやすいと言えるでしょう。しかし、今日の箇所でパウロが勧めているのは、まさにそのように、相手に合わせてこちらの態度のほうを次々に変えていくあり方です。

「偶像に供えられた肉」を食べてもよいかという問題が取り上げられているのは、コリント教会のほうからパウロにこの件に関して問い合わせがあったので、その問いにパウロが答えようとしているからです。

それを食べることはユダヤ教においては禁じられていました。キリスト教会もそのことを禁じていました。しかし、コリントという町は、ギリシアのアテネから80キロ西にあり、エルサレムから遠く、コリント教会の内部もユダヤ人より異邦人が占める割合が多く、エルサレムあたりと比べればユダヤ教の影響が少なく、「偶像に供えられた肉」を食べることには問題がないだろうと考え、実行しはじめた人々がいたのです。

なぜその人々が「偶像に供えられた肉」を食べたのかといえば、単純に、その肉を食べたかったからという理由が当然考えられます。まだ十分食べることができるのにお供え物にしてからそれを捨てるのはもったいない、と考えた人がいたでしょう。

私の実家には仏壇も神棚もありませんでしたが、私の両親の各実家に仏壇がありました。果物や茶碗のごはんが供えられているのを見たことがあります。あれをどうするのだろうと、私は小さい頃から思っていました。食べたいとは思いませんでした。

しかし、コリント教会の中にいたと考えられる偶像に供えられた肉を食べることにした側の人々は、ただ肉を食べたい、もったいないという理由付けではなく、もっともらしい理屈を考え始めました。「偶像の神」というのは、そもそも存在しないのだと彼らは考えました。

その点は、パウロも完全に同意しています。「世の中に偶像の神などはなく、また、唯一の神以外にいかなる神もいないことを、わたしたちは知っています」(4節)とあるとおりです。私もこの言葉が好きです。神はおひとりだけです。「偶像の神がいる」のではなく「偶像の神はいない」のです。

「偶像の神」は「存在しません」。仏壇や神棚は家具です。そこに何を置こうと、何を供えようと、食べ物自体が変化することはありません。時間が経てば腐ります。何の意味もありません。

ついでに言えば、私は幽霊を見たことがありません。信じたこともありません。心霊現象も信じたことがありません。そのことと神さま、イエス・キリスト、聖霊なる神を信じることは、関係ありません。わたしたちは、教会の建物や、お墓に特別な思いを抱いています。だからといって場所的にここに何かが宿っていると私個人は考えたことも信じたこともありません。

しかし、それはそれです。ここで冒頭の問題に戻ります。偶像の神は存在せず、神は唯一で、他の何も神でないという確信をもって、あらゆる異教的な要素を否定してシンプルに生きることができる人々は「信仰が強い人」であるとパウロは考えます。パウロ自身はそちらにの側に属しています。その一方でパウロは、世の中の人々や、教会の中にいる人々の中にも、そこまでシンプルに考えて行動することができない、様々な事情の中にある人々がいるということも知っています。

信仰の弱い人々のことを単純に「弱い人」と呼ぶとカチンとくる人がいると思いますので、言い方は注意しなくてはなりません。「強い」「弱い」を言うと、勝ち負けの問題になってしまいます。しかし、「弱い人」と言われていることの意味は、様々な異教的な慣習から抜け切れていないということです。

しかし、教会は強者だけの集まりになってはいけないというのが、パウロの結論です。「その兄弟のためにも、キリストが死んでくださったのです」と書いているとおりです。イエス・キリストは信仰の弱い人々のためにも十字架にかかって死んでくださったのです。

今日の宣教のタイトルを「自由と配慮」としました。キリスト者は、唯一の神を信じることによってあらゆる偶像崇拝や異教的慣習から全く解放された自由人です。しかし、わたしたちの自由な生き方が人を傷つけたりつまずかせたりすることがあるのを知っていますし、知っていなくてはなりません。そこで十分な配慮が必要です。

(2023年4月30日 聖日礼拝)


