富栄徳さんが「雨だれ」を演奏してくださいました。ありがとうございます!「この雨の季節にしっくり合う曲です。雨音に重ねて耳をかたむけるのもいいですね。でも豪雨にはならないでと願います。終わりに聖句(マタイ6:21)も紹介されています。」
2020年7月11日土曜日
2020年6月28日日曜日
天のエルサレム(2020年6月28日 礼拝宣教)
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| 宣教壇にアクリル板を設置し、マスク着用で説教しています |
ヘブライ人への手紙12章18~29節
関口 康
「このように、わたしたちは揺り動かされることのない御国を受けているのですから、感謝しよう。感謝の念をもって、畏れ敬いながら、神に喜ばれるように仕えていこう。」
来週の礼拝から原則的に元通りに戻すことにしました。教会学校も来週から再開します。聖書に学び祈る会も今週木曜から再開します。それが最善の選択だという確信はありません。様子を見ながら状況に対応していきたいと考えています。
今日の聖書の箇所はヘブライ人への手紙12章18節から29節までです。いつものとおり日本キリスト教団の聖書日課に基づいて選びました。内容的に難しい箇所です。何を言っているのか分からないとさえ思えます。しかし、難しいから避けるのではなく、皆さんと一緒に難題に取り組む気持ちでお話しします。
最初に申し上げるのは、「ヘブライ人への手紙」というタイトルの問題です。先週の宣教で「ヨハネの手紙一」を取り上げたときに申し上げたのと同じようなことを言わなくてはなりません。それは、「ヘブライ人への手紙」は「手紙」ではない、ということです。
ただし、「ヨハネの手紙一」と違い、「ヘブライ人への手紙」には13章20節から最後までに「結びの言葉」があります。この点だけ見れば手紙のようでもあります。しかし、書いた人の名前もなければ、宛て先も記されていません。もともとは前書きがあったが、失われたのだという仮説が唱えられたことがあったようですが、根拠はありません。
手紙でないなら何なのかを考えるヒントがあります。それが今指摘した13章20節以下の「結びの言葉」の中の「兄弟たち、どうか、以上のような勧めの言葉を受け入れてください」(22節)です。「勧めの言葉」の原意は、今の教会の「宣教」と同じです。つまり、この書物の内容は「手紙」ではなく「宣教」であると著者自身が述べています。
次に申し上げるのは、この書物の著者はだれかです。これも13章22節以下の結びの言葉の中に「わたしたちの兄弟テモテが釈放されたことを、お知らせします」(23節)と記されていることで、テモテは使徒パウロの弟子であることがよく知られているために、「ヘブライ人への手紙」はパウロが書いたものだと昔から考えられてきました。
特に重大な事実は、この書物が新約聖書の一書として加えられることが確定したとき(西暦4世紀)、加えられた理由が「使徒パウロの書簡だから」ということだった、ということです。しかし、そう考えるのは無理であると、今は大方考えられています。
このような話をするのも、聖書の学術的な説明をしたいわけではありません。使徒パウロの手紙であることがはっきりしている、たとえばローマの信徒への手紙やガラテヤの信徒への手紙の中に書かれていることとの関係や調和を考えながら「ヘブライ人への手紙」を読む必要はない、ということを申し上げたいだけです。著者はパウロではありません。
もうひとつ申し上げるのは「ヘブライ人への手紙」が書かれた時期です。結論だけ言えば、西暦1世紀の終わりごろ、80年代から90年代ではないかと言われています。冗談めかして言うことではありませんが、使徒パウロが書いたものだとしたら、パウロは何歳まで生きたのだろうという話になります。
年代の話をするのは、それがこの書物の最も重要なテーマだからです。そうであるということの根拠をいくつか挙げておきます。
「この救いは、主が最初に語られ、それを聞いた人々によってわたしたちに確かなものとして示され」(2章3節)。
「あなたがたはまだ、罪と戦って血を流すまで抵抗したことがありません」(12章4節)。
「あなたがたに神の言葉を語った指導者たちのことを、思い出しなさい。彼らの生涯の終わりをしっかり見て、その信仰を見倣いなさい」(13章7節)。
今あげた3か所に共通しているのは、この書物の著者が語りかけている相手が、キリスト教会のいわゆる第二世代というべき人々である、ということが分かるように書かれているということです。第一世代の多くは殉教の死を遂げました。しかし、あなたがたはそうでない、なぜなら、あなたがたは「まだ血を流していない」からだと言われているわけです。
この書物の中で特に有名なのは、「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」(11章1節)から始まり11章全体に及ぶ、旧約聖書物語の要約です。
