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讃美歌21 520番 真実に清く生きたい
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「十字架を背負う教会」
ガラテヤの信徒への手紙6章11~18節
関口 康
「しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです」
先週は夏期休暇を取らせていただき、別の教会の礼拝に出席させていただきました。どの教会に行くか考えていたとき■さんのお怪我の話を伺い、にじのいえ信愛荘でも聖日礼拝が行われているので、ご出席なさってはと、おすすめをいただきました。
そうしようと思い、にじのいえ信愛荘に電話したところ、■先生ご夫妻は療養のため別のところにおられると教えていただきましたので断念し、別の教会に出席しました。
「のんびりできたか」とお尋ねがありましたが、あまり休めませんでした。文句を言っているわけではありません。私が行った教会の牧師もずいぶん疲れておられる様子で、私も同じだなと、いろいろ考えさせられる機会になりました。
今日開いていただいた聖書の箇所は、これも日本キリスト教団聖書日課に基づいて選びました。聖書日課には「十字架を背負う」とだけ書かれていましたが、私が「教会」という言葉を加えて「十字架を背負う教会」としました。
この箇所は使徒パウロが書いたガラテヤの信徒への手紙の結びの部分です。「パウロが書いた」と言ったばかりですが、11節の意味は、パウロ自身が自分の手で書いた部分は今日の箇所だけだということです。「このとおり、わたしは今こんなに大きな字で、自分の手であなたがたに書いています」というのは、この箇所より前の部分は別の人に書いてもらっていた、という意味です。
つまり口述筆記です。パウロが口で話すことを書記役の人に書いてもらっていました。しかし、手紙の最後の部分だけは自筆で書きます、しかも大きな字で書きますというのは、手紙ですから「声を大にして言う」ことはできませんが、これだけは分かってほしいと、パウロが強調したい内容を書いた部分であるという意味です。
パウロは何をそれほど強調したがっているのかといえば、ひと言でいえば、教会の中に分裂が起こっているが、それを食い止めなければならないということです。12節の「肉において人からよく思われたがっている者たちが、ただキリストの十字架のゆえに迫害されたくないばかりに、あなたがたに無理やり割礼を受けさせようとしています」というのが、教会の分裂の原因です。この問題はガラテヤの信徒への手紙の始めから終わりまで一貫して取り上げられているものです。事件の経緯が比較的詳しく記されているのは2章ですので、ぜひお読みください。
そこに書かれていることを短く言えば、この手紙で「ケファ」と呼ばれている使徒ペトロまでがイエス・キリストの十字架の福音を信じて律法の束縛から全く解放されて自由になったはずのキリスト者にユダヤ教の割礼を受けさせようとする勢力に負けて妥協していることに、パウロが我慢できず、ペトロ本人に面と向かって抗議した、というのです。
教会の洗礼は「水」を用います。水はかけたら流れ落ちるだけで、からだに証拠は残りません。しかし、割礼はからだに傷をつけることですから、動かぬ証拠が残ります。旧約聖書に基づいているので権威が生じますし、いわゆる包茎手術と同じですので、相応の費用がかかったはずです。そういうことで優越感と主導権と実利を得ようとした人々がいました。
私の教会生活は生まれたときからなので、もうすぐ58年になります。24歳で伝道師になってからも33年目です。そのことで悩んだことまではありませんが、キリスト者であることについて、目に見える客観的な「証拠」や「しるし」を求める人々のニードに、何度となく接してきました。
揶揄したいわけではないので、具体例を挙げること自体に躊躇がありますが、何も言わないと分かりにくいので例を挙げます。たとえば、仏教や神道にあるような仏壇や神棚のようなものがキリスト教には無いのか、というようなニードです。あるいは、カトリック教会の人々が用いるロザリオやベールのようなものはあなたがた(日本キリスト教団はプロテスタントです)に無いのか、というようなニードです。「ありません」と答えると、とても残念がられました。
いま申し上げていることは、パウロが直面した問題と本質的に同じです。この手紙の5章6節に「キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です」と記されていることの意味は、わたしたちキリスト者には第三者の目に見える客観的な「しるし」や動かぬ「証拠」となる割礼のようなものは何も無いし、要らないし、有害無益なのであって、外側からは決して見えない心の中の信仰だけが必要である、ということです。
なぜそういうものが何も無いし、要らないし、有害無益なのかといえば、そのような「しるし」を持っているかどうかで争いが始まり、教会を分裂させるからです。それを持っている人たちは持っていない人たちを見下げてもよいと思い込んで威張り、押し付けたり売りつけたりしようとするからです。西暦1世紀の生まれたばかりの赤ちゃんのようなヨチヨチ歩きの小さな教会の中で主導権争いが始まり、コップの中の嵐が起こり、教会が分裂して弱くなり、イエス・キリストの福音を宣べ伝える、教会本来の使命を果たすことができなくなるからです。