2023年4月23日日曜日

ラザロの復活(2023年4月23日)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)


讃美歌21 326番 地よ、声たかく

週報電子版ダウンロード

「ラザロの復活」

ヨハネによる福音書11章17~44節

秋場治憲

「イエスは言われた。『わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる』」
 
私たちは4月9日のイースターを祝いました。教会暦では4月7日金曜日に十字架に架けられた主イエス・キリストは、二日半陰府におり、三日目、4月9日に復活し、その後40日にわたって弟子たちや他の人々に現れ、そして40日後、5月18日(木)に昇天されました。そしてこの主イエス・キリストを証しする聖霊[1]が送られ、それまで意気消沈していた弟子たちの上に大いなる力が与えられ、「主の復活の証人」としての活動が開始されます。そのことを記念したのが「聖霊降臨日[2]」(ペンテコステ)であり、私たちは5月28日にこの日を「教会の誕生日」として祝うことになります。その後は聖霊降臨節が主イエスの誕生を祝うクリスマスまで続きます。これは主が再び来たりたもう日(再臨の日)まで主イエス・キリストを証し、歴史を導いていく聖霊の時代とも言われています。これが教会暦の概略です。

 

 今日はその復活節と聖霊降臨節の間にあって、今少し復活ということについて考えてみたいと思い、ヨハネ福音書11章のラザロの復活をテキストと致しました。

 ヨハネ福音書10章の終わりには、主イエスは神を自分の父と呼んで、自分を神と等しいものとしたということで、ファリサイ人たちに石で殺されそうになり、彼らから逃れてヨルダン川の東側、かつてバプテスマのヨハネが洗礼を授けていた所、恐らくご自身も洗礼を受けた所に滞在しておられた。そこへべタニア村から、「主よ、あなたの愛しておられる者が病気です。」という知らせが届けられた。

マルタ、マリア、それにラザロというべタニア村の三兄弟のうちのラザロが病気ですというのです。この知らせがわざわざヨルダン川の東側にファリサイ人からの難を逃れていたイエスのもとに届けられたということは、ラザロの危篤を知らせるものであり、一刻も早く来て欲しいという願いが込められた知らせでした。事は急を要するはずでした。しかし主イエスは「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」と答えて、更に二日間同じ所に滞在された。ここで注意しておきたいことは、ヨハネ福音書においては「神の子が栄光を受ける」というのは、「十字架」を意味しているということです。なぜ主イエスはすぐに出立しなかったのかということについては、様々な憶測、議論のあるところですが、エルサレムからわずかに2.7㎞のべタニア村へ行くということは、極めて危険なことです。二日後に主イエスは弟子たちに「もう一度ユダヤに行こう。」と言われるのですが、これを聞いた弟子たちは驚いています。そして「ラビ、ユダヤ人たちがついこの間もあなたを石で打ち殺そうとしたのに、またそこへ行かれるのですか。」と問い返しています。16節には「ディディモとよばれるトマスが、仲間の弟子たちに、私たちも行って一緒に死のうではないか」と言っています。このトマスは後に他の弟子たちは復活された主イエスに出会った時、その場に居合わせなかったため復活した主イエスに会うことができませんでした。そのトマスは私は、「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れて見なければ、また、この手をそのわき腹に入れて見なければ、私は決して信じない。」と言ったトマスです。11章の1節から16節までの言葉は、いずれもべタニアへ向かうことは主イエスの最後の道行きになるということを、誰もが承知していたことを物語っています。その危機的状況の中で主イエスは「さあ、もう一度ユダヤへ行こう」と言われたのです。そして一行はべタニア村に向かいます。そしてマルタに会います。マルタとマリアの所には多くのユダヤ人たちが、兄弟ラザロのことで二人を慰めに来ていました。そこでもマルタは姉としての立場上気丈に振る舞い、恐らくは涙も見せず来てくれた人たちの接待に甲斐甲斐しく立ち回っていたのでしょう。主イエスの来訪にもいち早く気づき、二人の会話が始まります。私たちの葬儀においても喪主の立場にあるものは、泣いている暇がない。葬儀社との打ち合わせ、弔問客への接待等で忙しい。しかしマリアは恐らく泣き続けていたのでしょう。慰めに来たユダヤ人たちはそのマリアを心配して、彼女と共にいた様子が記されています。