カイン、アベル、エノク、アブラハム、サラ、イサク、ヤコブ、エサウ、ヨセフ、モーセ、ギデオン、バラク、サムソン、エフタ、ダビデ、サムエルらの名前が、次々に挙げられます。
そのうえで、「このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか、信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら」(12章1~2節)と語られます。
つまり、この書物が書かれた、あるいは宣教として語られたときの背景ないし文脈には、教会の世代交代に際して、第一世代の人々の熱心な信仰を第二世代の人々にぜひ受け継いでもらいたいという強い願いがあった、ということです。それは、ほとんどそのひとつのこと(信仰継承!)を言うためだけに、この書物が書かれた、と言ってもよいほどです。
しかし、どうでしょうか。反論するわけではありませんが、キリスト教会の第二世代の人々は本当にだらしなかったのでしょうか。第一世代の人々の目から見ると、そのように見えたかもしれません。しかし本当にそうだったのでしょうか。第一世代の人々が、我々の信仰を受け継いでくれない、教会を受け継いでくれないと、第二世代の人々に対して腹を立てたり落胆したりするあまり、厳しすぎる言い方になってしまっている嫌いがなかったでしょうか。
どんなことであれ、先輩が後輩に厳しい目を向けるのはある意味でやむを得ないことです。しかし、わたしたちが知っている事実は、教会の歴史は第一世代だけで途絶えはしなかった、ということです。なんと二千年も続いたし、これからも続くであろう、ということです。
わたしたちはどうでしょうか。叱られれば委縮するだけです。互いに責め合うのではなく、愛をもって信仰を継承し、教会の世代交代を果たしていこうではありませんか。
「感謝の念をもって、畏れ敬いながら、神に喜ばれるように仕えること」(28節)が大事です。キーワードは「感謝」と「敬意」と「喜び」です。つまり《楽しい教会》であることがどうやら大切です。
その思いで、再来年(2022年)の昭島教会創立70周年を共に迎えようではありませんか。
(2020年6月28日、日本キリスト教団昭島教会 主日礼拝)
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| 間隔をあけて座るようにしています |
2020年6月21日日曜日
信仰の道(2020年6月21日 礼拝宣教)
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| 説教壇にアクリル板を設置し、マスク着用で説教しています |
ヨハネの手紙一2章22~29節
関口 康
「初めから聞いていたことを、心にとどめなさい。初めから聞いていたことが、あなたがたの内にいつもあるならば、あなたがたも御子の内に、また御父の内にいつもあるでしょう。」
今日も変則的に短縮した形で礼拝を行っています。宣教も短くします。
ご承知のとおり、今年度の私は2つの学校で聖書を教えています。ひとつの学校は校舎での対面授業を再開しています。もうひとつの学校はインターネットを用いたオンライン授業をしてきましたが、まもなく対面授業を再開します。
現時点で私が対面授業に出かけているのは週1日だけです。片道3時間かかり、その間のほとんどの時間を、電車とバスの中で過ごします。一昨日出かけたときは朝5時台の電車で、立川から新宿まで座れませんでした。帰りの午後2時台の電車も新宿まで座れませんでした。座りたかったと言いたいのではなく、東京の交通機関はすっかり元に戻っているということを報告しようとしているだけです。
しかし、もう危険は去ったのでしょうか。毎週言うようなことではありませんが、昨日も「国内で64人、そのうち東京は39人の感染者が確認された」と報道されていました。世界保健機関(WHO)の事務局長は昨日の時点で「一昨日、世界で過去最大の15万人超の新規感染者が確認された」と表明し、「流行は加速している」とまで言いました。そのような報道と東京あるいは日本全国の現実は全く矛盾していると、私には思えてなりません。
しかし、「とにかく様子を見る他はないだろう」としか言いようがありません。私が自分のしていることを誇張したいわけではありませんが、もしかしたら今集まっているわたしたちの中で、最も長時間の電車やバスの中にいたり、千人以上の学校の中に長時間いたりするという意味で、最も危険な存在かもしれません。どこで何を拾ってくるか分かりません。
そのように思うのであれば、私は今ここに立つべきではないかもしれません。しかしそういうわけにも行かないという現実の前に立たされているという点で多くの方々と同じ立場でいる気持ちです。「マスクで鼻と口を覆い、教会のみなさんになるべく近づかないようにする牧師」というのは、概念矛盾のようなものでしかなく、申し訳なく思うばかりです。
しかし、こういう話をずっと続けるつもりはありません。今日開かれている聖書の御言葉についてお話しします。