パウロは言います、「しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです」(14節)。
この言葉は正確に理解される必要があります。特に後半の「この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされている」の意味は何かをよく考えることが大切です。
「はりつけにされる」の意味は、死ぬこと、または殺されることです。しかし、「この十字架によって」が「イエス・キリストの十字架」を指していることは明らかですので、イエス・キリストの十字架にわたしまではりつけにされるという意味ではありません。ここに書かれているとおり「世がわたしにはりつけにされている」のであり、「わたしが世にはりつけにされている」という意味です。その意味は、わたしと世とは「死んだ」関係であり、つまり「終わった」関係である、ということです。わたしが「世」のマナーやルールに従う理由はもはやない、ということです。
「世」とは現代の世俗社会(Secular society)よりも広い意味です。しかし、かなり近い意味です。教会の中にまで持ち込まれる「心の中の信仰」だけでは足りないとする、目に見える客観的な動かぬ「証拠」を見せつけてまで主導権争いをしようとする人の動きそのものが「世」です。
「イエス・キリストの十字架以外に誇るものがあってはならない」とは、そのような争いとは一切手を切って生きる者に自分はされた、というパウロの信仰告白です。
パウロだけでしょうか。わたしたち「教会」もそうでなければならないのではないでしょうか。私が今日の宣教題に「教会」と付け加えたのは、そのことを申し上げたかったからです。
(2023年9月10日 聖日礼拝)
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私たちは「さあ、使徒信条を学ぼう」といって、使徒信条を学び始めた訳ではありません。ヨハネ福音書の後半部分を読みながら、その都度、事柄が関連する時に言及してきたところです。私たちはこの使徒信条を毎週、自分自身の信仰として告白しています。多くの方が「主の祈り」同様に、既に暗唱しておられることと思います。今まで学んできたことは、「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず(現在形)、我はその独り子我らの主イエス・キリストを信ず(現在形)、主は聖霊によりて宿り、処女マリヤより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、よみにくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、天にのぼり(完了形)、全能の父なる神の右に座したまえり(現在形)、かしこよりきたりて、生けるものと死ねるものとを裁きたまわん(未来形)、と、ここまでだったと思います。ただ聖霊については、度々言及してきたところです。神は完了形で表された事柄により、私たちをご自身と和解させられました。そして御子イエス・キリストは神の右に座すものとされ、再び来たりたもう日に向けて日夜我らの罪を執り成してくださっているということでした。ここが今現在、私たちが置かれている所。神が私たちに対して既に成し遂げて下さったこと、そして将来に向けての約束のもとに、今現在の私たちを支えておられるというのです。
ここからは神が私たちに対して成し遂げて下さったことを受けて、それに対する私たちの信仰告白です。「我は聖霊を信ず」で始まります。よみがえられた主イエスが、狼狽する弟子たちに息を吹きかけて「聖霊を受けよ」と言われる。罪に打ち勝ち、死に打ち勝ち、父なる神の怒りに打ち勝った主イエスの霊を受けよと言うのです。この霊の導きのもとに私達は、「我は聖霊を信ず(現在形)、聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体のよみがえり、永遠の生命を信ず(現在形) アーメンと告白します。どういうことかと申しますと、今のこの時というのは、神が私たちのために成し遂げて下さったことに、私たちが感謝し、讃美の歌を歌いながら御もとに来ることを望んでおられる時であるというのです。たとえそれが貧しき讃美であったとしても、神はそれを喜ばれる。なぜなら、そのためにこそ御子の十字架はゴルゴタの丘の上に立てられたからです。
エデンの園には善悪を知る木の他に、もう一本「生命の木」がありました。アダムとエバを楽園から送り出した後、神が最初に行ったことは「命の木に至る道を守るために、エデンの園の東にケルビムときらめく剣の炎を置かれた。[1]」これは人間が罪あるままで永遠に生きる者となることがないようにと為された処置でした。ただこの命の木がゴルゴタの丘の上に立てられたのです。主イエスの血潮によってその罪が贖われた者たちが、「永遠の命[2]」を得るためでした。私たちの主は、「主よ、信じます。不信仰な私をお助け下さい。[3]」と叫ぶ者を受け入れてくださる方です。受け入れて私たちの不信仰を払しょくされる。御子によって成し遂げられた神と人間との和解という出来事に、感謝と讃美が捧げられることを望んでおられるからです。