 

 主イエスがべタニア村に到着したのは、ラザロの死の四日後のことでした。マルタは主イエスに「主よ、もし(あなたが)ここにいてくださいましたら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」と言っています。エルサレムからエリコまでが23㎞です。ヨルダンの東側、ペレアと呼ばれている所から急げば一日で来れる距離なのに、イエスが到着したのはすでにラザロが亡くなって四日も経過していました。その間マルタとマリアの姉妹は、刻一刻と病状が悪化していくラザロを前にして、なすすべもなくただひたすら、今か今かと主イエスの到来を待ちわびていた。しかしその願いはかなえられず、今や取り返しのつかないことになってしまったことに対するマルタの恨みと愚痴と色々な感情が入り混じった言葉です。しかしそれだからといって、マルタのイエスに対する信頼が失われたわけではありません。マルタは続けて、「あなたが神にお願いになることは何でも、神はかなえてくださると、私は今でも承知しています。」と、すでに取り返しのつかない事態になってしまったけれども、主イエスが神に願うなら、神はこの自分たちのこのどうしようもない悲しみを癒して下さるという期待を述べています。

 

 それに対する主イエスの言葉は、「あなたの兄弟は復活する」というものでした。これは未来形です。your brother will rise again. (RSV)マルタは答えます。「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と答えています。I know that he will rise again in the resurrection at the last day.(RSV)これも未来形です。終わりの日に復活することは彼女も信じている、という信仰告白をしているのです。

 しかしそれに対して主イエスの有名な「私は復活であり、命である[3]。私を信じる者は、死んでも生きる。生きていて私を信じる者はだれも、決して死ぬことはない。(あなたは)このことを信じるか。」とマルタに問うています。マルタが終わりの日の復活を信じているというのに対して、主イエスは、エゴー(私は) エイミ(私は~である) ヘ(定冠詞) アナスタシス(復活) カイ(そして) ヘ(定冠詞) ゾーエー(命)[4]直説法現在で答えています。これは度々繰り返し説明している強調構文です。

「他ならぬ私が~」とか「私だけが~」ということが強調されている言葉です。

新共同訳では「復活」という言葉が使われていますが、口語訳では「よみがり」という言葉が使われています。私はどちらかというと口語訳の「よみがえり」という言葉の方が気にいっています。そこには「陰府(よみ)」から「帰る」という語源的ニュアンスが含まれているからです。陰府というのは、闇が支配している世界と理解していいと思います。そこから光の世界へ「帰る」というニュアンスが感じられるからです。創世記の冒頭に神は「光あれ」と言われた、と記されています。「地は混沌であって、闇が深淵の面(おもて)を覆っていた。」そこに、その混沌とした闇の世界に、光をしてあらしめよ、Let there be light. (RSV)という神の第一声が発せられた。「よみがえり」という言葉には、この闇から光へ、死から命へ、悲しみから喜びへ帰る、というニュアンスが感じられるからだと思います。

 

マルタは「主よ、信じます。あなたがこの世に来られるはずの神の子、メシアであると私は信じております。[5](11:28)マルタは現在完了形で答えています。私はそう信じてきたし、今もそう信じています、というのです。マルタは主イエスに対する信仰を告白しながらも、それは当時の一般的な信仰の域を出るものではありませんでした。それは終わりの日の「よみがえり」の理解を超えるものではなく、今この時点においては、この死という事実に対して抗いえないと諦めてしまっている言葉です。マルタはまだ主イエスが語った「私はよみがえりであり、命である」という言葉の意味を理解してはいません。遠い未来の終わりの日に起こるべきこととしてしか理解していません。

 