これは「ヨハネの手紙一」というタイトルの書物です。事実なのではっきり言いますが、この書物のどこにも、ヨハネの名前は出てきません。もうひとつの事実は、この書物はどう考えても、新約聖書の中の他の手紙と同じ意味での「手紙」ではないということです。送り主の名前も宛て先もなければ、結びの言葉もありません。
そのような書物がなぜ「ヨハネの手紙」と呼ばれているのでしょうか。これも事実ですのではっきり言いますが、新約聖書の最初に四つある福音書の最後の「ヨハネによる福音書」と内容的に重なり合う要素が多いということが昔から知られてきたからです。
しかし、それ以上のことははっきりとは言えません。かろうじて言えるのは、この「ヨハネの手紙一」と呼ばれる書物は、ヨハネによる福音書の内容をよく知っている人によって書かれている、ということです。それ以外の可能性はありません。ヨハネによる福音書を知らない人に、ここまで一致する内容の文書を書くのは不可能です。
なぜこんな話をしているのかといえば、先ほど朗読した箇所の中の「初めから聞いていた」の意味を明らかにしたいからです。ヨハネによる福音書が書かれた年代は、比較的はっきり分かっています。それは西暦1世紀の終わり頃から2世紀の初め頃です。早くとも西暦90年より後だろうと考えられています。
そうしますと、今申し上げたことが何を意味するかといえば、先ほど申し上げたとおり、ヨハネによる福音書を知っている「ヨハネの手紙一」は、明らかにヨハネによる福音書よりも後に書かれた、ということです。ということは、ヨハネの手紙一はおそらく西暦2世紀に書かれたものであろうということです。その意味は、イエスさまが十字架の上で処刑された西暦30年前後から数えれば、70年ほど後に書かれたものだということです。
学術的な説明をしたいわけではありません。「初めから聞いていたことを心にとどめなさい」(24節)と記されている「初め」の意味を申し上げたいだけです。この「初め」はこの書物の中に何度も繰り返し出てきます。
この「初め」は「私は3年前に初めてイエスさまを信じ、洗礼を受けました」というような意味の、わたしたちひとりひとりの個人的な信仰生活の「初め」ではなく、十字架につけられて死んだあのイエスこそ真の救い主キリストであると、初めの教会が公に信仰を告白したときを指していると考えられます。
そうだとすると、この書物が「心にとどめなさい」と呼びかけている「初め」は、この書物が書かれたときよりも70年ほど前を指している、ということです。
そしてもうひとつ言えるのは、この「ヨハネの手紙一」の中でこれも繰り返し述べられているのは、キリスト教の内部にいわゆる異端が発生し、教会が分裂し、崩壊しかかっていたことに対する警告として「初めから聞いていたことを心にとどめなさい」と言っている、ということです。その意味は、教会の根源的な信仰告白に立ち返ってほしいという強い願いであるということです。
それがどんな異端だったのかというようなことを具体的に説明するのは、やめておきます。本文をお読みください。歴史的な事実だけ言えば、もしその異端との争いに敗れていたら、キリスト教会はその時点で消滅し、その後のキリスト教の歴史は無かっただろうと言われるほどの悪影響をもたらした一大勢力でした。70年続いたキリスト教会の歴史がそこで終わっていたかもしれない、ということです。
悪いほうの話をわたしたちの現実に引き寄せ過ぎないようにします。そういうことをすると暗い気持ちになるだけです。
それよりも、再来年の2022年に昭島教会の創立70周年を迎えるではありませんか。「イエス・キリストこそ真の救い主である」と、この教会としての初めての信仰告白がなされてから、まもなく70年です。わたしたちにとって今は「ヨハネの手紙一」の状況さながらである、ということです。
右にも左にもそれず、これまでと同じひとつの信仰の道を歩んでいこうではありませんか。これからも昭島教会のともしびを高く掲げ続けようではありませんか。
(2020年6月21日、日本キリスト教団昭島教会 主日礼拝)
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| 間隔をあけて座るようにしています |
2020年6月20日土曜日
ピアノ賛美動画「悲愴」富栄徳さん演奏・動画編集
富栄徳さん感謝です!「第一楽章は《さあ大変!どうしよう》と重苦しい雰囲気ですが、第二楽章は《気持ちを切り替えて前に進もう》といった感じです。コロナ騒動が新しい段階に入った今とオーバーラップする気がします。第三楽章のように明るい日々が戻ることを信じたいです」
2020年6月3日水曜日
賛美動画「この世の波風さわぎ」富栄徳さん編集
5月24日(日)公開の長井志保乃さんのピアノ賛美「この世のなみかぜさわぎ」を富栄徳さんがギター付き動画にしてくださいました。「アイルランド民謡から作られた美しい讃美歌で、《ダニーボーイ》として多くのアーチストに演奏されています。」富栄さんありがとうございます!