それでは今日のテーマである「我は聖なる公同の教会を信ず」とは、どういうことなのだろうか。
今日の「聖なる公同の教会を信ず」というところを原文(ラテン語)で読みますと、Credo in Spiritum Sanctum、sanctam Ecclesiam catholicam, となっています。最後の頁に参考までに原文で全文を掲載しておきます。
Ecclesia という言葉は、私たちも度々耳にする言葉です。これはギリシャ語の εκ-κλησια (エクレーシア)という言葉がラテン語に置き換えられたものです。エクレーシアとは、εκκαλεω(エカレオ―
呼び出す、召し出す)という動詞の名詞化された言葉です。従って、「神によって呼び出された者たち、召された者たちの群れ(集まり・集会)」という意味になります。
このエクレーシアという言葉をsanctam(聖なる)という言葉とcatholicam(公同の)という言葉が前後から挟む形で、説明しています。そしてこの言葉の直前にCredo in
Spiritum Sanctum(私は聖霊を信じます)という言葉があり、その後にこの「聖なる公同の教会」を信じます、という言葉が続いています。主イエスの姿はすでにこの地上にはなく、全能の父なる神の右に座し、私たちにご自身の霊である聖霊を送り、私たちを導いておられる。今はこの「聖霊の時代」ということも出来ると思います。
この聖霊の導きと支配の下に、私たちは罪人でありながら、同時に、新たに義とされた者として、自由にされた者として覚醒せしめられるのです。私は前回「罪人にして、同時に義人」ということについてお話ししましたが、聖霊はこの罪人の中に、罪人に過ぎない者の中に、新たな人間を創造する神であるのです。私たちがいつもペンテコステに読む使徒言行録2章には、ユダヤ人を恐れて部屋に鍵をかけて閉じこもっていたペテロや弟子たちが、この聖なる霊を受けて、そのユダヤ人達を前にして主イエスの甦りの証人となったということを毎年ペンテコステに確認している所です。
パウロは第1コリント15:45以下に「『最初の人アダムは命のある生き物となった[4]』と書いてありますが、最後のアダム(キリスト)は、命を与える霊となったのです。最初に霊の体があったのではありません。自然の命の体があり、次いで霊の体があるのです。最初の人は土ででき、地に属する者であり、第二の人(キリスト)は天に属する者です。土からできた者たちはすべて、土からできたその人に等しく、天に属する者たちはすべて、天に属するその人に等しいのです。私たちは、土からできたその人の似姿となっているように、天に属するその人の似姿にもなるのです。」
御子イエス・キリストの聖なる霊によってこのことがすでに、成し遂げられたと信じることが許された者たちには、その人の内にこの聖なる霊の神殿が建てられ、常に新鮮な命の霊が吹き込まれるのです。この新鮮な命の霊が与えられる時、この聖なるイエス・キリストの霊が、自分自身においては何ら聖なるものでなく、特別なものでもない私が、そして教会が、主の「聖」にあずかるのです。このことについては、主イエスご自身の言葉が残されています。
「また彼らが真理によって聖別されるように(ために)、彼らのため私自身を聖別いたします。」(ヨハネ福音書17:19 口語訳)
「彼らのために、私は自分自身をささげます。彼らも、真理によってささげられた者となるためです。」(同上 新共同訳)
「聖別する」という言葉には「(供え物として)捧げる」という意味もあります。「聖別する」というのは、同時に「神にご自身を供え物としてささげる」という意味です。教会は自分自身としては聖なるものではなく、また、何ら特別な存在でもありませんが、この方の「聖」にあずかるのです。
更に言うなら、へブル人への手紙9:13以下に「なぜなら、もし、雄山羊と雄牛の血、また雌牛の灰が、汚れた者たちに振りかけられて、彼らを聖なる者とし、その身を清めるならば、まして、永遠の“霊”によって御自身をきずのないものとして神に献(ささ)げられたキリストの血は、わたしたちの良心を死んだ業(わざ)から清めて、生ける神を礼拝するようにしないでしょうか。」
「主よ、信じます。不信仰な私をお助け下さい。」と言って、御前にぬかずく時、主は私たちを受け入れ、私たちの不信仰を払しょくし、聖なる者の一人に加えてくださるのです。
教会に関しては聖書には実に多くの個所があります。その中から教会を考える時に真っ先に浮かんでくる言葉は、第1コリント12:12の「体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。」という言葉です。私たちの体には多くの部分(肢体)があるように、教会のかしらであるキリストも多くの部分(肢体)から成っている、というのです。私たちはここの部分を注意深く読まなければなりません。ここでパウロが力説していることは、私たちの体同様にキリストも多くの部分から成り立っているというのです。そしてその部分とは私たち一人一人である(27節)というのです。
これは驚くべき言葉です。私たちがキリストの体の一部を成しているというのです。
この部分が、「ユダヤ人であろうとギリシャ人であろうと、奴隷であろうと自由な身分のものであろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊を飲ませてもらったのです。体は一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。」というのです。とりたてて説明する必要がないくらい、明確に解き明かされています。