マルタと主イエスとの会話はこれで終わり、マルタはマリアを呼びに行きます。「『先生がいらして、あなたをお呼びです』と耳打ちした。」この耳打ちしたというのは、口語訳では「小声で言った」となっています。いずれにしてもこれは「内密に、こっそり」という言葉です。どうして「小声で」「耳打ち」しなければならなかったのか、また、主イエスがマリアを呼んでくるようにと言った言葉は記されていません。いずれも推測の域をでるものではありませんが、マルタはマリアをこっそりと主イエスに会わせたかったということが言えると思います。それはマルタはマリアの主イエスに対する特別な感情、思いを知っていたからではないかと言われています。それが12章でマリアの香油注ぎの伏線として語られたのではないかと推測されます。

 

 しかし彼女はこれを聞くと、すぐに立ち上がり、イエスのもとに行った。家の中でマリアと一緒にいて彼女を慰めていたユダヤ人たちは彼女が墓に泣きに行くのだろうと思って共に行った。マルタのマリアに対する思いやりというか配慮は遂げられなかったようです。マリアは主イエスを見るなり、その足もとにひれ伏し、「主よ、もしここにいてくださいましたら、私の兄弟は死ななかったでしょうに」とマルタと同じことを言った。マリアの思いは、マルタの思いと重なる部分もあり、またそうではない部分もあるように思われます。彼女は主イエスに会うなり、その足もとにひれ伏しています。発せられた言葉はマルタと同じでも、主イエスの置かれている立場を受け止めていたと推察されるからです。

 

主イエスはマリアが泣き、彼女と一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのをご覧になって、心に憤りを覚え、興奮して言われた。「どこに葬ったのか。」彼らは「主よ、来て、ご覧ください。」と言って主イエスをラザロの墓へ案内した。この時「主イエスは涙を流された。」(11:35)新約聖書を通じて主イエスが涙を流されたのは、後にも先にもここだけです。主イエスはラザロの墓の前に来て、再び心に憤りを覚えたと「憤り」という言葉が繰り返されています。いったい主イエスは何に対して、憤られたのでしょうか。

 

聖書を読んでみると、「イエスは彼女(マリア)が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して言われた。」となっています。またもう一つは、涙を流されたイエスを見て「ユダヤ人たちは、『御覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか』と言った。」「しかし、中には『盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか』という者もいた。」これらを見て、そして聞いて、主イエスは憤りを覚えた、というのです。

 

 これは主イエスが周りにいた誰もが「死」という現実の前に、何もすることができず、ただ泣くことしかできないでいることに対して憤られたのです。また人間をそのように悲しませ、絶望させる「死」そのものに対して憤られたのです。

 

 「死」という出来事は、私たちの生前の労苦を嘲笑うかのように私たちが築き上げた一切を私たちから引きはがされる。ブラックホールのように、一切を飲み込んでしまう。だれしもこの現実の前では、ただ泣く以外にすべがない。それはイエスといえども例外ではないと思われた時、ラザロの墓の前で「その石を取りのけなさい」と言われた。死の世界、闇の世界と命の世界を隔てている大きな石を取り除けよと言われる。それに対してマルタは現実的です。「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます。」とこの大きな石を取りのけようとしない。これは致し方のないもの、受け入れるしか他にすべのないことなのだというのです。湿気の多い日本では、荼毘に付され一握の灰となる。私たちが目にしている世界では、どこにも命のかけらさえ見当たらない。マリアがその周りの者たちがそして私たちが、ただ悲しみ嘆くしかない世界、その現実に打ちひしがれ諦めるしかない現実が、厳然として我らの前にある。これは二千年前も今も変わらない現実です。ただその死者の、ラザロの墓の前に、「私はよみがえりであり、命である」という方が立たれた。しかしマルタはまだ、主イエスが「私はよみがえりであり命である」と言われた言葉の意味を理解してはいませんでした。『私はよみがえりであり、命である」ということは、私は死者を甦らせ、命を与える者である、ということです。

 