2020年5月31日日曜日
聖霊の賜物(2020年5月31日 ペンテコステ礼拝宣教)
「礼拝開始チャイム」はここをクリックしてください
下記の宣教文のPDF版はここをクリックしてください
ヨハネによる福音書 14 章 15 節~27 節
石川献之助
私たちは三位一体の神を賛美し礼拝しているのだという事を、聖霊降臨節(ペンテコステ)にあたって、新たに心に留めたいと思います。
それは後から付け加えられた恵みというのではなく、もとから救い主イエスと共におられたのです。その聖霊が、主イエスが昇天された後、主イエスを信じる弟子たちが集まっているその上に下り、新たなる現実となったのであります。
聖霊降臨の出来事を伝える聖書の箇所として、使徒言行録 2 章1節~も合わせてお読み下さることをお勧めします。今朝はヨハネによる福音書のテキストを与えられました。
ヨハネによる福音書 14 章 16 節~17 節には「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は真理の霊である。」と書かれています。これから起こることに戸惑い、不安でいっぱいの弟子たちに、主イエスは聖霊を与える約束をして下さっています。
この「弁護者」という言葉ですが、ギリシャ語ではパラクレートスといい、口語訳聖書では「助け主」と訳されています。パラクレートスとは、常に困難や苦悩、疑惑、あるいは当惑のもとにある人を助けるために招きいれられる者を意味します。聖霊は私たちに真理を教え、そして真理のための戦いを進めることが出来るようにする弁護者として働いてくださるのです。
主イエスは私たちに何を遺して下さったのでしょうか?それは救いの愛であります。主イエスは十字架という値を払われて、人間の救いの業を完成され、弟子たちに律法ではなく愛を示すために聖霊をおくられた、そこにペンテコステの出来事の意味があるのです。聖
霊に満たされた、主イエスに従う弟子たちの集まりを「教会」と呼び、それは喜びと救いを中心とした交わりなのであります。
私は今、主イエスの心の内を思い起こしています。十字架の出来事の前、主イエスは冷たい洞穴みたいな所に裸でなげこまれて、さぞ寒かったろう、さぞ悲しかったろう、弟子から捨てられたという思いも抱かれたかもしれない。ペテロが群衆に向かって「彼を知らない」「彼とは関係ない」と三度否定したその声を、主イエスは悲しく心に留めたことでしょう。
その後、復活の己を表された主イエスは、弟子ペテロに向かって「あなたはわたしを愛するか?」と三度尋ねました。復活の主イエスが初めて己を表して言われたことは、「わたしを愛するか?」ということ。三度も言われたということ。
しかし、そのペテロに復活の主イエスは、「わたしの子羊を養いなさい」と言われました。「あなたに助け主をおくる」といわれた主イエスの心を思うわけであります。シモン・ペテロは主イエスの深い愛と許しにふれ、新しいペテロに創りかえられて、主イエスに従う決心をしたのであります。
服従というと一般に律法と考える方が多いかもしれません。主イエスは愛するという行為を遺していかれました。自分を捨てて隣人を愛するという行為としての愛は、服従ということであります。神に服従するということであります。
そのことは一見、最後神に服従して己を捨てたと思われやすい。父なる神に服従した、服従としての愛、それは単に喜びを犠牲にして悲しみにかえるようなことではないのです。そうではなくて、神に服従するということは、十字架のイエス様に従うということなのですね。
聖霊に満たされるということは、それ自体喜びであります。聖霊に励まされて、主イエスの愛を新しく受けながら、信仰の生涯を果たしていく道を私たちは与えられているのです。
私たちは9回の尊い主日礼拝を、自宅礼拝という形で分散して守ってきました。小さい自宅での礼拝の中にあっても、心静かに主の愛を身近に感じ、上よりの慰めを得る時が与えられたことは感謝です。一人ひとりが御言葉に向き合い、祈りの中で、讃美の中で、主イエスの御心に豊かに与る恵みの時でもありました。
ペンテコステの聖日は、教会の誕生日だとも言われますが、復活の主イエスの信仰が今年も強められる日であることを覚えたいと思います。主にある教会の交わりの豊かさや楽しさを思い起こし、礼拝の再開を待ちたいと思います。
このような苦難が恵みに変えられていきますように、この昭島教会が一つとなり、ますます主イエスの教会となっていくことができますようにと、祈るばかりです。新しい一週間も、神様の恵みの内を歩んでいきましょう。
(2020年5月31日 各自自宅礼拝)
2020年5月29日金曜日
ピアノ賛美「主は教会の基となり」長井志保乃さん
長井志保乃さんが「主は教会の基となり」(讃美歌21 390)を演奏してくださいました。5月31日(日)ペンテコステ礼拝も各自自宅礼拝ですが、イエス・キリストという基(もとい)の上に立つ教会を心のうちに描きながら共に歌いましょう。長井さんありがとうございます!
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