この事実があってはじめて次の聖句が現実となります。「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えてくる時、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、私の父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、私が飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていた時に飲ませ、旅をしていた時に宿を貸し、裸の時に着せ、病気の時に見舞い、牢にいた時に訪ねてくれたからだ。』すると正しい人たちが王に答える。『主よ、いつ私たちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』そこで王は答える。『はっきり言っておく。私の兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、私にしてくれたことなのである。[5]』(マタイ福音書25:31~40 50頁)この最も小さい者は、キリストの体の一部であるという事実がなければ、この言葉は成り立たないのです。
また使徒言行録9章以下にはサウロ(パウロ)の回心について記されています。そこでサウロが「なおも主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んで、大祭司のところへ行き、ダマスコの諸会堂あての手紙を求めた。それは、この道に従う者を見つけ出したら、男女を問わず縛り上げ、エルサレムに連行するためであった。ところが、サウロが旅をしてダマスコに近づいた時、突然、天からの光が彼の周りを照らした。サウロは地に倒れ、「サウル、サウル、なぜ、私を迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。「主よ、あなたはどなたですか。」というと、答えがあった。「私は、あなたが迫害しているイエスである。・・・」この出来事[6]も、主イエス・キリストを信じる者たちが、その体の一部分であるという事実があってはじめて、言えることなのです。(使徒言行録9:1~19 229頁)
ここで「はてな?」と思う方もおられるかもしれない。私たちは御子イエスは全能の父なる神の右に座しておられるのではなかったか、と。確かに御子は全能の父なる神の右に座していながら、この地上に自らの体なる教会を形成しようとしておられるのです。かれは<かしこ>にもいますが、<ここ>にもおられるのです。教会の頭としては、神の右に座しつつ、その体なる教会をこの地上に造り上げようとしておられるのです。
「あなた方は、自分が神の神殿(口語訳)であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。神の神殿を壊す者がいれば、神はその人を滅ぼされるでしょう。神の神殿は聖なるものだからです。あなた方はその神殿なのです。」(コリント人への手紙第一3:16~17)
「わたしたちの一つの体は多くの部分から成り立っていてもすべての部分
が同じ働きをしていないように、わたしたちも数は多いが、キリストに結
ばれて(キリストという)一つの体を形づくっており、各自は互いに(キリスト
の体の一)部分なのです。」(ローマ12:3~5)
使徒信条は個人の信仰告白ではあっても、これは自分だけの信仰という
ことではありません。自分だけがよければ、それでよいというものではあ
りません。「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部
分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。」(第一コリント12:26)そ
してこれは単なる倫理的な教えというのではなく、現実にこのキリストの
体がこの教会を覆っているという事実なしには語りえない言葉なのです。
それは私たちがキリストの体の一部分であり、尊き主イエス・キリストの
十字架の血潮を代価として買い取られた者たちだからです。私たちが聖な
る神の神殿と言われるのは、それが私たちの功績に起因するもの
ではなく、聖なる方の「聖性」によって覆われた者たちだからです。
「また御子はその体である教会の頭です。御子は初めの者、死者の中から
最初に生まれた方です。こうして、すべてのことにおいて第一の者となら
れたのです。神は、御心のままに、満ちあふれるものを余すところなく御
子のうちに宿らせ、その十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるも
のであれ、天にあるものであれ、万物をただ御子によって、ご自分と和解
させられました。あなたがたは、以前は神から離れ、悪い行いによって心
の中で神に敵対していました。しかし、今や、神は御子の肉の体において、
その死によってあなたがたと和解し、ご自身の前に聖なる者、きずのない
者、とがめるところのない者としてくださいました。」(コロサイ1:18~24)