前回学んだことを思い出して下さい。5:25「はっきり言っておく[6]。死んだ者が神の子の声を聞くときが来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる。父は、ご自分の内に命をもっておられるように、子にも自分の内に命を持つようにしてくださったからである。また、裁きを行う権能を子にお与えになった。子は人の子だからである。驚いてはならない。時が来ると、墓の中にいる者は皆、人の子の声を聞き、善を行った者は復活して命を受けるために、悪を行った者は復活して裁きを受けるために出てくるのだ。[7]

 

 その主イエスが憤って言われた言葉は、「『もし信じるなら神の栄光が見られると言っておいたではないか。』と言われた。」これはとても語気強く叱りつけるように言われた言葉だと思います。そして「イエスは天を仰いで言われた。「『父よ、私の願いを聞き入れてくださって感謝します。私の願いをいつも聞いて下さることを、私は知っています。(今までいつもあなたは私の願いを聞いてくださったことを知っています、と言うのです。)しかし、(今)私がこういうのは、周りにいる群衆のためです。あなたが私をお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。』」主イエスがその力を発揮される時は、いつも人々のためであり、ご自身のために発揮されることはありませんでした。ここでも死人の復活ということを起こすことは、自分の栄光のためではなく、人々がそれによって主イエスが父なる神より遣わされたものであることを信じるようになるため、というのです。

そして大声で「『ラザロよ、出てきなさい』と叫ばれた。」「すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出てきた。顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に、『ほどいてやって、行かせなさい』と言われた。」

 

 こんな世迷言(よまいごと)を言っているからキリスト教はだめなんだ、という声が聞こえてきそうですが、しかし私たちは誰しも大なり小なりこのことを、自分の人生の中で経験してきているのではないでしょうか。私たちもラザロのように墓(闇)の中から呼び戻された経験を持っているのではないでしょうか。主イエスが「私はよみがえりであり、命である」と現在形で言われたことは、今の時代においても二千年前と同様に私たちに現在形で語られている言葉です。仮定法で語られた言葉ではないのです。確かに死人を生き返らせるのは、ご自身の内に命を持っている神の子の権限に属することですが、その神の子から命を与えられた私たちは何度でもよみがえるのです。

 

マルタがいつの日か終わりの日に私の兄弟がよみがえると未来形で言ったことは、今の今、キリスト・イエスに結ばれている私たちにも現在形で語られている言葉なのです。だから私たちは「生きていて私を信じる者はだれも、決して死ぬことはない。」のです。「たとえ死んでも生きる」者とされているのです。従って絶望の淵に空しく沈み行くということはないのです。主イエスと共にあるなら「この病は死で終わるもの」とはならないのです。終わりの日に起こることが、主イエスに結ばれている者には現在のこととして起こるのです。

 

「死」の世界、闇がすべてを覆い隠し、のみ込んでしまう死の道の限界を、私たちの主イエスは突き抜けて、再び弟子たちの前にその姿を現されたのです。この復活の主イエスに出会ったパウロは、そのコリント人への手紙第一の15:53~57に

「この朽ちるべきものが、朽ちないものを着

 この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになります。

 この朽ちるべきものが朽ちないものを着、

 この死ぬべきものが死なないものを着るとき、

次のように書かれている言葉が実現するのです。」

「死は勝利にのみ込まれた。

 死よ、お前の勝利はどこにあるのか。

 死よ、お前のとげはどこにあるのか。」

と、高らかに勝利宣言をしています。

 

 「私はよい羊飼いである。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。」「ラザロよ、出てきなさい。」と大声でラザロを死から呼び戻したように、私たち一人一人の名を呼んで私たちをも呼び戻される。その声を聞いたものは、生きる。「私が来たのは羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。[8]」だから私たちは何度でもよみがえるのです。主イエスは、常に私たちに現在形で語りかけられておられるのですから。

 

「私の羊は私の声を聞き分ける。私は彼らを知っており、彼らは私に従う。私は彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らを私の手から奪うことはできない。私の父が私にくださったものは、すべてのものより偉大であり、だれも父の手から奪うことはできない。私と父は一つである。[9]」 復活、よみがえりということは、いつの日か遠い未来に起こることが、主イエスキリストと共に在る者には今現在のこととなるというのです。