ここに私たちの「信仰の確かさ」があります。パウロは多くの問題を抱えていたコリントの教会に対して神の教会へと書き出し、キリスト・イエスによって聖なる者とされた人々、召されて聖なる者とされた人々へと、自分の正しさ、自分の正当性に固執して争っている彼らに、彼らが拠って立つべき原点を思い起こさせようとしているのではないかと思われます。
次に「公同の(catholicam)」ということについて考えてみたいと思います。この「公同の」という言葉は、聖書の中には出てこない言葉です。カトリック教会の聖典と言われるラテン語聖書ウルガータにも、この言葉は出てきません。ラテン語の辞書を調べますと、「普遍的な」という訳語がでています。この言葉は私たちに、カトリック教会を連想させます。まさにその通りで、英語の使徒信条を開いてみますと、I believe in the Holy Spirit, the Holy Catholic Church, (聖なるカトリック教会を信じます)となっています。英語の辞書には、カトリック教会のという形容詞の他に、普遍的な、一般的な、万人に共通の、という意味が載っています。従ってカトリックという言葉は、カトリック教会の専有物ではなく、広く普遍的なという意味を有した形容詞です。
パウロという人は、三回にわたって大旅行をしています。それは異邦人の地に教会を建て、「キリストの十字架と復活による」福音を伝えるためであり、同時にそれらの教会が同じ信仰を持つためでした。直接訪れることが出来ない教会へは、度々手紙を書き、信仰による一致を求めています。それらの手紙が今の私たちの教会にとっても指針となっています。パウロのような巡回伝道者たちに代わってその役割を担ったのが、信条です。私たちが毎週告白している「使徒信条」もその一つです。この使徒信条は多少の文言の違いはあっても、全世界で広く受け入れられ告白されています。
catholicamというこの言葉そのものは聖書の中には出てきませんが、その根拠を聖書の中に探してみると次のような言葉があります。「イエス・キリストは昨日も今日も変わることのない方です。[7]」(新共同訳 へブル書13:8)
「公同性」というのは「普遍性」であり、世界中の場所を超えて、民族、文化、習慣を超えて普遍的であり、また時代を超えて普遍的であるというのです。私たちの教会は、場所を超え、時代を超え、更にすでに召された方たちもその御手の内に置きながら、昨日も今日も変わることがない方の体であるというのです。聖なる教会ということについては、既にみてきました。私たちの教会は弱さ、愚かさをその内に抱えながら、「我は聖なる公同の教会を信ず」と告白しつつその歩みを進めています。このことを使徒信条は、<公(おおやけに)に(いずこにあっても)同じ>という言葉で表現しています。それは言葉を変えるなら、主イエス・キリストをその頭とするあるべき教会の姿を信じるということにもなります。同時にこれはCREDO(我、信ず)という私の信仰告白となった時、この聖なる教会に相応しく地上にある教会は常に、改革されるべき教会となるのです。
今述べてきた聖なる普遍的な教会を実現するべく、私たちの教会は果たして、この「聖なる公同の教会」を尋ねながら、日々改革される教会であるだろうか、ということが問われているのです。
「聖なる公同の教会」は決して自明のものではないというのです。いつでも、誰の目にも確認されることではなく、ただ信仰の目によってのみ確認されることであり、それ故にこの教会は信ずることを求めているのです。いつでも、誰にでも、確認されることであるなら、使徒信条は信ずることを求めはしません。自分の目で見て確認すればいいのです。
神は私たちが御子によって成し遂げられたことが、広く告げ知らされ、
感謝と讃美の歌を歌いつつ御もとに従い来ることを望んでおられる。私た
ちはこの神のわざの遂行に参加しているのです。今のこの時は御子イエス
によって示された人間への愛に対して、私たちの応答が求められている時
であり、我らがその貧しき讃美をもってこの御わざに参加することを、神
は喜ばれるのです。
Credo in
Deum, Patrem omnipotentem, Creatorem caeli et terrae,
et in Iesum Christum, Filium Eius unicum, Dominum nostrum, qui conceptus est de
Spiritu Sancto, natus ex Maria Virgine, passus sub Pontio Pilato, crucifixus,
mortuus, et sepultus, descendit ad inferos, tertia die resurrexit a mortuis,
ascendit ad caelos, sedet ad dexteram Patris omnipotentis, inde venturus est
iudicare vivos et mortuos.
Credo in Spiritum Sanctum, sanctam Ecclesiam
catholicam, sanctorum communionem, remissionem peccatorum, carnis
resurrectionem, vitam aeternam.
Amen. — "Symbolum Apostolicum".