 

 よみがえった主イエスは、確かに十字架上で死んだイエスです。しかし確かに生きておられる。生きているけれども死んでいる、死んでいるけれども生きている。私たちが絶対と思っている死も生も絶対ではなくなっています。死と生を超えたところにおられる。「私たちの国籍は天にあり[10](口語訳)とはそういうことなのだと思います。そしてここに「キリスト者の自由」がある。

 

 

最後に以前にお話ししたかもしれませんが、私たちはいつも何かをすることによって、何かを語ることによって、何かを神に与えることによって神に感謝し、仕え、神に栄光を帰すことができると考えている。ところがラザロの場合は違う。彼は受け取り、彼の中に神を働かせることによって、彼は神に栄光を帰し、最も純粋に、そして強力に、神を証しする者とされています。主イエスは確かにマリアの三百デナリもするナルドの香油をよみせられた。しかし私たちは同時に、ラザロの道もあることを忘れないでおきたい。病人である彼は自分では何もすることができない。何も語らない。食事を与えられ、床を用意してもらい、愛されることによって神に感謝し、神に仕えたのです。私たちの主イエスはこのラザロをこよなく愛した。私たちは今日はこのラザロという人について、思いを新たにしたいと思います。因みにこのラザロという名前は、エレアザールというヘブル語のギリシャ語訳と言われています。エレアザールという言葉は、「神は助けたもうた」という意味なのです。

 

 ローマ人への手紙3:24に「人は、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いによって義とされるのである。」というパウロの言葉がありますが、ラザロの墓の前に立った主イエスの思いは、この言葉の意味を余すところなく私たちに伝えているのではないでしょうか。

 

 この出来事はエルサレムにも伝えられ、人々はイエスを王として迎え入れます。「ホサナ、ホサナ 主の御名によって来るものに祝福あれ」と言ってロバの子にのったイエスを歓迎します。その後のことはご存じの通りです。



[1] ヨハネ福音書14:25~29

ヨハネ福音書15:26「私が父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち真理の霊が来るとき、その方が私について証しをなさるはずである。あなたがたも初めから私と一緒にいたのだから、証しをするのである。」

[2] その時の様子は使徒言行録2章に記されています。

[3] 「私はよみがえりであり、命である。私を信じる者は、たとい死んでも生きる。また、生きていて、私を信じる者は、いつまでも死なない。あなたはこれを信じるか。」(口語訳 ヨハネ福音書11:25、26)

[4] I am the resurrection and the life; he who believes in me, though he die, yet shall he live, and whoever lives and believes in me shall never die. do you believe this? (RSV)

 

[5] 口語訳は「主よ、信じます。あなたがこの世に来るべきキリスト、神の御子(みこ)であると信じております。」となっています。原典もキリストとなっていますが、新共同訳はなぜかメシアというヘブル語に置き換えています。その事情は分かりません。

[6] この5:25の「はっきり言っておく」と訳された言葉は、原典ではアーメン アーメン レゴー ヒューミン となっていて、アーメンが二度繰り返されています。レゴーは私は言っておく ヒューミンはあなた方にという代名詞です。RSVTruly truly I say to you となっています。口語訳では「よくよくあなた方に言っておく。」となっています。「誠にまことに汝らに伝えおく」という訳もあったと記憶しています。今これから大事なことをあなたがたに伝えよう、というのです。

[7] ヨハネ福音書5:25以下

[8] ヨハネ福音書10:10

[9] ヨハネ福音書10:27以下

[10] フィリピの信徒への手紙3:20「しかし私たちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、私たちは待っています。」(新共同訳)


2023年4月16日日曜日

出会いとしての復活(2023年4月16日)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)


讃美歌21 325番 キリスト・イエスは


「出会いとしての復活」

ルカによる福音書24章13~35節

関口 康

「二人が、『道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、私たちの心は燃えていたではないか』と語り合った」

(2023年4月16日 聖日礼拝)