[1] 創世記3:24
[2] ヨハネ福音書3:16
[3] マルコ福音書9:24
[4] 創世記2:7 これは父なる神が人間を創造された時の言葉です。
[5] 「はっきり言っておく」というのは、「アーメン レゴー ヒューミン」というギリシャ語で、「誠に汝らに伝えておく」という意味で、これから大事なことを伝える時の前置きの言葉です。またこの「最も小さい者の一人に」という言葉は、ミクロスというギリシャ語の最上級が使われています。最も小さい者、取るに足らない者、という意味が含まれています。また私たちがクリスマスによく聞く「ユダの地、ベツレヘムよ、お前はユダの指導者たちの中で決して最も小さいものではない。お前から指導者が現れ、私の民イスラエルの牧者となるからである。」という言葉の中にも用いられています。
[6] カール・バルト「和解論」の教会論「地上を旅する神の民」井上良雄訳 P.28
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「心の支えがあるか」
テサロニケの信徒への手紙一1章1~10節
「この御子こそ、神が死者の中から復活させた方で、来たるべき怒りからわたしたちを救ってくださるイエスです。」
今日の聖書の箇所は、使徒パウロのテサロニケの信徒への手紙一1章1節から10節までです。この手紙はパウロがキリスト教の伝道者としての生涯の最も早い時期に書いたものです。
この手紙の趣旨は、はっきりしています。パウロにとってテサロニケ教会は、いわば自分自身にとっての命の恩人たちであり、思い返すたびに感謝の思いを抱いていたので、その思いを言葉にしてテサロニケ教会の人々になんとかして伝えようとしている、ということです。
言い方を換えれば、テサロニケ教会の存在は伝道者パウロにとっての「心の支え」だったとも言えます。その教会を思い起こすたびに感謝があふれてくるというのですから。人生の中でそういう教会に出会えた人は幸いです。
自分の「心の支え」が教会でなければならないことはありません。家族や友人が「心の支え」であるという方もおられるでしょうし、学校や会社がそうだという方も、動物や自然がそうだという方も、哲学や趣味がそうだという方もおられるでしょう。しかし、教会の存在が「心の支え」である方々もおられる、というくらいで止めておきます。人の考え方や感じ方は自由ですので。
キリスト者の「心の支え」が「神」であり「イエス・キリスト」であることは、そうだと言われればそのとおりです。しかしまた、地上に現実に存在する/した特定の教会と、その教会に集うキリスト者たちの存在が「心の支え」であると言ってはならないわけではありません。使徒信条の「われは教会を信ず」という信仰箇条を思い起こすべきです。しょせん教会は人間の集まりにすぎない。人間に頼ると裏切られる。神とキリストだけを頼りにするのがキリスト者であって、教会は信仰の対象ではないという考えは、退けられるべきです。
ただし、いま申し上げたことは教会によるところがあります。パウロにしても、すべての教会に対して同じことを言えたわけではありません。きわめて厳しい言葉で非難しなければならない教会がパウロにもありました。たとえばコリント教会です。内部に道徳的な腐敗が発生し、混乱と分裂をきわめていました。あるいはガラテヤ教会。パウロも激昂して「ああ、物分かりの悪いガラテヤの人たち」(ガラテヤ3章1節)とまで書いています。テサロニケ教会はコリント教会やガラテヤ教会のようでなかった。だからパウロの「心の支え」になったということは考えてよいでしょう。相対評価には残酷な面があります。しかし、地上の教会は複数あります。「この教会」と「あの教会」を比較してどちらがよいかと考えることを止めることはできないでしょう。
テサロニケ教会がどういう教会だったかについてパウロが書いている言葉には、美しい響きがあります。3節がそれです。「あなたがたが信仰によって働き、愛のために労苦し、また、わたしたちの主イエス・キリストに対する、希望を持って忍耐していることを、わたしたちは絶えず父である神の御前で心に留めているのです」。
ここでパウロは「信仰、愛、希望」という順で書いています。希望と愛を入れ替えて、「信仰、希望、愛」という順に並べ替えるとパウロの別の手紙の一節を思い起こされる方が多いでしょう。コリントの信徒への手紙一13章13節です。「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である」。
パウロが「信仰、希望、愛」の三つを一組にして書いた手紙はまだあります。ガラテヤの信徒への手紙です。この手紙もパウロが若い頃に書いたものです。5章5~6節に「信仰、希望、愛」の三つが出てきます。「わたしたちは、義とされた者の希望が実現することを、霊により、信仰に基づいて切に待ち望んでいるのです。キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です」。
ここで大事なことは、テサロニケの信徒への手紙一とガラテヤの信徒への手紙はパウロが若い頃の著作であるのに対し、コリントの信徒への手紙一は晩年の作であるということです。これで浮かび上がる可能性は、パウロは若い頃から晩年に至るまで「信仰、希望、愛」の三つを一組にして語ることにおいて一貫していたであろうということです。偶然の一致でなく、パウロが意図的に三つを結び付けたのです。
パウロが説いた「信仰、希望、愛」の三つを「キリスト教の三元徳(さんげんとく)」と言い、特に西暦4世紀に活躍したラテン教父アウグスティヌスが強調したと、高校向けの倫理の教科書に記されています(濱井修・小寺聡他2名著『現代の倫理』山川出版社、2016年、58ページ)。高校の教科書に記されているということは、日本社会で一般教養に属しているということです。
テサロニケ教会の人々と知り合う前のパウロの身に何があったかについては、使徒言行録16章に記されています。エルサレムで行われた使徒会議(使徒言行録15章)終了後の第2回伝道旅行の途中、パウロはテサロニケでしばらく過ごします(同上書17章)。そのテサロニケに行く直前のフィリピでパウロは逮捕・収監されます(同上書16章)。
フィリピで何があったのかといえば、奴隷の少女が占いの商売をさせられていたのをパウロがやめさせました。すると、その少女で商売していた人たちが金もうけできなくなったと激怒し、パウロと同行者シラスを暴力で捕まえて、役人に引き渡して逮捕させる事件に発展しました。
そして、パウロとシラスが牢の中でも讃美歌を歌い、お祈りをするといういつも通りのことをしている最中に地震が起こり、牢の扉がみな開いてしまい、そのことに責任を感じた看守が自害しようとしたとき、パウロが「自害してはいけない。わたしたちは皆ここにいる」と大声で叫んで食い止め、看守が「先生方、救われるためにはどうすべきでしょうか」とパウロたちに尋ね、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます」と答える場面も、フィリピでの出来事です。そのフィリピの次にパウロが訪ねたのがテサロニケでした。
テサロニケでパウロは安心できたかと言うと、そうではありませんでした。またもや騒動です。テサロニケのユダヤ人の集会で「3回の安息日にわたって」聖書を引用しながら、十字架につけられたイエスこそ真のメシアであることをパウロが論証したら何人かの人たちが信じて受け入れました。特に「神をあがめる多くのギリシア人や、かなりの数のおもだった婦人たちも同じように二人(パウロとシラス)に従った」(同上書17章4節)という点が重要です。それを見たユダヤ人たちが嫉妬して、暴動を扇動しました。そのときパウロたちの命を救ったのが、テサロニケでイエス・キリストを信じた人々でした。彼らがテサロニケからアテネまで、二人を連れて行ってくれました(同上書17章15節)。その人々がその後、テサロニケ教会の基礎を築きました。
苦労の多い人生の中で、「心の支え」になる教会に出会えた人は幸いです。感覚の問題が含まれますので、強制はできません。自由意志で「自分の教会」を選ぶことが、すべての人に可能です。
(2023年8月13日 聖日礼拝)
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| 日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13) |
「悪を憎み、敵を愛せよ」
ローマの信徒への手紙12章9~21節
関口 康
「悪を憎み、善から離れず、兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。」
先週予告しましたとおり、今日は日本キリスト教団の定める「平和聖日」です。78年前の1945年8月15日の日本敗戦の日を思い起こし、戦争に反対し、平和を祈るために設けられました。
今日の聖書箇所は、ローマの信徒への手紙12章9節から21節です。全体を詳しく話すことはできません。戦争の問題、平和の問題と直結する言葉を中心に見ていきたいと願っています。
最初に申し上げるのは、この箇所を取り上げるたびに同じ説明をしていることです。ローマの信徒への手紙12章9節「愛には偽りがあってはなりません」から始まり、13章10節「だから、愛は律法を全うするのです」までのすべてが「愛とは何か」をテーマにして書かれた部分であるということです。「愛とは何か」というテーマとは無関係に思える部分があるとしても無関係ではありません。少なくとも著者パウロの中で「愛とは何か」という問いに結びついています。
その点との関係で特に問題になるのは13章1節から7節までの箇所です。この中に登場する「支配者」ないし「権威者」が警察や軍隊を伴う国家権力を指していることは明らかです。そのような存在に「従うべきである」(5節)とパウロは述べています。軍隊のことまでは言及されていませんが、剣をもって悪を取り締まる存在を指していますので警察の存在は肯定されています。
しかし、そのことと「愛とは何か」というテーマとがどのような関係にあるのかを、よく考えなければなりません。パウロが言おうとしていることをまとめれば、警察の存在はわたしたちが愛し合うために必要である、ということになります。
13章3節の言葉が、比較的理解しやすいでしょう。「実際、支配者は、善を行う者にはそうではないが、悪を行う者には恐ろしい存在です。あなたは権威者を恐れないことを願っている。それなら、善を行いなさい」。
警察を恐れるのは悪事を働いている人たちだけであって、そうでない人たちまで警察を恐れることはないと言い換えれば、よく分かる話になるでしょう。その意味での「悪」は社会的な犯罪行為です。殺人、窃盗、詐欺、偽証、姦淫、性犯罪。その意味での「悪」を「憎む」ことと「神と隣人を愛する」という聖書の教えは一致している、ということになります。
しかし、今の説明で納得していただけるとは思っていません。警察もまた悪事を働くからです。法律の中にも他国から見れば犯罪に加担しているとしか言えないような悪法が存在するからです。法律を決める人々の中にとんでもない悪人がいるからです。そのような人たちに「従いなさい」などと、なぜパウロは言えるのかとお考えになる方々がおられるでしょう。
しかし、矛盾しません。聖書の言葉はすべて「神の存在」を前提しています。権力者はどんな犯罪をいくらおかそうと、だれからも裁かれない絶対不可侵の存在などではなく「神」が鉄槌で打つのです。
権力者はどんな犯罪をおかそうと裁かれることはないというほうが真実であるならば、「自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい」(12章19節)という教えを受け容れることなど、わたしたちには到底できません。人間は悪事を黙って堪えられるほど忍耐強くないからです。精神と肉体を鍛えても無理です。もし神が復讐してくださらないなら自分で復讐するしかなくなります。そのときこそ問われるのが、私の代わりに悪を倒してくださる「神」を信じる信仰です。
私は抽象的な話をしているつもりはありません。ウクライナ戦争が始まっても、教会で私が何も言わないでいるのは関心がないからではありません。
戦争は、いったん始まればどちらが善で、どちらが悪でと区別できなくなります。他国に届く情報は必ずどちらか一方を利するものです。教会が、あるいはどなたか個人が真実の情報を常に確保できる情報源を持っているなら別ですが、どちらが勝つどちらが負けると、勝負ごとに教会が加担すべきでないと私は考えていますので、教会では何も言わずにいます。
しかし、日本が戦争に直接巻き込まれることになれば話は別です。どのような求人方法になるのか、徴兵なのか志願兵なのかは分かりませんが、いずれにしても兵隊になるのは若者たちです。
そうだと思うので、今は夏休みですが、高校の授業で私はほぼ毎週のように、生徒に戦争反対を訴えています。そのことを生徒たちは知っています。私は教会で言わないでいることを、学校では口を酸っぱくして言っています。
しかし、わたしたちに、今の教会に、何ができるでしょうか。昭島教会に来る前の私のことは、皆さんとは関係ないので言わずに来ました。
2012年の原発再稼働反対官邸前デモにも、2013年の特定秘密保護法反対の国会前デモにも、2015年7月の安保関連法案の国会前デモにも、ひとりで参加しました。無力さを痛感しながら、そこにいた人々と一緒に声を上げました。
教会も、ほかのだれも、私の態度決定に引きずり込むことはできないと思い、デモに行くときは必ずひとりで行きました。千葉県松戸市に住んでいましたので、千代田線直通常磐線で、国会議事堂前駅まで片道55分、往復1000円で行けました。
だから何ができたと私は思っていません。私たちは悪を憎まなければなりません。そのために私にもできそうだと思えた行動を起こしただけです。
神さまは、ご自身がお造りになったこの世界と人間をとても愛しておられますので、罪を憎み、罪をなくしたいと神ご自身が望んでおられます。
悪を憎むことは、人間を憎むことではありません。人間の心の中から悪が取り除かれることを求めるだけです。「敵を愛しなさい」とイエスさまがおっしゃったこととそれは矛盾しません。
昨日の午前中、今日の礼拝のための看板を書いていたときに、「悪を憎み、敵を愛せよ」という説教題の中に「心」という字が3つもあると気づきました。「悪」と「憎」と「愛」です。
聖書は日本語で書かれた本ではありませんので、漢字の話は余談です。しかし、悪も憎しみも愛も「心の問題」であることは確かです。
心が変われば人は変わります。戦地に出かけた兵隊たちが戦後も敵への殺意に満ちたままなら、戦後復興は無かったでしょう。
日本の敗戦から78年。日本と世界の平和のために祈ろうではありませんか。
(2023年8月6日 平和聖日)